18話:洗濯室のひらめき
「こちらでございます」
カナンに案内されて、メリヤナは屋敷の地下室へと続く扉を潜った。すぐに階段が現れる。蝋燭に照らされた階段は薄暗かった。陽の光が入らないと、こんなに暗いのかと知る。心なしか、じめじめしているようでもあった。
「洗濯室には、カナンの仲良しもいるんだっけ?」
「え、ええ、リリアと申します」
視線を反らして答えるカナンの様子に、メリヤナはおやと疑問符を浮かべる。けれど、すぐに地下に着いてしまったので、問いかける時間はなかった。
「一番奥が洗濯室です」
地下には、様々な音が混じっていた。一番聞こえるのは金属の音、それから水が流れる音、包丁を使う音、足音はけたたましく、どこからか怒号も聞こえてきた。
廊下で、地下の部屋がすべてつながっているのだという。
メリヤナが降りた階段の一番手前には、居間のような空間があった。ここは使用人たちの休憩室で、朝起きて一日の打ち合わせを行う場所でもあるという。
次の部屋は食料品貯蔵庫と酒造庫で、隣には厨房があった。怒号が聞こえるのはここからで、どうやら厨房長がうるさく指示を飛ばしているらしいのだが、メリヤナがどきっとするよりも前に、他の者たちから言い返す声が飛び交っていた。
「厨房にも、よく話す仲間がおります」
「そうなの?」
言い返している声の誰かだろうか。
「オリガという子で、とても頭の回転が早い子です。今度、お嬢さまに紹介いたしますね」
カナンからそう言ってもらえるのは嬉しかった。少しずつ、信頼してきてもらっているのだと思うと、こそばゆくなった。
「ええ、よろしくね」
一番奥に辿り着くと、
「必ず鼻からではなく口から息をしてくださいね」
カナンが警告した。
どういうこと、と思いながら扉の奥に進む。扉はなぜか二重になっていて、あいだの空間はいっそう湿度が高かった。
「いきますよ」
ばっと二枚目の扉が開け放たれると、朦々とした空気がこちらに流れ込んできた。それから、熱気がむわっと全身を包んだ。
お湯がぶくぶくと湧く音や蒸気が出る音、がこんっがこんっ、という何かが回るような音が、メリヤナの耳を刺激する。
「手巾を出してください」
カナンの大きな声がメリヤナに言った。
え、と聞き返した瞬間に、つい鼻から息を吸ってしまった。
すると、ひどい臭いが鼻の奥を突いた。咄嗟にえずく感覚が出てきて、メリヤナは口元を押さえる。
(なんだろう、この臭いは)
口から息をしても感じる臭い。膠のような動物の体が腐ったような臭いと、灰汁の臭い。それに熱気が混ざって、とんでもない臭いが部屋中を立ち込めている。
「手巾をお召しに」
近寄ってきたカナンが、メリヤナにそう指示する。こくりと肯くと、手巾を取り出して口と鼻に当てた。幾分、臭いが和らいだ気がする。
「——ほんとうにいらっしゃったのね!」
甲高い声が驚いた。
もくもくと湯気が立ち込めるなか、けろっとした様子で洗濯女中のお仕着せをまとっている。前掛けには染みが滲んでいた。
「まさか、こんなところにお嬢さまが来るなんて思っていませんでした!」
「——リリア」
カナンが咎める声で、メリヤナは目の前の彼女がリリアという洗濯女中なのだと知る。では、このリリアがカナンの仲良しのひとりなのだ。
自分よりちょっと年上に見える。14か、15か、そこらであろうか。カナンよりは年下に見えた。
「だって、こんなくっさいところに、一家の愛娘が来るとは思わないでしょう?」
「言葉づかいをどうにかしなさい」
「いやだ。そんなことを気にしていたら、ここで働くことなんでできないわよ」
「わたしが言っているのは、お嬢さまの前という節度をわきまえろっていうこと」
「そうだったわね。忘れてたわ」
まったく悪びれていない様子のリリアに、カナンが頭を抱えた。
「申しわけございません、お嬢さま。あとできつく言っておきます」
「全然気にしていないわ」
あまりにもへこんでいるカナンに、メリヤナは片手を振って答えた。
熱気が、体の内側から汗を促す。まとっている衣装が少しじっとりとしたけれど、あらかじめ薄着で整えてくれたカナンに感謝をせねばならなかった。
「はじめまして、ではないわね、リリア。ごめんなさい、たぶん挨拶をしてもらっているのだけど、覚えきれていなくて」
「たしかに、お嬢さまには挨拶をさせていただきましたが、そんなことはいいんですよ。だって、公位家には使用人がたくさんいすぎますもん。あたしだって使用人の顔を全部覚えきれていませんし、そんなことは石鹸粕みたいなものです」
セッケンカス? 何に例えられたのかわからなかったが、メリヤナはとりあえず、礼を言って答えた。隣にいるカナンは、頭が痛いと言わんばかりの仕草をしている。
「今日は、見学にいらっしゃったんですよね?」
「ええ、そのつもりよ。お仕事の邪魔をしちゃってごめんなさい」
「よろしければ、あたしが案内しますわ」
リリアが邪気なく言った。
「あなた、自分の仕事はもういいの?」
カナンが胡乱げに尋ねる。
「あたしは優秀だから、自分の仕事はとっくのとうに終わらせたわ。今は後輩の仕事を少し手伝っていたところだから、ちょっとくらい抜けても大丈夫」
誇らしそうに言うリリアは、ちっとも気取った様子が見られなかった。自分の仕事に自信があるのだろう。メリヤナは好感を持った。
