118、逃亡の日々⑤
ミレニアとロロは、再び森の中にいた。時刻は既に夕方に差し掛かりつつあり、ただでさえうっそうとした森は、さらに影を濃くしていく。
森と言っても、ここは魔物の巣食う東の森ではない。帝都から見て西にある、高温多湿の森林地帯に、彼らはいた。
ミレニアは、ラウラに譲ってもらった最新の地図を広げながら、慎重に位置を確認して道を指示する。
アルクの森――そう呼ばれているこの森林地帯は、二年前の日照りで砂漠化急激に進行して平原になり、だいぶ面積を減らしてしまっていた。その背景には、帝国の急激な領土拡大による物資の不足で、森林伐採が続いたことがあると言われているが、定かではない。
(さすがゴーティスお兄様……確かに、逃げ込むなら、魔物の脅威に晒される東の森よりも、こちらの方が生存確率は上がるわね。私たちと違って、きっと部下をたくさん引き連れているでしょうし……)
ミレニアが仮眠から目覚めて聞かされた話は、寝耳に水だった。
あの、悪夢のような一夜の後――唯一、ゴーティスが生き残っていると知らされたのだ。そして彼が、部下の軍人たちを中心とした帝国貴族を引き連れ、西に逃げていることも。
面食らった後、聞いてしまった。
『生き残ったのは、どちらのお兄様?』と――
どうやら、生き残ったのは、ザナドではなく、ゴーティス本人らしかった。
さすがのクルサールも、たった一年で帝国のトップシークレットの一つ、ザナドとゴーティスの秘密までは探り切れなかったようだ。”影”として生きるザナドの首を城門に晒して満足しているらしい。
「クルサールにとっては、一番の誤算でしょうね……お兄様方の中で、一番生き残って厄介なのは、間違いなくゴーティスお兄様だもの」
「……はい」
ゴーティスは、皇族の中でも類を見ないナショナリストだ。泣く子も黙るイラグエナム帝国の最強の軍隊を指揮する当人であり、配下の部下の人望も厚い。クルサールに与しなかった生粋の帝国民――主に貴族だろうが――は、ゴーティスを慕って、共に帝国を出たことだろう。そのほとんどが、彼の直属の部下でもあった職業軍人だったはずだ。
ゴーティスのカリスマは伊達ではない。祖国を卑劣な手段で奪われ、影のように寄り添って生きてきた双子の片割れであるザナドを奪われ、今頃は復讐の鬼となっているはずだ。本人も、短気なところを除けば、ギュンターの才能を受け継ぎ、君主としての資質も十分にある。間違いなく、亡命が成った暁には、再び大陸最強の軍事国家を作り上げ、クルサールが作り上げたかつての祖国の成れの果てを攻撃し、蹂躙しようとするに違いない。
(ザナドお兄様は……きっと、自分から、城に残られたのね)
ミレニアはぎゅっと胸元の首飾りを握り、十二人の兄の中で唯一ミレニアを対等に評価してくれていた兄の面影を想い、瞳を閉じる。
きっと、皇城が襲撃されたと聞いたとき、ザナドとゴーティスはどちらが生き残るべきか考えたことだろう。誇り高きイラグエナム帝国の血を残すために、何が最善なのかを同時に考え――
病弱なザナドよりも、健康体のゴーティスが生き残る方が、これから先の過酷な運命に立ち向かえると、判断したはずだ。
ザナド自身、ゴーティスに引けを取らぬ凄腕の剣豪だ。ゴーティスになりすまし、敵の目を惹きつけて撹乱し、ゴーティス本人を逃がす役回りくらい、お手の物だっただろう。
――優秀な、優秀な、兄だったのだから。
「でも、ロロ。本当に、あのゴーティスお兄様が、私を受け入れてくださるかしら」
「……わかりません。ですが、殿下は皇族の血統を何より重んじる御方です。お嬢様は、半分とはいえ、確かに生粋の皇族の血を引いている。その血を絶やさず繋いでいこうと、保護してくださる可能性は高いと考えます」
「そう……だと、いいけれど」
ミレニアは俯いて地図に視線を落とす。
ゴーティスは、ミレニアを嫌っている兄の筆頭だった。ミレニアに流れる半分の血を、異国の穢れた血だといって蔑んでいた。
今や、ミレニアが引くその血は、彼が愛する祖国を奪った反逆者に流れるのと同じ血だ。今まで以上に嫌われる可能性もある。
「今、この世で、一番貴女が生き残れる確率が高いのが、ゴーティス殿下の一団に身を寄せることです。おそらく、彼は新しく国を興すでしょう。そこで、保護してもらえばいい」
「……この、外見で?」
ふ、とミレニアが自嘲の笑みを漏らしてロロを振り仰ぐ。ミレニアの言いたいことを察し、ロロはぎゅっと眉根を寄せた。
「……申し訳ありません。ですが――」
「わかっているわ。目立つ外見の私たちが帝都から安全に脱出するには、こうするしかなかった。ラウラというあの女性には感謝しているわ。まさか、こんな便利なお化粧道具があるなんて――夜の女性は、本当にすごいわね」
ミレニアは自分の頬に手を当てて軽く嘆息する。掌に、うっすらと、褐色の粉が付着した。
帝都を脱出するために、外見を偽る必要があった。何より目立つのが、ミレニアの白い肌と、ロロの奴隷紋だ。このセットを見れば、すぐに手配書の二人だと気づかれるだろう。
