174、最終決戦③
「あっ……頭を上げてください!」
さぁっと青ざめ、咄嗟に出てきた中年女はミレニアに叫ぶ。そのまますぐに、四肢を地面について、己が平伏した。
――皇族を前にしたときに、帝都民が当たり前のようにそうするように。
「貴女のことは存じております、ミレニア様。辻馬車のファボットさんから、貴女からの心付けを頂きました。おかげで私たち家族は、去年の冬を無事に乗り越えることが出来たのです。救うことが出来なかった、などと――貴女は、確かに私たち家族を、救ってくださいました」
母の後ろでは、息子も同様に四肢を地面について平伏している。
「顔を上げてください。……そう言ってくださることは、とても嬉しいですが――本来我ら皇族は、民を導く責務を担っていました。長兄の暴走を諫めることが出来ず、私自身も疎まれ、<贄>として魔物に食われる運命となり、結局、苦しむ民を知りながら、何もできなかったのは事実です」
「そんなことはありません!ひ、姫様の護衛兵が魔物を食い止めてくれたから、以前の魔物の大規模侵略でも帝都の被害は少なかったんだと聞きました!その後も、己の身を守るはずの護衛兵を、己を危険にさらすことになりながらも、国防のために差し出してくださったと……!そして――そして、<贄>として送られると決まった時も、『それで民の命が救われるなら』と誇り高く、命乞いの一つもせず受け入れたと、聞き及んでいます!我々は、姫様のその高潔な行いに、あぁ、どうして姫君が女としてお生まれになり、君主となりえぬ運命だったのかと嘆き悲しみ――」
つらつらとミレニアを称える言葉を上げる平伏した青年を前に、少女は軽く眉根を寄せる。
(そんなことを、誰が……?もしかして、クルサール……?当初の計画を描いていた時に、私を玉座に据えようとして、民の感情を私に同情的にするような噂を流していたのかしら)
一度広めてしまったそれを打ち消すほどの工作は、まだ出来ていないのだろう。急遽計画を変更したために、そちらの準備で手いっぱいだったのかもしれない。
これは、思いがけぬチャンスだった。
ミレニアは痛ましげな顔で、平伏する二人の前に膝をついて頬に手を伸ばす。
「ひっ、姫様、いけません!お召し物が汚れます!皇女たる貴女が、下賤な輩に合わせて膝をつくなど――」
「どこが下賤ですか。……いえ、そもそも、私はもはや、皇女ではありません。新しい君主が治める国家においては、憎い前皇帝と同じ血を引く、処刑すべき女――ここに来るまでに、この首に、高額な懸賞金がかけられていることを知りました。たくさんの兵士が、私を捕らえて首を刎ねようと、手に武器を握っているのを見ました」
「そ、それは――」
「いつまでも逃げ切れるものだとは思っていません。……いえ。長兄を諫められなかったのは、紛うことなき私の罪。それを、”神”が罰するというのなら、私は喜んでこの首を差し出しましょう」
女と息子は、青ざめ、絶望を露わにした顔を上げた。
少女は、にこり、と死を覚悟しているとは思えぬほど穏やかな表情で二人に微笑む。
「心配してくれるのですね。ありがとう。ですが、大丈夫です。――私が望んでいるのは、我が一族の繁栄ではない。復讐、など考えたこともありません。あくまで――あくまで、この国の民の幸せであり、平穏です。私が愛した国民が、幸せに暮らしていけるならば――それが、私の幸せ。予期せず長い間苦しませてしまった我が国の民が、クルサールの行いによって救われるのであれば、私は何の異論もないのです。むしろ、感謝しています。長兄が始めてしまった悪夢から、民を救ってくれてありがとう――と」
「ひ、姫様――」
翡翠の瞳に慈愛の光を宿して、ミレニアは言葉を続ける。
「私は、私の命を、余すことなく、この国に息づく民のために使いたいと思っています。それは、最後に残された皇族として――罪深き一族の、罪滅ぼしとして。ですから、醜く浅ましく命乞いをして、兵士から逃げ回るつもりは毛頭ありません。民が、私の首が城門に掲げられるのを見て、あぁ悪夢が去ったのだと安心できるならば、喜んで首を捧げます。<贄>として魔物に食わせることで、不思議な加護の力で帝都が守られるというのなら、国防のために、今からでも<贄>として東の森に送ればいい」
