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告別式が終わってバスで火葬場に移動した。
導師が炉の前でふたたび読経している間、雪菜の目に懐かしい人の姿が映った。
位牌を持った勝利の隣には香織がいて、彼女の隣にいる彫りの深い男性が和子の遺影を持っていた。アサヒとユズハは淡色の服を着て、三十くらいの女性の前に立っていた。アサヒは手先まで伸ばして姿勢よく立ち、ユズハはお兄ちゃんのまねをするような澄まし顔だった。長谷川は山本先生の隣でうつむいていた。
読経が終わって勝利が炉のスイッチを押した。
二階の控室に移動して雪菜が美月とくつろいでいると、山本先生がやってきた。
「もうちょっと時間かかるみたいだなあ」とこれからの予定を話していたが、
「おまえたちの高校生活も残り一年だな。進路は決まったのか?」
「大学に行きます。哲学を極めたいです」と美月が答えた。
「志望校はどこなんだ?」
「うーん、そこまでは決めてないですけど、まずは日東駒専を目指します」
「丹場はどうするんだ?」
「上代文学や中古文学に興味があるので文学部に行きます。和子さんと同じく国学院に行きたいです」
「そうか。明確に決まってるんだな」
「ねえ、そのなんとか文学って何?」と美月がきいた。
「上代文学は『古事記』『日本書紀』『万葉集』とかで、中古文学は『古今和歌集』『源氏物語』とかだよ」
「ええっ、そこまで具体的に考えてるの?」
長谷川も合流して四人で話していたら、美月が耳打ちした。
「和子さん、私の動画見てくれたかなあ?」
最近の美月は、チャンネル登録者数や動画の視聴数を見て一喜一憂している。
「うん。きっと見てくれたはずだよ。美月に元気づけられたと思うよ」
「そうだとうれしいなあ……」
美月の余韻を残す言い方に刺激されたからか、雪菜の頭に和子の顔が浮かんだ。消え入りそうな最後の微笑だった。トイレに行くふりをしてその場を後にした。
火葬場の一階をなんとはなしに歩いていると庭園があった。少しは気が紛れるだろうと外に出た。
梅が見頃だった。白梅は満開に近かったけれども、紅梅はまだ七分くらいだろうか。雪菜が梅の木を見上げると、数羽のメジロがいた。驚かさないように立ち止まっていると、メジロはすぐそばまで来てくれた。白いアイリングと抹茶色の手並みがくっきり見える。体を起こしながら蜜を吸う者もいれば、枝にぶらさがり逆さまで吸う者もいた。ずっと見ていたい光景だ。
ところが、ヒヨドリがやってきてメジロを追っ払ってしまった。
「あっ、けしからんやつ」
ヒヨドリも一心不乱に蜜を吸っていた。くちばしとそのまわりが黄ばんでいる。まったく、あんな花粉まみれになっちゃって。同情してしまうほどのまぬけ顔だった。蜜を吸うだけのメジロとは異なり、ヒヨドリは花びらも食べていた。
庭園を歩いていると小さな池を見つけた。雪菜は縁のベンチに腰をかけて水面を眺めた。錦鯉が一匹、緋鯉が数匹泳いでいた。彼らは冬の間もずっとここにいて、悲しみに暮れて庭園にやってくる人をなぐさめたのだろうか。雪菜はそんなことを考えた。
二人の女性が庭に入ってきた。
「ねえ、本気なの? お骨上げさせないなんて」
「だって私、小学生のころ見てトラウマになったんだよ。お姉ちゃんだって知ってるでしょ。子どもたちにそんな思いさせたくない。お姉ちゃんのとこはお姉ちゃんの考えでやればいいじゃない!」
「ケンジさんだって昨日から何度も言ってたじゃない。なのにあんたは、トラウマが、トラウマがってその一点張り。もううんざり! ちょっとはまわりも見なさいよ」
興味はなかった。自然と耳に入ってきただけだった。妹が自分の子どもたちにお骨上げをさせないとゆずらず、姉が説得しているのだろう。子どものころ雪菜ははじめてお骨上げをしたとき、さほど抵抗がなかった。妹の言い分は慎重すぎる気もした。
二人は今にも取っ組み合いそうな口調だった。しかし忌憚なく気持ちをぶつけ合っているところから、実はとても仲がよさそうだと思った。それぞれ家庭を築いてからも近くに住み、喧嘩しながらも一緒に子育てをしているのだろうか。雪菜はそんな想像をした。