「まずはお嬢さま、こちらです」
リリアに導かれたのは、大きな洗濯釜だった。三つほど構えられた釜は、真下の火から直火でぐつぐつと煮え立っている。
悪臭の根源はここだというのが近寄ってすぐわかった。つんと鼻腔の奥を刺激する臭いは、釜から出てる湯気から漂っている。
どうすれば、こんな臭いになるのか不思議でたまらず、
「覗いてみてもいい?」
とリリアに尋ねると、
「だめです」
にべもなく断られた。言葉づかい、とカナンの恨めしい囁きが聞こえる。
「釜からはお湯が飛んだりするので、火傷をするんです。それに、覗き込むと危ないですよ。実際に昔、釜のなかに落ちて茹だって死んだ人間もいるそうですから。慣れていないものが釜に近づくのは危険なんです」
リリアは淡々と事実を告げた。
茹だつ。全身火傷をして死んだということだ。メリヤナが処刑された方法は火刑。ならば、と考えて、怖気が立った。思考に蓋をして振り払う。思い出してはいけない恐怖を喚び起こされた気がして、思い浮かんだ表象を別のものに置き換える。
「次は、すすぎ場を案内しますね」
リリアの高い声を合図に、メリヤナは思考を切り替えた。
案内されたのは、広い流し台だった。台は斜めになっていて、釜で洗濯したものをここですすぐのだという。
「隣が絞り器です」
すすぎ場のすぐ横に設えられていたのが、三台の絞り機だった。今は一台が稼働して、がこんっがこんっ、という音を立てながら、洗い物を絞っている。
「やってみますか?」
「え、いいの?」
危なくないのでいいらしい。
こうやって動かすんですよ、と見本を見せてもらいながら、動いていない一台の手持ち部分を握る。リリアを真似てぎゅっと力を込めて取っ手を動かしたが、びくともしなかった。
「あれ?」
「えーっと、あー、えーっと、お嬢さまは少しお小さすぎるようですね」
あはは、と笑うリリアが誤魔化しているのは見え見えだった。どうやら力が足りないということがわかって、メリヤナは渋々引き下がる。
(力を付けたら、もう一度やってみるんだから)
固い決意と共に、次の場所へと移動する。
扉の奥には乾燥室と火熨斗台があった。ここは、洗濯室よりも熱気があった。大きな空間には物干し竿に干された洗濯物があり、乾かすための暖炉がごうごうと火をあげていて、メリヤナはどきりとした。
熱さからなのか、嫌な汗が背中を伝って、メリヤナは部屋の隅から乾燥室の様子や、火熨斗台の作業を観察すると、すぐに前の部屋に戻った。
洗濯室の横には、外へと続く階段があった。階段は裏庭に至っており、そこには芝生が広がっている。
春の風と、扁桃やミモザの香りに、火照っていた頬から熱が下がっていくようだった。
リリアが、飲み水を持ってメリヤナに差し出した。冷えた水をありがたくいただく。
「暑かったですか?」
「ええ。あなたたちの仕事場は大変なのね」
洗濯室があんなに過酷な場所とは知らなかった。メリヤナであれば、熱気と臭いで、一時間もいることができないだろう。
「まあ、大変ですけどね。それで辞めるものもいますし。けど、悪くないんですよ。洗濯って人が生きている限り絶対に必要じゃないですか。それを自分がやらせてもらっている。あたしひとりが手を抜いたら、みんなに迷惑かかるし、なんならお屋敷にも迷惑をかける。ちゃんと役に立ってるんだって思えるので、いい仕事ですよ」
リリアは腕まくりをして、得々と言った。
まくられた手や腕には火傷のあとが見られて、痛ましい気持ちになる。けれど、リリアの見せ方は、それさえも仕事の勲章だと言っているようだった。
メリヤナは、リリアを含めて洗濯室で働いている者たちにあとで薬でも送ろうと心に決める。
「リリアみたいに働いてくれる人はほんとうにありがたいわ。これからもよろしくお願い」
「はい、お嬢さま。せっかく顔見知りになったので、ぜひ贔屓にしてくださいね」
「その前にあなたはその言葉づかいをどうにかなさい」
ぴしゃりと言うカナンに、ぺろっと舌を出すリリアを見て、メリヤナはくすくすと笑う。
以前、カナンがメリヤナと仲良くすることを仲間に告げたら、『絶対に仲良くするべきよ! 昇進まちがいなし!』と話していたことを思い出す。おそらく、リリアがその仲間にちがいなかった。
「そうだ。ひとつ、聞いてもいい?」
「あたしが知っていることなら、なんでもどうぞ」
釜を覗き込んだ時の異臭の正体がメリヤナは知りたかった。
「あのひどい臭いは、どうしてするの? もうちょっと臭いを良くする方法はないの?」
たとえば、ミラルの葉のような香りだったら、あの熱気でも少しは環境がましになるはずである。
リリアは、合点がいったように答えた。
「あれは石鹸の匂いですよ、お嬢さま」
「セッケン?」
そういえば、さっきも同じような言葉を聞いた覚えがある。
「動物の油と木灰を合わせて作られたものです。泡が立って、よく汚れが落ちるので使っているんです。どこの家も洗濯には使うんじゃないでしょうか?」
リリアの言葉が、頭のなかに響き、水紋になる。
石鹸。
泡。
汚れ。
小川の小石のように閃くものがあった。
「——それだわっ!」
あのひどい臭いがどうにかなれば、目指しているものを作ることができるかもしれない。
いい匂いのする石鹸を作ればいいのだ。
メリヤナは、思い至った名案に胸が高鳴るような予感を覚えた。