「そんなっ――そんなこと、誰も望んでおりません!姫様の死を望む者など――この帝都には、ただ一人もおりません!」
「ふふ……優しいのですね。ありがとう」
言いながら、ミレニアはそっと女の耳へと手を伸ばした。
片方だけに着けられた、耳飾り。見覚えのある黒玉が、キラリとそこに光っていた。
「売ってしまわなかったのですか」
「はいっ……片方だけでも、我らが冬を越すには十分な金額になりましたので、こちらは、夫の死を悼むために――姫様のありがたい心遣いを決して忘れぬようにと、片時も肌身離さず身に着けておりました」
「そうですか。……ありがとう。そんな慎ましやかな貴女に、お願いがあるのです」
ミレニアは、にこり、と女神のような笑みをたたえた。
「私には、多額の懸賞金がかけられています。……私の命は、余すことなく、この国の民のために使いたい。道を歩んでいるときに兵士に見つかり、捕らえられるのではなく――せっかくなら、誰か、民の手によって差し出され、懸賞金を手にして、生活の足しにしてほしい」
「なっ――!?」
「きっと、慎ましやかな貴女のことです。手にした懸賞金を独り占めするようなことはないでしょう。……貴女を信じて、この命を託します。きっと、きっと、ここに暮らす私の愛する民のために、皆で分け合って使ってくださいね」
十五になったばかりの少女とは思えぬほどの発言に、親子は息を飲み――
「っ……た、立ってください……!中に入って――ここじゃ、目立ちすぎます……!」
「ぇ……?」
「母さん!っ……いいよね!?」
「えぇ、もちろんよ!」
息子は、ミレニアの腕を取って立ち上がらせ、母親を振り返ると、母も力強く頷いた。
「ここで姫様を突き出すようなことをしたら――それこそ俺は、エルム様に罰せられる――!」
「!」
「困っているときは、手を差し伸べ合うべきなんだって、聖典にも書いてあった――!俺たちは、父さんが死んで本当に苦しくて辛いとき、周りに助けを求めたけれど、皆も辛くて苦しくて、誰一人助けてくれなかった――そんな時、手を差し伸べてくれたのは、姫様だけだった!ご自身だって、皇帝に辛く当たられて、従者に暇を出すくらい資金繰りに困っていたのに――それでも、こんな一市民のために、ご自身の大切な宝石を分け与えてくださった!その姫様が今度は、俺たちのために、と言って、金どころか命を擲とうとしている――誰も、誰も、そんなこと望んでいないのに!なら、俺は、姫様を助けます!それこそが、手を差し伸べるということだと思うから……!」
ぱちぱち、とミレニアは翡翠の瞳を何度か瞬き――ハッと慌てて抵抗する。
「だ、駄目です!私たちを匿えば、あなたたちにも迷惑が――」
「関係ありません!ここの一画の人間は、皆、姫様の尊い行いを知っている連中ばかりです!きっと、事情を話せば、理解してくれるはず――」
玄関先で押し問答を続けていたせいだろうか。
ざわざわ、とざわめきが聞こえて、周囲に人々が集まってくる。
「――――」
すぅっと護衛兵が警戒を高め、腰に帯びた剣に手をやる。
「ロロ、駄目よ。市井の人々を傷つけることは決して許さないわ!」
ミレニアの指令が飛び、ロロはピタリと動きを止めた。
「ミレニア様だ――」「ほ、本物か?」「奴隷紋を頬に刻んだ男がいる。剣闘奴隷だ」「あの黒マント、皇族護衛兵の装束じゃないか?」「じゃあ、本当に――」
ざわざわ、と民の間に動揺が広がって行くのがわかった。
「皆!皆、聞いてくれ!姫様は――姫様は、俺たちのために兵士に己を差し出してくれとおっしゃっているんだ!」
息子の呼びかけに、ざわっと市民の間に大きな動揺が走る。
「懸賞金を手にして、今後のために使ってくれと――自分の首が掲げられることで、民の心が安らぐなら、喜んで皇城へ行くと、仰っている!でも――でも、俺は、そんなこと、させたくない!俺はっ……俺は、姫様の首が掲げられたら、哀しみと絶望に打ちひしがれてしまうから!」
