168、夜の女王③
甘ったるい香の残り香が漂う部屋の中で、ミレニアは絶句していた。
「――――……」
小柄なミレニアは軽く見上げねばならないほどにすらりとした抜群のプロポーション。視線は、バンッと音を立ててはち切れそうなほどに膨らんだ、今にも服から零れ落ちそうなほど露出している艶やかな胸元の双丘に注がれる。
「あら。……ふふふ。お嬢様は、これが気になる?」
たゆん……
ミレニアに見せつけるように軽く胸を揺らして見せると、滑らかな肌が男を誘うように魅惑的に揺れる。
妖艶に弧を描く朱唇が紡ぐのは、吐息交じりの囁き声。もっと普通に話せないのかと問いたくなるが、ねっとりとした喋り口調とこの部屋のどこか濃密な気配と相まって、酷く彼女に似合っているから質が悪い。
「……おい。お嬢様の前だ。下品な振る舞いは控えろ」
「下品、だなんて……酷いヒト。あまり、私の機嫌を損ねない方が良いのではなくて?」
クスクス、と挑発的に笑う声が小さくこだまする。もの言いたげな流し目を受けたロロは、苦虫を噛み潰したような顔をした後、チッと一つ舌打ちをしただけで反論を全て飲み込んだようだった。
「ぅ……ロロ……!ロロ……!」
これか。――こういうのが、いいのか。男という生き物は。
――自分の護衛兵、は。
強烈に己が持つ全てのコンプレックスを刺激する絶世の美女を前にして、ミレニアは悔しさに歯噛みしてぎゅっとロロのマントを握り締める。
「お嬢様。目の毒です。これは、貴女とは生きる世界が根本から違う女――可能な限り視界に入れないでください。御身が穢れます」
「あらあら、随分な言われようね。貴方も同じ穴の狢でしょう」
「当たり前だ。――俺も、お前も。どちらもお嬢様の視界に入ることすら烏滸がましい存在だ」
「っ……」
ロロが吐く言葉は、いつもと同じなのに――今は、あまり、聞きたくない。
彼が、ミレニアと生きる世界が違うと強調すればするほど――目の前の女とは生きる世界が同じなのだと、主張することになる。
つい、うっかり、忘れていた。
最近は彼の身体から香ることがなかったから、忘れてしまっていたが――紛れもなく、目の前の女から漂う甘ったるい香りは、一時期ロロが”お遣い”に行くたびに身に纏って帰ってきたものと相違ない。
(奴隷小屋にいたときの……恋人、だったのよ、ね……?)
実際は、全く以てそんな可愛らしい関係ではないのだが、貴族社会の上品な世界しか知らないミレニアは、爛れた二人の関係など思いつきもしない。
「可哀想に。こんなにも過保護な護衛を引き連れて――いいのよ、お嬢様。貴女が、早くにお母様を亡くしてしまったことも、いつも背伸びをして大人びた振る舞いをしていることも、よぉく知っているわ。母性の象徴たるこの胸に惹かれるのもしょうがないもの。怖い護衛兵なんか無視して、抱っこしてあげましょうか?」
「その穢れた身体で、指一本でもお嬢様に触れてみろ。触れた先から切り刻むぞ」
ラウラから引き離すようにミレニアを背に庇ったロロの視線が一気に鋭くなり、腰の剣に手を掛ける。脅しでも何でもない、本気の怒気が膨れ上がった。
「あら、本当?……ふふ、貴方とはそういう愉しみ方をしたことがないわね。どんなふうに攻めてくれるのか、とても楽しみだわ」
ラウラは、怯むどころか、どこか愉悦の光を宿した瞳で、うっとりとロロを眺めて微笑む。
「チッ……ド変態野郎が……!」
毒気を抜かれたのか、ロロは口の中で舌打ちしたのち、剣から手を離した。
(ロロの鋭い眼光にも脅しにも、一切怯まない堂々とした振る舞い……あぁ、駄目だわ。こんなにも大人の魅力を漂わせた余裕たっぷりなお姉さまを前に、被虐趣味の塊みたいなロロが、惹かれないはずがないじゃない――!)
