オルデンの皿
「黒竜王」
リジルの声が聞こえた。しかも、夢とまったく同じ声音で聞こえるから性質が悪い。
どちら側にいても、結局彼女は「黒竜王」と吐き捨てるのだから――。
すぐそばで響いたはずの鍵の回る音は、霞がかって、はるか彼方から聞こえてくるようだった。つづけて、石の床を打ちつける靴の音、重たい鎧独特の金属音が重なりあう。
シキは首をがっくり折り曲げたまま、まもなく始まる、リジルお決まりの口上にじっと耳を傾けた。
「国民二万余名をなぜ虐殺された。その罪を認め、贖罪なされよ」
無言でいると、さらに口上はつづく。
「北国の現状は一刻の猶予も許されません、ペンドラゴン提督に従い、天候の乱れを正していただきたい」
できるものなら、とっくにやっているのに。
返事の代わりにささやかなかぶりをふれば、あごにひやりと冷たいものが当てられ、むりやり顔を上げさせられる。槍か、剣か。すると、容赦ない斬撃が頬に飛んできた。それは彼女の背後に控える甲冑の兵士の仕事なのか、リジルの手によるものなのか、シキにはわからない。
まだ、まぶたが重くて目が開かなかった。だがリジルの腰にはそれほど重くない剣が吊ってあることは、数日前から音で気づいていた。以前の彼女は剣帯をつけていなかったはずなのに、今はほかの兵士と同じように剣を吊っている。
――当然か……。猛獣の檻へ入るのに、丸腰でいるほうがヘンだよな。
ほどなくして、小瓶にたっぷり血を集め終えると、彼らは長居は無用とばかりに軍靴をまわし、階段を上っていく。
一連の尋問は一日一回、ほとんど同じ調子で行われていた。
実に規則的で、あまりにも業務的だった。
心も身体も疲れ、消耗し、シキは静寂に沈む地下牢で、ただ息をしていた。
兵士たちの声がぱったり聞こえなくなってしばらく経った頃、夜の訪れとともに、見知らぬ匂いを感じた。
「陛下」
男の声。
低すぎず、しかし高くもない――強いていえば、どこか色気のある声だった。
だれだろう。
リジルが地下牢に現れるまで眠っていたからだろうか、うっすらまぶたを持ち上げられるくらいには回復していた。ただ、まだ声は出ないし、世界もぼやけていた。
「ああ……お目にかかれて光栄です……!」
声の主は歓喜にうちふるえているのか、恍惚のまなざしでこちらを見つめてくる。鉄格子を両手でしっかりと掴み、世界に数個しかない宝石をもっと近くで見たくてたまらない、というような好奇心をその目に浮かべていた。
飴色の、目だった。
「これこそ闇の色……!」
そういった彼の姿は、頭の先から足の先まで、黒かった。頭から被った漆黒のマント。――闇の魔術師である。フードから覗く落ちくぼんだ眼窩でギラギラ光るふたつの目玉が、心底不気味だった。
「お初にお目にかかります、ボクは――小生は、ケイル・オルデンと申します。ペンドラゴン提督のもと、特別な部隊で小隊長を務めております……ほかの兵士どもはわれわれの存在を知りませんので、あまり表立って基地内を歩けませんし、ちょっとした仕事をこなした後なので、外出を控えていました……ああ、しかしこうしてやっと陛下のご尊顔を拝することが叶いました……!」
彼の興奮がひしひしと伝わってくる。
遠目でも頬に朱が差しているのがわかった。
「ですが、陛下とはあのときすでに、どこかですれ違っていたかもしれません……もしそうなら、ご挨拶もせず大変ご無礼をいたしました……! いえ、ですがあの襲撃の際は小生、教え子のもとにいましたので、直にお会いするのは、やはりこれが初めてではないかと……!」
オルデンの話はよくわからなかった。
「ああ、しかしなんと美しい黒髪と双眸……できれば、その闇色の瞳をもっと近くで、もっとじっくり拝見したい……!」
ほう、と感嘆の息をつく。
オルデンはほかの兵士と違って、シキに対して怯えや憎しみや恐れを抱いていないようだった。少なくとも、シキにはそう感じる。
だがそれは友好的とは一線をひいた、どこか崇拝的な熱意に感じられた。
「陛下」と呼んでいるのは、それが関係しているのだろうか?
