53話:エストヴァンの皇太子夫妻
10章開始となります。
遠いところに、来た。
薫風の香りに、檸檬や甘橙の匂いが混じっていないことを感じて、メリヤナはそう思った。
行列は、二週間を過ぎて、まもなくサルフェルロ市国に到着しようとしていた。途中、悪路を遠回りしたところ、余計に時間がかかってしまった。
協議は三カ国が集まったのち開催されるため、先んじて進む心配はなかったけれど、予定通りにいかなかった行程に少しだけ不安になった。窓硝子越しに市壁が見えると、ほっと焦りが落ち着くのを感じた。
(フィル……どうしているかな)
王都での別れ際のことが思い出される。この二週間、友人の表情がずっと脳裏にこびりついて、残光のようにちかちかとしていた。
(寂しくしているだろうな)
リヤは特別だ、と言っていた三年前のできごとがよみがえる。あの時の彼はひどく弱った顔をしていた。思い起こすと、きゅっと内の臓が締め付けられる。
フィルクと会えないという事実は、自分のなかにぽっかりとした空洞を作っていた。対になる車輪の片方が壊れた馬車で、この地まで旅をしてきたような気分が巡っていた。空虚な心地の悪さは、出口のない洞窟を巡っているようだった。
「——まもなくだな」
向かいに腰かけるルデルがそう言った。ぼうっと考え込んでいた思考を切り替えて、メリヤナは顔を上げる。
ルデルは折にふれて白毛の馬に跨り旅路を駆けていたが、市国に近付いてからはメリヤナと同じ車内のなかの人になっていた。
ここはもうフリーダではない。
列を先導して、権威を披露する必要はなかった。
「……そうですね」
メリヤナは窓の外を見やりながら返す。
「なんて立派な壁なのでしょう」
ルデルが首肯した。
「噂には聞いていたが、王城を囲む壁より高いかもしれんな」
「ええ。さすが、トゥーミラ自治都市郡随一の大工工芸の国サルフェルロです」
「ああ。我が国に職人たちを招聘し、城壁の改修や増築を行って欲しいところだ」
他愛のない言葉をやり取りしているうちに、隊列はサルフェルロ市国の城門をくぐった。
街路には多くの人が行列を見ようと集まっていた。その何十何百もの瞳は、歓迎というよりは興味本位や物珍しさから、自分たちを見つめているようだった。ひそひそと交わしながら窺い見る視線が物語っている。わあっ、というフリーダであげられたような歓声はない。
異国に来た居心地の悪さを感じながら、けれど、メリヤナは毅然とした面持ちで、市街中心地の市庁舎に足を下ろした。
自分は今、フリーダ王国の顔のひとりとしてこの地に赴いているのだ。
どのような視線であっても、顔を上げなければいけない。
「——フリーダ王国王太子ルデルアン殿下、ならびにドール家メリヤナ姫君、謹んで我が国へのご来訪を歓迎いたします」
サルフェルロ市長は、宝飾でぎらぎらと飾って趣味が悪かった。後ろに多くの人間を従えて、慇懃なフリーダ語で迎えた。
「出迎え、感謝する」
ルデルのトゥーミラ語に合わせて、メリヤナは目礼をする。市長は、とんでものうございます、とフリーダ語で謙遜してから、トゥーミラ語で続けた。
「三カ国協議の開催地として、サルフェルロをお選びいただき、誠に感謝申し上げます。王太子殿下及びドール公女さまがご滞在中は、一切の煩いがないよう手配させていただきますゆえ、どうぞお寛ぎくださいませ」
「そうか。市長のお心遣い、ありがたい」
「恐れ入ります。——さて、三カ国の皆々さまがお揃いゆえ、これより協議の準備を整えさせていただきます、が、まずは旅の疲れをお取りになるのが優先にございましょう。明日の午前より協議が開始できますよう準備させていただきます」
ルデルは肯く。
「各国の皆さまに宿泊施設をご用意しておりますので、フリーダ王太子殿下御一行の宿については、これより下官がご案内させていただきます」
市長が目顔で合図をすると、後ろから出てきた下官が、やって来た方向とは別の方向を案内するように、指し示した。
よろしく頼む、とルデルは市長に告げると、下官のあとに従った。メリヤナもまたあとを追って、市庁舎の廊下を進む。さすが、サルフェルロの中心を担っている丸屋根建築だ。市庁舎は、フリーダの王宮本宮に匹敵する広さがあるにちがいない。
長い廊下をいくつも曲がったところで、メリヤナは空間に木霊する別の声を聞いた。曲線を描く通路の先、ぎりぎり視野に入る場所に、別の集団が目に入る。
疑問がもたげた時、その集団の中心と思しき人物と、視線がぶつかった。
既視感、があった。こちらを見極めようとする、青紫の双眸。見覚えのある色、だった。
悩んでいるあいだに、視線の送り主が口を開いた。
「——もしかして、フリーダ王太子ご一行か?」
誰だ? とルデルたちのあいだで暗黙の疑問が交叉する。
ごつ、ごつ、と長靴の重い足音を響かせて、その人物はメリヤナたちの前に立った。
「失礼。尋ねる前にこちらが名乗るべきだったか」
殿下、と咎める女の声が、その人物の後ろから響いた。
「——エストヴァンがユステルと申す。初めまして、フリーダ王太子」
にやり、と不敵な笑みを浮かべて、その人物は手袋越しの掌を差し出した。後ろにいる女の大きな溜息が聞こえた。
「まさか……エストヴァン皇太子、でいらっしゃいますか」
虚を突かれたルデルは、呆然と確認する。
いかにも、とその人物——皇太子ユステルは笑った。
「三カ国協議に参加するために、エストヴァン国皇王の名代で訪れた。——そうだろう?」