完全に手玉に取られているロロを見て、ミレニアは愕然とする。そのやり取りは、二人の関係が一朝一夕で出来たものではないことを嫌でも痛感させられた。
ミレニアのような、子供じみた苛め方ではない。きっとラウラは、色気のある大人の意地悪でロロを翻弄するのだろう。確かに、こんな”色気”という言葉が服を着て歩いているような美女にそんなことをされては、手玉に取られるなという方が無理だ。
(ロロは、ラウラを相手に強く出られない……それもそのはずだわ、襲い掛かってくる兵士とは違うもの。ラウラは女性で――腕っぷしで退けるわけにはいかないから)
これが男の情報屋であれば、ロロは問答無用で殺気を振りまいて恐怖と苦痛で脅しながら無理矢理言うことを聞かせただろう。
だが、彼がラウラを前にして出来ることと言えば、せいぜいが悪態をつくことくらいだ。
女性である上に、過去に関係を持った女であるという情が、彼の行動を鈍らせる。結果、悪態をついたり言葉で脅しかけたりは出来ても、実力行使が叶わない。
そしてそれを、ラウラ自身も良く知っている。だから、ロロを弄ぶようにして涼しい顔で翻弄出来るのだろう。
(翻弄されるのが嫌いじゃない男なのが、質が悪いわね……もう、馬鹿っ……!)
ミレニアの中では、ロロはミレニアが「お前は私の物だ」と嘯くだけで、いつもの固い表情を微かに緩めて嬉しそうにする末期の被虐趣味の男だ。
ラウラに「私の奴隷」と蠱惑的な笑みと共に告げられれば、喜んで受け入れてしまうのではないかという不安さえ過る。
悶々と考え込んでいると、ラウラはクスリ、と吐息で笑みを漏らしてから、ロロに水を向けた。
「それで?……今日は、何の用かしら。ご主人様を連れてきたところを見ると、”お遣い”ではないようね?」
「……お嬢様」
「え、えぇ……」
ロロに促され、こくりと頷いて何とか声を絞り出す。……正直、クルサールのことなどどうでもいいと思うくらいに、色々と気になることがありすぎるのだが、そういう訳にも行くまい。
「貴女に、仕事を頼みたいのよ、ラウラ」
「お仕事を?ふふっ……文無しのお嬢様が、一体何を頼むのかしら」
揶揄を隠しもしない声で挑発的に言われて、ぐっと言葉を飲む。後ろでロロが視線を鋭くしたが、ラウラは相変わらずどこ吹く風、といった様子だ。
さすがは夜の女王と呼ばれるだけのことはある。心臓に毛が生えているとしか思えぬその素振りから察するに、渡り歩いてきた修羅場も数知れぬのだろう。
「お金なら――あるわ。私の、お金、では……ないのだけれど」
しゅん、とミレニアは瞳を陰らせてか細い声で言う。
これは、ロロが働いて貯めた給金だ。彼の見事な働きに見合うよう、賞賛を込めて贈ったものだ。彼の自由に使って欲しくて渡した金であり――こんな風に使わせるために渡したわけではない。
物憂げに瞼を伏せて、きゅっ……と痛ましげに眉を寄せた少女に、ロロは静かに声をかける。
「お嬢様。……俺の物は、貴女の物です。――俺自身が、貴女の物なのだから」
「そんなわけないでしょう。――お前の物は、お前の物よ。お前は、道具じゃないもの。お前は、一人の人間で――従者ではあるけれど、奴隷ではないわ。主だからと言って、お前やお前の所有物を意のままに使うなど――」
「使えます。――使ってください。俺は、貴女に使っていただくためだけに存在している」
やけに聞き分けのない従者に、ミレニアは一度口を閉ざす。
いつもそうだ。
良かれと思って、ロロに自由を与えようとしているのに――ロロは、それを苦悶の表情で拒絶する。
(これは、単純にロロの被虐趣味が度を超しているだけ?それとも――私が覚えていないどこかの時間軸で、私が何かを、言ったのかしら)
瞳を揺らして俯いたミレニアに構わず、ロロはずいっと前に出て革袋をドン、と机に置いた。
ジャラッと金属がこすれる音がして、中から数多の宝石が零れ落ちる。
「……どこかで見覚えがあるわね」
