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紅い瞳の奴隷騎士は、少女のために命を捧ぐ  作者: 神崎右京
第九章

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148、【断章】幸せを運ぶ妖精①

 痛い。苦しい。辛い。寒い――

 色々な単語が脳裏をよぎっては消え去っていく。

「姫っ――……!姫、しっかりしてください――!」

 耳に響くのは、慣れ親しんだ青年の声。

 いつも寡黙で冷静で、出逢ってからの五年間、こんな風に声を荒げているのを聞いたことはなかった。

(あぁ――駄目……これはもう、助からない……)

 馬が全力で駆けていく振動に揺られて、止めどなく流れていく血液の量を思えば、薬師として学んだ自分の知識が冷静に囁く。

「逝くな――――逝くな、頼む――!逝かないでくれ――!」

 泣きそうな声で叫ぶ青年の声が遠い。激痛と急激な失血によって、意識が途切れ途切れになっているのだろう。

 夢か現かわからない、ぼんやりとした世界で考える。

 初めて出逢ったあの日から五年――この身に手を触れることすら躊躇していた彼が、こんな風にしっかりと胸に抱きかかえてくれるのは初めてで。

 急激に失っていく体温を埋めるように補う温かさが、堪らなく心地よかった。

(ロロ――……ルロシーク……私の、騎士……)

 大好きな、大切な――人生で一番『特別』な人。

 生まれて初めて『我儘』を口にして、綺麗事すら取っ払って、何が何でも、と手に入れた人。

(思えば――随分と、振り回してしまった……)

 よりによって、力のない皇女の専属護衛になど、させるのではなかった。

 我儘で買い上げたくせに戸籍を与えることも出来ず、彼の能力を十分に発揮して活躍できる場所を与えることも出来ず――結果、彼の幸せを想って、国の未来を想って、自分を蛇蝎のごとく嫌っている兄に引き渡した。

 それなのに、どうしても我慢出来なくて――

 もう言わない、と父と約束したはずの『我儘』をまた、口にしてしまった。

(だって……ロロが……来てくれた、から……)

 ずっと、ずっと逢いたくてたまらなかった。彼が紅玉宮を去った後、彼を想わない日は一日たりとも無かった。

 もう、二度と逢えないかもしれないと覚悟していた。

 彼に逢えない人生なんて――こんなにも味気なくて、つまらない人生なんて、生きていても意味はないと、これ幸いと『誇りある死』に飛びついた。

 魔物への恐怖も、兄から嫌われ続ける絶望も、何もかもを『主』の仮面の下に押し隠して、ひっそりと『誇りある死』を受け入れようと思っていたのに――

 ――逢いに来て、くれた。

 幻かと思った。夢なのではないかと疑った。

 何度も何度も思い描いた、美しい紅玉の瞳。左頬に奴隷紋を刻まれていながらも、うっとりするほど整った顔。寡黙で控えめな、低く響く穏やかな声。彫刻のように鍛え抜かれた逞しい身体――

 懐かしさに抱き付いて、彼の存在を近くに感じたら、もう、我慢は出来なかった。

 ――欲しい。

 彼をもう、手放したくない。

 大好きな大好きな、唯一無二の人。

 視界に映ることすら憚られると言っていた彼が、手を触れることすら恐れ多いと言っていた彼が、今の主に折檻される危険を冒してでも、自らの意志で逢いに来てくれたのだ。

 あの夜、ミレニアの小さな胸が、大きく震えた。

 だから――だから、また『我儘』を言ってしまった。

「ロ……ロ……」

「喋らないでください――!」

 夢と現をさまよっている間に、いつの間にか馬の背から降ろされていたらしい。ぎゅぅっと渾身の力で身体を縛り上げられ、必死に止血をしようとしている気配が伝わる。

 だが、ミレニアは知っている。

 ――もう、助かることはないだろう。

(あぁ――……美しい、瞳……これを……私は、無理に縛り付けて――振り回して――)

 ぼやける視界で、いつもあんなにも無表情だった青年が、必死の形相でこちらを覗き込んでいる。

(私の、せい……ね……)

