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殿下、今度はあなたを好きにさせてみせます!——そう思っていた頃もたしかにありました。  作者: 稿 累華
第15章:第三皇子

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98話:兄皇太子と弟皇子

「——それで、おれに言うことは?」


「……ありがとう、ユス兄上」


 壁際で葡萄酒の硝子杯を傾けていると、兄ユステルが同じように硝子杯を持って現れた。


 礼を言いながらも、フィルクの視線はメリヤナのところにあるままだ。彼女は今、エストヴァンの貴族たちと交流している。

 朗笑(ろうしょう)する笑みが眩しいようで、一方で社交の場の彼女は、彼女ではなかった。自分には力を抜いて接してくれる、あんな作った笑みは浮かべない、というのがフィルクの欲を満たす。


「しかし、聞いた時はさすがのおれも驚いたぞ。急に帰って来て皇子として動けるようにして欲しいと、ノクセン公伝いに連絡をよこしたかと思えば、戻ってきた早々にメリヤナ姫君をどうにかして国に招待して欲しいだもんな。おれはだいぶ無茶をしたぞ、ルクス」


 ルクスは、フィルクの愛称のひとつだった。ユステルだけがそう呼ぶ。


「無茶な願いをふたつ叶えていただきまして、ありがとうございます。兄上殿」


「苦しうない苦しうない」


 フィルクが棒読みで言えば、ユステルは調子に乗ったように言う。


「まあ……、それがお前に対する、おれからの償いだからな」


 調子を下げて、ぽつりと言う。気分がすぐ上がったり下がったりするのは酔いのせいだろう。首から見えている〈血の盃〉の証さえ赤くなっているように見える。この兄は酔いやすいと最近知った。

 別に償ってもらう必要はないのに、とフィルクはずっと思っている。だから、この兄に物を頼む機会なんて、フリーダに養子になってそれ以後ないと思っていた。


 なのに、ふたつも頼んでしまった。

 そして、それをユステルは快く受け入れて叶えてくれた。頭が上がらない。


「もし、兄上が困ることがあれば、僕が助けるよ。必ず」


 それは己自身への誓いのようなものだ。この恩は忘れてはいけないと思っている。

 庶子である自分に情けをかけてくれたのは、きっかけは遊び心だったかもしれないが、皇宮ではこの兄ひとりだけだった。


「それはありがたいな! とりあえず、今はイーリスを止めて欲しい。今日は体調悪くて伏せっているが、危険で仕方ない」


「……それは、リヤを連れて行ったら解決するよ」


 数ヶ月前にはじめて会った身重の義姉の振る舞いは、たしかに短槍で何をしでかすのかわからない勢いがあった。とても身重のようには見えない。


「リヤってお前……確認だが、ルクスの〈唯一〉が彼女なんだよな?」


「……そうだよ」


 酔っ払いながらもユステルは小声で言う。皇族の〈唯一〉の話は繊細で、知られてはいるが、皇族の〈唯一〉になろうとやっきになるものもいる。あるいは、意味を解釈して、その〈唯一〉を除外しようという者も。

 だから、婚姻には至っていない皇族の〈唯一〉の情報は繊細視される。


「で、メリヤナ姫君の〈唯一〉は?」

「……王太子」


 フィルクがぼそっと無愛想に言う。

 うえ、と兄が蛙でも踏み潰したような声を出した。


「それってお前……大丈夫なのか?」


「大丈夫か大丈夫じゃないかと聞かれれば、まちがいなく大丈夫ではないね」


「いや、そうだよなあ、うん」


 考えるだけで地獄だわ、と兄が言う。

 兄の〈唯一〉はもちろん皇太子妃であるイーリスで、やいのやいの言いながらも、心底惚れ込んでいるのは知っている。照れるから言わないだけだ。イーリスのほうは、権能を持たないから知らないが。


「だが、王太子か……ルクスが略奪とかしたら、王太子と戦争することになるのか。おれはあいつも気に入っているんだよな。まあ、そもそも、これのせいで剣先向けられないけど。そんなことになったら、ユニル殿が迅速にぶっ飛んできそうだ」


