19話:石鹸職人のアズム
湖の対岸。西側の城下が貴族街であるのに対して、東側の城下は平民街だった。
木骨造で組積された家々は、どの家も屋根裏を含めて三、四階で造られて、統一感が取られている。木骨造の家は、王国中を探しても王都にしか見当たらない。他の街や村は、石材や煉瓦で組積されているのがほとんどだった。
骨組のあいだには漆喰が塗られ、真っ白なままのものもあれば、黄や緑、桃色などを薄くして塗装されている家々が多くを占めていた。
おとぎの国のような、という言葉がぴったりなのが平民街だった。
貴族街——西王都の二倍もある平民街は、通りを行き来する多くの人が行き交っている。メリヤナは目を輝かせながら、あちらこちらに視線をやった。
「すごいのね……!」
街にこんなに多くの人がいるのを初めて見た。西王都の三倍は人がいるのではないだろうか。
一階は多くが商店となっていて、二階以上が住居として機能しているのだという。
「そんなにきょろきょろしていると怪しまれますよ」
まるで彩り豊かな宝石でも見つめるように、目をきらきらとさせるメリヤナに同行しているリリアが言った。
「だって、街は物語のなかのようだし、人はたくさんいるし、なんか立派な場所に来たみたいだわ」
興奮するメリヤナに、同じく同行のカナンが問う。
「お嬢さまは、東王都は初めてなのですか?」
「そうに決まってるじゃない。箱入り娘なんだから」
にべもなくリリアが答えると、
「もう少し言葉を選びなさい」
とすぐにカナンが注意する。
メリヤナは、苦笑しながら答えた。
「いいのよ、カナン。ほんとうのことだもの」
「ですが、お嬢さま」
「気にしないって言うんだからいいじゃない。あんたのほうがかしこまりすぎなのよ」
渋るカナンに、リリアが軽く肩を叩くと、カナンはぎろっと眼光を鋭くした。
「あなたは、礼節がなってなさすぎよ」
「はいはーい」
手をひらりとさせるリリアには、カナンの指摘はまったく効果がなさそうだった。
「それに、今日はあまりお嬢さまお嬢さまと呼ばない約束でしょ。なんて言ったって、一応お忍びということになってるんだから」
リリアが小声でそう言う。
石鹸工房に買い付けにいくというリリアに、付いて行きたいと言い出したのはメリヤナだった。
洗濯場を見学に行ってからこの方、メリヤナは石鹸への思いで頭のなかがいっぱいだった。
どうやって作るのだろう。匂いはどうやったら取り除けるのだろう。いい香りがしたら、さぞや色々な人に受け入れられるにちがいない。
そんな頭のなかだったので、ぶつぶつと独り言をもらしていたらしい。聞いていたカナンがリリアに相談して、石鹸の買い付けのことを教えてくれたのだ。
これに一も二もなく飛びついたメリヤナだったが、工房があるのは平民街であると聞いて、一度静止した。
平民街は貴族街とちがって出入りが自由だ。入り口に衛視がいるわけではないので、治安が守られているわけではない。警邏隊はいるものの、出入りに許可のいる貴族街とちがって、ならず者が横行しやすいのは事実だった。
無論、お忍びで平民街に行く貴族は少なからずいる。だが、メリヤナはかつての生も含めて訪れたことがなかった。
どうすればいいのだろうと、両親に相談した。
母スリヤナは、女中が一緒に行くなら大丈夫じゃないか、とその辺りを散歩するような調子で答えたが、父ファッセルは、だめだ、の一点張りだった。
「女の子ひとりが、東王都を歩くなんて危ない」
「ひとりじゃなくて、女中たちも一緒よ、あなた」
「それでもだめだ。巾着切りもいるかもしれないし、メリヤナのかわいさに目を付ける変態もいるかもしれない。絶対にだめだ」
メリヤナとしては、危ないのはわかっているけれど、どうしても石鹸工房を訪れたい気持ちである。
父を説得する方法が見つからなければ、石鹸の生成過程を知るのは難しくなってしまう。
頭を悩ませるメリヤナに助け舟を出したのは、母だった。
「こうするのはどう? 東王都には我が家の御者と従僕も同行させる。御者には入り口で待機してもらって、従僕にはメリヤナを遠目に護衛してもらうのよ。街へ行くのも午後一時から三時までの二時間だけ。巾着はメリヤナが持つ必要がないから、女中たちに管理してもらえばいいわ」
どうかしら? と尋ねるスリヤナは、メリヤナにこっそり目配せする。
