132、【断章】水辺の語らい②
「えっ――」
ぽつりと零された言葉に、ミレニアは息を詰める。
「が、ガラス玉みたいに安っぽくて気味が悪いと……?」
「……逆です」
おそらく、それも過去に言われたことのある言葉なのだろう。どうやら、いつも冗談めかすように「”第二の傾国”と呼ばれていたのだ」と嘯いていたのは、心の底にあるコンプレックスやトラウマを押し隠すための強がりだったに違いない。
幼い少女の振る舞いの裏にある心の傷に、今まで気づいてやれなかった無力感を感じながら、ロロは素直に口を開く。
「……宝石のようだと」
「え――?」
「実際に、宝石を間近で見たことはなかったので、知識としてしかなかったのですが。……きっと、宝石というのは、こういう美しいものなんだろうと、ぼんやりと思ったのを覚えています」
ミレニアが、背後で驚き困惑している様子が伝わる。
ロロは、当時の記憶を思い出していた。
明らかに上等な服を着た、上流階級の娘。奴隷を初めて見るらしい少女は、驚きに目を見張り――悲鳴でも上げるのかと思いきや、うっとりと頬を上気させて、忌み嫌われていたロロの瞳を、まるで美しいものに魅入るかのようにじぃっと正面から覗き込んだのだ。
そんな反応をされたのは初めてで、とにかくその瞳が印象に残った。
「……貴女は、よく、俺の瞳を覗き込むでしょう」
「え?……え、えぇ……」
「しかも、目を伏せると、「良く見えない」と言って視線を上げろと言います」
「そ、そうね。だって、とっても美しいから――」
「貴女が俺の瞳を正面から見ているということは――俺も、貴女の瞳を見ることになる」
「!」
「貴女が覗き込むだけ、俺も貴女の瞳を見ている。かなりの頻度で貴女は俺の瞳を覗き込むので、正直、肌の色なんかより、よほど、印象深いです。初めて逢ったときから――今この瞬間まで、ずっと」
「っ……」
ミレニアは息を詰めて頬に手を当てる。白い頬が真っ赤に染まって、熱を持っていた。
いつも、こちらが一方的に覗き込んでいるつもりだった。ロロの美しい紅玉の瞳を見てうっとりと眺めている時間は、控えめに言っても尋常ではない。時を忘れて魅入ってしまう魅力が、その瞳にはあるのだ。
言葉など無くても、じっと見つめている時間は、ミレニアにとって幸せで――
――それと同じ時間だけ、ロロもミレニアの瞳を見つめているだなんて、今、彼に言われるまで気づかなかった。
(え、嘘、じゃあ何……!?私たち、外から見たら、互いにじっと見つめ合ってる状態なの!?しゅ、周囲の者たちはそれをどんな気持ちで見ていたの!?)
当たり前の事実に、今更ながら動揺する。
(ま、待って、私、いつもどんな顔で――絶対ニヤけていたり、うっとりと頬を染めていたり、間抜けな顔ばかり晒しているわ……!)
その顔を、見ていたのか、この男は。
あんなにも、無表情で、ずっと。
「~~~~~っ……!」
「……?お嬢様?」
顔から火を噴きそうなほど恥ずかしい。
(ろ、ロロが、翡翠の首飾りを買うときに、翡翠を『貴女の色』と表現したのは、そのせいなのね……!)
ミレニアの夜空色の髪でもなく、雪のような白い肌でもなく。
ロロにとって、ミレニアを第一想起させるのは、彼女の瞳の色だったということだろう。
(い、言われてみれば私も、ロロの色と言われて一番最初に思い浮かべるのは紅玉の色だわ……褐色の肌や、シルバーグレーなんて思い浮かべない……)
それはやはり、それだけ長い時間、彼の瞳ばかりを見つめているせいだろう。その同じ時間だけ、彼も自分の瞳をじっと見つめていたのだと思うと、どうにも気恥ずかしさがぬぐえない。
羞恥を堪え切れなくなったミレニアは、パパッと急いで衣服を身に着け、振り返る。
「い、行きましょう!着替え終わったわ!」
「……もうよろしいのですか?」
「えぇ!もう十分よ!」
むしろ今は、ロロと二人きりでいる方がなんだか恥ずかしい。
またついうっかりと、いつもの癖で瞳を覗き込んでしまったら――きっと、今度は、彼も自分をじっと見つめているのだということに気づいて、頬が夕日のように染まってしまう。
羞恥をごまかすように元気よく答えたミレニアをチラリ、と横顔で振り返ってから――ロロは背を向けたまま、もう一度考える。
「ロロ……?」
「いえ……」
紅玉の瞳が、すぃっといつもの位置に移動する。
(――わかっている。姫が望んでいるのは、もっと、直接的な言葉なんだろう)
肌の色なんかよりも瞳の方が印象的だから、気にしたことがない――などという、少し論点をずらしたような回答ではなく。
彼女が欲している言葉は、さすがにコミュニケーション能力に乏しいロロにも想像がついた。
(……あまり、こういう言葉は、口にしたくないんだが――)
じっと瞳を伏せて考える。
そして、一つ大きく息を吸って、ごくり、と唾を飲み込んだ。
「ろ、ロロ……?どうし――」
「――お嬢様の肌は、美しいです」
「――――え――?」
ぱちぱち、とミレニアは大きな目を瞬く。
ロロはもう一度、喉を嚥下させて、息を吸う。
――胸の奥に燻る熱が、決して表に出ないように。
「心配などしなくとも、貴女はとても美しい。雪のように白い肌は、陶器のように滑らかで――初めてお会いしたときは、女神とはこういう外見をしているのだ、と思ったくらいです」
