戻り来る影
燈は、夢の中で誰かに名前を呼ばれていた。
白い霧が渦を巻き、何も見えない。
それでも声だけははっきりと耳に届いた。
「……とおる……」
(あかり……?)
目を凝らそうとするたび、霧は深くなった。
遠くに灯が一つ揺れている。
幼い頃、村で見た火の色と同じだった。
伸ばした指先に、火は届かない。
霧に飲まれ、やがて完全に消えた。
――
目が覚めると、天井の木目がぼやけていた。
東京の部屋。
四角い窓から差し込む光は、出雲の朝と違い乾いている。
息を整えながら、燈はゆっくり起き上がった。
夢を見て以来、何度も同じ感覚に襲われている。
胸の奥にぽっかり穴があくような、不安。
(あの村は……もう霧に沈んでしまうのか)
視線を落とすと、枕元に置いた火打ち石があった。
半年前、あかりから返されたもの。
手に取ると、わずかに温もりが残っている気がした。
「……」
壁のカレンダーに、先週のままの予定が並んでいる。
書類の締切も、請求書も、何一つ片付けていなかった。
それなのに、心のどこかで、すべてがどうでもいいと思っている自分がいた。
(帰らなきゃ)
その言葉が、胸の奥に染みていった。
帰らなければいけない。
――火が消える前に。
立ち上がり、クローゼットの奥から小さな旅行鞄を引き出した。
いつか再び村へ戻る日が来ると、心のどこかで思っていた。
鞄のポケットには、一枚の葉書が入っていた。
あかりから届いたものだ。
「霧が、また戻り始めています。
灯が弱くなっています。
どうか、帰ってきてください。」
震えるような文字。
あかりはもう、自分の名前を完全に覚えていられないのではないか――
そんな予感があった。
鍵を取り上げ、玄関に立つ。
部屋を出るとき、振り返る。
東京での生活が、どこか薄い霧に包まれているように感じた。
(何を失っても、あの火だけは残す)
扉を閉めた。
その瞬間、胸にしまっていた火打ち石が微かに光った気がした。
――
特急に揺られ、山陰へ向かう。
車窓の景色は灰色の雲に覆われていた。
雲の向こうに、微かな光がある。
それが、燈にとって唯一の帰る場所だった。




