猫と蛇
すばらしかった誕生日がはるか過去のできごとに思えるほど、十二月に入ってからの勉強量は何倍にも膨れ上がっていた。もちろんシキとしてはいつまでも幸せの余韻にひたっていたかったけれど、魔法学校の教諭たちがそれを阻んでいるようにさえ感じられた。
年が明ける一月中旬には、一学年の生徒にとって、もっとも重要な試験がまっている。そのため、どの科目も否応なく熱がこもっている、という具合だった。
「あーあ、薬草学まであんな気合いれるこたーないのにさぁ」
四時間目の授業が終わり、食堂へ向かう生徒たちの波に流されながら、ウルトが気のない声でぼやいた。
「でもさ、メメリコーレ先生の授業はわかりやすいし、それに、優しい先生だから僕は楽しいけど」
「一月に入ったら、楽しいとか言うてられへんと思うけどな」
ユーリがいつものようにフッと鼻で笑う。
「えっ……そんなに大変になるの?」
「まあ、悪魔学以外はそうやろ」
そういってユーリは一足早く、パンやチキンの焼ける香ばしい匂いでいっぱいの食堂へ足を踏み入れた。
「えー、北国の歴史は悪魔と密接な関係にある……」
シキは、北国に来てはじめて悪魔という存在があることを知った。東国では魔物こそいれど、悪魔は架空の――本のなかの存在でしかなかったためだ。
昼食を終えた午後一番の悪魔学は、キャメロットの生徒全員が眠くてたまらなかった。
それもそのはず、厚切りのサンドウィッチを三枚重ねたような教科書のせいで、開いただけで睡魔が襲ってくる。
悪魔学Ⅰの最終章は「地獄の悪魔王と配下の悪魔」。
とにかくぶ厚い教科書を、コンスタンティン教諭がこれまた眠そうな声でのんびり読み上げていくだけの、すさまじく退屈な授業こそが悪魔学という授業だった。ただひとつ、この先生が他の教諭たちと違うところは、彼が二本足で立ち、人語を駆使する猫だとうこと。
もともと学校に住みついていた野良猫だったといわれている。ところが魔法使い、魔術師である教師たちと一緒にいるうちに、気がついたら二本足で立って、しかも、人間の言葉を話したらしい。
ユーリ曰く、とても長生きで現在四百八歳だという。
「昔はとてもアクティブな先生だったんですよ」と、前にキリクから聞いた話が、ごく自然な嘘のようだった。
そもそも昔とは何年前の話だろう?
「えー、悪魔たちは地獄において、三王による支配を受け、様々な階級をもち、主に従い行動をする……。悪魔は人間界においてたびたび暴虐無人の行いをし、そのたびに数多の魔法使いや魔術師たちが立ち向かった。えー、しかし……なかには主に背き、階級を捨てて地獄を抜け出そうとする悪魔もいる。悪魔は闇の力をもち、行使するもの。人間の脅威以外の何者でもない……」
猫は鼻っ面にずり落ちてきた丸いめがねを押し上げ、眠たそうにおおきなあくびをした。それにつられた数人の生徒が、こらえきれずに大口をあけた。
「えー、悪魔の宰相リュシフュージェ……この悪魔は地獄の三大悪魔のルシファー、またの名をルキフェルに仕えるとても重要な存在で、恐ろしく強大な魔力と多くの権限をもち――」
コンスタンティンが目を細めて、小さな文字を追いかけているさなか、授業終了を知らせるベルが鳴った。
「……あー、では、本日はここでおしまい。キミたち、復習しておくように……」
熱意のかけらもなく、ぱたんと教科書を閉じる。
彼は爪を出した指で、宙にくるりと円を描いた。すると、教材は目に見えない掃除機に吸い込まれたように、一瞬で消えてなくなった。
おそらく今頃、悪魔学教務室の机の上に戻っているのだろう。
コンスタンティンは少し背中を曲げて、トコトコ歩いて教室を出ていった。
ほかの教師が熱弁をふるうなか、悪魔学だけがいつもどおりの眠たい授業だった。
「自分も教材と一緒に移動魔法使ったらいいのに……」
シキの隣の席に座るシムル・エーレーンがぽつりとつぶやく。それは、クラス全員の疑問を代弁していた。
「ああもう、あたし悪魔学やっぱ苦手! あの先生、教科書を読むことしかしないし、板書だって教科書丸写しだしっ!」
「わたしも苦手ですわ……でも、うわさでは前竜王の時代に、悪魔と対等に渡りあえるほどの方だったと聞きましたわ。いまはあんな……」
「おいぼれ猫よ!」
フェイメルが言葉を濁すと、アリアが引き受けた。
「四百八年も生きてりゃモーロクしてくるっしょ」
まだ半分眠った状態のウルトは、フラフラよろめいて廊下の壁に激突する。
「僕はそんなに嫌いじゃないけどな、悪魔学。だって、魔法や魔術全然使わないし、僕にはありがたいしさ」
「でもあんな眠くなる授業、拷問よ!」
アリアが癇癪気味に吠えた。確かに、と賛同したのはユーリであった。学年主席の彼も、あの四十五分間はどうやら苦痛らしい。
「苦手といえば、僕は光の魔術と闇の魔術学だな……なんたって先生が苦手だし。えらそうで横暴で言葉づかいも最悪じゃん」
