145、聖なる印④
(本当に、姫は不思議なお方だ)
水に手を浸しながらキャッキャと子供がはしゃぐように輝く笑顔をはじけさせたミレニアを見ながら、額に薄く浮いた汗を拭った。訓練以外で、こんなにも細やかで神経を使う魔力制御をしたことはあまり記憶にない。
「俺はここで後ろを向いて控えています」
「えぇ、わかったわ。ありがとう、ロロ」
くるり、と後ろを向けば、スルスル、とさわやかな朝の森に、衣擦れの音が響いた。
何十回と繰り返した人生で、ミレニアは高頻度でこの日の朝にこの水場での水浴びをするが、水を湯に代えたのは初めてだ。しばらく続いていた衣擦れの音が止み、ちゃぷ……と小さな音が聞こえる。
(惚れた女が後ろで素っ裸になって水浴びをしていると考えれば、多少何かをもよおすかと思いきや、そういえば、今まで一度もそんなことを考えたことはないな)
ちゃぷちゃぷと続く水音を聞きながら、ふと、どうでもいいことを考える。
こうして、水浴びをする彼女を待っている間も、野営地点の傍で踊り子の衣装を四苦八苦しながら脱いで着替えるのを待っている間も、今まで何度も繰り返した人生を思い返したところで、一度も邪な感情を抱いたことはなかった。
『俺みたいな穢れた存在が、雲上人たる姫をそんな対象に見るなど、考えただけで罪悪感で死にたくなる……!』
いつだったか、しつこいゴーティスに向かって正面から啖呵を切ったことを思い出す。
(主君たる姫に、いくら押し隠して決して外には出さないと決めているとはいえ、奴隷ごときが身分もわきまえずに懸想しているという事実だけで、我に返る度に罪悪感で死にたくなる。……性欲なんて穢れきった欲望を抱くなんて、考えられない)
”最初”の記憶からずっと――ずっと、ずっと、ロロにとってミレニアは、『清らかさ』の象徴だった。
クルサールが唱える”神”の存在など、たとえ大金を積まれようがこれっぽっちも信じるつもりはいないが、もしも彼が唱えた宗教が、ミレニアを唯一至上の女神として崇める宗教だったとしたら、ロロはこの世で一番熱心な信徒になっていたかもしれない。たやすく神の名のもとに命を擲つ狂信的な信者となっていたことだろう。
(どれだけ繕おうが、俺は肥溜めの住人だ。生きるために他人を傷つけ、殺し、人間としての尊厳などなく、汚泥を啜って生きることも厭わない、醜い獣のような存在だった。そして――何度も、何度も、自分のエゴのために、姫がその身を擲ってでも救いたいと望んでいた帝都の民を炎の渦に巻き込んで惨たらしく殺した、最低な男だ)
ふ、と我知らず視線を落とす。長い睫毛が、薄暗い影を頬に堕とした。
いつだって、耳の奥に残っている。理不尽に、無情に、灼熱の炎に巻き込まれて泣き叫ぶ民衆の声。老若男女、構わず全員を恐怖と絶望のどん底へと叩き落した過去。
許されたいなどと、思ったことはない。
死出の旅路は、辛く苦しいものになるだろう。
それがわかっていても――ミレニアがいない世界で生きていくことだけは、どうしても出来なかった。
(世界のどこかで、姫が生きている――同じ空を見上げ、同じ時を生き、同じ空気を吸っている。それだけで、胸が詰まるくらいの幸せなんだ。目の前にいなくてもいい。贅沢なんか言わない。姫にとっては、到底許しがたいだろう大罪を犯した自覚はある。――償えと言われれば、覚悟はある)
そっと瞳を閉じる。
全てを知ったら少女が悲しむことなどわかっていた。
それでも――それでも、どうしても、と望んだのは自分だ。
彼女が、同じ時を生きて、太陽の下で、生きて、笑っている世界をもう一度、体感したかった。
翡翠の瞳がもう一度開かれるところを見たかった。
鈴を転がす美声が響くのを聞きたかった。
冷たい身体に、血が通って、温かい熱が戻ってほしかった。
――それだけだったのだ。
(すべてが終わったら、改めてこの話をしよう。許しがたいと詰られ、金輪際従者として傍にはおけないと言われてもいい。もう一度奴隷小屋に売られたってかまわない。――まぁ、その前に、ラウラとの取引の結果、致し方なく傍を離れる羽目になるかもしれないが)
「~♪~♪」
背後から、歌が聞こえる。鼻歌のようなそれは、どこかで聞いたことがあるようなフレーズだった。
まだギュンターが生きていたころ、淑女教育の一つでもあった歌の授業で、ミレニアがその小さな桜色の唇を開いて一生懸命に歌っていたことを思い出す。あまり気乗りしないことだっただろうに、必死に周囲の期待に応えようと声楽を学んでいたあの頃の少女と違って、背後から響く口ずさむような音階は、もっと気軽に楽しむような気配を伴っていた。
パシャパシャと身を清めているらしい軽やかな水音が聞こえる。ミレニアを泉に住まう女神に例えたことがあったが、今の彼女はまさにその姿を体現しているようだ。
(なおのこと……俺ごときが、傍にいられるはずがない)
ジャリッ……と地面が小さく音を立てる。水辺のぬかるんだ地表に視線を落とせば、お前にはこの場所が相応しいと言われているようだった。
虫けらが、女神に秘めた恋心を抱くことすら滑稽に思えて、苦い気持ちで胸の奥に燻る灼熱を飲み下す。
ミレニアに、想いに応えてほしいだなんて、思っていない。彼女とどうにかなろうなど、想像の中ですら描いたことはない。
