悪意と善意の混じる世界
*
「リジル、今月は来ないのかな」
ぽつ、とだれにともなくシキはつぶやいた。
魔法学教務室のガラクタ――もとい、骨董品のランプを油で磨きはじめて、およそ一時間ぶりの開口だった。
床にあぐらをかいたそのくぼみで眠るリュゼは、ぴくりともしない。
夜十時の校舎三階はゾッとするほど静かで、ときおり、どこかの教室がゴゴーっと地鳴りのようないびきをかくくらいである。
この時間、生徒は寮や五.五階でくつろいでいるし、教員もそれぞれ自室や研究室へ引っ込んでいるため、人影もなかった。それに、ゴーストたちも夜は眠ってしまうから(シキは彼らがどこで眠っているかは知らないけれど、ファット卿だけは男子寮の廊下にプカプカ浮かんで眠っている)、ほぼ無音といっても過言ではない。
ランプの表面を擦る布のかすかな音だけが、シキのまわりにある、ただひとつの音だった。
けれど、この静けさは嫌いではない。
水面を滑るように浮かぶ太ったキャンドルが、部屋を煌々と照らし、時間はゆるやかな渓流を下るように、のんびりとシキを運んでいる。それは、日中の喧騒からずいぶん遠いところへ来たような感覚だった。
この静寂は、ゾッとするより、むしろホッと心安らぐような気持になれたのだ。
「毎年、冬は治療に来る回数が減りますからね」
キリクは椅子に腰掛けて、手袋を編みながらゆるりと言った。
机の上には、鏡面を曇らせたままのレディ・カラマンシカの手鏡が放置されている。シキが教務室にやって来たときは熱心に磨いていたのに、いまはかぎ針を動かすことに忙しいらしい。
「そうなんですか……」
そういえば去年の冬もリジルはぱったり来なくなったっけ――そう考えて、シキはふとした疑問にぶつかった。
リジルは魔法学校の学生ではないし、一体どんな暮らしをしているのだろう。
じつは彼女と出会って一年以上経つというのに、そんなことすら知らないままだった。
「僕はなんにもわかってないんだな……」
「そうとも限りませんよ」
キリクが夜のしじまを少しも揺らすことなく、そっとささやいた。
「彼女が本当の自分をさらけ出せる相手は、おそらくシキだけですから」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味です」
「でも、キリク先生やリジルの家族……その、恋人とかのほうが、僕なんかより――」
「彼女は色々なものを背負っていますからね、リジルがリジルとして接することのできる相手は、シキだけなのです」
哲学のようで哲学ではないそれを理解するには、キリク・パーシヴァルという紳士的悪魔をもっと理解しなければならない。それが容易なようで、もっとも難しいということを、シキはよくわかっていた。
つ、と黒い目を伏せる。
――北国は僕の知らないことばかりだ。まるで、僕だけいつまでもはみ出しているみたいで……。
「よしできた」
キリクの弾む声に、シキははっと視線をあげた。
「ずいぶん時間がかかってしまいました」
キリクが朗らかに笑って、白い毛糸の手袋を掲げる。ミトンの手袋だった。そして最後の仕上げに、はさみで糸をプツンと切る。
「シキ、きみにプレゼントです」
「僕に、ですか?」
「ええ、そうです」
夏の初め頃からキリクがせっせと編み物をしているのは知っていた。けれど、まさか自分のために編んでいるとはつゆ知らず、シキは目の前に差し出されたそれを、ぽかんとした顔のまま受け取った。
やがて、胸の奥底にじんわりと広がる、温み。
「……先生、ありがとうございます」
「もし落ち込んだり嫌なことがあったら、いつでも来なさい。私はどんなことがあってもシキの味方ですからね」
くちびるにやわらかな弧を描くキリクを見ていると、全身から力が抜けていくのがわかった。
「あんな噂、みなすぐに飽きて忘れてしまいますよ」
「……はい」
キリク先生なりの心づかいが素直にうれしい。
毛糸で編んだ手袋は少しゴワゴワしているけれど、それは世界中のどんな手袋よりもあたたかいものに感じられた。
「ありがとうございます」
お礼を言った。もう一度、しかし今度は笑顔で。
「さて、きょうはここまででいいでしょう。部屋へ戻ってゆっくり休みなさい」
キリクは人さし指を扉に向けて、くるりと小さな円を描いた。するとどうだろう、ドアノブがゆっくり回って、控えめな音とともに、扉がうっすら口を開けた。
「おやすみ、シキ」
「おやすみなさい」
リュゼを腕に抱えて部屋から出たとき、扉は音もなく口を閉ざした。
すべてが静かだった。
友のムチムチの腹に乗せた手袋を見つめ、シキは小さな幸福に目を細めた――。
夜十一時の消灯時間からしばらく経つと、となりのベッドからグウグウ寝息が聞こえてきた。さらにその奥のベッドでは衣擦れの音がぱったり途絶えている。
どうやら、ウルトもユーリも完全に寝てしまったらしい。
どっぷり暗い夜の帳のなかで、シキは薄く目を開けた。それとまったく同じタイミングで、枕元で丸まっていたリュゼがすうっと目を開けた。
「リュゼ」
「うん?」