はあ、とため息をついてシキは不意に気づいた。こちらを見つめるアリアとフェイメルの視線が、自分を通り越していることに。しかもなぜか二人の表情が凍りついている。
シキはゾッと殺気を感じて、首だけでふり向いた。
「はあーん。それはオレのことかな……ヴァグナーくん?」
そこにいたのは、光の魔術と闇の魔術学のジン・ホランド、だった。
「闇の魔術には禁じ手がある。ヴァグナー、答えてみろ」
「あー…ええと」
立たされたシキが焦って教科書をめくっていたとき、アリアのささやき声が耳に届いた。
「“死の呪い”」
「えっと、“死の呪い”です」
内心冷や汗をかきながら平静をよそおう。
「その通り。だがカンニングはよくねーな。ってわけでヴァグナー、あとで呪いについてレポートを書けよ」
「うそぉ……」
「んで、ソロ。次にオレの授業でお友達を助けたりしたら、お前にも書かせてやるからな、覚えとけ」
光の魔術と闇の魔術学の広々とした教室に、殺伐としたジンの声が響いた。それ以外の音は何ひとつない――。
「闇の魔術はとても強力なものが多く、その強さに魅せられ、悪しき力を求めて闇に落ちる魔法使い、魔術師は数多いる。著名な闇の魔術師として、イビチャン・アグラウェルが代表されている」
ジンが読みあげたページに、頭から黒いフードを被ったおそろしい形相の男の絵が載っていた。
黒は北国の竜王の色で、禁じられた色のはずだが、それを堂々と被っている姿で描かれている。
「国立銀行、それに魔法司法省を襲った凶悪犯だ」
シキをじっとり見つめるふたつの目に、光はない。
「アグラウェルは相手の恐れるものを具現化し、精神を破壊する闇の魔術を完成させた。それから約四十年後に、この闇の魔術の対抗術がやっとあみだされる。ヴァグナー、その術を答えてみろ」
「……わかりません」
「じゃあ、うしろの席、モルガーナ」
「光の魔術、呪文は“光に還れ”です」
フェイメルの答えは淀みない。
「そう、“光に還れ”だ。強靭な精神力を魔力に換算する現代魔術、精錬された言霊が闇を破るんだ。来年お前らが実践するものだ。覚えとけ。にしても、よく勉強しているな、さすがだモルガーナ」
フェイメルに賞賛の眼差しをくれてやったあと、ジンは気まずい表情の男子生徒を、嫌味たっぷりに鼻で笑った。
「光と闇は表裏一体。闇の魔術はお前らが思うより厄介で、恐ろしいものだ。前にも教えたな、闇の魔術の前では勇気を示せ。己と己の信じる者を、けっして見失うな。よくわかったかな? ヴァグナー」
授業が始まってから、ことあるごとに彼女はこうしてシキに発言の機会を与えた。
一時でも悪い先生じゃないのかも、と思った自分がひどくまぬけに思える。やはりこの教諭は短気で執念深く、とてつもなく意地が悪い。獲物に絡みついて離れない蛇のようなやつだ。
シキは心の中でありったけの悪態をつきながら、早く終われ、と強く念じた。
きょうほど自分が惨めだと感じた日はない。ジンのことがますます嫌いになったのは、いうまでもなかった。
授業の終わりを知らせるベルが鳴って、やっと心の底から安堵が込み上げてきた。だが、ジンは生徒全員に立ち上がることを許さなかった。
「お前ら、忘れるなよ」
普通なら文句が方々からあがるところだが、ジン・ホランド教諭の前ではそうはいかない。キャメロット生は息を殺してつづきを待つ。
「闇の魔術に魅せられるんじゃねぇぞ。闇は人間の隙間につけ込む。どんなに優れた人間でも、飲み込まれるのはあっという間だ」
全員の緊張した顔を眺めまわして満足したのか、やっと起立の号令がかかった。
生徒たちがぞろぞろ教室を出て行くなか、ジンを避けるために背後を通って戸口まで行こうとしたシキは、そこで偶然耳にしてしまった。
「この学校からまた闇の魔術師が出ちゃ、たまったもんじゃねえよ……」
ため息混じりに吐かれたジンの言葉を。
「ユーリ、闇の魔術師ってよく聞くけど、なんなの?」
「……悪魔崇拝者。または、悪の行使者って呼ばれる連中や」
廊下の雑然とした音にくっきり浮かんだ友の低い声。
ユーリの表情を見たとき、シキはその先を聞くのが怖くなった。
「……善であるべき魔法魔術を、連中は悪のために使う」
「どうして……」
「自分の力を示すには何かを奪ったり、壊したり、殺したりするほうが、わかりやすいやろ」
国立魔法学校は、魔力をもつ有能な生徒に正しい知識を教える場である。
魔力があっても学校で学べない子どもはどうなるのだろう。それに、学校で学んだとしても、はたして生徒は皆がみな、善のために魔法を使うだろうか。
いや、ジン・ホランドのあのため息が答えだった。
貧困と寒さ以外にも脅威は存在しているのだ。
「国軍管轄の刑務所にぶち込まれてへん闇の魔術師は、ごまんといる」
ユーリの紫色の目が、凍った窓から見える雪山へ向いた。そこに鎮座する軍の基地と、背後の王城を、シキも静かに見据える。
いまにも黒竜王が空から舞い降りることを、期待して。