そこでラウラは、娼婦たちの間で使われている、肌を褐色にするための化粧品をミレニアに与えた。それは、ミレニアのように、異国の血が混ざっていることで、真っ白だったり、生粋の帝国民にしては薄すぎる褐色だったりする女性たちが、客を取るために一般の帝国民として擬態するための、特殊な化粧品――肌を褐色に塗り替えるものだった。
ロロは、左頬を発布剤で隠し、西の少数民族の衣装を身に纏った。彼らは頭に布を巻くのが普通だ。ロロの珍しいシルバーグレーの髪を隠すと同時に、色合いの派手な民族衣装を纏うことで、左頬の発布剤や珍しい紅い瞳の印象が残らないようにした。
同じく西の民族衣装を身に纏った褐色の肌のミレニアがいれば、アルクの森へ向かう西の関所を通ったところで、怪しまれる可能性は低い。そうして二人は無事に帝都を抜け出して、早々にアルクの森へとやってきたのだった。
「緊張したけれど――とても、珍しいものを見られたわ。ふふ……お前、あんな派手な衣装も似合うのね」
「……忘れてください」
「人の目が無くなったらすぐに着替えるんだもの。もったいないわ」
「あんなぞろぞろとした動きにくい服装では、いざというとき、お嬢様をお守りできませんから」
森へ入ってから、すぐに荷物の中からいつもの衣装を取り出して着替えてしまったロロは、今は見慣れた黒衣のマント姿だ。
「……ゴーティス殿下が引き連れて出てきた貴族たちの行方を追って、クルサールの手下も、いつかはこのアルクの森に入ってくるでしょう。いざというときに供えて、はぐれてしまったときの合流地点を決めておきましょう」
ロロは、話を少し強引に切り替える。軽く嘆息してから、ミレニアは手元の地図へと視線を落とした。
「今が、この辺りよね。ラウラが言っていたお兄様方の今夜の野営地点はこのあたり……野営地点に敵襲があったと仮定して、逃げるとしたら――そうね、この泉のほとりで落ち合うのはどうかしら」
「かしこまりました」
こくり、とロロは真面目な顔で頷く。
いつも以上に固い表情筋に、ミレニアはロロの瞳をいつものように下から覗き込んだ。
「……お嬢様……?」
「……お前、何か、隠している?」
一瞬、ロロの紅い瞳が素早く瞬く。
「今朝起きてから、ずっとよ。最初は、異常事態に警戒しているせいかとも思ったけれど――どうにも、変な感じがするわ」
「それは――……」
紅い瞳がすぃっと左下へと移動する。
「言いたいことがあるなら言いなさい」
「……いえ……特に、何かがあるわけでは――」
「本当?……だって、何か、酷く苦しそうな顔を、しているから」
ドクン……
心配そうな翡翠の瞳が、至近距離から覗き込んでくる。
「いつも言っているけれど――私、お前の瞳が、好きだわ」
「……?」
唐突な話題に、ロロは首をかしげる。
ミレニアは、少しだけ困った顔をして、力なく笑みを浮かべた。
「いつも表情の変わらないお前だけれど、瞳だけは、お前の感情を映してくれるから。……でも、今朝からずっと、お前の瞳は昏く厳しい光を宿したまま。――全然、揺れ動くことがないんだもの」
「それは――」
「勿論、この緊急事態に、暢気に笑っていられないのはわかるけれど――それでも、今のお前は、異常なまでに尖りすぎだわ」
言いながら、そっといつものように、左頬に向けて手を伸ばす。
温かな繊手が、永遠に消えない奴隷紋を包んだ。
「お前の瞳が、色々な光を宿すのが好きなの。それを毎日眺めるのが、私の幸せ。――ねぇ、ロロ。お前に苦労を掛けてしまっているのはわかるけれど――でも、私の傍では、もっと、心の緊張を解いてほしいわ」
「――――……」
紅玉の瞳が、一瞬、大きく揺らめく。
ぐっ……と固く拳を握り締めれば、爪が掌に食い込む気配があった。
「――お嬢様、の」
「?」
「貴女の無事が保証されれば――緊張も、解けます」
青年は、そっと頬を包んでいる少女の手に手を重ねて、ゆっくりと手放させる。
「ここから先は、今までと違って――俺には、最善の策がわからない。貴女をお守りするのに、どんな選択を取ればいいか、わからないのです」
「ロロ……?」
「一瞬でも気を抜けば、俺は、貴女を失う。――もう、そんな未来は、御免です」
ぎゅ……
苦し気に呻いたロロは、解かせたミレニアの手を静かに握り締める。
「……約束を」
「ぇ……?」
「お願いです。――俺より先に、逝かないでください」
ぱちぱち、と翡翠の瞳が瞬かれる。
今にも泣きそうに顔を歪めて、ロロは懇願した。
「一秒でいい。――必ず俺より後に死ぬと、約束してください」
「ロロ――……」
今までも、何度か言われたことのある言葉。
だが――今日が一番、真に迫った声音だった。
「最期まで――死出の旅路のその先まで、貴女の供をさせてください。そのためなら、何でもします。どんなことでも、成し遂げます。だから、どうか――」
ザァ――…
風が吹いて、木々を揺らした。
「――最期は、貴女を守って、死なせてください」
青年の消え入るようなか細い声が、密集した森林に淡く響いて、溶けた。