歳若い青年の必死の呼びかけに、周囲の人間も戸惑っているようだった。
(この青年の言うことは本当だったみたいね。この一画の市民は、私のことを、特に好意的に想ってくれている者が多いみたい……ファボットの家からもそう遠くないし、当然と言えば当然かもしれないわ)
周囲の民の視線が、殆ど同情的なもので支配されているのを見て取り、ミレニアは冷静に分析する。
そして、静かに口を開いた。
「今、ここにいる皆さんは、とても温かな心をお持ちなのですね。死出の旅路に向かう前に、温かな心に触れられて、私は今、とても満足です」
「姫様!そ、そんなことをおっしゃらないでください」
「いいえ。……ここにいる皆さまがどれほど温かくても、帝都の民全員がそうとは限りません。中には、私の死を願う民もいるでしょう。……それでも、良いのです。私が、力及ばず、長兄を諫めきれなかったのは事実なのですから――……あぁ、でも……」
そして、ふ、と愁いを帯びた表情で瞼を下げて、哀し気に言葉を紡ぐ。
「一度でいいから、クルサールという青年と、話をしてみたかった……彼は、私の母の血縁でもある男……彼が掲げる”神”の行いを励行する民が暮らす国家は、私が描く理想の国家に非常に近いものです。もしも、一度でいいから、対話の時間が設けられていたら――互いに分かり合える未来が、あったかもしれないのに……」
それはそれは悲劇的に。
女神が嘆く言葉を聞いて、ごくり、と周囲が息を飲むのと同時――
「そこまでだ!貴様ら、何をしている!!!」
「「――!」」
パッと弾かれたように顔を上げる。
(来た――!)
おそらく、ずっとミレニアとロロの様子を伺っていたであろう兵士が、慌てた顔で集団に割り込んでくる。
ザッとロロは鋭い視線で周囲を探った。
(一、二――四――五人か。これなら、最悪の事態が起きても何とかなる――!)
いつも、街中で兵士に追いかけられる羽目になるときは、大抵十人近くの兵士を相手取って逃げ惑っていた。五人程度なら、いざとなればいくらでもミレニアを抱えて逃げ出せる。
ロロの脅威の戦闘能力は、嫌というほど兵士たちに通達されているはずだ。今までの時間軸では、ミレニアを捕らえようとすれば、ロロを警戒して人手を多く確保してから追い回してきたのだろうが、今回は、予期せず住民の心を扇動するような動きをされて、十分に人手を集めきる前に堪え切れずに出てきたのだろう。
(だいぶツイている……!ここまでは、作戦通り――!)
ぐっと腰の剣をいつでも抜けるように手を掛けながら、いつでもミレニアを庇える位置に陣取り、鋭い視線で兵士を睨む。
「その女、ミレニアだな!?懸賞金がかかった手配書が出回っているのを知らないのか!?」
しっかりと武装した兵士が出てきたことで、人垣が怯えるように左右に割れる。
「見つけたなら、さっさと引き渡さないか!神への反逆とみなすぞ!?」
「お待ちなさい!」
怒号を響かせ、周囲を威圧する兵士に負けぬほど、朗々とした声が飛ぶ。
ずぃっと足を踏み出したのは、僅か十五歳の少女ミレニアだった。
「お待ちなさい。……私の民を、そう怖がらせないで。私は逃げも隠れもしません」
「お……ぉ……」
てっきり、悲鳴を上げて逃げ惑うとでも思っていたのだろうか。兵士は、意表を突かれたようにたたらを踏む。
「狙いは私の首でしょう。どうぞ、好きに持っていくがいいわ。だけど――私を見つけたのは、ここの家の者よ」
サッとかつて黒玉を授けた親子二人を指さす。
「お前ではないわ。必ず、この二人に懸賞金を与えると約束なさい。……踏み倒そうとしても無駄よ。ここにいる全員が証人だわ。――あぁ。貴方たちの”神様”も見ているはずね?まさか、不正など行うはずはないでしょう」
「ぐ……」
幼い少女とは思えぬ風格に、ぐっと兵士は歯噛みして呻く。
(さすがは、姫。――民意を味方につける天才だな)
静かにロロは視線だけで周囲を見る。
今、この瞬間――ミレニアの発言によって、兵士対民衆、という対立構造が出来た。――民衆が、兵士を疑いの目を持って監視するという状況を造り出したのだ。
