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帰宅してようやく一人になった丹場雪菜はスクールバッグから一枚の紙を取り出した。中間試験の成績表である。彼女は文字を追うわけでなくぼーっと見ていたが、やがてため息まじりにつぶやいた。
「これどうするのよ……」
震える声が耳に入り、雪菜は泣きたくなった。母に見せたら、一五〇位以上順位を落としたのを責めるに違いない。とんでもないことをしてしまったと、彼女は頭をかかえた。
雪菜は勉強が得意ではない。それでも下から数えたほうが早いなんてはじめての経験だ。帰りのホームルームで配られたときには自分の目が信じられずすぐさま氏名を確認し、席に戻ってからは改ざんの可能性さえ疑った。
雪菜は「うーん……」と部屋をうろうろしたが、名案は浮かびそうにない。あきらめの気持ちが強くなった。うまく言い訳しても、母の目はごまかせないだろう。まずは美味しい料理をふるまい、ここぞという場面で謝りたおすほかなさそうだ。そう思うなり、彼女は台所に急いだ。
この日、母の伊澄が帰宅したのは、いつもどおり八時を過ぎていた。雪菜は伊澄が着替えているうちにさっと料理を並べた。
雪菜は母子家庭で育った。夕食の支度は彼女の仕事だ。
今夜は料理のSNSで見つけた「地中海風アクアパッツァ」を作った。今が旬のイサキを皿の中央にのせ、アサリやミニトマトなど脇役たちはなわばりを持つかのように散らばせた。見栄えをよくしようと、メニューにはないパセリも添えた。
夕食がはじまった。雪菜は伏し目がちに母の顔色をうかがった。仕事で疲れた顔をしているけれども、冷やしておいた白ワインを出したときには口元がゆるんだし、機嫌が悪いというわけではなさそうだ。
母は魚の身をつまんで一口食べた。考え込むような顔をしたが何も言わず、今度は新たにつまんだ身を煮汁に浸してもう一口食べた。
「どう?」
「うん!」と伊澄は太陽のような笑顔になった。
「おいしいよ。特にこの煮汁が絶妙ね。オリーブオイルと白ワインとニンニク……それとコショウかな?」
「そうそう。よくわかるね」
母は料理教室を経営している。雪菜はいつも母の評価を聞いてから箸を入れる。
琥珀色の煮汁をすすった。イサキのうまみがしっかりしみ込んでいる。雪菜は胸をなでおろした。
「ホタテも入れたのね」
彼女は母の機嫌をとるように、
「うん。三十パーセント引きで卵巣もついてたから」
母は箸で柿色の部分を指して、
「これが卵巣って、よく知ってたねえ」
「お店の人にきいたら教えてくれた」
「へえ。雪菜くらいの年の子は恥ずかしがってきかないものだけど、あんた、昔から人見知りしないものね。本当に便利な性格よね」
この日雪菜の目にも、伊澄のお酒が進んでいるのは明らかだった。ずっとグラスに左手を添え、ワインボトルに水滴がつくころにはすっかり上機嫌になっていた。
雪菜の不安が、今回は叱られないかもしれないという期待に変わっていく。これまで冷静にふるまってきたが、早く結果が知りたい気持ちがおさえられなくなった。彼女は背に忍ばせていた成績表に手をかけ、勢いよく立ち上がった。
「ちょっと話があるの。二年になってから、その……、授業についていくのが大変で」
雪菜は料理をまたいで、伊澄の目の前に差し出した。母は自然に手が出たという風に受け取って、
「成績表?」ときいた。
「うん、そう。中間テストのやつ」
ところが、伊澄は受け取ってもすぐに見ようとしなかった。雪菜が急かすと母は
「いま食べてるのに~」と文句を言って成績表を開いた。