「われわれ悪魔を崇拝する者にとって、陛下は――黒竜王は三大悪魔に並ぶ偉大な存在……なにより、歴代の竜王は闇の魔術師に住みよい世界を与えてくださった。ああ……! まさか小生の命があるうちに、黒竜王が復活なさるなんて……!」
鉄格子を囓るように握っていた手をゆるめ、オルデンが慇懃にフードを払った。その黒いマントの下に、リジルと同じ軍服がちらっと覗いている。
狂気に満ち満ちた目玉がふたつ、燭台の火に照らされて、青白い顔にぽっかり浮かんでいた。
――彼は僕を傷つけるわけでもないのに、どうしてだろう、無性に怖い。
「ああ、しかし陛下、なんとおいたわしいお姿……あまりお休みになられていないのですね?」
問いかけに、うなずく気にはなれなかった。本能的に、オルデンの存在を受け入れたくないと感じたためだろうか。
恍惚の声色はなおもつづく。
「そうそう、陛下はお食事を摂られていないとか。あのクソ生意気な『氷の女王』さまに意地悪をされておいでではないですか? 提督もおひとが悪い……ボクに陛下のお世話を申しつけてくださればいいのに」
ふふっと笑い声がもれたかと思うと、目の前で音もなく二本の鉄格子がぐにゃっとゆがんだ。ちょうど腕が通るくらいのすき間ができて、そこから枯れ枝のような手が伸びてくる。その手には、皿が乗っていた。香ばしくパリッと焼けた、大ぶりの肉がきれいに盛りつけられている。
石の上を蛇行しながら、文字通り手が伸びてきた。
蛇が床をずるずると這っているみたいだった。
どんどん近づいてくる細い腕には赤黒い文字や図形がすき間なく描かれており、それもぞっとするほど不気味だった。
料理皿が足元に置かれる。
「陛下」
声のするほうに目をやると、もうオルデンの腕はもとの長さに納まっていたし、鉄格子も元どおりの硬さで垂直になっていた。
「陛下に元気になっていただけますよう、腕によりをかけてみました……!」
不慣れながらも精いっぱい努力した、そんな表情でオルデンは屈託なく笑った。その瞬間、青年のこけた頬に、かつて美男子だったであろう面差しがふっとよみがえり――すぐに消えた。
「先代の黒竜王は肉を好まれたと云い伝えられておりますので、陛下にも、と」
くちびるの端を両側からにいっと引っぱって、オルデンが不気味な笑みを浮かべる。
シキは言葉の真意を思索した。そのとき、稲妻が閃くように、バショカフ先生の言葉が鮮烈な色をつけてよみがえってきたのだ。
ぐぐっと胃がふるえる。
「それでは、よい夢を……陛下」
そんなオルデンの甘い声が、遠くに聞こえた。
シキは発作のようにふるえだした胃からなにかが這い出てくるのだと思った。食道を駆け上がり、のどを圧迫し、それが堪えきれずに爆発する。吐くものなど胃の中にはない。だから、いまゲーゲー吐き出しているものは、嫌悪だ。残酷な者たちに対する、嫌悪だった。
ひきつけを起こす身体を前のめりにして、シキはしばらく、胃の底から押し寄せてくる液を唾液と一緒に吐きつづけた。
――『十二代目の黒竜王は、専属のコックに人肉料理を作らせた。肉の柔らかい、若い女から生きたまま心臓を抜き取って、ソテーにして食ったのさ』
「もっと簡潔に説明しろ!」
「は。地下牢担当の衛兵によると、朝の巡回のときにはもう置いてあったと……おそらく、昨夜のうちに何者かが扉番の目を盗んで侵入してきたか、強力な魔法を使って直接ここに侵入したか……まだ詳しいことはわかっていません」
リジルと、オーグ少尉だ。
「だれがあんなものを……!」
「幸い、ただの豚の肉でしたが、その……」
「わざとやったんだろう、前竜王が人肉を好んだことは、軍の資料で確認できるからな。ただし、口外は許されていない」
「内部の者ですね……」
「キチガイもいいところだ! だれの仕業か、すぐに洗い出せ!」
「承知いたしました。それから大佐、きょうの尋問は、いかがいたしますか……?」
リジルに、わずかな間があった。
「提督のご命令どおり、遂行するまでだ。会議の前に終わらせる、兵士ふたりにもそう伝えておいてくれ。まあ、どうせいつものようにだんまりだろうがな」
リジルのいう虐殺の真相など、シキにはわからなかった。
天候の正し方も、シキにはわからない。
それでも、恫喝となんら変わらぬ追及が終わることはないだろう。
胸のなかは「もういやだ」という叫びではち切れそうになっているのに、吐き出すことができずにどんどん膨らむばかりだ。
――ああ、僕は一生このままなんだ。ここで、こうやって、そのうち死ぬのかもしれない……。
そんな答えが、いつしかシキの心に住みついていた。