「北国の人たちがみんな、ウルトたちやキリク先生みたいだったらいいのにね……」
だれもが偏見や差別ではなく、ほんの少しの理解をもってくれれば。
「……シキは、北国に来なければよかったと……思っているか?」
「ううん、リュゼのおかげで僕に居場所ができたんだ、みんなに出会えたのも、リュゼのおかげだよ」
「そうか……。よかった……」
「リュゼ、いっしょにいてくれてありがとう」
枕元に置いたミトンごと、リュゼの身体をぎゅっと抱きしめる。
この瞬間だけは、すべての杞憂ははるか彼方だった。
翌朝、朝食を済ませた直後の呼び出しだった。
シキは教頭室の机の前でひたすら自分のつま先だけを見ていた。
なにがなんでも真正面を向くまいと、くちびるを噛んで靴をじっと見つめる。一年以上履きつづけている靴は、気づかないうちに少し痛んでいた。
「聞いているのかね、ん?」
机に肘をつき、両手を組みあわせて、嫌みったらしく尋ねてくるのは、教頭のブラッドだ。
おかっぱにちょび髭、詰襟ローブといえば、この教師以外にはいない。
――ヒゲナットウめ。
腹の内で毒づく。
「聞いています」
シキの隣にはブラッドの忠犬――もとい、生活指導教諭のモリスがニタニタいやらしい笑みを浮かべながら立っている。それはさも囚人を見張る看守のような立ち位置を気取っているから、よけいに腹立たしかった。
「いいかね、きみのせいで生徒たちに動揺が走っている。きみが悪魔だという噂についてだが……自分でどう考えるかね? ん?」
棘を多分に含んだ視線をシキに向けるブラッドは、意地の悪い質問を繰り返すばかりだった。
――ネチネチネチネチ、だからナットウっていわれるんだろ。
「僕にそういわれても……何度もいっているように、悪い冗談です」
「だが火のないところに煙は立たないのだよ、わかるかね? ヴァグナー君。ん?」
「僕はそんなふうに噂される覚えはありません。それに、僕は悪魔じゃありません」
粘りつくような視線がシキを舐め回していた。
ヒゲナットウの陰気くさい目がいう。
この悪魔め――と。
「教頭先生、自分ではそういうに決まってます。早いところ化けの皮を剥がしちまいましょう」
ひひ、と下品な笑い声でモリスは追い討ちをかけてきた。
人さし指をチラチラとアピールするあたり、魔法で白状させようという魂胆にちがいない。
ヒゲナットウとモリスの組み合わせは、とにかく最悪だ。どうあがいても逃げようがないのだ。
――くそっ、早くおわれ、おわれ……!
と、そんなシキの念力が通じたのかどうか定かではないが、突然教頭室の扉がゴンゴン叩かれた。
返事を待たないうちに勢いよく扉が開いたと思うや、腹に響く声が室内をふるわせた。
「よう、ブラッド!」
「げっ、まてバショカフ、だれが勝手に入っていいと……」
「お前さんに国軍から連絡がきたぞ」
聞く耳持たずという具合に、ロエッタ・バショカフ教諭がドスドス床を揺らして入ってきた。
腕にはくちばしの鋭い猛禽類がとまっている。それは一年選択授業で習った、「最速の伝書鳥、ジェットショット」という中型魔獣だった。
バショカフはローブの内側からこぶし大の生肉を取り出して、ジェットショットの鼻の上をカリカリと掻いた。
「えれぇぞ」
伝書鳥が生肉をついばんでいるうちに、北国国軍の紋章つき足輪にくくりつけてあった小筒を外し、なかの羊皮紙をブラッドに手渡した。
教頭はすぐさま北国国軍公印の封蝋をはがして、羊皮紙をぴんと伸ばしたかと思うと、そのままシキをまるきり無視して、むさぼるように読みはじめた。
「あのー、教頭先生……いったい、なにごとで?」
モリスがおっかなびっくり羊皮紙をのぞき込む。
「私が復元魔術の一番の使い手ゆえに、手を貸してほしい、と大佐殿からの嘆願書だ」
うれしさのあまり、ニヤニヤ笑いをこらえようとして、くちびるがピクピクけいれんしている。
「軍から召集されるなんざ、名誉なことだなあ。ああ、校長には許可は取っておいてやったぜ」
「私宛の手紙を見たのか? バショカフ……!」
「いんや、軍につてがあるから、知っていたまでよ」
「ふん、口の軽い軍人はきみだけかと思っていたがな」
「ブラッド、俺ぁ口は堅いほうだぜ」
嫌味の通じないバショカフに対して、教頭の握ったこぶしがわなないた。
「それにな、復元魔法だけならお前さんの右に出る者はいねぇだろう。気いつけて行ってきてくれや」
がははと豪快に腹を揺らして笑うバショカフを、ブラッドはいまにでも首を絞めそうな勢いでにらみつけていた。
性格のひん曲がったブラッドからすれば、「復元魔法だけ」と言われて憤慨するのは当然である。
「ヴァグナー君、話は保留だ。いいかね、疑いが晴れたわけではない。気をつけて生活したまえ!」
冷然と吐き捨てて、シキに向かってシッシッと手をふった。その横で、獲物を逃がしてしまう悔しさに、モリスが奥歯をこすり合わせている。
「失礼します」
シキは棒読みでそれだけ言うと、するりと抜けるように教頭室から脱出した。
そのとき、教頭室の扉の前でちょこんと座る、美しい金毛の猫と目があった。
――たしか、バショカフ先生の猫……?
