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ホロン山(3)

 歩きはじめて、どれくらい経っただろうか。

 あたりには風の音もなく、まったくの無音だった。ひたすら雪を漕いで進む、ザクッザクッという音、鼻で吸っては吐きをくり返す、自分自身の息づかい。耳につくのはたったそれだけだった。

 とうに足の感覚はなくなっていたけれど、十歩ほど歩いては、はぐれたふたりと一匹の名を、声のかぎりに叫んだ。

 だが、どんなに首のすじが突っ張るほど叫んだとしても、いっこうに返事はない。


 真の自然の前では、なすすべもなく、こうして多くの人たちが心を折られていくのだろう。

 右も左も、天も地も、ひたすらに静かで、ありとあらゆるものが雪に隠されている。


 シキが第三セクターにたどり着く前に越えてきた、立ち入る者をふるいにかける急峻な山岳地帯では、北だけを指し示すコンパスをつねに持っていたし、魔獣や野盗が現れようとも、たちまちのして(・・・)しまう最高の相棒がとなりにいた。


 だが、いまはどうだろう。

 たったひとりで、どこへ進んでいいかさえ、わからない。

 おのれがいかにちっぽけであるかを、思い知らされているようだった。


――このままじゃ、らちが明かない。

 集中するんだ。

 ふたりの気配と、リュゼの鼓動を感じろ。みんなのいる方角さえわからないんだから、匂いじゃなく、この静けさを逆手にとって音を拾おう。一刻も早く合流して、シムルのもとへ……。


 逸る気持ちをぐっと抑え込んで、シキは目を閉じ、それから空気に身をゆだねるように、全身の力をすうっと抜いて、雪の上に屹立した。

 あらゆる思考を遮断し、すべての神経を耳に集める。

 そうやって拾うのだ。静寂の狭間にあるはずの、音を。

 真っ暗な世界に閉じこもったそのとき、足元よりさらに下で、荒れ狂う風の雄叫びが、鼓膜をざわざわとゆらした。

 こことちがって、山の中腹あたりは吹雪いているのだろうか。

 シキはまぶたを閉じたまま、首をふった。


――もっと集中して、その中からふたりの声を、見つけるんだ。


 轟音ごうおんに混じって、自分の名前を呼ぶ、かすかな音を拾ったような気がして、シキは目を大きく見開いた。それは闇の中にまたたく、小さな光に似ている。


 ――もういちど。

 名前を呼んでくれと心の中で願った。


「――シキ」

 今度こそ、やはりかすかにではあるが、女性特有の高音がシキを呼んだ。

 フェイメルだろうか、リジルだろうか。ふたりが一緒なら、なおいい。

 シキはふたたび粛然たる雪山と向かいあった。

 今度は迷いなく、まだかろうじて雪を漕いでくれる足で、強く一歩を踏み出した。


――ふたりと合流して、そのあとみんなでリュゼを捜そう。状況の把握は、二の次……いや、三の次だ。



「シキ君、シムル君、どこですか?」

「シキ、返事をしろ!」


 シキは雪がこんもり積もった斜面の前で、ついに立ち止まった。

 数歩進めば、眼下は切り立った断崖絶壁と見まがう、ほぼ垂直の急斜面。ふだんのシキなら、足がすくんでしまう高さだった。フェイメルらの声は、そんな崖しかりの斜面の、さらに下から聞こえてきた。