ほんとうはもっと自由に動きたかったが、石鹸のためなら仕方がない。メリヤナが父に懇願するように上目で見つめれば、ファッセルは溜息をつきながら許可を出したのだった。
そして、現在が午後一時過ぎ。
平民街——東王都には、着いたばかりだ。
破落戸に目を付けられぬよう装いにも気を付けて、お嬢さまと呼ぶのは控えるようにという打ち合わせをしてから、現在に至る。
リリアの指摘に、カナンはぐっと我慢するように歯噛みをしてから、小声で返した。
「そうでしたね。急ぎましょう」
東王都に入ってから、20分は歩いただろうか。
王城の城壁が比較的近くに見える場所、東王都のほうでも奥のほうに職人たちの工房は軒を連ねていた。
大通りに、麦粉焼や粉挽き屋、細工ものなどの商店が面しているのに対し、薬品や鉄などを使う職人たちの工房は、区画が制限されていた。うるさいし、臭うからだろう。その区画に入ると、往来する人が減り、鍛鉄の音や、硝子などを加工し裁断する音が聞こえ、親方の胴間声が響いていた。
外気に紛れているが臭いは相当だった。鉄や灰が熱せられたような臭いが混ざっている。メリヤナはカナンと共に口で息をし、リリアは平然とした顔でぐんぐん足を進めた。
「ここですよ」
吊り看板には、石鹸の文字。
メリヤナはどきどきと緊張した面持ちで、工房の扉をくぐる。客の訪れを知らせる鈴の音が鳴った。
部屋の中には、動物油脂の臭いと灰の臭いが満ちていた。うっ、と込み上げる吐き気に耐えながら、工房の主が来るのを待つ。
「——らっしゃい」
五分ほど経って奥からやって来たのは、あまりにも低く、ぼそっとした声の男だった。がっしりとした肩幅で、腕の隆々とした筋肉が目立つ。前掛けには、いくつもの染みが滲んでいて、およそ前掛けの役割を果たしていないように思えた。
「石鹸をもらえる?」
リリアが木桶を差し出して尋ねると、男は無言のまま受け取って再び奥へと戻る。そうして、戻ってきた木桶のなかには、泥の塊のようなべとべとしたものが入っていた。
「……これが、石鹸?」
あまり手で触れたくない外見をしている。茶色のどろっとした液体のような固体のようなものだった。メリヤナが内心では恐々としながら、けれど顔には出さずに尋ねると、リリアがそうですよと首肯して答えた。
「これって、どうやって作るの?」
持ってきた男に、メリヤナは問いかけた。
「なんで、お前に話さなきゃならんのだ?」
男のほうは落ち窪んだ目で、メリヤナをじろっと見た。
男の物言いに後ろに控えるカナンがそわそわしていたが、メリヤナは気にせず答える。
「油と灰の分量が知りたいの」
「知ってどうする」
「家で作れないかと思って」
メリヤナが返事をすれば、男はむすっと黙り込んだ。
無言のいたたまれない空気が、工房の入り口に漂う。カナンは不安げな様子でメリヤナを見て、リリアはどこ吹く風で窓の外を眺めている。男とメリヤナの睨み合いが続き、しばらくしてそれは破られた。
「——帰れ」
低い低い声だった。剣呑さも含んだそれは、メリヤナを射殺さんばかりに視線を鋭くしている。
「……わかったわ」
メリヤナは、すっと下がった。ぺこりと礼をすると、扉の外に出る。メリヤナの動きに付いていけなかったのは、カナンとリリアのほうだった。慌てたように追って、外に出た。
「——良かったんですか?」
少し歩くと、リリアが興味深げに尋ねた。
「あら、何が?」
メリヤナがとぼけてみせれば、
「石鹸の分量や作り方を知りたかったんでしょ?」
リリアはじれったそうに確認した。
メリヤナは、くすっと笑ってから答える。
「すぐに教えてもらえないのは、想定通りだったから」
「そうだったのですか?」
カナンが驚いたように声を出す。
「うん」
予想通りだ。工房の職人が自分たちの技術を他者に教えないのは、職人としての矜持だ。すぐに教えるような輩はたいした技術を持たない。
メリヤナはそれを前の生で学んでいた。
たしか教えてくれたのは真珠の細工師だ。職人の信を得たければ、礼を以って尽くし、その技を尊ぶべし、と。さすれば職人のほうから心を開いてくれよう、と。
だから、メリヤナは今日の一日だけで自分が知りたいことを知れるとは思っていなかった。
初回からあまり心象が悪くなるようなことは避けたいので、すぐに引き下がった。
だが、問題なのはこれからだ。
「お父さまを、あと何回説得しなきゃいけないかしら……」
それだけが思いやられると、メリヤナは深々と溜息を吐き出した。