これを機に、民衆は完全にミレニアの味方となり――兵士を、信頼ならぬ敵だと見做したらしい。老若男女、全ての視線が兵士に注がれ、敵意や警戒心を隠しもしない張り詰めた空気が辺りを包んだ。
それをしっかりと確認してから、ミレニアは口を開く。
「お前たちが、民に危害を加えず、彼らに私の懸賞金を全額支払う誠実さを見せるというならば――私たちは、一切の抵抗をしない。専属護衛のロロにも、抵抗をしないよう命令するわ。……いいわね、ロロ」
「……はい」
言って、ロロはすっと腰から剣を二つとも引き抜き、束ねて持つ。兵士が約束をすれば、それを手放し地面に置く、という意思表示だろう。
(さらりと、”民に危害を加えず”なんて言葉を言うあたりは流石だな。――民衆の警戒心が一気に膨れ上がった)
兵士にそんな意図はなくとも、武装している兵士というのは、それだけで民衆を怯えさせるものだ。今の状況で、兵士が民に危害を加えることなど考えられない上に、そんな素振りを見せてもいないが、ミレニアが敢えて口にするだけで、民に「この兵士は自分たちに危害を加えるかもしれない」「それをミレニアが身体を張って防いでくれている」という印象を植え付けることが出来る。
「ぐ……い、いいだろう。武器を捨てて、両手を差し出せ!」
チラリ、とロロがミレニアを見る。ミレニアは、厳しい顔のまま、こくり、と頷いた。
ロロは、ゆっくりと双剣を地面に置こうと屈み――指令を出したのとは別の兵士が、ロロとミレニアそれぞれの前に立つのを見て、動きを止めた。
その手にあるのは――鉄製の枷。
「貴様ら……俺だけじゃなく、姫にも枷を嵌めると言うのか――?」
ぞくりっ……
低く押し殺した声が響き、その場の全員の背筋が凍るほどの怒気が膨れ上がる。
「ロロ。……いいわ」
「ですが――貴女に、どんな危険があるというのですか。十五になったばかりの無属性の少女を、鍛えられた兵士が抑え込めぬはずがありません。革製ですらなく、重く冷たい鉄の枷を嵌めるなど――」
「いいの。……いいのよ。それで、民が安心するのなら――」
「やめろ!!!」
後ろから、声が響いた。
振り返ると――声を上げたのは、黒玉の君、と名付けてくれた家の息子だった。
プルプルと震えながら、まだ少しあどけなさの残る顔を怒気で真っ赤に染め上げて、兵士を睨む。
その瞬間、一瞬で民意が爆発した。
「そうだ!!やめろ!!」「ミレニア様が何をしたって言うんだ!」「俺たち帝都の民は、そんなことを誰一人望んでいない!」「無抵抗の少女に鉄枷を嵌めるのが、神のお告げだとでもいうのか!」「ふざけるな!その方は俺たちを真摯に想ってくださっているんだ!」「そうだそうだ!」
ワッと蜂の巣をつついたような騒ぎになり、民衆が押し寄せ、枷を手にした兵士へと掴みかかり、それを取り上げる。
「なっ……貴様ら!自分たちが何をしているかわかっているのか!!?」
「こっちのセリフだ!」「貴様らこそ、自分が何をしているかわかっているのか!?」「無力で善良な少女の首を斬るなんて、何を考えているんだ!?」「お前らこそ、神罰を受けるぞ!」「地獄行だ!」
わーわーともみくちゃになりながら、乱闘が始まる。
「姫、こちらへ」
「え、えぇ」
すぐさまロロがミレニアの身体を引き、万が一に備えて地面に置こうとした双剣を腰に再び差しながら、少女を後ろに庇うようにして乱闘騒ぎから守る。
(ど、どうしようかしら……ちょっと、予想以上の騒ぎになってしまったわ……)
ミレニアは、たらり、と胸中で汗を垂らしながらつぶやく。
民意を自分に有利になるように、味方に付けようと振舞っていたのは事実だが――彼らが、武装した兵士を相手に乱闘騒ぎにまで発展するほど、自分を庇ってくれるとは思わなかった。
とはいえ、このままでは怪我人が出る。それは、ミレニアの本意ではない。
ミレニアは当初の予定を頭に描きながら、どのように軌道修正すべきかを考え――
「待て!皆、落ち着け!」
朗々とした声が響いたのは、その時だった。




