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朝、雪菜が高校に着いてローファーから学校指定のサンダルに履き替えていると、
「もう時間過ぎてるんだから、しゃきしゃき動けよ~」と、生徒指導の先生のラッパみたいな声が聞こえた。
雪菜が下駄箱から廊下に出ると、生徒たちが壁ぎわのガラス棚に沿うように並んでいた。この日の遅刻者はいつもの半分くらいで十名もいなかった。
この日列の先頭で遅刻届をチェックしていたのは生活指導で一番若い先生だった。気だるそうな笑みを浮かべ、一言二言交わし判子を押している。よかった、今日は文句言われなさそうだと、雪菜はガラス棚に目をやった。県大会の常連であるヨット部やアーチェリー部の賞状やトロフィーのほか、ウミホタルの飼育でテレビ出演した生物部の写真が飾られている。彼女の見慣れた光景だ。
ぼんやりしながら、そういえば一限目の数学は自分が当てられる番だ、早く教室に行って友達に教えてもらわなきゃと考えていたときだった。びくっと身構えてしまうほどの声が聞こえた。
「お前よく見かけるなあ。ちょっとこっちに来てくれ」
反射的に斜向かいを見ると、山本先生が仁王立ちしてこちらを睨んでいた。雪菜が一歩下がると、先生の視線が追いかけてきた。
「お前だ。一番うしろのお前。早くこっちに来い!」
山本先生のみならず、前に並んでいる生徒たちの視線も雪菜に刺さった。彼女は列から押し出されるかのように、「あ、はい……」と先生のもとに向かった。
山本先生はおそらく五十代後半。全校集会ではいつも声を張り上げている。学校一有名な教師だ。蜂蜜を塗りたくったようなスキンヘッドに、優に一九〇センチを超える岩のような巨体。雪菜がはじめて見たときには、任侠映画から出てきたみたいな風貌に、高校選びを間違えたかもしれないと青ざめたほどだ。生徒指導の先生は用心棒みたいなこわもてが多い。しかし、山本先生に目が慣れたあとではマッチ棒に見えてしまうほど。
山本先生は眉をひそめながら雪菜の渡した遅刻届を見ていたが、
「二年D組の丹場雪菜か」ときくともなく言った。
「はい」
「おととい、足をくじいたのか?」
「はい。そうなんですよ」
「ん? つまり、昨日も遅刻したのか?」
「いやっ、あ、あのですね……昨日はなんとか間に合ったんです。でも大変だったんですよ。足を引きずりながら登校したんですから」と雪菜は大げさな手振り身振りで訴えた。
磯鴫高校では遅刻届はその都度回収される。雪菜はいくつかの遅刻理由を使い回しているせいか、前回どの理由を使ったか覚えていない。この日はふとずらしてみようと思い立ち、これまで「昨日」と書いていたところを「おととい」に変えたのだ。余計なことするんじゃなかったと雪菜は後悔した。
山本先生は「ふむ」と小さく息をもらし、綴じ込みファイルをめくって、「丹場……。丹場……」と雪菜の名前を探しはじめた。
雪菜と山本先生は一メートルほど離れていた。しかし、この距離はあってないようなものだった。じゃがいものごとくぱんぱんに膨れあがった顔や、ワイシャツのカッターからはみ出している首の肉さえも、雪菜にとっては山本先生の威厳を増幅させる装置に見える。
「おい、丹場雪菜。絶句してしまったぞ。お前、今まで何回遅刻したかわかっているか?」
「十回くらいでしょうか」
「何か勘違いしてないか? 昨年度は三十八回、新年度になって早くも十回だぞ。えらいハイペースじゃないか。他の追随を許さないな」
「ええっ、そんなはずないですよ。そんなにしていたら遅刻のしすぎって気づくじゃないですか。あっ、きっとなんかミスがあってですね、ほかの人のやつと混ざってしまったとか……」
先生はふたたび綴じ込みファイルに視線を落として、
「なるほどな。そうとも考えられるか……」と、いったんは納得したそぶりを見せたけれど、吐き捨てるように、
「そんなわけあるか!」
肥満体系の先生の顔がいっそう厳しくなると、雪菜は山が起き上がりこちらに覆いかぶさってくるような圧を感じた。彼女は後ずさりしたくなる気持ちに耐えるのがせいいっぱいだった。
「さて、どうしようか?」
「次回から気をつけます」と雪菜はとっさに言ったが、山本先生の反応は鈍いものだった。先生はしばらく釈然としない顔のまま雪菜を見てから、ふっと表情をゆるめて、
「よし、丹場。こうしよう。遅刻した回数だけ生徒指導室の掃除をしなさい。いいな? 四十八回だからな」
彼女がうなずいたのは納得したからではなかった。勢いにのまれただけだった。
山本先生は「逃げるなよ?」と念を押して、風を切るように雪菜のそばを通り過ぎた。
磯鴫高校は海浜公園の向かいにある。雪菜の席は窓ぎわだ。授業に飽きたら海を眺める。水平線の先の世界を想像したり、派手に転んだサーファーを見てふくみ笑いしたり、空を自由に飛ぶ海鳥をうらやましく思ったり。