虫がその身を焼かれると知りながらも光に導かれてしまうように、深く眠ったミレニアに口付けをしたことがあるが、それだけだ。
少女の意識がある状態で口づけたいとは思わない。その身に、不必要に触れたいなどとも思わない。
たまに、思い出したように、その美しい瞳で振り返ってくれるだけでいい。
そっと、周囲に聞こえないように、少し悪戯っぽく「ルロシーク」と囁く声が好きだった。
今、女神が清らかな湖面で口ずさんでいるのと同じ声で、嬉しそうに名前を呼んでくれるだけで――
どぷんっ……
「――――……?」
歌が終わった途端、微かな水音が響いた気がした。
まるで何かが沈み込むような、音。
「ひ――お嬢様?」
今までの時間軸で、こんなに長くこの水場にとどまっていたことはない。今までが安全だったからと言って、どこにも追手が来ていないと安心は出来ない。念には念を込めて、呼び方には細心の注意を払い、後ろへと声をかけた。
しん……
「お嬢様……?お嬢様、返事をしてください!お嬢様!?」
不安に駆られて少し大きめに何度も声をかけるも、返ってくるのは、無音の静寂。
「何かありましたか!?お嬢様!!?」
ざわざわと、胸の奥が不穏にざわめき始める。
『運命』という名の死神のしつこさは、嫌というくらい知っていた。
「っ――振り向きます!!!」
恐怖にも似たその感覚に耐えきれず、宣言してから後ろを振り返る。
目に入ってきた光景の中、女神はどこにもいなかった。
「姫――!?」
思わず、慣れた方の呼び名が口を吐く。
目を凝らせば、水場の中央辺り――水面に、小さな気泡が生じている。
(まさか――溺れている!?)
水中へと引きずり込むような危険な生物はいないはずだ。足でも滑らせてしまったのか。
「クソッ!」
ザバッと大きな音を立てて、気泡の発生源に向けて、躊躇うことなく水に入る。ザブザブと音を立てながら水をかき分けて進むも、身に纏う黒衣が水を吸って重たく、思うように前に進まない。
(嘘だろ――こんな終わりは、想定していない……!)
死神の脅威を、侮っていた。
まさか、外敵に脅かされることがなくても、少女が命を落とす可能性があるだなんて、考えてもいなかった。
ドクン ドクン
心臓が不穏な気配に全力で暴れまわって、頭から一瞬で血の気が引いていく気配。
「姫っ――!」
いっそ、炎で水場を一瞬で蒸発させてしまいたい衝動に駆られるが、そんなことをすれば水の中で溺れている少女もひとたまりもない。まるで引き留めるように絡みつく水の抵抗を必死に振り払うようにしてかき分けながら、脇目もふらず突き進む。
たどり着く頃には、小さな気泡が大きな気泡へと変わり、ボコボコッと水面が膨らんだ。
ザァッと血の気がさらに引いて、夢中で手を伸ばそうと、して――
ザバァッ――
「ふぅっ――」
濡れた艶やかな黒髪をかき分けるようにして、女神が水中から現れた。
一瞬、脳みそが状況を理解することが出来ず、思わず目の前の少女を凝視してしまう。
烏の濡れ羽色のような、漆黒の美しい髪。何度も瞬きを繰り返す、大きく吸い込まれそうな宝石みたいな翡翠の瞳。生きている証を主張するような、血色の良い桜色の唇。水をはじくような張りのある肌は、雪よりも白くて眩しい。
水から出てきた女神は、神々しささえ纏う美しい裸体を惜しげもなくロロの前に晒していた。
――白い。
最初の感想は、それだけだった。
”直前”の記憶で少女が愁いを帯びた眼差しで語っていたように、その肌の色は、少女にとって忌むべきものだったのだろう。皇城に集まる未婚の妙齢の令嬢たちは、男を誘うように胸元や腕、背中がざっくりと開いた、下品ではない程度に肌を露出するデザインのドレスを着ていることが多かったが、ミレニアが身に着けるのはいつも、あまり露出がないドレスばかり。
首飾りが覗く程度にしか開いていない胸元。肩甲骨は愚か、下手をすれば肩すら露出しない背中。夏場でも肘より先に幾重にも重なるドレープ付の袖がついたデザインのドレスばかりを着て、腕を最低限の露出に抑えていたせいか、暑い暑いとよく文句を言っていた。
だから――少女の肌を、こんなにも沢山見たのは初めてだった。
服の下も、本当に変わらず白いんだな、とか。
太陽の下で、陽光をはじくような眩しさだな、とか。
そんな感想が脳裏をよぎる。
「――――――――へ――――?」
女神の口から、間抜けな声が漏れた。
その瞬間、急に目の前の”女神”が”女”であることを思い起こさせる。
抜けるように透明感のある肌は、今まで抱いたことのある女の褐色の肌とは違う美しさだ。十五歳らしく、まだ発育途中らしいやや慎ましやかなサイズの胸は、ラウラのような下品なそれとはくらぶべくもない。
「っ――!」
一瞬、ミレニアが詰めるのがわかった。
カァッ――!と、頬と言わず耳と言わず、少女の身体の全身が、熱を持って紅く染まる。
それは、いつも目にするたび、えも言われず色っぽいと常々思っていた――
「キャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――!!!!!!!!」
ロロの思考と鼓膜を突き破る勢いで、森中に大音量の絶叫がこだました――