二人はしばらく言い争っていたが、
「私もね、あんたの気持ちはわからなくはないのよ。でもね、ばあばとの別れは今しかないんだよ。子どもたちの世界をあんたが奪っていいの? 本当に後悔しない?」
「そうだけど……。でも、もしショックを受けて立ち直れなくなったらと思うと心配で」
「ケンタロウは四月から小学生でしょ。少しは信用してあげてもいいんじゃないの? 聞いてみるのも悪くないかもね。もう一度、ケンジさんと話し合いなよね。さっきは言いすぎてごめんなさい。私が言いたいのは一つだけ。お別れできるのは今だけなんだから……。もう、これが最後なんだから……」
妹のみならず、姉も涙声になっていた。
最後まで聞くのも憚られ、雪菜は待合室に戻った。
帰宅して雪菜は伊澄に清めの塩を振りかけてもらった。
「きちんとお別れできた?」
「うん。できた」
「つらくなったら、ためこまないで話してね。いつでも聞くからさ」
「うん。ありがとう」
「本当にどんなでもいいんだからね」
「……お母さん、謝りたいことがあるの」
「ん?」
「ずっと心に引っかかっていたんだけど素直になれなかった。私は何もできないくせに、お母さんには完璧を求めてたんだなって。本当に反省してるの」
「急にどうしたの?」と伊澄はきょとんとしたが、
「何もできなかったって七條さんのこと? 雪菜がどうこうできる問題じゃないでしょ」
「そうじゃない。お母さん、その……私の声が聞こえにくいんでしょ? 一度『こんなわかりやすく言ったのに何で聞こえないの?』って言ったじゃない。私ね、『えっ?』ときき返されるたびに腹立ってたの。あのときお母さんの顔、今でも心に残ってる。できるのにさぼる人はずるいと思うけど、そんなのみんな一度や二度は──ううん、違う、数えきれないほどやってしまうじゃん。でも……。できない人にどうしてできないんだって責める人はすごい卑怯だよ。刃物より鋭い言葉じゃん。私、あの一言をずっと後悔してた! 許してもらえるかわからないけど、私たちは家族なんだから、これからは助け合って生きて行かなきゃって思ったの。私はいつまでもお母さんの味方でいるし、私たちがもしそうなれたらさ……、お父さんだってきっと喜んでくれるでしょ。私、お母さんの耳に届くまで何度でも言うから! 百回でも二百回でも。お母さんがわかるまでずっと! 今まで無理を押しつけて本当にごめんなさい」
伊澄の目からつっと涙が垂れたのがわかった。
「突然何を言うかと思ったら。そうね。二人で支え合いながら生きていけたらいいね。でも、その……、お父さんのことはもういいの?」
「うん。もうきちんと気持ちの整理ついたから」
「そっか」と母は肩の荷が下りたようにほほ笑んだ。
「ねえ雪菜。あなた、本当に何もできないと思ってるの?」
「うん。和子さんに残されてる時間が少ないってわかってたはずなのに、一歩踏み出す勇気がなくて、大事な時間だったのに無駄にしちゃった……」
雪菜が震えた声で言うと、母は軽くため息をついた。スマホで何かを調べているようだったが、出し抜けに、
「百人一首の二十三首目」と言った。
「急にどうしたの?」
「いいから言って」
嗚咽交じりに暗唱するなんてはじめてだった。
「──月見れば千々にものこそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど」
(秋の月を見ていると、あれこれともの悲しく思われるものだなあ。私一人だけの秋ではないのだけれど)
「誰の歌?」
「大江千里」
「五十六首目は?」
「和泉式部の、
──あらざらむこの世のほかの思い出に今ひとたびの逢うこともがな」
(私はまもなく死んでこの世を去るでしょう。あの世への思い出に、せめてもう一度だけあなたにお逢いしたいのです)
「じゃあ九十首目は?」
「殷富門院大輔の、
──見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず」
