吊るし刑の蔓
「このクソ野郎! シキに謝れ!」
「黙れ、貧乏人のクズ!」
「てめぇがわざとやったんだろうが!」
「いちゃもんもいいところだぜ、お前が謝れ、リンデル!」
殴る、蹴る、頭突き、しまいには噛みつく――。
事態がやっと収束したのは、それから二十分も経ってからだった。
キエ先生がすっかり狼狽して右往左往するなか、生徒のだれかがバショカフを引っ張って現れたのだ。
机をあらかた破壊して取っ組み合いをつづけるウルトとファクロー。
「やめんか、この、バカタレども!」
落雷あるいは砲撃のような一喝がとどろいたところで、やっと騒ぎが収まった。
ちなみにファクローの取り巻きたちは早々に昏倒していたし、巻き込まれたシキもほとんど戦力外だった。
職員室は一日の授業が終わった先生たちで、少しばかり混雑していた。
そんななか、バショカフの机の前に整列する渦中の四人と、シキ。
何度もカミナリを落とされたファクローは、右頬を押さえながらバショカフをにらんでいる。
「すぐ手を出すお前もお前だ、リンデル」
「あの野郎がシキにけしかけてきたんだ」
「そうやってすぐカッとなるのが、いけねぇ!」
そうしてウルトもこってりしぼられ、ついに解放されたのは午後三時半をまわってからだった。
職員室の外で待ち構えていたアリアとフェイメルが、あわてて駆け寄ってきた。
「心配しましたわ……! アリアから話を聞いて……ウルト君、ひどい怪我!」
フェイメルがウルトの腫れた頬にそっと手を添えたとき、ついさっきまで勇んでいた戦士の両眼から、涙がつぅーっと流れた。この怪我はいままさに勲章に変わったのだろう。
「バカ、泣いてる場合じゃないよ、ふたりとも早く保健室に行かなきゃ! 応急処置しかしてないし」
「僕はだいじょうぶ、ウルトほどじゃないから……」
ウルトのぼこぼこに腫れ上がった顔は、もはや目と鼻がどこについているのかよくわからないほどひどかった。とはいえ相手は四人。それこそ見た目は連中よりも相当ひどい有様だが、ウルトの腕っぷしは本物で、ファクローの取り巻きをあっという間に床へ沈めたし、ファクローの顔面にかました左フックはじつに鮮やかだった。
尊厳を守るための闘い。
それも、自分ではなく、友のため――。
ウルファート・リンデルはそれができる人間なのだ。
転んだ拍子に顔面を打ちつけ、鼻血が出ただけのシキは申し訳ない気持ちと同時に、ウルトのやさしさがひどくうれしかった。
「早よしぃ」
壁にもたれかかるユーリは通常運行。けれど、恩着せがましく『待ってやった』、なんて言わないところが最高にクールだと、シキは思っている。
もちろん、思っているだけで本人にいうつもりは毛頭ない。
そうして保健室へ足を向けようとした、まさにその瞬間。
「はっ。友達ごっことは泣けるね、ユーリ・フェルマン。しょせん二セク出身のおまえには、落ちこぼれのお友達がぴったりだぜ!」
職員室から出てきたファクローが、さもツバを吐きかけるように五人の背中に毒を吐いた。
ユーリの冷淡な瞳が背後を一瞥する。だが右頬を腫らしたファクローの憎悪は止まらない。
「おやおや、そちらはモルガーナ司法裁判長のご令嬢じゃありませんか。きみが貧乏人の集まるキャメロットに選ばれたのはどんな手違いかと思ったよ。だけど、そこの連中とはつるまないほうがいい。とくに三セクなんて、底辺の集まりだ。おまけにきみのとなりにいるのは悪魔の子分……いや、もしかしたら呪われた化け物かも――」
ばしん、と乾いた音が響いた。
己の饒舌に酔いしれていたファクローの左頬が、真っ赤になる。
フェイメルの平手打ちで、あたりはぴたりと音を無くした。