眉を跳ね上げてそれを見たラウラは、ぽつりと零す。それが、かつて依頼を受けて渡した宝石であることに気付いたようだ。
「必要なら追加で持ってくる。依頼をしたい」
「……後ろにいるお嬢様は、そのお金を使いたくなさそうよ?」
「構わない」
きっぱりと言い放つロロは、どこまでも本気だ。
(私はやっぱり、無力だわ……こんな時まで、従者に頼りきりで……)
ミレニアは悔しさにきゅっと唇を噛みしめる。
「まぁいいわ。私はビジネスに私情を挟まない。お金で払ってくれるというのなら、びた一文負けるつもりはないから」
「お金で払ってくれるなら――?」
ぴくり、と俯いていたミレニアの肩が揺れる。
バッと顔を上げた。
「お金以外で払える方法があるの!?」
ラウラは、間違いなくこの局面におけるキーパーソンだ。その彼女に、金品以外の物を対価に頼ることが出来るなら、それは願ってもないこと。
ミレニアは顔を輝かせ――ロロは、死ぬほど嫌そうに顔を顰めた。
「――金で払うと言っている。他の支払い方法は考えていない」
「あら?……ふふふ、なるほど」
にやり、とラウラが意地の悪い笑みを浮かべる。
ロロが、ラウラとの関係をミレニアに正確に伝えていないことを悟ったのだろう。
弱みを握った、とでも言いたげなその煩わしい視線にチッと舌打ちして、ドン、ともう一つ革袋を追加する。
「革袋六つまでなら追加で持ってくる。――お前とそれ以外の取引をするつもりはない」
「ふふふ……六つとは大きく出たわね。でも、貴方たちの現状を思えば、どんなお願いを聞いてあげるにしても、それなりに値が張るわよ?六つで足りるかしらね?」
「お嬢様。――依頼内容を」
「で、でも――」
「後生です。金で解決できる依頼に関しては、金で解決してしまいたい。こいつに付け入られるなんざ、御免だ」
ニヤニヤした笑いを浮かべるラウラに悪態をつくようにして言い捨てる。
「もしかして――結婚の話を、しているの……?」
「お嬢様」
嗜めるように言うロロに、ラウラは驚いたように「あら」と声を上げた。
「よくご存知ね、お嬢様?……ふふ、その通りよ。貴女がその最高の男を私にくれるなら――何の見返りもなく、助けてあげるわ。私の持ち得る全てをもって、ね」
「やめろ気色が悪い」
ねっとりとした声音で言われ、本気で嫌そうに顔を歪める。
(それは、最後の最後、とっておきのカードだ。出来るなら切りたくない――いや、それは、俺の勝手な都合か……)
自分も、自分の所有物も、全てミレニアの物。好きに使えばいいと言ったのは自分自身だ。
これから先、どんな運命が待ち受けているか、全く想像がつかない。最悪の場合、生涯クルサールの追っ手を気にしながら身分を隠して逃亡生活を続ける可能性もある。
そのために――金を節約したい、と思うのは当然のこと。
ロロをラウラに捧げて、銅貨一枚すら払わずに済むというのなら、間違いなくそれは最短ルートで最良の結果を得る最高の打ち手だ。
今後の軍資金でもある革袋六つの宝石を、悪戯に失わずに済むのだから。
(俺を物として扱うなら、これ以上ない使い道だ。異を唱える理由は、ない……)
きゅぅっと胸が狭くなるような感覚に微かに眉を寄せて耐える。
異を唱える理由はただ一つ――
叶うなら、もっと――可能ならば命尽きる最期のときまで、ミレニアの傍にいたい。
ロロにとっては、たとえ全財産を失ったとしても、ミレニアの傍にいることの方が、圧倒的に大切で価値があることなのだ。
(決して振り返ってくれなくていい。何の見返りも求めないから――せめて、傍に、置いてくれれば――)
魂に刻み込まれて、行き場を失うほどに膨れ上がった灼熱を、せめて傍にいることで慰めさせてほしい。彼女の傍に、何も言わず控える許可をもらえることだけが――彼女がそうしてロロを欲してくれることだけが、ロロにとってのこれ以上ない幸せ。
だか、それはあくまでロロの価値観であり、都合でしかない。
(俺が、今後の逃亡生活において、宝石以上の価値があるのかと言われれば――……)