(血の涙で色の変わった私の袖をあの人に見せたいものだ。あの雄島の漁師の袖さえ、ひどく濡れても色までは変わらないというのに)
「すごっ……。やっぱり音読って効果あるのかしらね」
「えっ! なんで知ってるの?」
「雪菜の部屋から、お経のような声聞こえてたからね。あなた、まわりが見えなくなるくらい夢中だったんでしょ? 青春のすべてをかけても後悔しないくらい、一生懸命やってきたんでしょ?」
耳の根元が染まっていくのがわかった。雪菜はふり払うように、口を固く結んでうなずいた。
「ほらね、何にもできないなんてないじゃない。百人一首の暗唱なんて、できる人のほうが少ないって。もっと自信もちなさいよ。雪菜はみんなができないこともできるんだから」
「お母さん、いつもありがとう」
「なんだか今日はらしくないのねえ」と伊澄は鼻をこすったが、
「ねえ雪菜。私ね、ここ最近ずっと気になってたことがあるの。前まではすぐ憎まれ口叩いたし、言い訳してもそれすらうまく伝えられなかったのに、ここ最近すごくおとなしかったじゃない? 私が冗談言っても冷静に答えるんだもの。学校で何かあったのかなって心配になったんだから。でもそうじゃないんだよね。雪菜は私の知らないところで、大人になってたんだよね。本当は喜ぶべきなんだろうけど、なんだかねえ……」
「何も変わってないよ」
「だといいんだけど。あなた、七條さんに会えてよかったみたいね」
「うん。あの日、声をかけてよかった」
部屋のドアを開けると懐かしい匂いがした。普段は感じとれないが、二、三日離れてようやく嗅ぎ分けられる、そんな匂いだ。
雪菜はベランダに出て深呼吸をした。立春を過ぎてここ姫鵜町の香りもわずかに春を帯びはじめたように感じる。南の空にはひつじ雲が浮かび、雲の下面が赤紫に染まっていた。西の空に薄く広がっている雲から幾筋かの光芒がもれていた。その前を横切るカワウの群れはきっとねぐらに向かっているのだろう。
制服から部屋着に着替えていると、廊下からリーベの呼ぶ声が聞こえた。ドアを開けると彼は尻尾を立てたまま入ってきた。リーベは雪菜の足に首をなすりつけ、くるっと回ってお尻をつけた。甘えているのだろう。雪菜がリーベの腰をぽんぽんと叩くと、彼はうれしそうに腰を突き上げた。
やがてリーベはベッドの真ん中で毛繕いをはじめた。夕食の準備をはじめる前に少しだけ休もうと思った。リーベを隅っこに押しやる元気はなく、雪菜は足がはみ出るようにベッドに倒れ込んだ。
天井に西日が模様を描いていた。向かいのコンビニからだろう。煙草の嫌なにおいがした。げらげら笑い合う男女の声、大通りを車が走り去る音、救急車のサイレン、そしてシジュウカラのさえずり。たくさんの音が聞こえた。
和子が亡くなっても、この世界はまったく気にせず動いているみたいだった。少しの変化もなく時間というレールの上を同じ速さで動いている。誰かの生が死に変わっても、ほとんどの人は何も気づかず時間だけが流れていく。雪菜の胸にはぽっかり穴があいたのに。誰にも埋められないほど深い穴があいたのに。
和子の名前を呼ぶと涙が止まらなくなった。声を殺そうと腕を圧しつけた。誰にも聞かれたくないのに、ドアをすり抜け、廊下から階段を下りて、母に届きそうなくらいの大きな声。
落ち着こうと息を整えたときだった。隣から、もそもそという音が聞こえた。リーベがぴたりとくっついてきた。彼の体温を感じた。
涙がかわき、まぶたがひりひりするくらいの時間が経った。そろそろ夕食を作ろうかと伸びをすると何かにひっかかった。仰向けのままヘッドボードを探り、手につかんだ物を拾い上げた。百人一首の本だった。なんだ、きちんと片づけてなかったのかとそぞろに開くと、目に飛び込んできたのは和子の一番好きな歌だった。
──世の中は常にもがもな渚こぐ海士の小舟の綱手かなしも
(世の中は変わらないでいてほしいものだなあ。この渚を漕いで行く漁師が浜辺から、小舟の舳先にくくりつけた綱を引いているのを見ると、しみじみといとおしく感じられるなあ)




