114、逃亡の日々①
チチチ……
小さな鳥の声で目が覚める。纏っているマントが微かに朝露に濡れている気配があった。
「ロロ……?」
目をこすりながら体を起こすが、寝る前までそこにいたはずの青年の姿が見当たらない。
キョロキョロ、とあたりを見渡す。どうやら、かなり早い時間のようだ。
パチパチと、相変わらず焚火は小さな火を湛えて音を立てている。
ぎゅ……と少しの不安に駆られて土に汚れた黒いマントを我知らず握り締めると、遠くから目当ての人影が姿を現した。
「ロロ……!」
「お目覚めでしたか」
見ると、ロロの手には、別の場所から掘り起こしたらしい革袋が数個握られていた。
ミレニアの視線に気づき、ロロはかるく革袋を持ち上げながら説明する。
「レティが掛けた魔法は、時間が経つと効果を失うので――早めに、必要な分を掘り起こしておきたかったのです。……これから、金が必要になるので」
「そう。目が覚めたときに姿が見えなかったから、どこへ行ったのかと思ってしまったわ」
「申し訳ありません。……危険はないと判断し、少しの間、お傍を離れました」
「いいのよ。ありがとう」
ロロは、馬に革袋を括り付けながら口を開く。
「少し早い時間ですが――どうされますか。もし、水浴びをされたいならば、近くにちょうど良い水場があります。野生動物もおらず、危険はありません。……腹が空いているようなら、食事の準備をしますが」
「ん……そうね。では、身体を清めようかしら。土埃で体中砂っぽいの」
「はい。……少々お待ちください」
言いながら、ロロは革袋を馬に括り終えたあと、今度は紅玉宮を出るときから馬に括りつけてあった荷を開き、中から薄手の布と替えとして用意していたらしい黒マントを取り出した。
「水浴びが終わったら、この布で身体を拭いて、外套の代わりにマントを羽織ってください。今の時間帯の森はまだ冷えます。昨晩、汚れ切った外套をもう一度身に着けるよりは、良いかと」
「ぇ……あ、た、確かにそうね……」
どうやら、防寒着として彼の新しいマントを貸してくれるらしかった。確かに、昨夜から着ている外套はもう、汚れ切っている。土の汚れはもちろんだが、ジルバを抱き抱えたときの血液や、ロロに駆け寄った時の吐瀉物の跳ねなどで、あまりもう一度身に着けたいと思うようなものではない。
幸い、外套の下に身に着けていたワンピースはさほど汚れていないので、あまり良い気分ではないが、もう一度身に着けても大丈夫だろう。贅沢は言っていられない。
「服は、あとで調達すればいい。そのための金です。……束の間、それで我慢してもらえると」
「わ、わかったわ。ありがとう」
「では、どうぞこちらへ。水場に案内します」
先ほど革袋を掘り起こしに行ったときに見つけたのか、事前にここら辺を調査していたのか。ロロはうっそうと茂る森の中でも迷うことなく足を進めていく。
後に続いてしばらく行くと、確かに人気も獣の気配も何一つない綺麗な泉があった。
「俺は、万一に備えてここに控えています。どうぞ、ごゆっくりと」
「えぇ……――ぇえ!!?」
頷きかけて、驚いて二度見する。一瞬、ロロは怪訝な顔を返し――真っ赤な顔のミレニアに、少女が言いたいことを理解して「あぁ」と声を上げる。
「後ろを向いていますので、ご心配なく」
「あ、そ、そう……そう、よね……びっくりしたわ……」
ほっと安堵のため息を漏らす。ロロに眺められながら水浴びをせねばらないのかと焦ってしまった。
言葉通り、青年がくるりと後ろを向いたのを確認してから、そっと衣服を脱いでいく。屋外で裸になるという感覚がどうにも気恥ずかしいが、これもまた贅沢は言っていられない。覚悟を決めて、最後の一枚まで全ての布を取り払った。
「早朝なので、かなり水が冷たいはずです。いきなり入らず、ゆっくりと身体を水に慣らしてください」
「え、えぇ……」
言われた通り、恐る恐る足を泉へと沈ませる。ちゃぷ……と水音が響いて、足先から冷たい感触が伝わってきた。
(さ、寒い……!)