いや、奪われたといってもいい。
「あなたは最低ですわ」
銀の髪をなびかせて、フェイメルはひとり足早に去ってゆく。シキの横を通り過ぎるとき、深い藍色の目に、うっすら涙が浮かんでいたような気がした。
翌日、事態は一変した。
「な……」
目を疑うような光景をシキは目の当たりにしていた。
「二年生も一年生も、教室に戻りなさい、戻りなさーい!」
人垣をかき分け、弱々しく叫ぶマース先生の声は生徒に届いていなかった。
光の魔術と闇の魔術学を受けていた二年キャメロット生と、となりの教室で魔術史を受けていた一年エクスカリバー生が、薬草学室にわらわらと群がる。
向かい側のその教室は湿り気を含んだような重くるしい静けさで、ただ、天井から下がるランプがギィ、ギィと、不協和音を奏でていた。
だれもが息をのみ、ささやき、また息をのむ。
「……うそだろ、死んでんのか……?」
ウルトが悄然とつぶやく。
ランプは人影をぶら下げて、ゆらり、ゆらりと揺れている。
人垣の隙間から見えたものは、腫れた右頬、スタイリングされた金髪、着崩した制服――ヴァンブガー・ファクローの宙づりの姿だった。
しかも、首を吊っている状態である。
「だれが、こんな……」
シキの横に立つユーリが低く唸るように言った。
ユーリの眼はすばやく教室内を見回して、薬草棚の、ある一点で止まった。つられるように、シキはその視線を追う。
“吊るし刑の蔓”の種が入った小瓶は、空だった。
種はいまや発芽し、天井のランプとファクローの首に絡まっている。ただ、首と蔓のあいだに、かろうじて手首が挟まっているため、おぞましい絞首刑に見えないだけましに思えた。
だが、ぐったりしているファクローの生死は不明だ。
「どけっ、お前ら!」
ジン・ホランド教諭が怒鳴り散らしながら、入り口に群がる生徒をかき分けて教室に飛び込んだ。そのうしろに、彼女が連れてきた養護教諭のアイゼン先生が真っ青になってつづいた。
それからすぐに薬草学のメメリコーレ教諭がかけつけ、魔法で“吊るし刑の蔓”をスルスルほどいてゆく。
シキの場所からは、アイゼン先生がしゃがみ込んでなにか呪文を唱えていることしかわからない。考える間もなく、ジンとアイゼンはファクローを伴って一瞬で姿をくらました。
ひとり残ったメメリコーレは、自分の教室に群がった生徒たちの背中を押して「さあ、さあ」と散らせてゆく。
だれもがその時、感じただろう。
安寧であるはずの箱庭に存在する不穏を――。
「聞いたか? 二年アバロンのファクローが襲われた事件。あれって、ここんところいがみ合っていたっていう、キャメロットの奴がやったってウワサ」
「知ってる知ってる! あれだろ、黒髪の。ヴァグナーとかって奴だろ。あいつ悪魔らしいじゃん?」
「悪魔じゃなくて、魔獣って聞いたわ」
「もしかして、あいつに目をつけられた生徒はみんな餌食になるんじゃ……」
廊下を通れば生徒たちはみな、声をひそめて話し合っている。それゆえ、シキは歯を食いしばって教室を移動しなければならなかった。
「みんな僕がやったって思ってるみたいだ」
「シキ、気にしちゃだめよ」
アリアからの励ましがあっても、チリチリ焼けつくような視線とささやき声が、一日中シキを煩わせた。
本日最後の授業、言霊学室への道のりが長く険しく感じるほどに。
根も葉もない噂に、さすがに今度こそ悔しい思いを感じずにはいられない。こうしてこの一週間、シキの眉間には、ずっとしわが刻まれていた。
「ファクローの意識はまだ戻らんようやな」
「こんなことになるなんて、悲劇だよなあ」
さも、喜劇を楽しむようにウルトがケケケと肩を揺らして言った。