 シキは再会の糸口を掴んだ興奮にまかせて、いっさいのためらいもなく果敢に足を踏み出す。――が、勇んで向かったその直後、

「うっわああああぁぁっ!」

 絶叫とともに、猛烈な速度で雪の上を滑り落ちていった。

 目を回しながら、雪にまみれながら、体をしたたか打ちつけ、ジャンプ台から勢いよく飛び出すように斜面を滑って、宙にぽーんと投げ出された。

 わずかに宙にとどまって、ふたたび落下。

 もちろん目玉がぐるぐる回っているから、華麗にポーズをとって着地ができるわけがない。ズボッと頭からつっこみ、上半身は雪の中。

「シキ?」

 くぐもった声が聞こえたかと思うや、地中に埋まる青大根が引き抜かれるようにして、シキは窒息寸前のところで救出された。

「ぶはっ、げほっ……!」

「シキ、平気か? というか、空を飛んできたのか?」

「お怪我はありませんか?」

 リジルとフェイメルに介抱されて、やっとめまいが治まれば、今度は強い風雪がシキの頬を殴りつけてくる。

「いてて……うん、怪我もないし、全然平気。ふたりは、だいじょうぶ?」

「わたしたちに怪我はないよ」ほっと息をつくリジルが、フェイメルに首をまわした。

「校内でコートを着ていたおかげで、寒さもなんとか……それにしても、どうしてわたしたちがここにいるとわかったんですの?」

「ふたりの声を捜しながら来たんだ。でも、こっちは荒れまくってるんだね……」

 リジルが風に巻き上げられるポニーテールを押さえつけ、うなずいた。

 見上げれば、まっ白な雲がゆっくりと渦巻いている。

 さながら、地上に災厄をもたらす大魔王降臨の前ぶれ――と、ウルトなら言いかねない光景だった。

 そうやって天を仰いでいると、フェイメルがコートの袖をつんと引っ張った。その瞳には不安の色がにじんでいる。

「シムル君を見ましたか……?」

「うん。怪我をしていて、いまは安静にしてる。フェイメル、移動魔法は使えるよね? すぐにシムルのところへ戻らないと」

 まわりの雪をぜんぶかいて、いくばくか寒さをしのいでいるとはいえ、この雪山の気温にそう長くは耐えられまい。

 さっと視線をはるか先の斜面に走らせた。

 フェイメルはつられるように顔をあげたけれど、すぐに長いまつげを伏せて、言いにくそうに口を開いた。

「……じつは、もう試してみたんですが、魔法が使えないんです。たぶん、この山は魔力が強くて魔法も魔術も使えないんだと思いますわ……」

「じゃあ、使役獣スロウはどうだろう? 幻獣の力なら――」

「それも、試してみたんです……でもスロウを呼び出そうとしても、指輪リングがまったく反応しなんです……」

 シキは友の金の指輪を見やり、目を大きくした。

「フェイメルも?」

「まあ、シキ君もですの?」

「そうか、じゃあリュゼが出てこないのは、この山のせいなのかも……」

 シキとフェイメルは最後の希望といわんばかりに、そろりとリジルに視線を投じた。

「その……わたしの精霊たちは四元素の性質だから……移動魔法のようなことはできない。それに、どういうわけか精霊たちも呼び出しに反応しないんだ……なにか、強い力に押さえつけられているような……」

 眉間にしわを寄せていたリジルが、ふっと肩から力を抜くや、悔しそうにくちびるを噛む。

「力になれなくて、すまない……」

「ううん、リジルがあやまる必要なんてどこにもないよ」

「肝心なときに役に立たないなんて、軍人とはいえないな……」

 痛いくらいの沈黙が三人のあいだに落ちてきた。


 帰る方法がわからない。

 魔法も使えない。

 精霊も、使役獣さえも呼び出せない。


 まっ赤になったふたりの手を引いて、シキはなけなしの勇気をふりしぼり、腹に力を込めていう。

「シムルのところへ行こう……!」



 シキはここまでたどり着くのに、ほとんど垂直の斜面を滑り落ちてきた。そのため、シムルのいる場所へは大きく迂回しなければならなかった。それでも一歩ずつ前に進むにつれて、吹雪がだんだん弱まっている現実が、あと少しで折れてしまいそうな三人の心を支えている。

 肩で息をしつつ、確実にシムルへ近づいているその途中、ふいにシキは奇妙な気配を感じた。

 まっ白なキャンバスに、一滴だけ垂れた絵の具が不和を覚えさせるように、シキの感覚をつついたそれは、明らかな違和感だった。

 むしろ、殺意の塊のような――。

「隠れて!」

 とっさにシキはふたりの手を引いて、岩陰に身をかがめた。くらく、冷たい気配がひどく緩慢に近づいてくる。

 リジルは素早く腰から短剣を抜いて、胸元に構えた。


「……どこだ……どこにおります……」


 吹雪の音にまぎれて、身の毛もよだつ老婆のしゃがれ声が、さざ波のように聞こえてきた。

 三人は慎重に岩の陰から声の主を盗み見たとたん、心臓がぎくっと跳ね上がった。

 示し合わせたように体を縮めて、息を殺す。

 シキらが見たものは、燃えあがる大きな人影。炎に包まれたそれは、背中を曲げて、雪の中をぞろり、ぞろりと歩いていた。ところが、歩いた跡は雪が融けることもなく、足跡すらついていない。

