66話:つくろった再会(1)
「——少し休んできてもよろしいでしょうか?」
人という人に囲まれ、立ち続けていることに限界を覚えた。大規模な宴会に耳も目も足も、すっかり参っていた。
切り出したメリヤナに、ルデルは案ずるように尋ねる。
「大丈夫か? ほとんど食事も取れていないから、疲れただろう。しばらく私だけでも問題ない」
「お気遣いありがとうございます」
「少ししたら、何か届けさせよう」
ルデルは言って、メリヤナの結ってある髪にふれた。今日は、髪を編んで前のほうで下ろしていた。ところどころに月桂樹の細工を挿して、華やかさを演出している。その髪にふれてから、今度はおくれ毛を遊ぶようにふれて、それから耳元に唇でふれた。
内心おろおろしていたメリヤナは、唇が左耳にふれた瞬間、びくっとした。頬が朱に染まる。近くにいた観衆が甲高い声をあげた。
離れたルデルに微笑まれて、メリヤナはふれられた耳をおさえる。
ざわざわと取り囲む周囲を振り払うように、メリヤナはその場から離れた。
心の臓がいくつあっても足りない。こんなこと、今までのルデルでは絶対にありえない振る舞いだった。
そう。あの日から、ルデルは距離感を度外視している。
とにもかくにもふたりであろうが周囲に人がいようが、今までにはないふれ合いをしてくる。さっきのもそうだ。まるでメリヤナのことを心から愛しいと想ってくれているかのように。
(ほんとうにルデルさまは、そう想ってくださっているのかもしれない)
考えてしまうと、感情が暴れ出してしまいそうだった。ルデルに応じたくてたまらない。ただ、その愛に応えたくてたまらない、と感情が言っている。
けれど——、応じられない。
なぜだろう。なぜか、応じてはいけない気がしている。
それは左肩の刻印のような気もするし、ちがう気もする。
いけない、ちがう、と直感のような叫びのようなものがどこからか聞こえてくるのだった。
だが、メリヤナは歩を進めながら、にわかに悟る。
(ルデルさまに愛されているのであれば、王国の滅びの運命は回避できる……?)
そうだ。前回、王国が滅びたのは、メリヤナが婚約を破棄され、処刑されたことに端を発する。エストヴァンに侵攻する口実を与えることになったのだ。
王宮の見取り図を、誰がエストヴァンに転送したのかという〈盟約の証となる報せ〉の問題は解決していないが、そもそも婚約破棄されなければいい。国内情勢悪化のきっかけとなった金銀の輸入制限も、もう起きない。
サレーネが現れたら、どうなるかわからない。もしかしたら、またルデルが変貌してしまうかもしれない。そう考えると胸が痛む。
しかし、王国が滅びる運命を回避するのであれば、メリヤナは今のところ、ルデルの愛に応じていいはずだった。応じて悪いことなど、ひとつもなかった。
悟ってしまって、メリヤナは呆然とした。小憩の間に着いて座るのを忘れてしまうほど、その事実はメリヤナを狼狽させた。
こんこん、という控え目な音。扉を叩く音に、思考が浮上した。足の痛みや体が張った感覚も同時に思い出す。じんっと音が出るようだった。
ルデルの使いであろうか。軽食を持って来るには随分とはやい。
「——リヤ?」
波紋を作るかのようだった。
透明な低音が、メリヤナの胸に一擲を投じた。
指先がふるえた。考えていたことが雲散する。扉と、扉の先にいるであろう人物に、肌が声をあげるようであった。
ふるえた指は取っ手を掴み、ゆっくりと扉を引く。長い時間のように思えた。
そこに、彼が、いた。
自分より頭ひとつ分ほど高い背丈は変わらず、飾紐でひとつに結ってある髪は伸びただろうか。白金の糸が肩甲骨まで伸びているように見える。
「……フィル」
やっと声が出てきて、見上げると、落ち着いた低音がやわらかく笑った。
「久しぶり」
メリヤナは込み上げるものがあって、咄嗟に下を向いた。
「君が抜け出てくるのを見たから、追いかけてきた。お互い、忙しかったからね」
「……うん」
フィルクの声が、胸奥に木霊する。安心する透明な低い声。さっきまで感じていた祝宴の緊張感が、ほどけて和らいで溶けていくようだった。