「あれからファクローの両親から抗議文がどっさり届いてるらしいしね」
「面会謝絶は当然やろ」
北国において人間の治療で一番腕のよい医者はこの国立魔法学校にいるのだから、色をなして反論したところで状況は変わらない。
「アイゼン先生の話によると、ヒエモル草かペントラード花粉草かホドモック花の成分で冬眠状態になっているそうですわ」
フェイメルがめずらしく淡々とした口調で話しに加わった。
「アイゼン先生とメメリコーレ先生が協力して目覚め薬の調合をしてるんでしょ?」とシキ。
「うん、あれから一週間経つけど、進展はないみたい……」アリアの表情は複雑だ。
おかげでシキに対する風当たりはどんどん悪化していく一方だった。しかも陰湿な陰口は伝染病のように次々感染していっている。
ブラッド教頭とモリスが歓喜しているのは、いうまでもない。
窓の外がどっぷり夜の色に染まった頃、キリクの教務室でシキは望月鏡のレンズを磨いていた。リュゼも床に座り込んで、器用に磨く手伝いをしている。
ぼんやり布巾を動かして、シキは月の見えない空をただ見つめていた。
「その望月鏡は明日の授業で使えそうにありませんね?」
シキははっとわれに返って執務机のほうを見た。
怒るでもなくキリクは机に向かったまま、せっせと先日の小テストの採点に羽根ペンを走らせている。
「あっ。すみません、ぼーっとしてて……」
あわててごしごし磨き、次の望月鏡を手に取った。見れば、あと二十個はくだらない。
「シキ、気にすることはありませんよ」
キリクが背を向けたまま、のんびりと言った。羽根ペンはまだ踊っている。
「でも、ぜんぜん進んでないし、急いでおわらせます」
「……最近はやりのうわさがあるようですね?」
シキはああ、と合点する。
「みんな――キャメロットのみんなすら僕が犯人だっていってます。だれも僕のことを信じてくれないし……」
「そんなことはありませんよ。ユーリ、ウルファート、アリア、フェイメル。それにハリスたちの男子グループ、彼らは疑ってなどいないでしょう? みんな、といってしまうのはもったいない。それに――」キリクはもったいぶって言葉をとぎった。
「それに?」
「私もシキを信じています」
くるりと椅子が返った先で、キリクがにっこりほほえんでいた。
「前にいったでしょう、私はどんなことがあってもシキを信じる、と」
「もちろんおれもだ!」
肩にぴょんと飛び乗り、忘れちゃ困るとでも言わんばかりに、リュゼは鼻息を荒くした。
この一週間ずっと気を張っていたシキは、久しぶりに味わう穏やかな夜の時間に、すこし、気分が軽くなるのを感じた――。
キリクの教務室を退室し、六階男子寮へ向かう途中の階段で、「ごくろうさん」と地鳴りのような声が響いた。リュゼと一緒に驚いてふり向くと、そこには大男がいた。
「バショカフ……先生」
その足もとには彼のペットであろう、優美なフォレスト・キャット。金色の瞳をぱっちりさせて、やたらと甘い声で鳴いた。
シキの神経が反射的に尖る。
――そう、バショカフに気を許してはいけない。
なにごとかと尋ねようとしたとき、機先を制したのはバショカフのほうだった。
「お前さん、あの生意気なアバロンの生徒――なんちゅうたかな、ああ、国軍のファクロー中将の息子。あいつを襲った真犯人がだれか、知りてぇかい?」
「……え?」
「知りたかったらついてきな。教えてやらぁ」
にかっと笑って、バショカフは太い指をぐっと突き出した。
前歯が一本欠けた笑顔が、きょうに限って不気味に見える。
階段を一段のぼるごとに、不安がシキの胸でふくらんでいった。そのせいで胸が破裂してしまうのではないかと考えるほどに。
たまらなく、不安だった。
