謝罪すべきこと
*
「薬草を彼女の首の赤い痣に貼ってください。丁寧にお願いしますよ」
「――えっ? 先生は……?」
キリクは、それ以上の質問は受け付けない、とでも言うように、チッチッと軽く人さし指をふった。
「私はべつの準備があるので、シキに任せます」
たちまち魔法で姿をくらましてしまったキリクのあるはずもない残像を、シキはぼう然と見つめるだけだ。
それから、同じく取り残された少女をふり返る。体をぎゅっと丸めて、椅子にちぢこまるリジルのほほは、ほのかに朱を帯びていた。
彼女の無防備な首筋をひと目見ただけで、シキの心臓は激しく肋骨を打った。
雪のように白い肌、薄紅色のつややかなくちびる、金色のまつげ、そこにはめ込まれた青の宝石。言葉でしか知らなかった「高嶺の花」を、実際お目にかかれるとは、なんという幸運だろう。
――やっぱりきれいな子だ。
ポーっと見つめていると、青い瞳がやや訝しげに動いた。
「どうかしたか?」
「いっ、いやっ、なんでもないよ……!」
首の痣はすぐに見つかった。
それは左の首にくっきりと浮かぶ痣――というよりも、むしろ図形のようだった。
丸い円の中にたくさんの三角形と、見たこともない奇妙な文字がびっしり刻み込まれている。だが、背筋がサワサワと冷たいものでなでられているような、嫌な気配を感じるのはなぜだろう。
「……リジルのこれ、怪我か病気、なの?」
「呪いだ」
気を悪くしないかおそるおそる尋ねたシキに、彼女は無表情で、それでいてひどく冷たく告げた。
あれほどがっちり身体に巻きつけていたマントをさっと脱いで椅子の背に掛けると、シキが持つ薬草に手を伸ばした。リジルは口を真一文字に結んで、自ら薬草を貼りつける。
やはり聞くべきことではなかった、とシキはいまさらながら後悔していた。
「“呪い”は闇の魔術において禁忌である」――そう習ったのは、ジン・ホランドの授業だった。
「呪いとは主に悪魔が使う闇の力とされているが、闇の魔術を習得した人間も、他人を呪うことができる」
そう言ったホランドは不気味にニヤッと笑って、「オレのように」と付け加えた。
しかし、禁術を使った魔術師は、司法省から最も重い刑を受けるという。だが、それは前竜王が逝去してからできた法律ということは、先週の魔術史で習ったばかりだった。
悪魔が当たり前のように人間を苦しめていた時代、司法省はまったく機能していなかったらしい。
「……ごめん、僕――」
「いや、いいんだ」
口ごもるシキに、リジルがきっぱりと言った。
「昔、私の祖先が悪魔から受けた呪いだ。未だに消えないでいる。母もこの呪いのおかげで早くに命を落としたんだ」
首からベトベトの薬草が少し剥がれてきて、シキはそっと貼りなおした。
呪いは“悪魔の刻印”とも呼ばれている。それは、かつて悪魔が殺戮に快楽を見いだし、罪なき民の体に呪いを刻んだためだ。
歴史Ⅰの年表に、その記述が太文字で書かれていたことを思い出しながら、リジルの赤い痣を見つめた。
リジルがつづける。
「黒竜王がなにもかも、奪っていった……」
それまで平静であった彼女の眼窩に、わずかな陰が生じた。
「当時の黒竜王は側近に悪魔を重用し、国民を虫けらのように扱ったと、曽祖父からも祖父からも聞いた。わたしは、悪魔に――悪竜に、母を奪われた……!」
封じていた憎しみが、内臓からじわじわと喉元へせり上がってきているようだった。
リジルの言葉の端々に、怒りと憎しみが垣間見える。まるで、巨大な毒蛇が鎌首をもたげているように思えた。
首の赤い痣は悪魔の刻印。
悪魔が使用する闇の魔法、死の呪いがリジルの体を蝕んでいるのだ。
前竜王が在任していたのは百年も前のことだし、おそらくリジルの祖先が受けた呪いとは、それよりもっと昔のなのだろう。
シキはかける言葉を探したけれど、見つけることはできなかった。だから、こう言うほか、なかったのだ。
「大切なひとを失うのは――辛いね」
それが、感情の昂ぶったリジルの琴線に触れるとは知らずに。
けして軽く言ったつもりはない言葉だった。
リジルが憤然と立ち上がった。鋭い視線がまるで丁寧に磨きあげた刃物のように、ギラギラ光っている。悪竜と悪魔に対する憎しみが、毒をもってシキに襲いかかった。
「貴様に何がわかる! 苦労のひとつも知らず、この学校に入れてもらって貴様らはぬるいお勉強をするだけだろう! お友達に囲まれてなんの脅威も感じることなく! そんな貴様にわたしの孤独がわかるものか!」
あまりにも激しく言葉を叩きつけられ、シキは沈黙した。
床には薬草が落ちている。
無音の只中に、ふたりはいた。
「…………新しい薬草、もらってくるね」
静かに告げて、シキは深閑とする部屋を出た。肩を落として、ふたたびメメリコーレ先生の教務室へと歩き出す。
*
リジルがひとり立ちすくむ部屋に戻ってきたキリクは、シキのうしろ姿を目で追ってから、静かに扉を閉めた。
「……廊下まで聞こえていましたよ」
「そうか」
目もあわせずリジルはそう吐き捨てた。
「少し、言いすぎでしょう、あの子に謝罪すべきです」
キリクが床に落ちている薬草を拾うと、目玉のついたごみ箱から舌が伸びて、薬草をペロリとひと飲みにしてしまった。
