古典的手法におけるその効果
逸る。
手遅れになってしまう前に、早くと、そればかりを願っていた。
しかしそれを口に出すことはしない。ちっぽけな矜持が、つねに悠然と構えよ、そして紳士のふるまいを怠るなと強要してくるからだ。
ふとした瞬間に去来するこの感情は、愚かで弱く卑しい生き物のそれと似ている。
焦燥、不安、恐怖。
すべてを手にできる傲慢な悪魔には、どれも不必要……いや、そもそも無縁のものである。
それなのに、私は心の内で祈るように願うのだ。
手遅れになる前に、早く、捜し出してくれ、と。
「おはようございます、パーシヴァル先生」
「おはよう、一年生の授業は多目的講義室に変更になっていますから、遅れないようにしてくださいね」
「はい」
「先生、おはようございます」
「おはよう」
朝の廊下を歩けば、軍人たちの突き刺さるような視線の合間に、生徒たちの控えめな挨拶が方々から飛んできた。キリクはこれに、ふだんと変わらぬ上品な笑みで応じた。
つねに悠然と構え、紳士のふるまいを怠ってはならない――。
朝一番、一学年エクスカリバーの授業をそつなくこなすと、キリクは職員室への道すがら、お付きの者たちをこっそり観察した。
なんと贅沢なことに、きょうの従者はふたり。もちろん背後をふり返って彼らをしげしげ観察するわけにはいかないから、こっそりと。
階級はふたりとも、准尉。バッジの数や形がそれぞれ違うため、軍の基地をしょっちゅううろついていたキリクには一目瞭然。なによりまず若い。いや、青い。
「聞いたか? ロジワール参謀総長……」
「ああ、きのう見つかったって話だろう?」
ふたりはくちびるが動かないように注意を払って言葉を交わす。悪魔にはそれが鮮明に聞こえるとも知らずに。
「一週間も行方不明だったから、なにかあるとふんでいたが……まさか、殺されていたなんて」
「軍を長年支えてきた方だったのにな」
軍の腐敗をなんとか鈍らせようと尽力してきた老爺だったとキリクも記憶している。たぶん、いまの軍にはなくてはならない人間だった。
しばしのあいだ、准尉たちは互いに口を利かなかったが、職員室が近づいてきたところで、ようやくどちらかがささやいた。
「……どうも闇の魔術師が絡んでいるらしい」
キリクは腹の内でああ、と天を仰いだ。
いよいよ悪魔の――ペンドラゴン提督の軍内部の掃除がはじまったのだ。
「悪魔崇拝者の、イカレ野郎め」
背に、歯噛みする音を聴いた。
週末前の夜を教務室以外で過ごすのは、ずいぶん久々だった。
ガラス越しに、第一セクターのきらびやかな夜の明かりを見つめる。仕事おわりには少しまぶしいくらいだ。青い目を一度だけまたたいて、キリクは視線を正面に戻した。
目の前の彼女は、流れるような所作でナイフとフォークを動かして、まるでキリクなどそこに存在しないかのように、黙々と料理を口に運んでいる。
アザリー先生曰く「貴婦人にとっても評判」だという服飾店から取り寄せた濃紺色のホルターネックドレス(布地で首からつるすようにデザインされた袖なしドレス)は、彼女のもとの良さをより引き立てるためだけに存在しているかのようだった。ふだんは無造作にくくっている髪も、今宵ばかりはおろしている。外目だけなら、まさに上流階級のご令嬢そのものだ。
「貴女にさぞお似合いだろうと思って選んだのですが……」
はっ、と鼻で笑われてしまった。
なめらかなテーブルクロスの上を滑るように戻ってきた小箱を、キリクは苦笑で見下ろした。
深緑の宝石をあしらった、シンプルながらも見る者が見ればひと目で高価だとわかるネックレス。ガラスの箱に収まり、光沢のあるクッションに恭しく飾られたそれは、店内の明かりに照らされて、みごとな輝きを放っていた。
いましがた、彼女はそれをちらっと見ただけで、指でピンと弾き返してきたのだ。
彼女らしいといえば彼女らしい。
キリクは目元に苦笑をふくんだまま、夜の帳にまた目を投げた。
とんでもなく広い国立魔法学校の敷地から馬車で小一時間。
魔法三省や国の主要機関は、ここ第一セクターの中心部に建てられている。
そして、その周辺には裕福層のための商業施設、立派な邸宅が密集していた。とくに繁華街は夜でもこうしてまばゆい光があふれかえっている。
