133、もう一度②
野営地点に着いたときは、既に世界は夕闇に包まれようとしていた。
どこにクルサールの手の者がいるかわからない森林を、完全な闇夜になる前に切り抜けられたことに安堵する。
そのまま、ゴーティスのテントへと直行し、既視感のあるやり取りを経てから、テントを出る。案の定、ゴーティスはロロを連れてきたことだけは評価しながらも、ミレニアを蛇蝎のごとく嫌う姿勢は変えなかった。
少しだけ寂しそうな色を瞳ににじませた少女の横顔を気遣うも、少女は気丈に微笑んで立ち上がった。世界でたった一人だけになってしまった兄に、露骨に憎しみの目を向けられる気持ちは辛いだろうが、『第六皇女』の仮面の奥に仕舞い込んだのだろう。
――ここは既に、旧イラグエナム帝国の勢力の中。踊り子の伝統衣装でくるくると屈託なく表情を変えていた十五歳の少女『ミレニア』はもうどこにも居ない。
少女はこれから、『旧帝国の皇女』という肩書で生きていくのだから。
「お兄様は、新しい国を興すのに、私の力を上手に利用したいと考えるでしょう。協力しようとか、意見を聞こうとか、対等に扱ってくださるとは思わないけれど――政治の中枢に近い男と婚姻を結ばされるのではないかしら」
「そう……ですか」
ミレニアは自分に割り当てられたテントに向かって歩みを進めながら、そんなことを言う。しかし、ロロは生返事を返しながら鋭い視線を周囲へと巡らせた。
「ロロ……?どうしたの?」
ピリピリした護衛兵の空気にいち早く気付き、ミレニアは左後ろに控えているロロを振り返る。
「ここの中は安全だと言ったのはお前でしょう?どうしてそんなに、固い表情で緊張を露わにしているの……?」
「いえ……」
すぃっと瞳が左下へと動く。
「……行きましょう。今日は色々あったのでお疲れでしょう。早く寝てください」
「え?でも――」
ラウラの元でも休息を取った。そんなに疲れているわけではない。
やけに強引に促す護衛兵に疑問符を上げようとしたときだった。
「おい。止まれ、小娘」
(チッ――やっぱり、声をかけてきやがったか……!)
”前回”の記憶とは、キャンプに合流した時間帯が異なる。それが上手く”分岐”になって、ここでの邂逅を避けられれば――と思ったのだが、どうやら『運命』とやらは、そう簡単にはロロとミレニアを救いの道に進ませてはくれないらしい。
「……ヒュード殿」
ミレニアの頬が強張り、緊張したのがわかる。
「どこへ行く?父上に挨拶をして、俺は素通りか?」
「そういう訳ではございません。ご挨拶が遅れて、申し訳ございませんでした」
面倒な言いがかりだが、わざわざ歯向かうほど愚かではない。ミレニアはすっとワンピースの裾を軽く持ち上げ、さっさとやり過ごそうと、従順に帝国式の礼を取る。
「顔を上げろ、小娘」
「……はい」
聞き覚えのあるやり取り。
強烈な既視感に、ロロは今にも吐きそうな不快感に襲われた。
そして、あの時のように、大股でゆっくりとミレニアへと近づいたヒュードは、その目の前まで来て、同じように無骨な手をミレニアの顎へと伸ばし――
「――失礼します」
ずぃっ
「……何……?」
間に身体ごと割り込んでミレニアを後ろへ庇うようにして引き離したロロに、ヒュードが露骨に不機嫌を露わにした。
「主は、昨夜からの逃亡劇で、命からがら逃げてきたところ――まだ水浴びもしていらっしゃらない。……殿下のお手を汚さぬためにも、不用意にお手を触れることはお控えください」
「ふん……なるほど……?」
しゃあしゃあと言ってのけるロロの言葉に、どうやらヒュードは納得したようだった。小さく鼻を鳴らしてから、伸ばしかけていた手を引っ込める。
(本当は今すぐにでもこの男の首を刎ねてやりたいが――駄目だ。堪えろ……最優先は、姫の安全確保だ)
脳に刻み込まれた吐き気がするような”前回”の記憶が、ザラザラと胸の奥底をこすりつけるような不快感を呼び起こすが、無理矢理飲み込んで無視をする。
今ここでヒュードを殺すことなどたやすいが、そうすれば間違いなくこのキャンプ中の軍人を敵に回す。特にゴーティスの怒りは烈火のごとく燃え上がるだろう。そうなれば、何が何でもミレニアとロロを殺そうと、森の中を追い立てられる。
クルサール勢力に加えてゴーティス勢力まで相手取って戦うのは現実的ではない。
「どうやら、奴隷の分際で、なかなか気が利くようだ。誉めてやろう」
(ぶっ殺すぞ)
愉悦の笑みと共に告げられた言葉の返事は、心の中に収めておく。――喉元まで出かかったが何とか飲み込んだ。
「では、小娘。――身を清め終えたら、俺のテントに来い」
「――!?」
「誇り高きイラグエナムの末席に加わるのだ。俺が直々に、このコミュニティの中での振る舞いについて指導してやろう」
下卑た笑いと共に一方的に言い捨てて、踵を返していく。
(どうする――本当に殺すか……?)
身を清めたミレニアをテントに呼んで、あの男が何をしようとしているかなど、”前回”の記憶など無くても容易に想像がつく。
去っていく背中を睨み、意思一つでそれを火達磨に出来る事実に、仄暗い考えが一瞬本気で頭をよぎった。
「ろ……ロロ……」
ぎゅっ……と黒衣のマントを後ろから縋るように握り締め、震える声がロロを呼ぶ。横顔で振り返れば、カタカタと小刻みに揺れる拳と、色を失い蒼白になった顔面が視界に入った。彼女もまた何をさせられるか想像がついたのだろう。
「……行く必要はありません」
「で、でも……」
「身を清め終えたら、逃亡の疲れがどっと押し寄せて倒れるように寝入ってしまった――とりあえず、今晩はそう言って逃れましょう」
「だけど、何の根本解決にもなっていないわ――!」
「……明日以降の対応については、この後、考えます。――大丈夫です。この野営にいる間、決して、御身のお傍を離れません。俺が傍にいる状態では、さすがに無理に事を運ぶことは出来ないはずです。――お嬢様も、決して俺の傍を離れないと、約束してください」
「わ……わかったわ……」
こくり、としっかりとミレニアがうなずくのを見て、ほっと安堵のため息を吐く。
――どうやら、”前回”のように、失望されて一人になりたいと傍に控えることを拒否され、その間に最悪の事態を招くことになる、という流れだけは回避できたようだ。
「行きましょう。……明日以降は、常に警戒しながらの毎日になる。少しでも今日の内に神経を休ませておいてください」
「えぇ……」
ミレニアを誘導するロロの表情は、ミレニア以上に固い。ごくり、とつばを飲み込んで、ミレニアは怯えて震えそうになる足を叱咤しながら、ロロの傍にぴったりと寄り添うようにして己に割り当てられたテントへと向かった。