 見つかれば命が危ういと、理屈ではなく、直感がいう。

 魔獣なんかじゃない、それにこの匂い……悪魔だ――シキは心臓を叩かれるような衝撃を覚えた。

 息を吸う音、まばたきをする音だけでも、いまにも頭をめぐらせてこちらに向かってくるのではないかと、背筋がゾッとした。

 ヒリヒリと刺すような緊張漂うなか、のどがカラカラに乾いてしまったような、かすれた声が右隣から聞こえた。

「……火の悪魔、ヌボー」

 リジルの声はわずかにふるえていた。

「全身に火をまとった老婆の悪魔……ですわね。どんな炎も扱うことができる上級悪魔……」

 シキの左隣で岩に背中をぴったり張りつけるフェイメルもまた、声がふるえている。

「でも、北国にいる悪魔って、キリク先生だけだって」

 シキもでき得るかぎり、声をひそめた。それ以外の物音をたてないようにゆっくりとふたりに視線を投じる。リジルもまた、同じようにしてシキを見やった。

「……そうだ。北国に認可されている悪魔はパーシヴァル卿のみ。他の悪魔は入国はおろか、侵入すらできないようになっている。軍の魔術師たちが北国全土に強力な防護魔術をかけているからな。それでも、まれに入り込むこともある……ただ、悪魔が侵入すればその気配にペンドラゴン提督が気づくだろう」

 リジルの額に汗がにじんだ。その汗も一瞬にして凍りつく。

「なのに、どうしてヌボーがいる……? いつからいたんだ? この山の力のせいで気づかなかったのか――」

 はっと息をのむ音が、聞こえた。

 驚愕と、絶望を均等に混ぜ合わせたような、刹那の沈黙をやぶって、リジルは言葉をつぐ。

「――そうか、ここは、ホロン山か……!」


 その間にも、聞いている側の全身の毛が逆立つような、老婆のしゃがれ声が続いた。

「……ああ、どこへいった……どこにおります、わたくしのかわいい、かわいい、竜王……」

「なにを、いっているんです……? あの火の悪魔が捜しているものって……」

「黒竜王を捜しているみたいだ」

 フェイメルの疑問もまとめてシキが言葉を引きとった。

「……やはり、黒竜王は復活している。このホロン山に炎の泉があるんだ……」

 ごうごう唸りをあげる吹雪にそっとまぎれ込ませるようにして、リジルが静かに、それでいて強く言い切った。だがその力強さとは裏腹に、白磁の肌は完全に血の気が失せ、蒼白だった。

 フェイメルは深く逡巡するように、美しい輪郭線のあごに指をあてて、そっとつぶやく。

「泉は秘境にあると云い伝えられていますものね……火の悪魔のヌボーが“ゆりかご”を守っていたのなら、魔獣や幻獣、精霊を寄せつけない力があって、おかしくありませんわ」

「……人間など、いにしえの上級悪魔の手にかかれば、ひとたまりもなかっただろう……」

 リジルは苦悶に満ち満ちた目をそっと伏せた。

 痛々しいほどの悲しみが、空気を伝って、シキの胸を引っ掻いてゆく。


 彼女がだれを悼み、偲んでいるのか――シキにはわからない。


「でも竜王が復活したら、吉鳥きっちょうが鳴くはずだよね?」

「……そう、だがファルケスはまだ鳴いていない。もし黒竜王が何者かに奪われていたとすると……火の悪魔がこうしてさまよっているのも合点がいく」

「でも炎の泉にはだれも近づけないのに、黒竜王を奪うなんて、だれが?」と、シキ。

 リジルは苦々しく美貌をゆがめたまま、恐ろしい事実と向き合うべく、くちびるを湿らせてから口を開いた。

「火の悪魔を出し抜き、北国の頂点に君臨する竜王を奪うことができる者がいれば――」

「竜王と同質の力をもつ、地獄の三王の、どれか――ですわね」

 リジルは否定しなかった。だが、『どれか』の答えを、本人はもちろんシキもフェイメルも持ちえていない。


 はたしてだれがその答えをもっているのだろうか?



「どこだ、どこにおります……」

 ヌボーはあたりをずっとウロウロ徘徊していたが、とうとう三人が身を潜める岩へと迫ってきた。

 背後からぞろりと近づいてくる恐怖と寒さで、フェイメルの歯がカチカチ音をたてている。それにヌボーが耳聡みみさとく、ぴくりと反応した。すぐさま、ぐうっと体をひねってふり返る。

「そこにおるのはだれぞ?」

 フェイメルが両手で口を押えた。

「もしや、竜王?」

 急に、わが子のご機嫌をとるような猫なで声で、ヌボーが問いかけてきた。

 その声はとてもやさしげで、母を知らないシキにも、その存在がずいぶん近くに感じられた。それと同時に、父と野宿をした幼いあの頃、夜の畏れと寒さをしのいでくれた、時折りパチパチと爆ぜるあのあたたかなき火と似た熱を背中に感じた――。


「おお……わたくしのかわいい黒竜王、そちらにおりましたか……?」

 炎の手が、ぞろりと伸びる。

 吹雪のなか、かげろうがゆらめく。

 三人は息をつめた。


――見つかってしまう……!



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