67話:つくろった再会(2)
笑って、いなかった。さっきまでの優しい、やわらかい空気はどこにもなかった。
あるのは、暗渠とした熱。
巣食っている炎。
底知れない飢餓。
メリヤナを絡めて離さないもの。全身が縫いつけられたように動かなくなった。
縫いつけられて、そこではじめて、さきほどまでのフィルクが、つとめて優しく振る舞うことで、己の感情をすべて繕っていたのだと知った。だから、落ち着きがなく不安になった。それは、フィルクの感情であって、フィルクではない。もっと貪欲で凶暴で、それでいて焦がすように奪っていくもの。
「何も、言わないんだ」
「ち、が……」
「何も言えないんだろうね。だって、ずっと君が望んでいたことなんだから」
ずっ、とフィルクの距離が近くなった。にじり寄るようで、けれどメリヤナは縫い止められているから、動けない。距離はすぐそこ。額がぶつかるほどの先。
「殿下をたらし込むために、都合のいい僕は、もう君には必要ないわけだ」
「そんなこっ——」
卒然と、降ってきたものに、否定の言葉が呑み込まれた。
目を見開く。
後頭部に左手。頬骨を包むように当てられた右手。そうして掬われるようにして、降ってきた。
何が起きたのかわからない。
ふれたものは、右手よりもあたたかく、しっとりしていて、それで食むようだった。
伏せられた瞼は睫毛が長く、昔日に御使いのようだと思った面影があった。
(きれい)
どこかぼんやりと浮遊した思考が言う。
だが、現実はちがった。
「…………っ」
息ができず、手だけは動いて、眼の前の思ったよりも引き締まった胸板を押す。そうすると、ふれたものが一度離れて、二度目があった。今度は、メリヤナから、胸の奥から、何かを奪っていくようだった。狂おしく感じていたもの。ルデルアンに応じられなかったもの。
奪われる感覚は、待っていたようで、甘美だった。
「——メリヤナ?」
はっとして、互いが離れた。扉の底から聞こえたルデルの声に、我に返る。何か持ってこさせようと言っていたが、ルデル本人が来るとは聞いていなかった。
向かいと視線がぶつかる。息が上がっているのは、自分だけではなかった。
「……ルデル、さま」
「大丈夫か? 少食を持ってきた。食べられそうか?」
尋ねられた声に、向かいの双眸が、行けよ、と言っていた。凶暴さを隠しもしなかった。置いて行きなよ、という目顔は、捨てられそうな犬や猫のようだった。
ここで置いて出て行ったら、とメリヤナは思った。
彼は、絶望してしまう。
絶望して、もう二度と、メリヤナの前には姿を現さないかもしれない。そんな確信めいた予感があった。これまでの付き合いから導き出される確信。
こういう時、選択を誤ってはいけないのだと、メリヤナはこの五年で、よく知っていた。
「——ごめんなさい、ルデルさま。少し食欲がなくてあまり食べられる気がしません」
「……そうか。だが、平気か? 入って良いか?」
「も、うしわけございません。今横になっていて……もうしばらくしたら、髪を整えて参ります」
「……わかった。休んでいるところすまない。待っている」
「はい」
そうやって足音が去っていくと、フィルクと向き直った。
驚愕の色を浮かべて、メリヤナを見返す。
「……なんで」
メリヤナはそれを静かに受け止める。
「なんで、行かないの。行けばいいだろう。好きな男のところに」
さきほどのような昂ぶるものはなかった。恨めしいようなそんな声だった。
「聞きたいのはこっちよ」
むしろ、昂りはじめたのはメリヤナのほうだった。
叫びのような、されど扉の外には聞こえないよう精一杯声帯を調整しながら、言葉を絞り出す。
「なんで、あんなことを言うのよ」
つい先刻言われた言葉を思い出す。
