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遅刻魔と百人一首  作者: 夢見るカルガモさん
すべては遅刻からはじまった
2/32

2

 朝、雪菜が昇降口に入ると、生徒指導の先生がこちらを向いて、

「もう時間過ぎてるのに歩いてくるやつがいるか!」とラッパのような声で言った。

「駐輪場からダッシュで来たので、息切れちゃいまして」

「いいからちゃきちゃき動け。お前が最後だぞ」

 雪菜はローファーから上履きサンダルに履き替え、廊下に出た。遅刻した生徒が壁ぎわのガラス棚に沿うように並んでいた。この日の遅刻者はいつもの半分くらいで、十名もいなかった。

 列の先頭で遅刻届をチェックしていたのは生活指導で一番若い先生だった。気だるそうな笑みを浮かべ、一言二言交わし判子を押している。よかった、今日は細かいこと言われなさそうだ。雪菜はほっとして、なにげなくガラス棚に目をやった。県大会の常連であるヨット部やアーチェリー部の賞状やトロフィーのほか、ウミホタルの飼育でテレビ出演した生物部の写真が飾られている。彼女の見慣れた光景である。

 そういえば一限目の古典は自分が指名される番だ。早く教室に行って友達に教えてもらわないと。雪菜がぼんやり考えていたときだった。

「お前よく見かけるなあ。ちょっとこっちに来てくれ」

 びくっと身構えてしまうほどの声が聞こえた。ななめ向かいを見ると、仁王立ちした山本先生がこちらを睨んでいる。避けるように彼女が一歩後ろに下がると、先生の視線が追いかけてきた。

「お前だ。一番後ろのお前! 早くこっちに来い」

 雪菜を見ていたのは山本先生だけではなかった。前の生徒も、その前の生徒も振り向いている。彼女は列から押し出されるように、「あ、はい……」と先生のもとに向かった。

 山本先生はおそらく五十代後半。全校集会ではいつも声を荒げている、学校一有名な先生だ。ポケットに手を突っ込んで廊下の真ん中を歩いている男子でさえ山本先生には従順で、口答えをしている姿を雪菜は見たことがない。それもそのはず。見た目が強烈なのだ。任侠映画から出てきたようなスキンヘッドに、優に一九〇センチを超える岩のような巨体。雪菜がはじめて見たときには、高校選びを間違えてしまったと、青ざめたほどである。生徒指導の先生は用心棒みたいな強面が多い。しかし、山本先生に目が慣れたあとだと、マッチ棒みたいに頼りなく見えてしまう。

 雪菜が山本先生に遅刻届を渡すと、

「二年D組の丹場雪菜か」

「はい」

「おととい、足をくじいたのか?」

「そうなんですよ」

「ん? つまり、昨日も遅刻したんだな?」

「いえっ、あのですね。昨日はなんとか間に合ったんですよ。でも大変だったんです。足を引きずりながら登校したんですから」と雪菜は手振り身振りで訴えた。

 遅刻届はそのつど回収される。雪菜はいくつかの遅刻理由を、気まぐれに使い回していた。前回書いたのはどの理由だったのか、さすがに覚えていない。この日はふとずらしてみようと思い立ち、これまで「昨日」と書いていたところを「おととい」に変えたのだ。余計なことするんじゃなかったと彼女はうなだれた。

 山本先生は「ふむ」と小さく息をもらし、とじ込みファイルをめくって、「丹場……。丹場……」と雪菜の名前を探しはじめた。

 雪菜と山本先生は一メートルほど離れていた。しかし、この距離はあってないようなものだった。じゃがいものごとくぱんぱんに膨れあがった顔や、ワイシャツのカッターからはみ出ている首の肉さえも、彼女にとっては山本先生の威厳を増幅させる装置に見える。

「おい、丹場雪菜。絶句してしまったぞ。お前、今まで何回遅刻したかわかっているか?」

「十回くらいでしょうか」

「アホ言え。昨年度は三十八回、新年度になって早くも十回だぞ。えらいハイペースじゃないか。他の追随を許さないな」

「ええっ。そんなはずないですよ。そんなにしていたら遅刻のしすぎって気づくじゃないですか」

 山本先生は何も答えず、入国審査官のような目で見下ろしている。

「あっ、なんかのミスがあって、ほかの人のやつと混ざってしまったんじゃないですかね」

 先生はふたたびとじ込みファイルに視線を落とした。

「なるほどな。そうとも考えられるか……」と、いったんは納得したそぶりを見せたけれど、

「そんなわけあるか!」と吐き捨てるように言った。

 肥満体系の先生の顔が引きしまると、雪菜は山が起き上がりこちらに覆いかぶさってくるような圧を感じた。彼女は後ずさりしたくなる気持ちに必死に耐えた。

「さて、どうしようか?」

「あ、はい。次回から気をつけます」

 雪菜はとっさに答えたが、山本先生の反応は鈍いものだった。先生はしばらく釈然としない顔で雪菜を見ていた。遅刻した生徒たちももういないのか、廊下はもうひっそりしている。

 彼女が何か付け加えたほうがいいかと思ったら、先生は閃いたように、

「よし、丹場。こうしよう。遅刻した回数だけ生徒指導室の掃除をしなさい。いいな? 四十八回だからな」

 彼女がうなずいたのは納得したからではなかった。勢いにのまれただけだった。

 山本先生は「逃げるなよ?」と念を押して、風を切るように雪菜のそばを通り過ぎた。


 磯鴫いそしぎ高校は海浜公園の向かいにある。雪菜の席は窓ぎわだ。授業に飽きたら海を眺める。水平線の先を想像したり、派手に転んだサーファーを見て笑みをもらしたり、自由に空を飛ぶウミネコをうらやましく思ったり。

