雨天の来訪者
翌日は、北国では珍しいどしゃぶりの雨が朝から続いていた。しかし、雨だからといって、気温が高いかと言われれば、そうではない。廊下の窓ガラスに触れると、白い手套がピタッと貼りついた。
こんな天候でも学校に訪れる人物の気が知れない、とキリクは苦く笑った。
「お待たせしてしまってすみません。で、なんの用です?」
魔法学の教諭は応接室の扉を開けて、開口一番にそう尋ねた。
来客用の長ソファーに腰掛ける北国国軍大佐、リントヴルム・トリスタンは、紅茶のカップを傾けたまま、眉根にピリッとしわを寄せる。
「で、なんの用です、じゃないだろう……」
まだ湯気の立つカップが激しい音を響かせて、ソーサーの上に戻る。その拍子に壁に吊るしたハンガーから、彼女愛用のマントが雨水をまいて落ちた。
「どういうつもりだパーシヴァル卿! あの占いはなんだ!」
立ち上がったそのとき、厚手の軍用コートの下にちらりと枯れ草色の軍服が覗いて、勤務の合間をぬってやって来たことが容易に推察できた。
どうやら彼女は、昨日のド・モルガン薬品店に呼び出されたことをいっているらしい。
「職員室でその話をするのはいただけませんね」
そこでキリクがおもむろに指を打った。打った瞬間にはもう、職員室から魔法学教務室――キリクの自室へと場所を移していた。
彼女はあたりを見回し、いやな場所に来たことをすぐに悟ったようだ。胸がむかむかしているような表情で、壁を行進する小人の兵隊をねめつけている。
いまさら移動魔法に驚くことはなかったけれど、いたるところにかけてある魔法や、妙な生き物がときたま現れるキリクの教務室を、彼女はひどく毛嫌いしていた。
「どうぞ椅子へお掛けください、お嬢さん」
「紳士的だな」
トリスタン大佐はあざけるような笑みを浮かべて、冷たく吐き捨てた。
「……私の友人のモルガン氏が貴女に関係していることなので、占いをしなければいけないとおっしゃったので、呼んだまでですよ」
「なにが狙いだ……!」
「貴女がなにを視たのか、私も彼も知るところではありませんし、ましてやなにか企んでいるなど人聞きの悪い!」
キリクは芝居がかった口調で、大仰に手を胸にあてがった。ついでに悲壮感たっぷりに目頭も押さえる。
「貴様……!」
彼女が鬼の形相で椅子から勢いよく立ち上がったのを見上げて、キリクは目をぱちくりさせた。すぐに目を細めて、くちびるに弧を描く。
「占いをすべて信じることはできない! 黒竜王が北国にいて、それも、“ゆりかご”から飛び立っているだと? 竜王が覚醒すれば吉鳥ファルケスが王城に現れて鳴くだろう! もちろんだれも聞いてはいない!」
「その通りですね」
「王城は空のままだぞ!」
「ええ、それは軍の皆々様が一番よくご存知かと。トリスタン大佐」
「……くそっ! いったいどうなっているんだ……!」
彼女はめまいと戦うように、ひたいに手をあてた。黙考するあいだ、教務室の小人たちは歩みを止めてじっと待っている。キリクも同じように待っていた。
彼女が口を開くときを。
答えにたどり着くときを。
そして、しばしの沈黙を経てようやく彼女の目が見開かれた。
「……あの日」
聡明を色で表すならば、まさに彼女の瞳の色こそそうだろうと、キリクは思う。
「店に行く途中で黒髪の少年と会った……偶然だと思うか? パーシヴァル卿」
「さあ、どうでしょう」
曖昧に応えて、貴女ならどう考えますか、と瞳で問う。
彼女は自分に言い聞かせるかのように、ひとつづつ言葉を選んで、ゆっくりと語りだした。
「――獣の姿である四脚、人の姿であるニ脚を、高貴な生き物は形どるものだ。竜王はその最高位にある存在。北国の竜王は黒竜王。性別は雄。黒い鬣に全身漆黒の鱗で覆われた、五竜の中でもっとも気性が荒く、残忍な王。黒竜王のニ脚の姿は黒髪……あの少年も黒髪だった。この北国に黒髪は黒竜王以外ありえない……いや、だがあの少年は東から来たといっていた。それに、黒竜王の気性はあんなふうに穏やかであるわけがない。ましてや人間をゴミ同然に扱う残虐非道の竜王――“悪竜”だ――」
彼女の独白に耳を傾け、キリクはひとりうなずいた。
