10話:名前で呼べ
秋に入ると、空が思い出したかのように雨が増える。冬になれば、降り落ちる雨はもっと多くなり、それが乾燥した夏の潤いになる。
ルデルから狩猟に誘われたのは、秋口の頃で、まだ本格的な雨季が到来する前だった。〈風占い〉が、良い秋晴れの日取りを選んで、狩猟日となった。
狩猟は、貴公子たちの嗜みのひとつだ。成人した貴族男子は、必ず狩猟に連れて行かれる。
貴婦人が、茶会や午餐会などに興じているあいだ、貴公子たちは議会や倶楽部などに集まることが多いが、秋になればもっぱら狩猟だ。ノロジカや、野ウサギ、山ウズラなどを狩って、意中の令嬢や、細君に捧げることで、男としての器量を試す。
そんな場に、メリヤナが招待されることはたまにあった。
成人して、社交界に顔見世を行ってからは、メリヤナの社交場は一般的な茶会や、夜会などが主になり、あまり狩猟場には招待されなくなった。だが、こうして狩猟場に招待されることは、貴族令嬢や貴婦人としてそれほど珍しいことではない。
現に、張られた天幕には、十名ほど外出着に着飾った淑女たちが揃っている。さすがに、最年少はメリヤナだったが、なかには昨年洗礼式を受けたばかりの令嬢も混じっていた。
ルデルはというと、女性ばかりに囲まれた居心地の悪いなかで、メリヤナの隣でぶすっとした顔をしていた。
上座にいる王妃は意に介さず、他の夫人たちと談笑をしている。
ルデルの機嫌が悪いのは、メリヤナだけが気付いていた。
「——殿下、どうされましたか?」
メリヤナが、こっそりと尋ねると、ルデルはちらっと視線を寄越した。
「……私は、狩猟に参加してはならぬそうだ」
なるほど、とメリヤナはその一言で得心する。
つまり、参加できると思っていたはずの狩猟に、参加できなくて不服なのだろう。
「それは、どうしてですか?」
「早くても洗礼してから、というのが決まりだそうだ」
「危ないからということですね」
「そうらしい。……私は馬にはもう乗れるというのに」
馬に乗れるのと狩りができるのはちがう、という言葉をメリヤナは呑み込んだ。
狩りの一番の基礎は馬を乗りこなすことだが、弓矢や小刀の扱いを知らなければいけないし、勢子を指揮し、猟犬を操る技術も必要だった。そういうことの重要性を教えてくれたのは、かつてまだ仲が悪くなかった頃のルデルだった。
軍事的な実践の演習になる、と嬉々として語っていた彼に想いを馳せる。
けれど、今のルデルは、正論を聞きたいわけではない。ただ参加できず、こうして見学することでしか出席を許されない鬱憤が溜まっているのだ。そこに正論を言ったところで、火に油を注ぐ結果にしかならないだろう。
「そうですね。殿下はもう大人の馬を乗りこなすことができますものね。わたくしなんか、未だに小馬ですもの」
「そのうち、あなたも乗りこなすことができるさ。乗れるようになったら、ふたりでこの郊外を散策しよう」
「ええ、ぜひ」
ルデルの心遣いに胸があたたかくなる。こういうさりげない優しさが、とても好きだった。ぎゅっと心の臓が締め付けられて、メリヤナは俯いた。
(やっぱり、わたしの〈唯一〉はこの人だわ)
エストヴァンの血筋に残る神の権能は、メリヤナにそう告げている。この胸の高鳴りが証拠だろう。
「——馬でなければ、今でもいいか」
そう言って、ルデルが立ち上がったことに、メリヤナは首をかしげる。
「どうしましたの?」
「メリヤナ、少し散歩しよう。ずっと座っていると気が滅入る」
本音だろう。この人は、体を動かしていたい人だ。
「わかりましたわ」
王妃に許可を取ると、ルデルと共に天幕の外に出る。
ルデルが動けば、侍従と侍女、近衛兵があとに従った。王族というのはどこに行くのにも人が付いて回る。メリヤナも成人すれば侍女が付けられるが、子どもの頃は、ちょっと歩き回るくらいでは誰も付いて来なかった。
天幕の外には錦秋に染まった田園風景が、丘陵地帯を作っている。長閑な風景は、檸檬や甘橙、葡萄や橄欖の畑を挟みながら、牛や羊たちと共にどこまでも続く。枯れ草の匂いは、王都の中心では嗅ぐことのできない匂いだった。
「メリヤナ」
逍遥していると、ルデルが呼んだ。
振り向くと、ちょうど秋草の匂いをまとった風が吹きつけてくるところで、メリヤナの長い巻き毛が揺れた。
「な、なんでしょう、殿下」
自分の髪で視界が遮られて、まともに見ることができなかった。
なぜか妙な間があってから、ルデルはつぶやくように言った。
「……その、最近なぜ、名前で呼ばないのだ?」
「は?」
間抜けな声が出てしまった。風に紛れて、聞きまちがえでもしたのだろうか。
「ちょっと前までは、名前で呼んでいただろう?」
「え、ええ。そうですね」
聞きまちがい、ではないらしい。
メリヤナとしては、けじめをつけたつもりだった。名前をぎゃんぎゃん呼ぶのは、分をわきまえていないし、はしたない。前回の生で大いに反省して、殿下と呼ぶように心がけていた。