しかし、この日気になったのはやはり放課後についてだった。はじめのうちは、何分くらい居残り掃除をやらされるのだろうと、生徒指導室に行くのを前提に考えていたが、言い争いの最中に相手の矛盾をとらえたような発見があったのだ。
たしかに遅刻した自分も悪い。それは雪菜もわかっている。しかし、生徒指導室を掃除しなければならないほど悪いことなのか。きちんと説明してくれればきちんと納得できたはずだ。それを怠って居残り掃除を命じるのは大人としてどうなのだろう。もしかして山本先生は遅刻をだしに指導室を掃除させるようとしているのではないだろうか。そうだとしたら、これはれっきとしたパワハラだ。いくら相手が山本先生だからといって、おどしに屈するなんてみじめすぎる。理不尽な命令に対する大義ある抵抗として正々堂々帰ってしまおうと雪菜は思った。
帰りのホームルームが終わり、雪菜がいの一番に教室を飛び出そうとすると、
「あ、丹場さん」と担任の河野先生に呼び止められた。
「すぐ終わるので生物準備室の整理を手伝ってくれませんか?」
雪菜は河野先生からよく頼みごとをされる。先生は背が低くやせぎすだ。授業中に気の強そうな男子生徒を指名して、無視されて泣きそうなときだってあった。ここ最近では安全な生徒ばかり指していると雪菜の目には映る。あまりに不憫で見ていられず、頼まれると断りにくいのだ。
しかし今日は一刻も早く校舎から離れなければいけない。雪菜は毅然とした態度で断るぞと勇んだものの、うまく口が回らなかった。
河野先生は「すぐ終わりますから」と教室から出て行ってしまった。
「ちょっと待ってくださいよ。忙しいんですって」
雪菜はすぐ追いかけたが、結局手伝う羽目になった。先生に指示された瓶や箱を棚から取り出して段ボールに詰めた。二十分ほどで解放された。
彼女が生物準備室を出たころには、校舎はしんと静まり返っていた。廊下を踏むたび上履きサンダルの音が高く跳ね返る。
彼女が昇降口にたどり着くには一つの障壁があった。生徒指導室が昇降口の隣にあるからだ。山本先生が耳をそばだてていて、足音を聞いたとたんに飛び出してくるかもしれない。それならばと雪菜は指導室の前を通らないルートも考えた。しかし、どうしても職員室の近くを通らなければならない。もし運悪く山本先生に出くわしたらこう問いただされるだろう──
「なぜここにいるんだ? もしかして逃げようとしたのか?」
「そんなわけないじゃないですか。河野先生に呼ばれて来たんですよ」と答えても、
「本当か?」と山本先生は職員室をのぞいて、
「河野先生いないじゃないか。嘘ついたのか?」と詰めるに違いない。言い訳の余地くらい残した方がよさそうだと雪菜は思った。
一階に下りてサンダルを両手に持って抜き足差し足で歩いた。指導室の前方のドアを通り過ぎるときには、指先まで神経を研ぎ澄ませてひたひた歩いた。しかし、プレッシャーに耐えきれなくなった。雪菜は背中を押されたように駆け出した。
昇降口を出てもまだまだ気は抜けない。三年生の駐輪場は正門前にあるが、一、二年生の駐輪場は裏門だ。生徒指導室の二つの窓を無事に越えて校舎をぐるっと回らなければならない。
指導室の曇りガラスの掃き出し窓は閉まっていた。雪菜は姿勢を低くしてすばやく横切った。
つづいて腰高窓に寄って首を伸ばした。網戸が反射していて中の様子は探れそうにない。耳を澄ませても、聞こえてくるのは大通りの車の音ばかり。気がはやっているのは自分でもわかった。雪菜は音を立てぬように深呼吸した。そしてうずくまるような体勢になって一歩、また一歩と足を出した。一メートルすすむのに二、三歩必要である。ずいぶん遠く感じた。
無事に通り抜けたと安心したときだった。後ろからコトンという音が聞こえた。あわてて振り返ると、なんと小型の植木鉢が倒れていた。鋭い視線を感じた。怖くて窓を見上げられない。雪菜は大慌てで植木鉢を起こし、可能な限りこぼれた土を戻して一目散に逃げ出した。
全力で三十メートルくらいは走っただろうか。息が切れて足元が頼りない。雪菜はおそるおそる振り返った。山本先生が追いかけてくる気配はない。彼女は立ち止まってあたりを見回した。校庭にはぽつりぽつりと運動部の姿が見えた。渡り廊下を吹き抜ける風の音が聞こえる。いつもと変わらない、のどかな放課後だった。
雪菜はしばらく解放感に浸っていたが、駐輪場に着いたころ、ふと明日どうなるんだろうと考えが頭をよぎった。とたんに心細くなった。今すぐ引き返したほうがいいだろうか。しかし仮に今すぐ戻ったとしても、言い訳できないくらい時間が経ってしまっている。戻ったところでこっぴどく叱られるだけだろう。「仕方ないか……」とつぶやくと少しだけ勇気が出た。後先考えずに行動してしまうのは悪い癖だなと雪菜は頭をかいた。