「――いや、なんて馬鹿な考えだ。わたしはどうかしている……黒竜王が復活したのなら、北国の天候はとっくに回復しているはず……」
「その通りですね」
もう一度、肯定した。
トリスタン大佐の顔色は、まさに今日の空模様を写していた。
――このくらいにしておこうか。
キリクはぱしん、と軽く両手を打ちつけ、こう告げた。
「まあ、せっかく出向いていただいたことですし、ついでに診てさしあげますよ」
鬱々とした雨空と対照的な、ぽかぽか暖かい陽光を思わせる微笑を浮かべながら。
彼女はくちびるをゆがめて、渋々コートと軍服の上着を椅子の背に掛けた。キリクの前では綺麗な顔立ちも台無しである。それからブラウスの第二ボタンまで外し、白い首筋があらわになったところで、キリクにつんと背を向けた。
「そんな美貌をお持ちなのに、もったいない」
キリクはため息を落とし、彼女の首筋に指をなぞらえた。赤い刻印が鮮やかに刻まれている。
「氷の女王、とかげで言われるのも無理からぬことですね」
「なら、女王様に楯突かないでもらいたいな」
冗談も冗談と聞こえないほど、とげとげしく言い放つ。これだから兵士たちの間でそんな揶揄をされるのだ。
そのとき、扉をノックする音が響いたかと思うと、ドアノブがくるりと回った。
「先生、メメリコーレ先生から薬草もらってきました。こんなベトベトの葉っぱ、なんに使う――」
「どうぞ」、の返事を待たずに遠慮なく扉を開けて入ってきたのは、シキであった。
目を丸めてはたとシキの動きが止まる。
それもそのはず、目の前には微妙に胸もとがはだけた少女がいて、そのうしろにはキリク。白く艶かしい首筋に手を添えていたのは、少しばかりうまくなかった。
彼女の表情はうかがい知れなかったが、ふたりの時が止まってしまったようで、可笑しくてたまらない。
はっと目を見開くシキは何事か悟ったようで、みるみるうちに顔が赤くなってゆく。
――これは……面白いタイミングで現れたものだ。
「うわあああ!」
シキとリントヴルム・トリスタン大佐が同時に叫んだ。
シキは一目散に部屋を飛び出し、トリスタン大佐は素早くコートを羽織ってふり返る。その相貌たるや、獲物に狙いを定める魔獣のように、瞳孔が開いていた。
「どうして鍵をかけておかないんだっ!」
「ははは、鍵をかけたらシキが入ってこれないじゃないですか。薬草を持ってきてもらうよう、いいつけてあったもので」
彼女の手がふるえている。いまにも怒りに任せて顔面に殴りかかってきそうな勢いである。
が、なんの前触れもなく、それが唐突に瓦解した。
「なに……? シキ、だと?」
名前を聞いて彼女の顔色がまた変わった。
「あの……」
扉越しにシキの困惑した声。
「リジル、だよね? どうしてきみがここにいるの?」
「……そういうきみは、きのう、ド・モルガン薬品店の道を教えてくれた……あの時の?」
キリクは、探り探り言葉を交わすトリスタン大佐をちらりと見やる。
「リジル?」
声をひそめて問いかけた。
いつもは凛とした彼女のたじろぐ様子に、口もとがにやけてしまいそうになるのを、キリクはぐっと堪えなければならない。
トリスタン大佐は扉の向こうに聞こえないよう、ひどく神経質そうな小声で、こう言った。
「パーシヴァル卿……彼とはきのう偶然出会って、そのとき、偽名で名乗ったんだ。国軍の大佐だと気づいて、かしこまられても嫌だったから……できれば、口裏を合わせてほしいのだが」
『トリスタン』はこの国に住む者であれば、だれもが知る名家の姓だ。だが、シキが知る由もないとキリクは知っていたけれど、これにうなずいた。
『リジル』として出会ったのであれば、それもいいだろう。
ぱちんと指を打って彼女のマントを魔法で出現させる。ちなみに、マントを天日干ししたようにふかふかに乾かしたのは、キリクなりのサービスだ。
扉の向こうにいるシキに聞こえるよう、わざとらしくひとつ咳払いをしてみせた。
「彼女は――リジルは毎月私の治療を受けに来るのですよ。きょうがその日だったので……いや、まさかきみ達が顔見知りだったとは知りませんでしたよ! ハッハッハー。さっシキ、もう大丈夫ですよ、入ってきてください」
ふたたび入室したシキは顔をまっ赤にしていた。