確かにこれはかなり冷たい。ゆっくりしろと言われても、身体が凍えてしまって難しいだろう。手早く身体を清めてしまった方がよさそうだ。
ミレニアは急いで身体を洗い清めていく。ギシギシと土ぼこりできしんだ髪も、サッと水にくぐらせて最低限の身だしなみを整えた。
ちゃぷちゃぷ、パシャパシャ、という水音を聞きながら、ロロはふと己の隣へ視線をやり、ボッと足元の草を燃やす。
「ひゃ――な、何……!?」
「驚かせて申し訳ありません。……水から出たときに、寒いかと思い」
「あ、そ、そう……ありがとう……」
水浴びを終えて服を身に着けるまでの間のわずかな時間、その火にあたりながら暖を取れということらしい。無骨ながら、逃亡生活とは思えないほどどこまでも細やかな心配りをする従者に舌を巻いて、ミレニアはゆっくりと水から上がった。炎が傍にあるだけでかなり温かい。
髪の水気を絞りながら、ミレニアは口を開く。
「……ねぇ、ロロ」
「はい」
「お前、どうしてそんなによく気が付くの?」
「…………」
「護衛兵ではなく、フットマンでもさせたらよかったかしら」
「……勘弁してください」
後ろを向いていても、ロロが渋面を刻んでいる気配がする。クスクス、と笑いながらミレニアは手早く衣服を身に着け、渡されたマントで体を覆う。綺麗に洗濯された物だろうに、普段から身に着けている衣服だからか、身に着けた途端に馴染んだ紅い瞳の護衛兵の匂いがほのかに香って、ふっと頬が自然に緩んだ。
「着替えたわ」
「……では、参りましょう」
一瞥して傍らの火を消し、ロロは再び迷いなく足を踏み出す。
「お前は入らないの?」
「朝、起きたときに終わらせました」
「そう。……よく眠れた?」
「……それなりに」
相変わらず、寡黙な男との会話のキャッチボールは端的過ぎてあまり続かない。くす、と呆れた笑みをこぼして、ミレニアは大人しく鍛え抜かれた逞しい背中についていった。
◆◆◆
野営場所に戻ると、ロロはてきぱきと食事の準備を始めた。
朝、水浴びをしたときに汲んで来たらしい水を、火にかけて煮沸消毒して飲み水にする傍ら、保存食の缶詰を温める。
「火の魔法って、本当に便利なのね」
「サバイバルにおいては、どの魔法もそれなりに役立つと思いますが……まぁ、確かに、便利ではあります」
「ふふ……ジルバが、風の魔法は日常でも戦闘でもあまり役に立たずに地味だから嫌だと言っていたわ。ロロの火が羨ましいって言って――」
過去を懐かしんで言葉を紡いだ後、ハッと口を閉ざす。
あの、皮肉な笑みが似合う男は――今ごろ、どうしているだろうか。
不意に気まずい沈黙が降りて、焚火が爆ぜる音だけが早朝の森に微かに響く。
「……捕らえられた彼らの処遇は、あまり期待できないでしょう」
「!」
ぽつり、とロロは静かに口を開く。ミレニアは弾かれたように顔を上げた。
「革命を成した以上、奴らは今までの帝国のやり方を否定するでしょうから、奴隷制度そのものを廃止しようとするかもしれません。清貧を愛し、弱者を救うという奴らの思想を思えば、私腹を肥やして人道的とは言い難い行いをする奴隷商人を許さないでしょう。……奴隷だから、という理由だけで処罰されることはないと思いますが――」
「じゃ、じゃあ――」
「しかし、同時に旧皇族の勢力殲滅に対しては頑なでしょう。……貴女を崇拝していると捉えられるような発言や行動をすれば、見せしめとして処罰されてもおかしくありません」
ひゅ――とミレニアの喉がか細く鳴る。顔が真っ蒼に色を無くした。
ロロは、視線を伏せて、なるべく淡々と、感情が表に出ないように言葉を続けた。
「あるいはあの卑劣な男ならば、奴隷たちを人質に、貴女に投降することを求めるかもしれない」
「っ――それなら、すぐにでも――!」
「いけません」
