52話:二度目の別れ
出立の日の早朝は、からっと乾いて檸檬や甘橙の花と緑の香りが気持ちよく香っていた。グレスヴィー家では荷の最終確認で大忙しで、当事者であるはずのメリヤナは放って置かれているような状態だった。
庭にいると言伝て、足の赴くままぶらぶらする。
(サルフェルロか……)
なんだかとんでもないことになってしまった。こんなこと、やり直す前には起きなかったことだ。
たしかに、アルー=サラルが外交交渉を依頼してきたことはあった。そして、その使節団の長としてルデルが任命されたことも。けれど、メリヤナはその時、なかんずく召集を受けなかった。付いていくと騒ぎ立てた覚えはあるが、結局交渉期間のあいだ、暢気に夜会を渡り歩いて過ごしていたのだ。
まさか、自分が特使として任命されることになろうとは、誰が想像できるだろうか。
(運命が、大きく変わろうとしている)
あるいは、すでに変わっているのか。
メリヤナには、わからないことだ。二年前に、〈運命の乙女〉と神託を下した神は、あれから沈黙したまま。あの託宣が導きだと仮定するなら、このまま真っ直ぐ進めば良いということなのだろうか。
それさえも、わからないことだった。わからないけれど、メリヤナには以前抱いていたような途方もない不安はなかった。むしろ、きっとどうにかなるだろうという根拠のない展望があった。
おそらくは、協力者がいるおかげだった。今では、メリヤナはひとりではない。不安を打ち明けられる人がいる。それだけで、こんなにも心というのは安定するものなのだ。
今回の外交交渉だって、フィルクが一緒だ。彼は、外交局の優秀な人間だから、必ず参じるだろう。
何も怖くなかった。
「え?」
王宮に移動したのち、ルデルと共に随行する国務府外交局の人間から挨拶を受けた。メリヤナは連なる顔を見て、青褪めた。
(フィルが、いない)
どうして、とか、なぜ、とか混乱する一方で、外交局の人間からの挨拶を淡然と受ける。サルフェルロ市国滞在中の動き方について確認が取られたのち、その場は区切りが付きそうになった。
「——あの、」
静かにしていたメリヤナが口を開くと、ルデルをはじめとした複数の瞳が自分に向けられる。メリヤナは、意に介さず尋ねた。
「ローマン卿は、今回の使節団に同行しないのですか?」
「ドールの姫君は、ローマンをご存知でいらっしゃる?」
反応を示したのは、マブロンという名の局長だった。気さくな空気の漂う男だ。
「はい。親しい友人です」
「そうなのですか! いやあ、彼にもこんな素敵な友人がいるようで良かった良かった」
「なぜ、同行しないのですか?」
メリヤナはマブロンの発言に疑問を覚えながらも、質問は変えなかった。マブロンのほうは暢気な口調で答える。
「ローマンには、空になる外交局を預かるよう申し渡しました」
「外交局を……?」
メリヤナは聞いた言葉を呑み込んで、それからひとつひとつの言葉を選ぶように継いだ。
「その……、大変差し出がましいことを申し上げますが、ローマン卿は今回の交渉には適任では? アルー=サラルはもちろん、エストヴァンにもトゥーミラのことも詳しく、情勢を鑑みて、以前わたくしにサラル語を習うよう助言をしてくれたのも彼です」
え、と局の人間が驚いたような顔をする。隣にいるルデルも驚いたようだった。
「その彼を外すのは、いささか不自然のような感じもいたしますが?」
メリヤナが強気に問うと、マブロンは名状しがたい表情で後頭部を掻いた。
「面目ございません。こればかりは少々人事の問題がありまして……。姫君には迷惑がかからないよう我々も尽力するつもりでおります」
「……さようでございますのね」
マブロンのどこか誤魔化すような返答に釈然としなかったが、メリヤナはこれ以上言葉を重ねたところで何も変わらないことをその空気から悟った。簡単な礼を口にすると、外交局の局員たちは下がっていく。
(フィルクがいない……)
その事実に、急に不安がもたげる。肺腑を巡っていくような不安だった。
「メリヤナ」
ルデルが呼ぶ。メリヤナは、婚約者を見上げた。
「なんでございましょう?」
「友がいなければ、いやか?」
旅装に身を包んだルデルは、メリヤナの真意をたしかめるように尋ねた。メリヤナはその様子に、はっとして首を振る。
ルデルはおそらく、自分の婚約者としての器を案じたのだろう。友人がいなければ、外交もできぬのか、と。ここで心配されるようでは、今まで積み上げてきた婚約者としての器量が水の泡だ。メリヤナは気持ちを切り替えようとして答える。
「そうではございません。ただ……少し不思議に思えたものですから。私的な交流と公務はわきまえているつもりですわ」
「……そうか」
「浮足立ってはいますが、大丈夫です。ご心配には及びません」
メリヤナが微笑むと、ルデルは表情をしかめた。
「私がいる」
「……はい?」
「あなたには、私がいる」
首をかしげるメリヤナの前で、ルデルはメリヤナの手を取った。手の甲に口付けをしながら続ける。
「あなたは、私の婚約者だ。あなたを守るのは私の役目だ。そう思って欲しい」
「え、ええ、もちろんです、はい」
おろおろとうろたえていると、ルデルの切り替えは早かった。
「——出発しよう」
そっと離された手の甲に感覚が残っているようだった。外套を翻して背を向けるルデルのあとを追った。
ルデルは白毛の馬に跨り、メリヤナは馬車に乗り込んだ。行列となって、東王都の目抜き通りを進む。
今回の使節団の出立は、成人した王太子の初任務として、大々的に布告された。そのためか、表通りには観衆が歓声と共に押し寄せている。
王太子さま、ドール公女さま、という声が聞こえてくる。メリヤナは手を振って、窓硝子越しに民衆に応じた。
隊列が進み、東王都の入り口に差しかかる。開けた空間には多くの人間が押し寄せて、自分たちを見送っていた。
その人だかりのなかから、彼を見つけた時、メリヤナは心の臓を鷲掴みされたようにぎゅっとなった。
「……リヤっ」
馬車を追って手を振るものはたくさんいる。名前を呼ぶ者も。けれど、そのなかでメリヤナのことを愛称で呼ぶのはひとりだけだ。
親友が、フィルクが、まるで泣きそうなほど顔を歪めているのは気のせいだろうか。きっとメリヤナも、泣きそうな顔をしている。互いになんの言葉もかけられないまま、出立しようとしている。
それが無性に寂しかった。
三年前とはちがう。たとえ、しばらく会えなくても堪えられないわけではないかもしれない。けれど、まるで身を引き裂かれそうな気持ちなのは、なぜだろう。むかしのほうが、よっぽど寂しい気持ちだけだった。なぜか今は、泣きたくてたまらない。
フィルクの姿が見えなくなる。景色の後ろに遠ざかっていく。メリヤナはただ、それを見送るしかなかった。
視線は交わったまま。互いの気持ちも伝えられぬまま——。
メリヤナは、ルデルアンと共に、サルフェルロ市国へと旅立った。
次回から10章です。