伊澄の視線が成績表をなぞるように動いていく。総合順位あたりに行くと、母の体は電池が切れたみたいにぴたっと止まった。雪菜はかたずをのんだ。母の眉根がぎゅっと引きしまった。その険しさに、勢いで乗り切ろうとしていた雪菜の気持ちはへなへなとしぼんでしまった。
母はじろりとこちらを見て、
「それにしても、すごい成績ねえ。三一六人中の二七〇位……。こんな成績見たことないよ」
雪菜は悪さをした猫のように肩をすくめた。
「高校の授業はやっぱり大変?」
「うん……」
「平均点より下なのがたくさんあるけど、まあそれは今は置いとくよ。でも何よ、この古典。あと一問間違えたら赤点じゃない」
普段の雪菜だったら、散々間違えて三十一点なのだから赤点にはならないと、屁理屈をこねるところだ。けれども今日は素直に、
「まじめに授業受けてたし、きちんと試験勉強もしたんだけど、よくわからなくて」
「わからないなら質問しなさいよ。先生はそのためにいるんだから」
「もちろん質問したよ。でもさ、『をかし』とか、『あはれ』とか、風流とか言われてもぴんと来ないし、それにさ、助動詞なんてほんとひどくてね、十個くらい意味を持ってそうなやつもあるんだよ」
「持ってそう、って何よ」
「持ってるって意味。言い間違えたの。先生に質問しても、『まずは単語と助動詞覚えなさい』で終わっちゃうし、どこがわからないのかうまく言葉にできなくて」
「ふ~ん。基本から復習しなきゃいけないんじゃないの?」
「たぶん……」
「私も苦手だったから気持ちはわかるけどね。前から言ってるとおり、留年したら自分で学費だしてもらうからね」
伊澄は雪菜に成績表を返し、何事もなかったようにワインを注いだ。
「……怒らないの?」
雪菜はおそるおそるきいた。
「私たちの子なんだから勉強については期待してないわよ。幼稚園では『ぼーちゃん』って呼ばれてたし、運動会のときなんてみんなが玉入れしてるのを指をくわえながら見てたのよ? 高校生になれただけ立派よ」
母の意外な反応に雪菜がぽかんとしていると、
「なんて顔してるのよ」と伊澄は笑って、
「あんた、小学生の──たしか高学年だったかしらね、じっとニュースを見ながら、『この町、いつも事故が起きてる』って言ったの。もちろんはじめて聞く地名よ。そしたら『なんでわからないの? またアイツイで事故が起きたんだよ』って言うじゃない。それだけで吹き出しそうだったんだけど、まるで古畑や金田一くんみたいにふんふん息巻いてるんだもの。ほんとおかしいったらありゃしない」
みるみるうちに雪菜の肩の力が抜けていく。
「お母さん。忘れたころに思い出させるのやめてよ」と彼女は口をとがらせた。
夕食後、雪菜は十七歳の誕生日を祝ってもらった。雪菜はショートケーキを、伊澄はモンブランを食べた。母はパティスリーの店員の態度が悪かったと文句を言ったり、雪菜に「やっぱり苺は最後に食べるの?」ときいたりした。いつもの母だ。雪菜はすっかり気が楽になった。
「でも怒られなくてよかった~」
「成績のこと?」
「そうそう」
「心配だったの?」
「そりゃあそうだよ。『ボヘミアン・ラプソディー』にさあ、お母さん、僕、人殺しちゃったよ……、って歌詞あるじゃん? ほんとにそんな気持ちになったんだから」
伊澄は小さく笑った。
「あんたはほんと大げさねえ。まあ本心を言うと、将来は自分の足で歩ける人間になってほしいよ。でも、なんでも一人でできちゃう子ってのも、親からしたら複雑なものでね、ちょっとくらい困らせてくれるほうがいいの。あんたは大きな間違いを犯さず、正しく育ってくれたよ。私は、今のペースでいいからゆっくり大人になってくれればいいと思ってる。もし雪菜が急に大人になって、私の前に現れたら……。ふふふ、どう思うんだろうねえ」