「一セクも被害にあったと聞きましたが、すっかり元どおりですね」
「そりゃそうだ」
目の前の女性――ジン・ホランド教諭がにべもなくいう。
「なんたって軍のお膝元だからな」
黒竜王の炎で甚大な被害を受けた各セクターにおいて、かつてとまったく同じ生活ができているのは、第一セクターだけ。
軍の指揮のもと、上流階級の人々には豊かな暮らしが当然のように戻っていた。
キリクはグラスを手にとり、少なくなった果実酒をくるりとまわして香りを吸った。
熟れた甘い果実の香りが、肺に溶けてゆく。
ここ『モリウェール』は魔法省のお偉方御用達の高級料理店で、味も見た目もとうぜん一級品、客への細かい気配りも行き届いている。ゆいいつ難があるとすれば、気軽なローブ姿では入店をお断りされることくらいか。
シキが入校する前は、ガヴェイン校長のご機嫌とりによく来たものだ。
壁掛けランプの淡い光は、昔からずっと変わることなく居心地の良い雰囲気を演出していた。
「ホランド先生、気に入っていただけましたか?」
ナイフとフォークを揃えて置いたのを認めて声をかけると、珍しくジンがクスリと笑った。
「センスは悪かねえな」
「では次は、管弦楽の生演奏があるときに――」
「もうねーよ」
ばっさり。
しかしこれが彼女の通常運転。キリクが「切れ味抜群ですね」といって笑っても、彼女は白い目を向けてくるだけ。――これも通常運転である。
「せめてもうちょっとお嬢さんらしい言葉遣いを……まわりの方々がびっくりされますよ?」
「このフロアにはオレたちだけだろ、お前が人払いしたんだろうが」
ごもっとも、と苦い笑みを浮かべて、広々とした店内に首を回した。
高級料理店にふさわしい、ゆったりとした音楽が、そのままの美しい音で聴こえてくる。それを妨げる雑多な声は、一切ない。
「ここは『男爵』の肩書きとカネさえあれば、貸切にしてくれるところが好きなんです」
「えげつねぇな」
「それに、せっかくのデートですし、ふたりっきりになりたいじゃありませんか」
てっきり反論するかと思いきや、ジンはさも大儀そうに目をつむって、「さっさと本題に入れよ」と言い捨てた。
「おや、つれない」
「オレになにを聞きたい?」
「……では、単刀直入に。ケイル・オルデンのことを知りたいのです」
「……オルデン?」
低く唸るような声にはピリピリとした緊張も含まれている。
「なんでまた……学校の卒業生で、元教師で、いまは闇の魔術師だろ」
「ええ、私はそれくらいしか知りません。彼には……ずいぶん避けられていましたから」
ほとんど間を置かず、ジンは合点がいったように目を大きくした。
「そうか、お前が低級だから、嫌われてたってわけか」
もっと言い方があるのでは、と口をついて出そうになったが、すぐにのどの奥へ引っ込んだ。たしなめたところでどうせ素直に聞き入れてはくれないだろう。
「……ええ。悪魔崇拝者からすれば、私は人間にこびへつらう底辺の悪魔。だから、ケイルが学生だった三年間、そして同僚として過ごした間も、心の距離はけっして縮まることはありませんでした」
「だろーな」
「先の襲撃でケイルと再会して、ふと感じたのは、異常なほど強い魔力……とうぜん闇の力でした。彼が本気を出していれば、もっとはっきりとわかったのかもしれませんが……」
ジンに目をやれば、テーブルクロスのありもしないシミを食い入るように見つめ、そこでなにかを考え、左腕に絡みつく蛇を指でなぞっていた。きっと無意識だろう。
「次に戦いが起こるとすれば、もう悪魔や魔獣が出てくることはないでしょう」
「闇の魔術師……人間が相手か」
そうつぶやいたジンが、やっと顔を上げた。
「むこうは人を殺めることになんら躊躇がありません」
「わかってる、前回、闘りあったし」
それに、とつづけたジンのダークグリーンの瞳が、わずかに翳りをみせた。深い緑がよりいっそう深い色へと変わる。
「よくわかってるよ。オレも、闇の魔術に足を半分つっこんだからな」
「……貴女の左腕にあるそれは、あまりにも闇が濃い……ケイルはその刺青が命を食らうものだとはじめから知っていて貴女に与えたとは思いますが……おそらく、彼は自分自身にも……」
刺青を入れていた?