「……失礼しました」
含みのあるユステルの言葉に、ルデルが急ぎ頭を下げた。
「フリーダ王国が第一王子ルデルアンと申します。同じく、我が国国王の代理として、この地に参りました」
ユステルの歳は、メリヤナやルデルより四つ上と聞き及んでいる。ルデルが礼を尽くすのは礼儀に則った振る舞いだった。
「市庁舎見物をしていたところだが、ここで会ったのが奇遇というものだ。良ければ、少し話でもしていないか?」
ちらっ、とメリヤナたちを案内していた下官にユステルが目配せをすると、不測の出来事だったにもかかわらず、下官は心得たように、ご案内をいたします、と言って踵の向きを変えた。ルデルやメリヤナには、皇太子の提案を拒否できる空気ではなかった。
事前にこういった事態があることも想定されていたのだろう。通された部屋は、調度の磨かれた場所だった。
「一度、ルデルアン王太子とは私的な場で話しをしてみたかったんだ」
軽やかな口調で、ユステルは満足そうに笑った。
案内を終えた下官の姿はすでになく、扉には、フリーダとエストヴァンの近侍が控えていた。広々とした室内は、両国の人員が詰めていても圧迫感はない。
「私と、ですか?」
「武芸に秀でていると噂を聞いたからな。なあ、イーリス?」
ユステルは横にいる妙齢の女に話を振った。
「わたしに話を向ける前に、紹介をしてからにしてください、殿下」
ぴしゃり、と音がしたかのように、その女性は言った。
齢は皇太子と同じくらいだろうか。肩より少し長い髪を一纏めにして、装飾の少ない簡素な緑の衣装に身を包んだ女だった。
イーリス、という名前にルデルが声を上げた。
「エストヴァンの妃将軍、か?」
「そのような名で呼ばれることもございますね」
つい、と紅唇に弧を描いた女は、なんとも言えない美しさがあった。
ユステルはいい加減な仕草でイーリスを示しながら、面倒くさそうに言う。
「彼女はイーリス。おれの妃だ」
(妃……皇族の〈唯一〉)
メリヤナは以前フィルクから教えてもらったことを思い出す。
エストヴァンの皇族の血に流れる女神エストの権能。〈唯一愛〉。
気の置けない空気は感じるが、一見したやり取りはぞんざいとも言える。およそ、愛などという空気を、このふたりのあいだに感じられなかった。
「イーリスと申します。ルデルアン王太子殿下に戦神エストのご挨拶を。殿下の武勇は、我が国にも聞き及んでおります」
言うと、イーリスは左腰で両指を結ぶ礼をした。受けたルデルも同様の礼を返す。武人の礼だ。
「妃将軍にそのように言われるのは面映い。イーリス殿の馬上槍術の腕前は、エスカテ教を信仰する国々に轟いているというではないか」
「そのような世評が流れるのであれば、優れた武人と相まみえたいものですが、なかなかそうもいかず……。女だという理由で手加減をされることは多く、まともな試合など望めないものです」
「それは……世知辛い。優れていれば、男も女も関係ないであろう」
「そうおっしゃっていただける王太子殿下と刃を交える機会をいただければ、このイーリス、大変幸甚にございますが、滞在期間中、お時間をいただくことは可能でしょうか?」
「是非とも」
ルデルが快諾すれば、イーリスは優美に笑った。
「ありがたく」
「そんな面白いことをするなら、おれも混ぜろよ」
ルデルとイーリスが視線を交わしていると、ユステルが割るように手の平をひらひらとさせた。
「槍じゃイーリスには敵わんが、剣ならば遅れを取らない自信がある。お相手してもらいたい」
「むしろ、私からお願いしたいところです、ユステル皇太子。一騎当千の剣術をぜひともこの目に焼き付けたい」
「協議以上の収穫かもしれないな 」
さて、とユステルは間を置いてから、メリヤナを見定めた。
「そちらのお嬢さんのご紹介はまだかな?」
静観していたメリヤナは、肩に緊張が走るのがわかった。
楽しそうにこちらを見分している。けれど、この目には覚えがある。試されている。ならば、それに応じた振る舞いをしなければならない。
メリヤナは顎を引いた。すうっと鼻腔から息を吸い、そして喉から凛とした音を出す。
「初めましてのご挨拶を申し上げます、皇太子殿下。メリヤナ・グレスヴィーと申します」
エストヴァン西部の音を発した。
「へえ、なるほどな」
ユステルは興味深そうに顎に指を当てて、メリヤナをしげしげと見た。イーリスは目を丸くしてメリヤナを見る。
「語学に通じていると聞いていたが、地方の訛りも話し分けることができるのか。違和感がない。——お会いでき光栄だ、メリヤナ嬢」
「こちらこそ光栄にございます、ユステル皇太子殿下」
メリヤナは、淑女の礼をした。
「——では、本題に入るか」
そう言って、ユステルは声を改めた。
5年ぶりの投稿を拝見いただいている方がいらっしゃいましたら、ほんとうにありがとうございます。連載再開から統合した先であるこちらを拝見してくださっている皆さまも、いつもありがとうございます。
5年前、10章はかなり苦戦し私生活の忙しさからそのままになっていたのですが、年明けから久しぶりに書き始めると意外とそうでもなく、連載再開に至ることになりました。
この章は物語全体に大きな影響を及ぼす章となります。
(ストック完結まで書き終えていますが、文字数も話数も一番多い章でもあります)
新しい登場人物たち共々よろしくお願いいたします。