荒事からは守ってやれる。サバイバルをするとなれば、役に立つこともあるだろう。
だが、ロロは左頬に消えない奴隷紋を刻まれている。紅い瞳も真っ白な髪も、これ以上なく目立つ風貌は、逃亡生活における相棒としては最悪だ。
その上ここで軍資金まで失えば、今度は新しく金を稼ぐ必要が出て来る。ロロは、剣闘くらいでしか金を稼ぐ術がないが、クルサールが作る新しい国では、奴隷制度はなくなるだろう。そうなれば、逃亡の身で目立つ風貌をしている元奴隷を雇ってくれるような酔狂な人間はいない。
そう考えれば、ここで宝石を出し惜しみ、ロロを受け渡してラウラを意のままに動かせるようにする方が、何百倍も有意義なように思えた。
「お嬢様。貴女が望むなら、俺は――……」
「あげないわ」
ぴしゃり、と。
ミレニアは、何やら苦悶の表情で口を開いた男を遮り、まっすぐにラウラを見据えて言い切った。
ラウラが、少し驚いたように――どこか面白そうに、ミレニアを見返す。
「ロロは、あげない。ロロを『くれる』だなんて――ロロのことを、まるで物のように言う女には、絶対にあげない。どんなに高額でも、宝石で報酬を支払うわ。――ロロは、物じゃない。一人の人間だもの」
「お嬢様――……」
「まぁ。ふふ……」
先ほどまで、どこか自信なさげに俯いてばかりだったはずのミレニアの翡翠の瞳は、今は強い光が宿っている。堂々と胸を張って言い切る様は、女帝と呼ぶに相応しい。
「貴女がロロを、人として愛していて、どうしても結婚したいのだと言うのなら別よ。当然――ロロの気持ちもなければ、賛同は出来ないけれど」
ミレニアは、夜の女王を前にして全く怯まない。
「ロロは、とても不器用な男よ。素直に誰かを上手に”愛する”ことが苦手なの。……そんなロロが、もしも誰かを、敬愛とか、元奴隷の仲間意識とか、同情とかではなく、一人の女性として真摯に愛すると言ったならば――その上で、その相手もロロを大切に想って、一人の男として真摯に愛すると言うならば、私もロロの背中を押してあげられる」
「ありえません。――そんなことは」
ロロは、ぐっとせり上がる灼熱を飲み下して、即座にミレニアの言葉を否定した。
そんな、あり得ないことを想定しないでほしい。
ロロがミレニア以外の誰かを愛することなどありえない。
だから――だから、頼むから、決して手を離さないと約束してほしい。どんな時も「私の物」といって執着してほしい。
ロロの幸せを想って、などと言って絶望を与えるように手を離さないでほしい。
あの――”最初”の別離のトラウマが蘇って、灼熱が膨れ上がり行き場を求めて噴き出しそうになるから。
「貴女が、『ロロは物じゃない。人なのだから、あげるだのあげないだのと言うのはおかしい』と反論するなら、私も素直にロロに気持ちを聞いてあげる。二人の意思を尊重するわ。――だけど、貴女がロロを物扱いするというなら、私も同じスタンスで絶対に渡さないと突っぱねるだけよ。わかったら、顔を洗って出直しなさい」
ラウラは年齢不詳の美しさを持っているが、ロロが奴隷小屋にいたころからの知り合いというからには、少なくともロロよりも年上だろう。
ミレニアとは五つ以上は確実に離れているはずだが、ミレニアは気にした様子もなく、毅然とした態度で言い放った。
「ふふ……小さい身体で、ずいぶんと強い瞳をなさる御方ね。伝説の剣闘奴隷が心酔する理由が、少しわかったわ」
吐息交じりに呟いてから、つぃっとふっくらした朱唇を弧の形へと描く。
「わかったわ。では、お望み通り、ビジネスと行きましょう。金品で支払うなら、びた一文負けないわよ」
ふっ、と揶揄うように吐息を吐いた美女に、ミレニアは怯むことなく依頼を口にする。
「まずは、人物についての詳細を教えてほしいの。クルサールの側近を務めている少年兵がいるはずよ。彼の素性と経歴と――それから、クルサールが唱える”エルム教”の教義について詳しく教えて頂戴」