 しかし、この日気になったのはやはり放課後についてだった。はじめのうちは、何分くらい居残り掃除をやらされるのだろうと、指導室に行くのを前提に考えていたが、言い争いの最中に相手の矛盾をとらえたような発見があったのだ。

 たしかに遅刻した自分も悪い。それは雪菜もわかっている。しかし、生徒指導室を掃除しなければならないほど悪いことなのか。きちんと説明してくれれば納得できたはずだ。それを放棄して、ただ居残り掃除を命じるだけというのは大人としてどうなのだろう。もしかして山本先生は遅刻をだしに指導室を掃除させるようとしているのではないだろうか。だとしたら、これはれっきとしたパワハラだ。いくら相手が山本先生だからといって、脅しに屈するなんてみじめすぎる。理不尽な命令に対する大義ある抵抗として、正々堂々帰ってしまおうと、雪菜は考えた。

 帰りのホームルームが終わり、雪菜がいの一番に教室を飛び出そうとすると、

「あ、丹場さん」と担任の河野先生に呼び止められた。

「生物準備室の整理を手伝ってくれませんか?」

 雪菜は河野先生からよく頼みごとをされる。先生は頭に張りついたワカメのような髪型で、背が低く、やせぎすだ。授業中に不機嫌そうな男子生徒を指名して、無視されて泣きそうなときもあった。ここ最近では安全な生徒ばかり指していると雪菜には見える。不憫なあまり断りづらいのだ。しかし、今日の彼女は一刻も早く校舎から離れなければならない。

「大切な用事がありまして」

「どんな用事ですか?」

「あ、いえ。その……。習い事なんです」

「丹場さん。何か習い事していましたっけ?」

 まさか先生がしつこくきいてくるとは思わなかった。雪菜が目を泳がせながら、もごもご言っていると、

「すぐ終わりますから」と先生は教室を出て行ってしまった。

「ちょっと待ってくださいよ。今日は忙しいんですって」

 雪菜は後を追いかけたが、手伝う羽目になってしまった。先生に指示された瓶や箱を、棚から取り出してダンボールに詰めた。二十分ほどで解放された。

 彼女が生物準備室を出たころには、校舎はしんと静まり返っていた。廊下を踏むたび上履きサンダルの音が高く跳ね返る。

 彼女が昇降口にたどり着くには一つの障害があった。生徒指導室は昇降口の隣にあるからだ。山本先生が耳をそばだてていて、足音を聞いたとたんに飛び出してくるかもしれない。それならばと、雪菜は指導室の前を通らない行き方を考えた。しかし、どのルートでも職員室のそばを通ってしまう。もし山本先生に出くわしたらこう問いただされるだろう──

「なぜここにいるんだ? もしかして逃げようとしたのか?」

「そんなわけないじゃないですか。河野先生に呼ばれて来たんですよ」と答えても、

「本当か?」と山本先生は職員室をのぞいて、

「河野先生いないじゃないか。嘘ついたのか?」と詰めるに違いない。言い訳の余地くらい残したほうがよさそうだと雪菜は思った。

 一階に下りてサンダルを両手に持って抜き足差し足で歩いた。指導室の前方のドアを通り過ぎるときには、指先まで神経を研ぎ澄ませてひたひた歩いた。そのうちプレッシャーに耐えきれなくなった。雪菜は背中を押されたように駆け出した。

 昇降口を出てもまだまだ気は抜けない。三年生の駐輪場は正門前にあるが、一、二年生の駐輪場は裏門だ。生徒指導室の二つの窓を無事に越えて、校舎をぐるっと回らなければならない。

 指導室の曇りガラスの掃き出し窓は閉まっていた。雪菜は姿勢を低くしてすばやく横切った。

 つづいて腰高窓に寄って首を伸ばした。網戸が反射していて中の様子は探れそうにない。耳を澄ませても聞こえるのは大通りの車の音ばかり。気がはやっているのは自分でもわかった。雪菜は音を立てぬように深呼吸し、うずくまるような体勢になって一歩、また一歩と足を出した。一メートルすすむのに二、三歩かかる。ずいぶん遠く感じた。

 無事に通り抜けたと安心したときだった。うしろからコトンという音が聞こえた。あわてて振り返ると、なんと小型の植木鉢が倒れていた。怖くて窓を見上げられなかったが、鋭い視線が下りてくるのを感じた。雪菜は急いで植木鉢を起こし、可能な限りこぼれた土を戻して一目散に逃げ出した。

 全力で三十メートルくらいは走っただろうか。息が切れて足元が頼りない。雪菜はおそるおそる振り返った。山本先生が追いかけてくる気配はない。彼女は立ち止まってあたりを見回した。

 校庭にはぽつりぽつりと運動部の姿が見えた。渡り廊下を風が吹き抜ける音が聞こえる。いつもと変わらない、のどかな放課後だった。

 雪菜は解放感に浸っていたが、駐輪場に着いたころ、ふと明日どうなるんだろうと考えが頭をよぎった。とたんに心細くなった。今すぐ引き返そうかとも思った。しかし、すでに言い訳できないくらい時間が経ってしまっている。戻ったところでこっぴどく叱られるだけだろう。

「仕方ないか……」とつぶやくと少しだけ勇気が出た。後先考えずに行動してしまうのは悪い癖だなと、雪菜は頭をかいた。

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