「なんで、用なし、なんて言うのよ」
思い出すと、また涙が出てきた。今日のためにきれいに化粧してくれたカナンに申しわけなかった。顔がぐちゃぐちゃで、ここから出る前に化粧も直していかなければいけない、とどうでも良い思考が頭を過ぎ去った。
「用なしなんて、思うわけないじゃない。用なしなんて、言うわけないじゃない。あなたを、ここまで一緒に歩んできてくれたあなたを、見捨てるわけがないじゃない……!」
ぼろぼろと涙がこぼれる。
「メリヤナ……」
「ばか、フィルのばか……! なんでそんな後ろ向きなのよ。極端なのよ。少しは言われたわたしの気持ちも考えないよ。わたしがそんな人でなしなわけないでしょ。大事な人を、大切な人を捨て置くなんてするわけないでしょ。わたしが、あなたにどれだけ恩義を感じているのか知らないの。わたしが、あなたをどれだけ頼っているのか知らないの。わたしが、会えないあいだ、あなたを思い出さなかった日はなかったって思わないの。わからないの。ばかなの。ねえ、ばかなの……っ?」
わんわん泣きはじめるメリヤナに、フィルクは呆気に取られたようで、それからすぐに優しい顔になった。さっきの繕った優しさではなく、心からメリヤナを思いやる優しさだった。
「ごめん、リヤ。悪かった……僕が悪かったよ」
「思ってたら、あんな言葉出てこないわよ……」
「ごめん、ほんとうに。泣かせるつもりなんてなかったよ」
「泣かせてるじゃない……っ」
ぐずぐずするメリヤナに、手巾が差し出される。それで遠慮なく涙をぬぐって、鼻水もぬぐってやると、せいせいした。
「泣かないで、メリヤナ。泣き止んで、リヤ。僕が悪かったから。用なしだなんて言って悪かったよ」
隣にやってきて悄然とするフィルクに、メリヤナはこらえたくても、しゃっくりが出てしまって、一緒にこらえることができなかった。
「もう二度と、あんなこと言わないで……」
代わりにそれだけを言う。
「うん、約束する……」
「ほんとうによ」
「うん、わかった」
「……なんで、あんなこと言ったの」
恨めしいのはメリヤナのほうだった。手巾で残る涙をおさえながら、吃逆を鎮めるように口元を抑える。
フィルクは、メリヤナが泣き止むよう背中をさする。それがどうしようもなく心地よかった。
「……ごめん、僕、この三ヶ月で疲れてたんだ」
「何か……あったの?」
「いや。取り立てて忙しいことはなかったよ。やること、やるべきことはあったけど、でも何かあったって言うほど忙しくはなかった」
さっきは忙しかったとか言っていたじゃないか、と意地悪なことをメリヤナは思う。
けれど、左肩に、フィルクの頭が預けられるように少し寄りかかり、ふわりとミラルの香りがすると、どうでも良くなった。
「そっか。じゃあ、どうして……?」
「……君に、会えなくて」
「え?」
小さく聞こえた声にメリヤナは聞き返す。
「君に会えなくて、すごく……疲れた。疲れて、疲弊して、このまま朽ちてしまうんじゃないかと思った」
「…………」
「前もどうにかなりそうだったけど、今回のほうがよっぽどこらえたよ。特に、僕は君に置いていかれたと思っていたから……それはちがうってさっき知ったけど」
嘆息だった。肩にかかる、薄い金髪がメリヤナの編まれた髪に混じり合う。
「ちゃんと前もって知っていたら抗議していたわよ。当日だって一応抗議したんだから。直前すぎてどうにもならなかったけれども……」
「うん、ありがとう」
沈黙があった。だが、気詰まりな沈黙ではなかった。
「……あなたは感情の出し方が下手くそなんだわ。だから、きっと疲れるのよ」
「君は感情を出し過ぎだよ……僕が伝えた秘術がたまに役に立っているのかあやしく思うくらいにね」