悪魔を毛嫌いする彼女は、当然キリクのことも良く思ってはいない。しかも、魔法学教務室はくだらない魔法がいたるところに仕掛けられていて、魔法や魔術の使えないリジルにとって目障りでしかないようだった。
「どうしてわたしが謝らなければならないんだ」
当然、返ってくる言葉も剣呑である。
ふん、とつっぱねて横を向く彼女は、国軍の高官といえど、やはり十八歳の女の子。
キリクは可笑しくなって、つい、くすりと口角をあげた。
なにが可笑しい、とにらみつける彼女に気づき、ごほんとわざとらしく咳払いをしてみせる。そうして真顔で彼女と向き合った。
「あの子を侮らないほうがいいですよ。孤独なら、あの子も十分味わってきました」
「なにが言いたい?」
「……貴女にわかりますか? たったひとりの家族である父親が目の前で殺され、一ヶ月もの間、ずっと亡骸の隣にあの子はいた」
白波の立つ海原色の目が、驚いたように見開かれる。
「愛しい者の死を魔物に冒とくされ、腐敗していく様を、ただ見ていることしかできない。なんの苦労もせず両親に囲まれて育ち、この学校に来たわけではありません」
「まさか……」
「あの子はいつも穏やかに笑います。ですが、内にある孤独は私にも想像がつきません。いや、つくはずがない。もちろんあの子も、貴女の孤独はわからないでしょう。しかし、彼に対して言いすぎたことだけは、謝罪すべきです――リントヴルム・トリスタン大佐」
キリクはまっすぐリジルの目を見つめた。激しく叱咤したわけでもなく、偉ぶって説教をしたわけでもなかったが、彼女はシキの境遇を知って自分の言動を恥じたように視線をそらした。
毒を抜かれたように、すでに怒りは収まっている。
そこに、コツコツと控えめなドアノックの音が鳴った。先程のように扉がすぐに開くことはない。
「どうぞ」
キリクは人さし指をのんびりふって、扉を開けた。
やってきたシキが薬草を差し出すのを、キリクはやんわりとさえぎった。
「メメリコーレ先生に怒られてしまいますから、もう落とさないようにしてくださいね。私は別の準備があるので、今度はしっかり薬草を貼っておいてください」
そう言ってウインクを残すと、ふたたび部屋を出た。
*
またしてもシキとリジルはふたりきりになり、非常に重たい空気が流れた。シキはそろりとリジルを盗み見た。
まだ怒っているだろうか?
彼女の険しい表情に、体が強張るのを感じた。
リジルは黙って椅子に腰掛け、ひざに乗せた両手をじっと見つめている。
あの、とシキが口を開いたとき、リジルが小さな声で言葉をかぶせた。
「さっきは、怒鳴ってすまなかった……」
彼女は眉間にしわを寄せて、目を伏せている。
「いつも冷静でいなければと思ってはいるんだが……ふとしたきっかけで感情が抑えられなくなるんだ。きみにはなにも関係ないのに、酷いことを……」
うつむいた彼女は慎重に言葉を選びながら、苦々しく声を絞り出している。シキは彼女の言葉に口を挟まず、ただ無言で耳を傾けた。
「……許してくれないか?」
精一杯の謝罪の言葉に違いない、シキにはそう感じた。
「僕は、大丈夫」
重たかった空気がふっと軽くなったような気がした。
「僕のほうこそごめん……なんて声をかければいいかわからなくて、その、リジルを傷つけてしまって……」
彼女の気高さに、凛然とした姿に弱みがあるはずない、と思い込んでしまった。もちろん、そんなはずはないのに。
「きみは、優しいな」
リジルが薄く、やわらかくほほえんだ。
ド・モルガン薬品店で別れ際に見せた、あの微笑だった。
――ああ、そうか。
シキの中でなにかがすとんと落ち着いた。
いつも完璧であろうと、本当の自分を押さえつけてリジルは生きてきたのだろう。でも、本当のリジルはこうやってやわらかくほほえむ。
――彼女に初めて会ったとき、胸が高鳴った理由はこれだったんだ。
精悍な兵士のような、凛然とした少女の奥に潜む本質を、シキは一目見た瞬間に感じ取った。もちろん彼女の美しさに心奪われたのは確かである。だが、それだけではなかった。
――だから、こんなにドキドキするんだ。
不思議そうに眺めるリジルの視線に気づいたシキは、あわてて手にするベトベトの薬草を見るふりをした。それを首の痣に貼って、誤魔化すように切り出す。
「あの、僕もさ、子どもの頃に家族を亡くしたんだ……父さんが死んだ。生まれたときからずっとふたりで東国を旅してて、僕が十歳のころ、砂漠で魔物に襲われて……あ、魔物っていうのは、北国でいう魔獣……みたいな感じかな。それが襲ってきたとき、父さんは僕をかばって、死んだんだ」
平静を装ったつもりの声が、最後はわずかに震えていた。
大切な人が亡くなった。
孤独は嫌というほど知っている。
嫌で嫌で、たまに、堪えきれなくなる。
「そう、か……」
リジルの悲しそうな声に被せるようにして、シキは奥歯を噛んで、にこりと笑顔を作った。
「もし、北国に新しい黒竜王が現れたら、困っているだれかを救ってくれるような、優しい王様だったらいいな、って思うよ。リジルの呪い、僕もなにか手伝えることがあったら、力になるから」
「ありがとう、シキ……」
もう一度、リジルがやわらかくほほえんだ。
*
キリクは扉の前に立ち、ひとりほほをゆるめた。
もう少しだけ廊下にいようか、と思案し、魔法学教務室の扉の前にしゃがみこんだ。