 初めて出逢ったときに、無茶苦茶な命令をした。

 だって――だって、彼が、どうしても欲しかったから。

『命令よ。お前は、一生、ずっと、私の傍で、私をずっと守りなさい』

『今日から、お前は私の物よ。勝手に傍を離れることは許さないわ』

 たかだか十歳の少女の、そんな言葉に殉じて五年――

 生きる意味を持たなかった剣闘奴隷は、その言葉に縋るようにして、ミレニアに全てを捧げた。

 至らぬ点ばかりの、取るに足らない主を、至上の主と言ってくれた。

 控えめに、それでもそっと、ミレニアの隠した弱い心にいつも寄り添ってくれた。

(私が……命じたから……)

 幼さゆえの過ち。誰にも渡したくない青年を縛る、無情な鎖。

 従順な青年は、それに異を唱えることもなく受け入れた。”人”扱いをしてくれる、と言って喜んだ。

 雛鳥が初めて見たものを親鳥と認識して追いかける習性のように、盲目的にミレニアを敬愛し、付き従った。

 だけど、今――こうして、ミレニアが死に瀕したときに、惑わせている。

 それは、ミレニアが彼を縛り付けたせい。

 ミレニア以外に生きる意味と価値を持たない青年は、ミレニアを失えば、どうやって生きればいいのかすらわからない。

(ロロだけは――ロロだけは、死なせたくない――)

 大好きな青年だった。

 大して長くはない人生だったが、その中で、唯一自分の意思で心から望んで手に入れた、一番大切な”宝物”。

(死というものが――こんなにも、苦しくて、辛いものなのだとしたらなおのこと――)

 こんな苦痛を、この大切な青年にだけは、味わってほしくなかった。

 だから、ミレニアは最期の力を振り絞る。

「ごめん、なさい……最初に……与えた、命、令は――」

 このまま何もしなければ、きっと、彼は、ミレニアの後を追いかける。

 こんな世界に生きる意味などないと言って、あっさりとミレニアの後を追って命を絶つ。

「取り消す……わ……ルロシーク――」

 ――大好きな人。

 大切な人。

 だから、もう――こんな理不尽な『我儘』からは、解放してあげなくては。

「貴方は……自由、に……生きて……」

 初めて使う呼称。――もう、彼は従者ではない。

 自分の物ではないのだ。

「貴方を、縛る、ものは……何も、ない……ないのよ……ルロシーク……」

 五年前、彼の枷を外した。

 「自由を与える」と言って――枷を外して、言葉で縛った。

 幼いころから、ずっと、誰かの愛情に飢えていた。

 目に入れても痛くないほどに溺愛しながら、最後まで『女』だからと自分の能力を認めてくれない父。命の危険すら脅かされるほどに、憎しみを露わにする実兄たち。歯の浮くような美辞麗句を並べながら、自分の後ろにいる父しか見ていない貴族たち――

 傍にいてくれるのは、味方になってくれるのは、母の残してくれたお守りだけだった。

 ――そのお守りと、同じ色の瞳をした青年。

 ずっとずっと――誰かに、傍にいてほしかった。

 主従の関係でもいい。自分だけの『特別』な人が欲しかった。

 自分を『特別』と言ってくれる人が、欲しかった。

(私は――ロロの意思など無視して、それを強要した――)

 奴隷だった彼に、拒否権などない。金で買われた彼に、拒否権などない。

 それを利用して――「まやかしの自由」を与えて、擦り込んだ。

 自分が親鳥なのだと、卑怯な手段で、擦り込んだ。

 そうしてちっぽけな自尊心を満たして、虚栄心を満たして――

 今、そのツケが回ってきたのだろう。

 だから、笑って、送り出さなければ。

 彼が今後、迷うことなく、己の人生を、自分の意思で歩んで行けるように、背中を押してやること。

 ――それが、(ミレニア)が最後に果たさなければならない、罪滅ぼし。

「貴方は、貴方自身の、もの……貴方の主は――貴方自身、なのだから――」

 今にも泣きそうに歪んだ絶望の紅玉の瞳を見ながら、完璧な主の顔でそう告げて――


 ――少女は、”最初”の人生の幕を閉じた。


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