一体だれがあんなことをしたのか検討もつかない。それに、なぜバショカフが犯人を知っているのかもわからなかった。知っていたのなら、なぜすぐに捕まえて疑いを晴らしてはくれないのだろうか。
リュゼがバショカフに気取られないよう、耳もとでささやく。
「シキ、じゅうぶん気をつけ――」
七階の廊下にバショカフが足を踏み入れた。それにつづいたシキの肩がぎくりと跳ねあがる。
この七階だけは生徒の立ち入り禁止区域となっており、そもそも入れない、とウルトが悔しがっていたはずだ。
「どうした、もっとこっちに来い」
「バショカフ先生、ここは生徒が入っちゃいけないはずじゃ」
「俺が特別に許可する」
「……教頭が僕を退校にする口実を探っています」
「なあに、ブラッドは気づかねえさ。なんたって、奴の手ごまはここだからなぁ」
懐からつまみ出したのは黄土色のイモリ。尻尾を掴まれて、じたばたもがいていた。
「はっはぁ! 暴れても無駄だぜ、なんつったって、変身解除の禁止術をかけたからな」
「それ……モリス、先生……」
「お前さんはお引取り願おう」
バショカフが指で宙に文字を連ねる。それは暗がりで金色に輝き、ぱっとはじけるように消えた。同時に、イモリの姿もバショカフの手の中から消えていた。
シキの心臓がにわかに早鐘を打ちはじめ、それまでなりを潜めていた不信と疑心が一挙に起こるのを、感じた。
「さあて、これで邪魔者はいなくなったな」
明かりがひとつもない暗闇の長い廊下。出口のない、巨大なトンネルのようだ。
普段は陽気なバショカフが、気味の悪い生き物に感じる。そのとなりですまして立つ猫の、黄色の二つの目玉だけがぎらりと光った。
「おまえさんはいいダチをもったな。あんな噂がたっても、離れようとしねぇ」
嘲笑のような、あるいは歓喜するような声がシキの耳をつく。
「だがいまはひとりだ。お前さんの魔獣がいちばん厄介だからなぁ」
シキははっと肩を見た。リュゼの姿がない。先ほどまで肩に乗っていたというのに、こつ然と姿を消している。右の中指にはめる指輪を見たが、戻った気配はなかった。
そういえばさっき会話が途中で途切れて――気づいたときにはすでに遅かった。
リュゼをどうしたんですか、と問いかけようとしたが、口を開きかけてやめた。バショカフはシキを一人にするためにここへ連れて来たのだから。
「だれかいたら、まずいんですか」
勇気をふり絞って出した声は、震えていた。それはバショカフのあの無骨な笑顔がまったく消えていたからだ。
「ああ、そうだとも。標的はおまえさんだけだからなぁ。ほかを殺しちゃ、手間が余計かかっちまわぁ」
殺す?
僕を?
氷より冷たい汗が背筋を伝う。じり、と一歩後退して逃げる準備をした。
すぐにバショカフから離れなければ。
六階に……いや、キリク先生のところへ行かないと……!
「いやな噂が流れりゃお友達はすぐに離れていくと思ったんだが――友情ってのはやっぱり悪かねぇな」
鈍い光を帯びる赤銅色の目玉が、シキを焦がすように見つめる。
ひるむな、隙を、見つけろ。そう、おのれに言い聞かせた。
「まさか、ヴァンブガー・ファクローを襲ったのはバショカフ先生なんですか?」
「……ヒントをやる。まさにその通りであり、まったく見当はずれでもある」
「――え?」
「真実はあとのお楽しみだ……まあ、そのときまでおめぇさんの目や耳がちゃんとついていれば、いいがな」
瞬時に金色に光る字を連ねて、大男はニヤッとひげをゆがめた。その横でフォレスト・キャットの目玉がギラギラと光る。
まるで、これから始まる殺戮ショウが楽しくてしょうがないといった猫なで声が、暗がりに響いた――。