「あら、でも成功したから、ルデルさまに告白していただけたのよ?」
メリヤナがいたずらっぽく言えば、それだ、と言わんばかりにフィルクは頭を持ち上げた。
「——なんて返事したの」
「なんてって、ありがとうございますって」
「それで?」
「それでって、それだけよ」
「それだけ?!」
ひっくり返ったような声をフィルクは出す。せっかくのいい声が台なしだ。
「君のほうこそ……ばかなのか」
「何よ、失礼ね」
「わたしも好きですって応えるだろ、ふつう」
「ああ……それねえ……さっき、わたしも気付いたのよねえ」
フィルクが来るまでに考えていたことを思い出す。ルデルに応えて何ら問題ないのではという事実。
メリヤナは思い出して、それからかぶりを振った。
「ううん、でも、まだわかってないことやこれから起きる問題もある。ルノワ宮中伯のこととか〈盟約の証となる報せ〉とか……あの女、とか。恋にうつつを抜かしている場合ではないの」
メリヤナの恋敵。サレーネ。
あらためて考えれば、あの令嬢が姿を見せたらひっくり返ることがあるのだ。易々と現状には甘んじていられない。王国の運命を変えるためには、ルデルの告白には応じていられない。そう、冷静に考えるように思考が定まった。
「ふーん。……ああ、でも、それならひとつ問題は片付くよ」
フィルクがあっさりと言った。
「えっ? どういうこと?」
「まあ、待っていて。仕込んどいたから。もうすぐ、わかる」
フィルクは、にやりと笑う。手品師のように、企み顔で。
「……なんだか、怖いのだけれど」
「うん、君の憂えのひとつを取り去るから、楽しみにしておいて」
解決するなら、とメリヤナは返事をする。
それから、考えていたことをひとつずつ思い出していって、今しがた起きたできごとまで辿り着いて、全身に朱が昇った。堪えられずに、両手で顔を覆う。
「ねえ、フィル」
「ん? どうしたの」
顔なんか覆って。フィルクは、また涙でも出てきたのか思案の色も滲ませていた。
「——な、なんで、さっき口づけたの」
ついさっきのできごとだからか、思い出すだけで、爪先から痺れのようなものが伝わってきて、胸骨のあいだで止まった。じわん、とそこから伝わるように胸が苦しくなった。
「はじめてだったのよ、わたし」
「……はじめて?」
「そう、はじめて」
「回帰する前も含めて?」
「そうよっ!」
憤懣やる方なく真っ赤な顔を突き出して言えば、そこには心底うれしそうな顔をしたフィルクがいた。
「そっかー。それは得したなー」
「ちょっと……っ! なんだと思ってるのよ! そもそも、なんでしたのよ?」
「えっ、それ、聞く?」
「気になるから聞いてるのよ!」
これ以上メリヤナの羞恥心を煽るつもりなのだろうか。化粧直しに頬紅を付けなくてもいいくらいだ。
「ああ……わかんないなら、もう一回しとく?」
「ちょっと!」
フィルクがふざけた調子で言うから、メリヤナは喚いた。
喚いてから、ぴたっと手を止めて、それから悟ったように言った。
「わかったのだわ」
「ん? 何が?」
フィルクが怪訝そうに言う。
「練習だったのね」
「……れんしゅう?」
「本番のための練習。ほら、わたしがルデルさまに好きですってお返事して言い終えたあとにそうなっても良いように練習してくれたのでしょ?」
「……は?」
「そういうことだったのね。わかりにくいじゃないの。っていうことは、さっきのは数えなくていいってことかしら」
「……どうしてそうなる」
ぼそっとフィルクが呟く。
「えっ、何か言った?」
「いや……いい。練習ね、うん、練習。そんなとこ」
「ほら、そうでしょう。もういきなり練習はじめるのはやめてよね」
どきどきしちゃうんだから、というメリヤナに、フィルクは盛大に溜息をついた。