「フィル……、」
喉からつっかえるように、声が出た。
「うん?」
「……ただいま」
「おかえり……リヤ」
うん、とメリヤナは溢れるのを堪えられずに、肯いた。
ずっと声を聞きたかった。話したいことが、たくさん、あった。
いざ久しぶりに会うと、出てくる言葉はなく、ただぐずぐずと雫が出てきた。抑えるしかなかった。あたたかい手の平がメリヤナの頭を優しく撫でる。
「がんばったね」
「……うん」
「はじめての務めに、気を遣っただろ」
「……うん」
「僕の手紙は、役に立った?」
「……うん、すごく」
そっか、とフィルクは相槌を打った。そのあとの言葉は続かず、ただ、静かに泣きはじめるメリヤナの頭を撫で、肩をさすっていた。
再会の喜びが沁み入って、胸を安らげるようだった。
しばらくして、メリヤナが落ち着きを取り戻すと、フィルクは思い出したように、部屋に入って良いか尋ねた。メリヤナは肯き、フィルクを招き入れる。
気持ちが整ってくると、出てくる話はとめどなかった。
行きの道中、枯れ倒木があって道を迂回せざるを得なかったことから、サルフェルロ建築の素晴らしさ、挟食のおいしさ、それから目にした本物のアルー=サラルの文化。話せば切りがなかった。
フィルクはそんなメリヤナの話をよく聞き、時折いつものように突っ込みや、からかいを混ぜながら話した。以前からと変わらない、けれど、変わらないようでいて、目元が前よりもやわらかい。そのやわらかさに見つめられていると、そわそわとした落ち着きのない気持ちになった。それでいて、深い海の底のような双眸には、以前よりも底知れなさが増したようで、メリヤナは不安も感じた。
そうして、落ち着きのない気持ちと不安から、余計な話をしはじめた。
「——ねえ、どうして、そもそも使節団に一緒に来なかったの?」
「そんなこと言われても、上からのお達しだから、仕方ないよ。僕は残れと言われた。それだけ」
「それっていつ知ったのよ?」
「たしか、三日とか前だったかな」
「はあ?」
メリヤナは大きな声を挙げた。むかっ腹が立ってくる。
「なんで、教えてくれなかったの。わたしは当日の朝、出立前に知ったのよ」
「……出立、前?」
「そうよ。意地悪じゃない。わたしはてっきりあなたは付いてくるものだと思っていたのに」
「…………」
フィルクからやわらかい表情が消える。怪訝に秀眉をひそめた。
メリヤナはそんなフィルクの様子に気付かない。苛立ちを覚えながら続ける。
「前もって教えてくれたっていいじゃない」
そういえば、数年前に領地から帰ってきた時は、あれほど再会を喜んでくれていたのに、やけに今回は落ち着き払っている。帰ってきても、会おうと努力したのはメリヤナだけで、フィルクはさきほど忙しさを言いわけにしていた。
リヤは特別だ、と言っていたではないか。だから、今回とても心配していた。特別な友人がいなくなって話し相手はいるだろうか、とか。寂しくしているのではないか、とか。
——メリヤナに会いたいんじゃないだろうか、とか。
どうして、今回はそう言ってくれないんだろう。
去り際の視線が絡まった時、あの泣きたくてたまらなかった感情を、どうして癒やしてくれないのだろう。
そんな自分勝手なことばかり思いついて、メリヤナはだからフィルクの様子には気付かなかった。
何を思いついたのか、言わなくて良い時宜に、一番言わなくて良い話題を選んで、八つ当たりに近く、言い放った。
「——殿下から、告白されたの。あちらで」
メリヤナは客観的に聞こえるように言った。思い出すと、落ち着きがなくなってしまいそうになる。つとめて淡々と言った。
「なんだって……?」
フィルクから表情がなくなる。メリヤナは気付かない。
「あちらを出る前日にね」
「…………」
「わたし、舞い上がるようで……すごくうれしかった。だから、あなたに一番に報告しようと——」
「——それで、僕は用なし?」
メリヤナの言葉にかぶせるように問われた、嘲笑うかのような声に、背筋に冷水を浴びたような心持ちがした。
悸然として、やっとフィルクの顔を見た。




