163話:エストヴァンの妃将軍(11)
本日二度目の更新です。
問いを、ユステルは不思議な気持ちで聞いた。
もう決着はついているはずで、ユステルは父と同じく〈唯一〉を得られないことが決まっているはずなのに、その問いに答えねば、と本能が——自身の血に宿る神の力が、そう言っているようだった。
ユステルは答える。
「——お前のあり方に」
感じたものを、口にする。
「イーリスのあり方が好きだ」
好き、という言葉に、見上げた先が、びくっと体を揺らしたようだった。
ユステルは重ねる。
「イーリスは……おれの芯で、柄だ。お前の美しい槍術はおれの心を捉えて、おれ自身の穂先を真っ当にしてくれる」
「……美しい……槍術」
「指針であり、芯であり、柄なんだ。おれの分離し欠落しているものをお前が満たす。だから、お前がいないと……きっとおれは道をまちがえる」
「…………」
イーリスは黙り込んだ。ユステルの言った言葉を、一からすべて噛み砕くように、腕を組みながら片手で口元を覆う。
その間は長く感じたが、ユステルにとって夏の陽が影をなくしていくような間だった。
打ちひしがれていたはずのものが、少しの期待に変わっていく。
「——もうひとつだけ、聞きたい」
ぽつりと、イーリスが言った。
「わたしの……槍技も好きか?」
訊かれたことに、ユステルは訝しんだ。
なにを言うのだろう、と答える。
「もちろんだ。当たり前だ。お前の槍技にまず惚れ込んだ。だからこそ、おれの柄になってほしいと思った」
言えば、イーリスはたじろぐように俯く。
「……そうか」
短い、いらえがあって、それからまた随分と長い間があった。
肌に汗が伝うのを他人事に感じながら、ユステルはただ待った。
「……仕方ない、な」
突然、そんな声が青空に澄んで聞こえた。
ユステルは、はっとしてイーリスの青玉を見る。
頬を桃色に染め、照れを隠すように、視線は横にずらされた。
「……仕方ない。なってやる」
「なって、やる?」
ユステルの期待が膨らむ。たしかめるように、言葉を繰り返す。
すると、イーリスの視線が戻ってきて、耳を染めながらも憮然と、だが明確で清澄にユステルのなかに芯を通すように、繰り返された。
「——ユステル皇太子殿下の、柄になってやる。わたしが、穂先を定める柄になろう。わたしの槍術に惚れ込んだのだろう? ……だったら、なってやってもいい」
その返答は、イーリスの最大限の照れ隠しだった。言い終えてから、顔全体を紅潮させてそっぽを向くさまが如実に表している。
ユステルにとっては些末なことだった。
望む答えに、槍先が定まって突き動かされたように、立ち上がる。黄金の髪を棚引かせる姿を、引き寄せるように抱き込んだ。勢いに、イーリスの手から短槍が落ちる。
「……なっ」
「イーリス」
抵抗があったが、ユステルが名を呼べば硬直した。
薔薇の芳香がユステルの鼻腔に入り込む。
「——好きだ」
びくっ、と硬直した体が揺れる。
「おれの、〈唯一〉。おれの、柄」
「…………」
「——ともに、」
ユステルは、はっきりと告げる。
「この国の、槍であってくれ」
言えば、燦々と陽光が降り注ぐ。中天にきらめく。
そうして、おずおずとユステルの背に、イーリスの手が回された。
それから短く応じる声が響く。
「——ああ」
地にある穂先が、燦然と清夏を突き抜けるように輝いていた。
*
夏暁の陽に、イーリスはふっと目が覚めた。
イーリスは目覚めがいい。いつだって夜明けの陽とともに、まぶたが持ち上がる。
寝台から抜き出て、上半身を持ち上げると、揺りかごに眠る赤子——リグルスの姿が目に入った。親指を吸うように顔を横に向けている。いとけない姿に、腹の底からやわらかく広がるものがある。
「——リグ……、起きた、のか?」
横から聞こえてきた声に、イーリスは視線を向けた。
まだ眠たそうに、窓布から差す朝陽にまぶしそうに顔を背ける。
「いや、起きてない」
「……そっ、か」
聞くと、安心したように横の声——ユステルは、敷布のなかに再度沈んでいく。
イーリスは思わず、しょうがないな、という笑みがこぼれた。夜遅くまで、三公たちとマールス回廊に関する取り決めの素案を議論していたのだ。まだ、疲労が取り切れていないのだろう。
イーリスが肩の力を抜いていると、ずりっと引き下ろされるように強い腕がイーリスを寝台に取り込んだ。
「……おい」
抗議の声をあげると、掛布のなかで青紫の眠そうな目がにやっとする。
してやったり、という顔だ。