「ろ……ロロ……?」
「幽霊のようだ、などととんでもない――人間離れした美しさ、という観点での表現であれば、かろうじて同意できますが、不気味だなどと、そいつの目は腐っているとしか――」
「ロロっ……!」
ぐぃっ
慌てたように、ミレニアはロロの手を引っ張り、振り向かせる。
「ど、どうしたの、急に――」
「……俺の、言葉では、届きませんか」
「ぇ……?」
ぱちり、と大きな翡翠が瞬く。
「俺の拙い言葉では――貴女が過去に負った、心の傷を癒すことは、出来ませんか」
「――……」
ぱちぱち、と何度も目が瞬かれ、漆黒の睫毛が風を送る。
気まずそうに、ロロの視線が伏せられる。
「俺は……貴女の想い人にはなれませんが――貴女を誰より敬愛する従者の言では、貴女の心を動かすことは出来ませんか」
「ロロ――……」
何を言うかではなく、誰が言うか。
どんなに拙い言葉でも、それが想い人の言葉であったなら、心が動く――
そう言ったのは、確かにミレニアだった。
それを、この口下手な従者は、彼なりにミレニアを慰めようと、慣れないことをしてくれたらしい。
「ふ……ふふ……お前ったら」
ミレニアは、堪え切れなくなったように笑う。
「馬鹿ね。――口説き文句なら、ちゃんと、目を見ていいなさい」
「……お戯れを……」
「あら、どうして?慰めてくれるのではなくて?」
クスクス、と笑うミレニアは、とても十五歳には思えない。
ラウラのような、直接的過ぎる下品な色香ではない、上品な女の色香を纏う軽やかな笑い声に、ロロは心の底から渋面を作る。
(――だから、嫌なんだ)
彼女を目の前にして、瞳を見て、彼女を褒める言葉など口にしたくはない。
――無理矢理胸の奥底に仕舞い込んでいる灼熱を、隠し切れる自信がないから。
「ね?……ロロ。ルロシーク。ちゃんと目を見て――私に、大好きなお前の瞳を見せながら、口にして」
「―――……」
この主は、ロロが名前を呼ばれると弱いことを、絶対に知っていて、そんなことを言う。
ぎゅっとロロの眉間に皺が寄った。
「私の肌は、美しいと思う?」
「……はい」
「どんな時に、そう思うの?――拙くてもいいわ。どこかで聞いたような褒め言葉じゃなくて、お前の言葉で、ちゃんと伝えて」
眉間の皺がより深くなる。
しかし、大人の女性の余裕すら漂わせたミレニアは、嬉しそうにじぃっとロロの瞳を見つめていた。
「……髪を」
「?」
「髪を、結い上げていらっしゃるとき――俺は、いつも、後ろに控えているので――」
「えぇ」
「漆黒の髪と、項の白さのコントラストが、とても目について――美しい、と、思います……」
「ふふ……初めて言われたわ。嬉しい。……それだけ?」
呻くように、拙い言葉で伝えたロロに、頬をほんのりと染めながら満足げな表情を返して、ミレニアは笑う。
「……勘弁してください……」
「あら、駄目よ。あと一つだけ。ねっ?いいでしょう?ルロシーク」
片手で顔を覆って許しを請うロロの腕にすがるように抱き付いて、甘えた声を出す。
――まるで、本当の恋人が愛の言葉をねだるように。
(やめてくれ――本当に、隠し切れない……)
胸の内で、何十年もくすぶり続けている熱が、外に出たいと暴れまわる。
――口にしてしまえたら、どんなに楽だろうか。
ミレニアの外見も内面も、ロロにとっては誰よりも魅力的で、もう何十年もただ一筋に恋焦がれているのだと。
ミレニアが羨んでいる褐色の肌の他の女など、微塵も目に入らないくらいに、心の底から惚れ抜いているのだと――
「ねぇ、お願い。あと一つだけ」
美しい翡翠を笑みの形に緩めながら、蕩けるような甘い声でねだられ、バクバクと心臓が暴れる。
――なんだ、その声は。
何十年分の記憶があるのに、初めて聞いた声。
普段、我儘など一つも言わない少女に、そんな声でねだられては――突っぱねることが、出来ない。
「……頬、が」
ごくり、と喉を嚥下させて、顔を覆った掌の隙間から、絞り出すような声で言う。
今、瞳を覗き込まれたらきっと――従者の敬愛というには苦しすぎるほど、隠し切れぬ大きな愛情に熱を湛えた光に気づかれてしまうだろう。
ぎゅっと掌の奥で瞳を閉じて息を飲む。
頼むから――頼むから、この、胸の奥に秘めた灼熱には、気づかないで、欲しい。
「嬉しそうだったり……恥じらっていたり……そういうときに、ほんのりと上気して、色付く肌が――」
「?」
「元の色が、白いせいか……うっすらとでも紅くなると、すぐにわかります」
「えぇ。それで?」
「その、真っ白な肌が、紅く色づく様は、何度見ても、えも言われず色っ――ん゛ん゛っ……」
「?」
言葉を急に咳払いで誤魔化すロロに、ミレニアが軽く首をかしげる。
「――とても、魅力的です」
「……言い直したわね?何と言おうとしていたの?」
「いえ。……魅力的だと、思っています。それだけです」
「ちょっと!?とても気になるんだけど!?」
「……これでいいでしょうか。気が済んだなら早く参りましょう。日が暮れてしまいます」
話は終わりだ、とでも言いたげに、ふぃっとロロは歩き出す。
その後も、ミレニアから甘い恋人が戯れるような距離感でねだるように纏わりつかれ、ロロはいつもの無表情を意識的に貫いて必死に気持ちを飲み下しながら、襤褸を出す前にと、必死に目的地へと急いだのだった。