縦に切れ目が入ったような瞳が、シキを刺すように見つめてくる。それがなんだかファクローのあの不快な視線と重なって、シキは避けるように歩き出した。
背後でニャア、と甘ったるい鳴き声が、聞こえた。
「ヒゲナットウの野郎、シキを尋問するなんて頭おかしーんじゃねえの?」
ウルトが手を頭の後ろに組んでちっ、と舌を打つ。
まもなく文字方陣学の授業が始まるというなか、シキを除く四人はイライラしているようだった。
「ウルト、僕は大丈夫だから。それに、悪魔だっていう証拠はないんだしさ」
「大丈夫じゃないわよ! ブラッドはたいした権力もないけど、問題はアバロンのあの、ファクローよ! 父親が軍の高官だからって大きな顔して!」
アリアがひときわ大きく怒鳴った。
「あいつのせいで、廊下を歩けばみんな嫌な目つきで見てくるのよ!」もはや爆発寸前である。
たしかに、髪の色のせいでこれまで多くの生徒から不審や嫌悪のまなざしで盗み見されてきたけれど、今度はまごうことなき憎悪の視線が矢のように降ってくる。しかも、同じ二学年キャメロットの生徒の一部からも、そんな視線を向けられていた。
クラスメイトまでもが、だ。
そんなとき、文字方陣学の教室の扉が荒々しく開いた。
「おーし、おしゃべりはそこまでだ! 授業を始めるぞ!」
バショカフがどすどす床を踏み鳴らして教壇にのぼり、ぐるりと生徒を見回す。
後ろ側の席に座るシキは、何気なくバショカフに目をやった。すると、どうだろう。バショカフの赤銅色の小さな目も、シキをじっと見つめていた。
「シキ」
ユーリが耳元でささやく。
「さっき助けてもろたからて、アイツに気ぃ許したらあかんからな」
「……うん」
ふたたびバショカフに視線を戻せば、彼の小さな目はすでに教室全体に向けられていた。
*
午前中の授業がすべて終わって、魔法学校はちょうど昼休みにさしかかっていた。
軍本部へ出向いたブラッド教頭が教頭室に戻ってきたのは、そんなときだった。
疲れたため息をついて、ブラッドが椅子にどっかり腰をおろす。
「モリス、私が不在の数時間、異常はなかったか?」
「はい教頭先生」
モリスは執務机の前で、まるで王様への謁見のように恭しく頭を下げた。
「なんとも大変な作業だった……こんなに時間のかかる復元ははじめてだ。なにせ、おそろしい魔力であれは燃えて溶けてしまっていたからな……」
「いったいなにを復元させたのです?」
モリスがおびえた調子で尋ねる。
キリクはわくわくしながら、組んだ両手にあごを乗せて、ふたりの頭をじっとみつめた。通気口のすき間から見下ろす形なので、モリスの薄くなったはげ頭がきらりと光って見えた。
――ネズミの姿は便利ですが、やっぱり通気口は埃っぽくてかないませんね……。
「音声録音機だ。遭難した兵士が持っていた物で、雪山でどうやってああも熔けるのかはわからんが、外も中も、ひどく損傷していたのだ」
兵士は死体すらなかったようだがな、と付け加えると、モリスが青い顔で自分を抱きしめた。
「私のおかげで、雪山でなにがあったのか大体のことは判るだろう。まあ、私は事件の全貌を聞く前に戻ってきたがな。職務があるだろうから戻ってよいといわれてな」
――それは厄介払いをされただけです。
キリクは呆れたため息を吐いた。そもそも、ブラッドごときに国軍の重要な機密を漏らすはずがない。
「いやはや、一流の魔法使いというのは忙しいものだ。有名になるのもつらいな!」
ブラッド教頭が高笑いをはじめたとき、ネズミはからだの向きをくるりと反転させた。
*
地下教室での五時間目の授業が終わり、シキが寒さにふるえながら席を立ち上がったとき、後ろの席に座るヴァンブガー・ファクローもまた立ち上がった。その時、彼はついうっかり水盤をシキの足もとめがけて押してしまったらしく、それが粉々に砕ける音と共に、神秘の水が派手に床へ飛び散った。
その場のだれもが卜占学の技術を駆使することなく、数秒後に石畳を抱くシキを予知したのだ。