この押しの強さに、イーリスは弱いな、と思う。なんというか負けてしまう。負けて、体が火照る。
盛夏だからだろうか、とイーリスは自分を誤魔化すようにする。
おもむろに体を引き寄せられて、唇が食むように数瞬重なった。
そうされると、誤魔化しようもなく、だれも見ていないのに朝焼けに焼かれたようになる。
そのまま寝衣の隙間から手を入れようとしてくるので、はたく。
「いでっ」
「……なにやってるんだ、朝から」
「いや、だって、侍医からもう許可は出てるだろ」
そういう問題ではない、とイーリスは白い目をする。
ユステルが慌てたように手を引っ込めて、それからおそるおそる抱き寄せられた。
「これで我慢しておくわ」
「まったく」
やれやれ、とイーリスは息を吐いて、その胸に耳を寄せた。
血潮の音がする。
「——なあ」
唇を湿らす。人よりも血色のよいと言われる唇に、言葉を載せる。
「わたしは、ユステルの柄になれているか?」
「どうした、急に」
藪から棒に、いや、槍か。そう言いそうな顔が、掛布のなかでイーリスに目線を合わせるようにする。
「いや……ちょっとな」
ちょうど出会った頃の夢を見ていたからだろう。
それに、リグルスが生まれる前に見た夢が、なんとなくイーリスの心に残っていたからだ。
サルフェルロでの三国協議を終えて帰国の途についた夜、イーリスは自分が死ぬ夢を見た。アルー=サラルの、ユニル巡察使の護衛の男に、矛で突き刺される夢だった。
なぜ、そんな夢を見たのかわからない。きっと、向こうでの祝いの祭りのなかで、護衛の男に打ち負かされたことが尾を引いていたのだろう。
たしかに、あの男と真剣に刃を交えていたら、イーリスはかなわなかったかもしれない。向こうでの馬上槍試合の時にでさえ、冷たくひやりとさせられるものがあった。そういう可能性もあるだろう、と。
夢のなかで、イーリスはユステルを残して、逝ってしまった。その後、ユステルは道を踏み外してしまうというそら恐ろしい光景も見た。
だから、なんとなく出会った頃のことを、聞いてしまった。
「……なってなきゃ、おれはルクスの障害を取るために、ここまで働いてないさ」
ユステルが笑う。昨夜までの働きを褒めてくれと言っているようで、イーリスは懐いた犬のようだと思った。
「そうだな」
イーリスもまた笑みを返す。
「きっと、ルクスともまともな関係でいられてないさ」
「それは、フィルクスもじゃないか? メリヤナがいなければ、あいつは人殺しでもしそうな危うさを感じるぞ?」
「だろうな。だから、今回火山に飛び込もうなんて頭のおかしい発想をする」
「それを追いかけるメリヤナも頭がおかしいけどな」
「幸い、なんとか勘ちがいはとけたらしい。あと一週間すれば、戻って来ると思うぞ」
「……まったく人騒がせなやつらだ」
神の血の気狂いは、なにを仕出かすのかわからない。
イーリスは、夫たる皇太子と、その弟、さらに同じ権能を持つ友人の振る舞いを見て、そう思う。自分に同じ権能がなくてよかった、と心から思う。
「リグルスも同じ血が流れているのか……穏便に済ませてくれ。頼むから」
「おれと同じように歌でも歌うかもしれないぞ?」
ユステルが楽しそうに笑うので、イーリスは真顔で答える。
「……幼少期から歌唱の教師をつけよう。せめて、騒音は防がねばな」
「そんなひどかったか? 覚えてないが」
「悪夢だったよ。未だに思い出すと震え上がる」
そうか? とユステルはのんびりと言う。
イーリスはぎろっと睨みつけてから、掛布を剥いだ。それから寝台の外に足を下ろす。
「鍛錬か?」
「ああ」
ユステルに問われて、イーリスは肯く。
「おれは、もうちょっと寝る」
「リグルスを任せておいてもいいか?」
返事の代わりに、掛布をかけ直したユステルの手が、了解と言わんばかりにひらっと上がる。
一国の皇太子は、随分と子煩悩なので、イーリスとしてはこういった時間をもらえるのはありがたい。妊娠で衰えた体を取り戻すのに、朝の鍛錬は外せなかった。
簡易な装いに着替えると、髪を結う。そうして、立てかけてある短槍を手に取った。
「じゃ、行ってくる」
「……ん。リグと……、待ってるよ」
ユステルの心地よさそうな声が、後ろ手に締める扉から聞こえると、イーリスは妃将軍としての自分を誇るように、朝陽の昇降機に乗り込んだ。
—了—
これにて「エストヴァンの妃将軍」は完結です!
ざまぁされたサレーネの断罪短編や、本編後日譚も、今後どこかで更新します。
お読みいただき、ありがとうございました!