と聞くのがためらわれた。
なぜためらう必要があるのか見当もつかなかった。が、ジンの目を見て答えを聞くのがなぜか不快に感じた。
そんな得体のしれない感覚が、キリクの言葉尻を濁らせたのだろうか。
ジンはわずかに押し黙り、ふいっと緑の目をそらすと、ずいぶん業務的な声色で
「そう、全身にな」、そんなふうにいった。
つまりマントから見えるところ以外すべて、という意味だろう。
それがほかにどんな意味をもつのか、わかっていても考えたくなかった。わけもなく、ケイルに苛立ちを覚えるのは、なぜだろう?
ジンが自分のグラスに残っていた果実酒を、一気に飲み干した。
「あいつの魔力の強さは並じゃねぇ。裏で色々実験してたし、危険な闇の刻印ばっかり研究してた。三大悪魔の崇拝はもちろんだけど……悪竜の復活を心待ちにしてたはずだ……まあ、それは七年も前の話だし、いまはもっとヤバくなってんだろーな……」
「なるほど」
「早いとこ、ヴァグナーを連れ戻さねぇと、まずいぞ」
そこでキリクは口元をふっとゆるめた。困ったように、眉を寄せて。
「私も同じことを考えています、毎日ね」
「あっそ……で、なんだってわざわざこんな店に誘ったんだよ?」
「いえ、最近やけに監視の目がきびしくて、校内でふたりきりになるのは難しいですし」
「“お供”ができて、イイご身分だな!」
あははははと大口を開けて笑いさえしなければ、見目だけは最後まで麗しのご令嬢だったものを。
「いっとくけど」
急に笑いを引っ込めて、ジンがぐっと顔を近づけてきた。さも宿題を忘れたウルファートに向けるような眼光で、キリクの青い目を射抜く。
「これがデートだとか、言いふらすんじゃねぇぞ」
「ここでそれをいいますか」
苦笑してみせると、ジンはいつものように鼻を鳴らして席を立った。
コートを引っつかみ、さっさと出入り口の扉に向かう彼女の背中を目で追いかけ、キリクは「会計を」とのんびり声をあげる。
どこからともなく、支配人の男が現れた。
一歩外に出ると、一瞬で頬がしびれた。
深夜の空気は夜の昏さをふくんで、すさまじい冷気をまとっていた。つまりすさまじく寒い。
そんなとき、はす向かいの建物の暗い路地から、なにかがのそりと動く気配があった。それはキリクの従者――もとい、例の准尉たちである。それを見つけたジンの鼻にしわが寄った。
「おいおい、パーシヴァル、まさか帰りもあいつらと一緒じゃねえだろうな?」
「出待ちをしているくらいですから、彼らはそのつもりのようですね……」
「マジかよ……」
「同感です」
学校での業務をすべて終えて、この料理店に向かう際、どういう神経だろうか、ふたりの兵士は「ご遠慮なく」とひと言告げて馬車に乗りこんできたのだ。さしものキリクも、まさかと思った。
ずんずん近づいてくる彼らに、隣のお嬢さんの機嫌もどんどん悪化していった。このままでは罵声をあげるか、掴みかかるかのどちからだろう。
「パーシヴァル男爵――」
まだ距離のあるところから准尉殿の声がかかり――それを聞かなかったことにして、キリクはジンの腰に手を添えた。自分のほうに軽く引き寄せる。あごをちょっと上に向かせて、そのまま彼女のくちびるをふさいだ。
長い沈黙。
時が息をつめているような、長い、沈黙だった。
ぽかんと目を丸めてしばらく硬直していた准尉たちは、はっとわれに返って、互いにわざとらしいせき払いをしてみせた。
「チッ、もういい、先に戻ろう」
「だが……」
