3
雪菜はそれから数日こそ忍び泣いたものの、あわただしく動くようにつとめ、日常生活に戻っていた。しかし、心残りがあった。和子のことである。和子に会ったあの日、彼女に会えるのはこれが最後かもしれないと、霊感のささやきがあったのに、なぜ感謝の言葉を伝えなかったのだろう。あれが「ありがとう」を伝えられる、最後のチャンスだったのに。
告別式の日以来、夢に和子が出てくるようになった。憂いを帯びた目で雪菜を見ている日もあれば、以前のように屈託なく笑っている日もある。彼女に会うたび胸が苦しいのだ。
そして雪菜にはこんな変化もあった。緊張の糸がぷつりと切れてしまったかのように、百人一首と距離を置くようになっていた。和子が今、どの雲にいるかわからない。きっと自分を見て失望しているだろう。できるだけ早く立ち直らなければいけないのに思い通りに動けない自分がじれったい。
リビングで毛繕いをしているリーベを部屋に連れてきたりと、雪菜は誰かの温もりに甘える日々を送った。
やがて春になり、雪菜は三年生になった。
日曜日に部屋掃除をしていると、双眼鏡が目にとまった。双眼鏡は本棚の上の小物入れに置いてある。その場になじんでいるせいか普段は気にならない。しかし今日に限ってどうして目についたのだろう。雪菜は懐かしさから手に取った。ためつすがめつ眺めたり、外にレンズを向けているうちに、ライファーに会ったときの感動がよみがえってきた。ここしばらく静かな生活を送っていたからだろう。ひとたび心が揺れると、野鳥たちに会いたい気持ちが抑えられなくなった。
雪菜は海浜公園に向かった。いつもは自転車だが、今日はゆっくり歩こうと思った。晴天のなか、南西にすじ雲が広がっていた。水気のない刷毛で無理やりに引き延ばしたみたいな雲に見える。もう春爛漫。街路ではツツジが咲きはじめていた。花壇ではひらひらとアゲハチョウが舞い、生垣からクマバチが飛び出してきた。
公園入口をこえて松並木を歩いていると、どこからかウグイスのさえずりが聞こえた。姿は見えなかった。「ホ~、ホケキョ」ときれいにさえずる者もいれば、「ケキョ……」とへたっぴな者もいた。
海に着いた。雪菜は堤防を下りて渚を西に歩いた。海風がなつかしい。こうして自然に帰るのはいいものだ。
立ち止まって海景色を眺めていると、眠っていた記憶がすくいあげられたかのように、雪菜は百人一首の歌を思い出した。
──わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波
(大海原にこぎ出して見渡すと、はるかかなたに雲と見間違えてしまうような沖の白波が立っていることだ)
この海は、小さいころは母に連れてきてもらったし、また中学になってからは美月とよく来た場所だ。見慣れた光景のはずなのに、和歌の調べにのると違って見えるらしい。はるか先に紺碧に色づいているのは空なのか海なのか。たなびくような白い塊は雲なのか波なのか。
つぶやくように暗唱しているうちに、雪菜はこもりがちだった生活の中にも、変化が起きていたのに気づいた。百人一首に夢中にだったころは、彼女はレトリックをふんだんに使った歌が好きだった。細部まで作り込まれた蜘蛛の巣のように、和歌の技巧に芸術性を感じたものだ。しかしこうして離れてみると、自然に身をゆだね、それが自分らしさだと受け入れているような歌にこそ和歌の魂は宿るのではないかと思うようになっていた。思いがけない変化だった。
「やっぱり私は百人一首が好きなんだ」と思うと、ふっと笑いがもれた。百人一首を読むと和子を思い出してしまうからと、露骨に避けてきた日々がむなしく思えた。時間には深い悲しみを和らげる治癒者としての役割もあるらしかった。
雪菜は渚を歩いた。美月と来たころと比べて、ずいぶんと景色が変わっていた。冬鳥は一部しか残っていなかったけれど、去る者がいれば来る者もいた。ちょうど春の渡りの時期。シギチが立ち寄っていた。メダイチドリが地面から糸を引っ張るようにゴカイを食べていた。キョウジョシギが風を楽しむかのように海を見ていた。
波打ち際ではミユビシギが三十羽ほど群れになって走っていた。波に流された小貝やカニを狙っているのだろう。波が引くと彼らは追いかけるように駆け寄り、濡れた砂の中にくちばしを突っ込んでいた。ふたたび波が寄ると、皆でいっせいに逃げていた。その姿はまるで子どものころ夢中になった「花いちもんめ」のよう。
雪菜はボーッとつぶやいた。
「勝ってうれしい花いちもんめ。負けてくやしい花いちもんめ」
無心で行ったり来たりしているミユビシギたちは採餌するばかりでなく、遊んでいるようにも見えた。
そんな雪菜の頭をかすめたのは、コンサートの日に和子とした約束だった。一緒にミユビシギを見に行きましょう。あのときは翌日にも実現できそうだと思ったのに。もう果たせぬ約束になってしまった。もし一緒に来られたのなら、和子は幸せそうな笑顔を見せてくれただろうか。雪菜の好きなミユビシギを好きになってくれただろうか。
雪菜はそぞろにあたりを見回した。木のベンチでコーヒー缶を片手に話をしているお年寄り。シートに寝そべっている小麦肌の女性。テントの中で過ごしている親子連れ。彼らはミユビシギに目もくれていない様子だった。自分にとっては宝のようなこの風景も、彼らには海岸に散らばっている貝がらみたいなものなのか。雪菜は不思議でたまらなかった。同じ時間、同じ場所にいる人が同じものを見ていないのがおかしかった。
雪菜はスマホで一枚撮ってみた。海しか映っていなく、面白味のない写真だ。白浜を映そうと、うしろに下がってもう一枚撮った。やはり同じである。風景を切り取っているのか、それとも時間を切り取っているのか、わからなかったけれども、無機質で自分の思い描いた絵にならない。いま頭の中ではっきりと描いている景色も、家に着いたらどうなるのだろう。波打ち際に描いた文字が波にさらわれるように、記憶から消えてしまうのだろうか。なんだかもったいない気がする。感動を残すのに何かいい方法はないか模索しているときだった。
「和歌にしてみたらどうだろう?」
今度は霊感のささやきなどではなかった。百人一首は千年以上の時を経た今もなお、歌人の気持ちが形を変えずに残っている。和歌には限りない力があるのだと、百人一首を勉強してそろそろ一年になる雪菜にはわかる。
彼女は白浜に腰を下ろし、思いついた言葉をもらざずスマホに打ち込んだ。五文字ないし七文字に当てはめるのには苦労したが、何を書くか明確だったから、二十分ほどで納得いくものができた。
──昼下がり君と並んで見る海の色も形も同じだろうか