 首元の痣を指さしながら、際どいことを言う。


「……リヤから王太子を取ったら、逆にリヤのほうがおかしくなっちゃうよ。僕はそれは望まない」


「お前はどうするの?」


「別に……彼女が生きて幸せでいてくれればそれでいい。もとより、知っていたのに、勝手に彼女に惹かれたのは僕だからね。邪魔者は今回でおしまいにする」


 今回のはただの仕返しだ。

 目の前で口付けられた。見せつけるように。

 思い出すだけでも、(はらわた)が煮え立つようだ。


「……そうか。だが、メリヤナ姫見ていると、そう思えないんだよなあ」


「それは、彼女から話を聞いてないからだよ。思い出すだけで、不愉快極まりない」


 ルデルさまはかっこいいだの大好きだの、なんでそんな話を好きな女から聞かなきゃいけないのか、ずっと我慢してきた自分をよくやったと褒めてやりたい。


「まあ、聞いてないけどさ……。ただ、王太子といる時と、さっきルクスといた時だと、彼女の態度、あきらかにちがうぞ?」


「嫌われないように猫かぶってるんだよ」


「いや、まあそうかもしれないが、なんというか……すまん、うまく言えないんだが、おれには彼女が()()()()()()()()()だけに見えるけどな」


 兄は、彼女が人生をやり直していることを知らないからそう見えるのだろう。

 彼女がどんな想いで、今の人生を過ごしているのか知れば、きっとそんなことは言えない。

 フィルクは兄に返す言葉を持たなかった。彼女の秘密は、死んでも自分と彼女だけのものだ。


「あ、ほら」


 フィルクが黙り込んでいると、ユステルが杯で、メリヤナのほうを示す。

 彼女が話を終えて笑顔を綻ばせながら、こちらに来るところだった。



「——フィル」



 笑顔を見て、じん、とする。ぽたん、ぽたん、と雨滴が落ちる音がする。


「それから、ユステル殿下」


 メリヤナが兄に向き直って淑女の礼をする。


「こんばんは、姫君」


 ユステルは杯を上に向けて応じる。


「ちょうど、ルクスとあなたの話をしていたところだ」

「わたくしの……?」


 やめろ、とフィルクはユステルを小突く。

 何を話しはじめるのだ、この兄は。


「いやいや、おれにも姫君を、リヤ、と親しく呼ばせていただける権利をいただけないものかと」


 メリヤナが、きょとんとする。

 その仕草もかわいかったが、兄の提案は解せない。

 余計なことを言わないでいてくれたのはありがたいが、それはフィルクとメリヤナの大事なつながりのひとつだった。それを誰かに、たとえ信頼する兄であろうとも、踏み越えられるのはいやだった。胸奥の怒りが蜷局(とぐろ)を巻いてしまう。


 フィルクが己の感情と静かに戦っているあいだ、ユステルはにやにやと、メリヤナはしばし顎に指を当てて真剣に考え込んでいた。それから、答えを発した。



「——お断りします」



 メリヤナがにっこりと言った。


「わたくしを、リヤ、と呼ぶのは、フィルだけと決めていますから」


 フィルクは、はっと顔をあげる。大きな雨雫が落ちるようだった。


「へえ、それは残念。じゃあ、ソルア夫人と同様にヤナというのは?」


「それは構いません」


「ほう。ちなみに、王太子から同じ提案をされたら?」


「そうですね……ルデルさまからそのような提案をされたことはないですけれど、やっぱり断ります」


「断ると思います、じゃなくて、断る?」


「そうですね、断ります。愛称で呼びたいと言われたら、ユステル殿下と同じくヤナを提案させていただくかと思います」


 兄が何を思ってこの話題を提供したのかはわからない。

 だが、フィルクには十分だった。十分すぎるほど価値のある話題だった。

 顔を伏せる。唇を噛む。


(ああ……なんで、君は)


 蜷局が溶けて、怒りが沈んでいった。何度だって思うこと、何回だって考えること。



(どうして、君の〈唯一〉は僕じゃないんだ)



 そうだったらいいのに。そうだったら、きっとこんなに苦しくない。メリヤナの言葉に素直に喜ぶことだけができるのに。こんな虚しい切なさを持て余さなくて済むのに。

 それでも、——たまらなくうれしかった。


「ふーん、なるほどなあ」


 ユステルが意味深に肯いた。フィルクは俯いていたから兄の視線に気付かなかった。


「じゃあ、ヤナって呼ぶことにする」

「はい、もちろんどうぞ」


「ついでだから、その堅苦しい言葉やめないか? もっと気楽に。ルクスと喋ってる時と同じでもいいんだぞ」


「それは……ちょっと考えます」


 メリヤナは愛想笑いを浮かべて誤魔化すように言った。

 それから、フィルクの手を取る。


「——ねえ、夜景見せてくれるんじゃなかった?」


 頭が下がっていたフィルクに覗き込むように、上目で見上げるように、メリヤナが問う。

 フィルクは、その姿を認めて、感情から浮かび上がる。


「そうだった。行こうか」

「うん」


 フィルクが肘を出せば、メリヤナが当たり前のようにそこに手を絡める。

 こんなひとつひとつのできごとが、フィルクにとって貴重で、ありがたい瞬間だった。





 ふたりが去ったあとで、ユステルは残った葡萄酒を全部呷ってからつぶやく。


「やっぱりというかむしろ、()()()()()()()()()()()んだな、あれは」


 さて、どうしてやるかな、とユステルは楽しみを見つけたように、にやりと不敵に笑った。

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