「どうせ男爵はまだゆっくりしていくんだろう。おれたちの残業時間が増えるだけだ、行くぞ」
気配が遠ざかった頃を見計らい、キリクはゆっくりと顔を上げた。
耳までまっ赤になったジンを見下ろす。
「……ずいぶん、古典的なやり方じゃねぇか……!」
「ですが効果抜群でしょう?」
こぶしのふるえは治まりそうもないのに、それがふりかぶられる様子はない。一応彼女は従者を追い払うための演技と理解しているようだ。……納得まではしていないようだが。
きゅっと目じりを上げた赤面顔が、拗ねた猫のようで、なんとも愛らしい。
「あとで一発ぶん殴ってやるからな!」
それを聞いたとたん、胸に熱のようなものを感じた。堪えていたものが、ふっとゆるんであふれ出てしまったような――。
本能的な速さで手を伸ばした。
ジンの腰を抱き寄せ、まだ紅潮したままの頬にするり指を滑らせる。
ふたたび口づけを落とした。しかし今度は深く、舌を絡めとるように深く、何度も、何度も。
「ん、……んんっ」
何度も。
驚嘆の色を浮かべたダークグリーンの瞳を見つめながら、キリクは唐突に気づいた。
ケイル・オルデンに対してわき起こった感情の正体を。おのれには無縁だったものの名を。
ジンが力いっぱいキリクを押しのける。その拍子に、彼女は『モリウェール』のポーチの柱にどっと背をぶつけた。
離れる間際のリップ音がキリクの耳に残った。
「……んの……! てっ、なっ、ばっ、やろ……!」
「この」「てめえ」「なにを」「ばかやろう」とでも言いたいらしいジンが、わなわなふるえる指をキリクに向けた。
「なに――なにすんだ! このっ、くそ悪魔!」
「いえ、ホランド先生があとで一発殴るとおっしゃったので、どうせぶん殴られるなら、本気の口づけをしておこうと思いまして」
「ああっ? 半殺しだ、ボゲッ!」
ドレス姿でこうも罵詈雑言を吐けるとは、ある意味感心する。熟れすぎた赤い果実さながらの、まっ赤な顔でなければ巻き舌もサマになっていたかもしれない。
それでもかなりご立腹らしいジンは、耳を疑うような罵声をしばらく連呼したあと、使い魔のベルクルを呼び出して夜の彼方へ飛んで行ってしまった。どうやら、学校の敷地以外で使役獣の呼び出しは控えるように、というガヴェイン校長の御触れはすっかり失念しているらしい。
ひとりぽつんと残されたキリクは、厚い雲の切れ間に見えた月に向かって、息を細く吐きだすようにつぶやいた。
「嫉妬か……」
すべてを手にできる悪魔の帝王には、無縁の感情だった。
頬はキンキンに冷えているのに、顔と胸が熱くてたまらない
「まったくもって、無様だな……まるで人間のようじゃないか」
ふっと笑うキリクの口元には、少しだけ人間を理解できたような驚きと、少しだけヴァルベリトのことを理解できたような、憐れみがにじんでいる。
ああ。
もしかしたら、やつも嫉妬していたのではないか。
憧憬、羨望、おのれが座ることのない玉座、そこに君臨する王。
絶対的な力を持つ、地獄の王たちに。
*
「シキ」
リジルの声。凛とした、しかし優しげな声だ。
紫色のマント姿のリジルが、すぐそばにあった。けれど、声の調子とはまったく反対に、なぜか苦しそうに頬を強張らせて、泣いている。
どうして泣いているの。
涙を指ですくってやると、こちらを見つめる暗い青は、もう、渇いていた。
「黒竜王」
くちびるが冷たく、堅い音を奏でた。
「こんなもので済まされると、思うな」
――夢と現のはざまから、シキはようやく、意識を取り戻した。




