144、聖なる印③
「凄い!すごいわ、ロロ!適温よ!」
水に手を浸して温度を確かめていたミレニアが、キャッキャと嬉しそうに声を上げる。
いつになく神経を使う魔力操作を終えて、ふぅ、とロロは大きくため息をついて魔法を霧散させる。ぐいっと額を拭うと、うっすらと額に汗が浮いていた。
「外気温によって、時間経過とともに冷やされていくでしょうが、しばらくは大丈夫だと思います。何度やり直しても、この場所に兵士はもちろん、野生動物や魔物も来たことはないので、危険はないと思いますが、万が一があるので、俺はここで後ろを向いて控えています」
「えぇ、わかったわ。ありがとう、ロロ」
くるりと後ろを向いた護衛兵に礼を言って、ミレニアは身に着けていた外套を脱ぎ捨てる。明るくなったところで見ると、ジルバを抱え上げたときの血液と、地面に寝転んだ時の土汚れで、なかなかに汚れていた。
(着替えとして自分のマントを当たり前のように渡してくれたのも、過去のどこかの時間軸の私が困っていたからかしら?渡された瞬間は、随分と気が利くわね、と思っていたけれど――まぁ、ロロですもの。自発的に気が付いたということはないでしょう)
女心にはとことん疎いロロだ。汚れた衣服をもう一度身に着けることに対する抵抗感など、この無骨な男に理解してもらえるとは思わない。
胸中でさらりと失礼なことを考えながら、ミレニアは衣服を脱ぎ捨てる。屋外で下着まで脱ぎ捨てることに抵抗があったが、風呂に入る感覚だと思えばいくらか気はまぎれた。
「そういえば、ここ、水中生物はいないのかしら……?」
ふと、何も考えず自分の勝手で水を温めてしまったことを思い出し、茫然と呟く。ここで生きている魚たちの生命の営みを阻害してしまわないだろうかと不安になったためだ。
「大丈夫です。元々、雨水がたまって出来た水たまりに近いようで、ここを住処にしている生物はいないようです。――御身を脅かすような肉食の生物や、ヒルなどの吸血生物もいないことは確認していますので、ご安心ください」
「そ、そう。そのことを心配したわけではなかったのだけれど――でも、安心したわ。ありがとう」
さらりと言われた内容に、そうした懸念もあったのかと、サバイバル知識の不足に慄きながら、頼りになる護衛兵の存在に感謝する。
ちゃぷ……と足を付けると、温かな水温が心と身体を解していくようだった。
「深さは、大丈夫なの?」
「はい。一番深い所でも、お嬢様の腰程度でしょう。川ではありませんから、流れに足を取られるようなことはないでしょうが、水底で足を滑らせないようお気を付けください」
「ふふ、ありがとう。お前は過保護ね。……では、一番深いところまで行ってゆっくりと考え事をしようかしら」
ざぶ、と水をかき分けるようにして水場の中心へと向かう。言われた通り、足を滑らせないように慎重に。
「ふぅ……」
中心に近い所は、ロロが言う通り、ミレニアの腰辺りまでの水位があった。
せっかくなので、手で水を掬って顔を洗ってから、髪や身体も徐々に清めていく。土できしんでいた髪は、湯に晒せばはらりとほどけて、少し指通りを取り戻した。
(一度、頭を空っぽにしましょう)
軽く腰をかがめて、肩のあたりまでぬるま湯につかりながら、ミレニアは軽く息を吸う。
「~♪~♪」
それは、吟遊詩人が最も多く語り継ぐ、帝国の歴史を歌った歌。
耳馴染みのあるそのメロディーを鼻歌として口ずさみ、瞳を閉じて、頭を空っぽにする。
(……よし)
完全に頭が空っぽになった感覚に、ミレニアは一度大きく息を吸い込み――
どぷんっ……
水の中へともぐりこんだ。
(うん。……集中できそう)
すぅっと自然界の音すら全て遠のく感覚に、ぎゅっと瞳を閉じたまま、ミレニアは水中でゆっくりと思考を巡らした。
(クルサールにとっての利……何かしら……国を治める上での、何かしらの不都合が生じていれば、それを私が解決すると申し出るのが一番よね……)
しかし、問題は闇の魔法使いの存在だ。ロロの話を聞く限り、国を治める上では、その存在はかなりのチートと言っても過言ではない。何せ、民衆の感情を意のままに操れるというのだから。
(闇の魔法使いという少年兵の素性がわかれば、それを脅しに使える……?クルサールの側近、しかも皇帝暗殺の実行犯というからには、並々ならぬ信頼を得ているはずでしょう)
まずは、ラウラに尋ねる内容の候補の一つが決まった。――クルサールの側近である少年兵の素性について。出来れば、利用できる弱みがあるかどうかを合わせて尋ねたい。
(次に、『エルム教』の教義の内容詳細ね。彼らが奨励していることが何で、禁止していることが何なのか――特に、禁止していることに関しては、場合によっては民の悪感情が出るはず。闇魔法で押さえるにしても、魔法というからには、必ず制限があるでしょう。そのあたりに、何かあるかも――)
魔法は、効力と持続時間が反比例する。元々の魔力が化け物級のロロでさえ、魔物と契約して倍増した魔力でも、帝都を丸ごと焼くしかできないのだ。帝都の民に一気に魔法をかけることは出来ないだろう。国中に魔法を行き渡らせることも、ほぼ不可能なはずだ。現時点で、ラウラが宗教に染まっていないことが何よりの証だ。
(じゃあ、次にラウラに尋ねるべきは、『エルム教』の教義の詳細……?……いいえ、この依頼の仕方では、かなり漠然としているわね。そもそも、わざわざラウラに聞かなくても、聖典を貸してもらえれば事足りるわ。――あれ……もしかして、ラウラが持っている聖典を貸してもらうだけでも依頼料は発生するのかしら?)
ぎゅっと眉根を寄せると、ぼこぼこっ……と泡が水面へと向かって行く。
(ラウラという女が鍵だというのに、彼女を思うように動かせないのが何よりの問題ね……報酬度外視で、アドバイスをくれるような関係に持っていけないかしら……?――ロロは絶対にあげないけれど)
む、と水中で頬を膨らます。
――冗談ではない。
ロロもラウラという女を気に入っていて、結婚もやぶさかではないと思っているならともかく、先ほどの様子では、明確に結婚を嫌がっていた。それならば、ミレニアは全力でその道を塞ぐまでた。
(だいたい、人の物に勝手に手を出さないでほしいわ。ロロは私の物なのよ。純愛の果てに求婚したのかと思っていたら、彼女が持っている情報との交換条件だった、なんて――優しいロロが断れないのをいいことに、そんな交換条件を出して卑怯な手を使う女に、絶対にロロは渡さないわ!)
ボコボコッ
鼻息荒く胸中で宣言すると、泡が少し多めに口から洩れる。
(……あ、駄目。思考が余計なところに行き始めたわ。そろそろ息も苦しくなってきたし、一度上がろうかしら)
ぼんやりと考えて、体勢を直し、注意されたように滑らないようゆっくりと水底に足をついて立ち上がる。
ざばっ……
「ふぅっ――」
髪をかき上げながら、上を向いて勢いよく立ち上がって――
――――――目の前に、見慣れた紅玉の瞳があった。
「――――――――へ――――?」
一瞬、ミレニアの口から間抜けな声が漏れ――――――
――――即座に、森中に響き渡るほどの大絶叫が、朝の空気を震わせた――