一度咳払いをしてから答える。
「その……婚約も発表されましたし、一応、人々から見られる立場ですから、名前を呼ぶなんて恐れ多いことはやめようかなあと……」
「私が呼べと言ってもか?」
「はい?」
何言っているんだ。
おそらく、そんな顔をしてしまったにちがいない。
だが、ルデルはまったく気にしていなかった。
「婚約者だからこそ、名前で呼ぶことが特権になるであろう?」
「……そ、そうでしょうか」
そうなのか。
全然意味がわからなかった。
「だから、前と同じように名前で呼べ。いいな?」
「……承知いたしました」
ほら呼んでみろ、と促されて、
「る、ルデル……さま?」
窺うように呼んでみる。
「うん、それでいい」
満足そうにルデルが笑うので、メリヤナは見とれてしまった。
大好き。
という衝動と言葉が浮かんできそうになって、メリヤナは慌てて首を振って俯く。
先日フィルクに教わった秘術のひとつが思い浮かんだ。
〝好意は素直に伝えるべし。——ただし、視線や仕草で〟
ぐっと行動に出そうになる自分を律する。
(我慢よ、我慢)
抑えつけて、それから見上げるように視線だけで気持ちを伝える。
ばっちりとルデルと視線が交わされること数秒。うろたえたように目を泳がせたのは、ルデルのほうだった。口元を覆って、さっと顔を背ける。
(照れている?)
あのルデルが。かつてメリヤナが大好きと言って抱きついていた時は、はいはいと適当に流して頭を撫でていただけだというのに。
(やっぱり、効果があるんだわ!)
フィルクに大いに感謝する。早速報告しなければ。
「——戻るぞ」
照れたままのルデルに、メリヤナは心中で握り拳を作りながら、機嫌よく天幕に戻った。
戻った場では、狩猟が開始される合図として、角笛の細長く高い音が鳴り響いていた。
手持ち眼鏡などを取り出して狩猟の様子を追う貴婦人たちが多いなかで、レッセル辺境侯夫人ウルリーカだけが万華鏡をふたつ繋げたようなものを取り出す。
「ウルリーカさま、それはなんですの?」
「これは、双の眼鏡ですのよ。遠いところがとてもよく見えますの」
ご覧になります? とウルリーカが問うと、声をかけた貴婦人は受け取って感嘆の声を上げた。
「……まあ! ほんとうですのね。とてもよく見えますわ。夫たちが何をしているのかまで目の前で見ているようにわかりますわ」
「トゥーミラ自治都市群の職人工房の製品らしいですわ」
双の眼鏡を返してもらってから、ウルリーカはやわらかく答えた。
へえ、とメリヤナは感心する。
フィルクの家は、やはり新しい技術や知識などを受け取りやすい家なのだ。だから、彼は博学で教養が深いのだろう。もちろん、フィルク自身の探求心の強さが影響しているのはまちがいないが。
——そういえば、今日はなぜ、彼は来ていないのだろう。
成人した長子は、レッセル辺境侯と共に狩りに参加している。次子は、ウルリーカの横で狩りの様子を観覧している。フィルクは見当たらなかった。
「——ウルリーカさま」
双の眼鏡を覗き込んでいるウルリーカに、メリヤナは呼びかける。
「まあ、メリヤナさま、どうなされましたか?」
「今日は、その……フィルクは参加していないのですか?」
尋ねると、ウルリーカは何度かまたたきをした。それから、「ああ」と合点がいったように、エストヴァンの発音でなめらかに答えた。
「あの子と最近、仲良くしていただいておりますものね。驚きましたわ。あの子は、どちらかというと内向的で、あまり年頃の友だちも作らず、家の図書室に閉じ込もっていることが多かったのに、最近はあなたに会いによく外出をしておりますもの。ありがとうございます」
「あ、いえ……」
そうだったのか。
たしかに、週に三回は必ず訪れてくるし、頻度が高いとは思っていたが、あまり友だち付き合いはなかったのか。
少し、驚く。あの物腰のやわらかい屈託のなさは、人から好かれそうなのに。
「今日は、あの子は留守番をしているのです」
「え?」
「こういった大勢が集まる社交の場は、元からあまり好きではないのですよ。以前、メリヤナさまのおうちで、スリヤナさま主催のお茶会がありましたでしょう? あれも元々は参加しないと言っていたのですが……、なぜか急に出席すると言いましたの。このあいだ開かれた我が家でのお茶会もそうですわ。突然、参加すると言ったので、驚いたくらいです」
「そう、なのですね」
「ですから、今日みたいに参加しないほうがふつうですのよ」
あまりお気になさらないでね、とウルリーカが明るく言うので、メリヤナも肯くしかなかった。
「成人して社交界に出てからが心配ですわ。——あ、メリヤナさまはいつでも遊びに来てくださいね。きっとあの子が喜びますから」
にこりと微笑まれて、メリヤナは、
「ええ。またぜひ」
と笑みを浮かべながら、フィルクの顔を額の裏に浮かべていた。