立ち上がろうとしたミレニアの手を取り、引き留める。
主が、そう言い出すのはわかっていた。
自分の命一つで救える従者の命があるのならと、当たり前のように命を擲てるのがミレニアだ。
「どうして!?私が投降すれば、彼らの命は――」
「無意味です。――人質にされるという事実を、奴隷たちは、きっと受け入れない」
ロロはぎゅっと唇を引き結び、瞼を伏せてうつむく。悔し気な声が、噛みしめた歯の隙間から洩れた。
「貴女が投降すれば、あの男は何の躊躇もなく貴女の首を刎ね、城門に晒すでしょう。それは、奴隷たちもよくわかっています。何より――自分たちの命を人質に取られれば、すぐにでも投降し、斬首を受け入れてしまう貴女の性格を、貴女に心酔した者として、誰よりよくわかっている。自分たちの命を救うため、貴女の命を散らさせてしまう――そんな事態になるなら、と、先に自分の舌を噛み切る連中ばかりです」
「な――……!」
「貴女は、奴隷に、”自由”と”尊厳”を与えました。――俺たちに、”高潔な死”の尊さを、教えてしまった」
「――――……」
「貴女の足手まといになるくらいなら、死など微塵も怖くない。奴隷時代には考えられなかったことです。皆、胸を張って死んでいくでしょう」
ロロの淡々とした声に、ミレニアはぎゅっと眉をしかめる。
「…………貴方たちに教えたかったのは、そんなものではないわ……」
「貴女の思惑がどうであれ、俺たちは、それを、尊いと感じています。貴女のために生きて、死ねる。それが、どんなに幸せな事か――貴女には、わからないでしょうが」
「えぇ……わからないわ。全然……わかりたくもない」
ミレニアの声音が暗く沈む。今にも飛び出しそうだった彼女が肩を落としたのを見て、そっとロロは引き留めていた手を離した。重力に従い、地面に向かって白魚のような手が力なく落ちる。
「……貴女が投降しようとすれば、奴隷たちは間違いなく全員己の命を絶つでしょう。ですが、貴女が逃げているうちは、クルサールも全員を殺せない。人質は、殺してしまえば価値がなくなります。全員を生き残らせることは難しいかもしれませんが、特に貴女に近かった者は最後に回されるでしょう。……それを願い、今は、耐えてください。彼らを救うにしても、今の状況では不可能です。……味方を作らねば」
「そう……そう、ね……」
力なくその場に座り込み、ミレニアは俯く。
ロロが言いたいことはわかる。――が、今のミレニアに、味方など、一体どこに存在すると言うのか。
温めていた缶詰を火からおろしながら、ぽつりとロロは口を開いた。
「……帝都に、行きましょう」
「ぇ……?」
ぼんやりと、翡翠の瞳がロロを眺める。
いつも通りの冷静な無表情が、そこにはあった。
「このままここに居続けるわけにもいきません。”味方”を見つけるためにも、まずは、情報を集めねば」
「で、でも――帝都、なんて……きっと、私の手配書が出回っているわ」
「はい。クルサールが語る”神”の教えに異を唱える貴族たちや、奴隷商人をはじめとする奴らの敵――奴らの言葉を借りれば『異教徒』ですが――の捕獲活動も盛んでしょう。危険は承知しています」
淡々と言いながら、ロロはミレニアを見る。
どこか影を背負った、冷ややかな瞳。
「ですが、大丈夫です。――帝都で生き延びる方法は、知っています」
「ぇ……?」
「必ず俺の言う通りに動くと、約束してください。そうすれば、無事に情報を得て、帝都を抜け出せると約束します」
一緒にいた五年間で、初めて見る、昏い昏い紅玉の光。
昏く凄絶な光を宿したその瞳は、それでも、何故か絶対の自信を持っているようだった。
「わ……わかったわ」
ごくり、と小さく唾を飲み込んで、ミレニアは頼りになる専属護衛の言葉にしっかりと頷いたのだった。




