第7話「さよなら」⑥
今日はとても良い日だった。
お父さんが『幸せ』って言った。
お母さんがわたしのためにプレゼントを用意してくれた。
『お母さん』って呼んだら嬉しいって言ってくれた。
「えへへ……」
思い出すだけでもにやけてくる。
駄目だ、止まらない。
今日はちょっと嬉しいことが多すぎた。
今は夜。お父さんもお母さんも寝静まって、小さく寝息を立てている。
せめて二人を起こさないようにと、わたしは布団にもぐった。
しかも明日はわたしの誕生日だ。
『明日はナナミちゃんのことを好きな人たちが、「生まれてきてくれてありがとう」って祝う記念日。ジョージさんもわたしもハッピーなんだから』
何度も思い出す、お母さんの言葉。
お母さんが買ってきてくれたテディベアは枕元に置いた。
子供っぽいとお父さんにからかわれたが、こればっかりは譲れなかった。
明日が楽しみで、全く寝付ける気がしなかった。
そして、もう少しで日付が変わる頃だった。
「ん……何?」
何かが、ゆっくりと流れているような気がした。
音が聞こえるわけではない。目に見えるわけでもない。
手の届かない、もっともっと遠くのところで、わずかに曲線を書いて流れようとしていた。
きっとそれはどこか一箇所で堰き止められていて、だから滞っているだけなのだろう。
わたしは肌寒いのを我慢しながら、布団を避けて起き上がる。
明かりの消えた真っ暗闇で、どうしてかそのときはお父さんの寝顔も、お母さんがどこに寝ているのかもはっきりと分かった。
玄関の段差を躓くことなく跨ぎ、自分の靴に足を突っ込むと、なるべく音を立てないように家の扉を開けて外に出た。
感じた流れは、この村のはずれよりももっともっと向こうにあるようだった。僅かに曲がっただけのそれは、ずっとずっと大回りをして、いずれは元の位置に戻るのだろう。
理由は分からないけれど、とても大きな円の形に繋がっているような気がした。
どこかで堰き止められているそれが円の形に繋がると、その目に見えない流れはどんどんと加速して、何か良くないことが起こる気がした。
「駄目……」
流れが変わる。
「やめて……」
堰き止められたまま、それでも進もうとする力が強くなる。
「嫌だ……そんなの嫌っ」
けれど、わたしの声は届かない。
――パチンッ――――――
聞こえるはずのない遥か遠くから、その音だけははっきりと聞こえた。
次の瞬間、叫びとも悲鳴とも似つかわない声が村中から聞こえてきた。
見渡す限り四方すべてに広がるのは、禍々しいぐらいに赤い炎。
深く深くとても深いところからやってきたようなそれは、全てを呑み込んで黒く黒く蝕んでいく。
それなのにどうしてか、わたしの周りだけが炎も寄り付かず、僅かたりとも熱さを感じなかった。
そんな中でふと、わたしのことを呼ぶ声に気づく。
慣れ親しんだ木造りの家の中。
わたしが開けっ放しにした扉の奥。
そこで自分のことも意に介さず、わたしのことを探す人影が二つ視えた。
「お父さん、お母さんっ!」
わたしが走り出してすぐ、二つの影は動かなくなる。
地を蹴った。
叫んだ。
叫んだ。
もう人の形をしていない二人に、わたしはここにいると伝えたくて。
返ってこないと理解しながら、それでも二人の声が聞きたくて。
家は崩れ、屋根も柱も全て灰になって舞い上がっていく。
わたしが着いたときには、そこには知っている風景は何も無かった。
玄関の段差も、部屋の中央の囲炉裏も、家の裏にあった作業場も、いまはもうどこがどこだったのかも分からない。
灰さえ黒く染まるここで、わたしは周囲を見回す。
探していた二人はすぐに見つかった。
『HappyBirthday』と辛うじて読み取れる、黒く変色したメダルのすぐ近く。
黒く変色して、熱で溶けて原型をほとんど留めていない骨が二人分。
わたしが寝ていた場所を挟むように、二人の亡骸はそこにあった。
唖然として、わたしは何もできなかった。
全身に力が入らず、へたりこんだまま目の前の融けていく骨をただただ眺めていた。
頭よりも心のほうが先に理解したのか、頬を熱いものが流れて落ちる。
水滴が地面を濡らすのを見て、それが目の奥から押し出されてきたものだと理解した。
堰を切ったように、涙が止まらなくなった。
叫んだ。
炎の奥へ消えていった二人を呼び、叫び、しかし返事は無い。
それを認めたくなくてわたしは、嗚咽で塞がった喉を無理やりにこじ開けて、咽びながら潰れた声を搾り出して息の続く限り呼び続けた。
当たり前のように過ごしてきたありきたりな楽しかった時間が、もう戻ってこない日々が、握りつぶすように胸を締めつける。
何が消え、何を失ったかの整理も付かないまま、ただそれらの大きさにどうしようもなくて、意味の無い言葉を喚き散らしながら、自分の頭やら顔やらを掻き毟った。
そして気が付けば、わたしには何もなくなっていた。
あれからどれだけ時間が経ったのかはわからない。
疲れたのか、諦めたのか、嫌気が差したのか、何も考えられないぼんやりとした頭のまま、わたしは立ち上がり、歩き出していた。
黒い大地を抜けて、知らない道を何も考えられないまま進む。
もしかしたらここはもう隣の国なのかもしれない。
見慣れない風景の中で、一度足を止めるとこれ以上歩けなくなることは自分でも分かった。
顔も知らない人と何人もすれ違い、見たこともない村をいくつも通り過ぎ、いくつめかの集落に入ったときだった。
とうとう足が上がらなくなり、自分の足に躓いてわたしは倒れた。
けれど、それももうどうでもよかった。
わたしが大切に思っていた人たちはもういない。
わたしを大切に思ってくれていた人たちももういない。
もう立ち上がる気力なんてない。
だってこの世界にはもう、お父さんもお母さんも友達も村の人たちも、誰一人としていないのだから。
まるで自分ひとりだけがこの世界に取り残されたみたいだ。
こんなところで独りになるぐらいなら、あの炎で一緒に死んでいたほうが良かった。
死ぬ間際のほんの一瞬だけでも、お父さんと、お母さんと、手を繋いでいたかった。
これがわたしが意識を失う前の、最後の記憶だった。
目を覚ます。
辺りを見回すが、そこは見たことも無い部屋だった。わたしは布団を避けると、ベッドから体を起こす。
監禁されているということもなく、扉は押したらすぐに開いた。
「ランス……」
口を突いて出たのは、自分を助けてくれたと思っていた人の名前だ。
流れ出る涙は、どちらのものか自分でも分からなかった。
けれど自分がどうすべきか、何をしなくてはいけないのかは理解している。
そしてそれは、他でもないわたし自身がやらなくては意味が無いのだ。だから……
「さようなら、ランス」
声が部屋に響く。
わたしは扉を閉めると、薄暗い廊下を歩き始めた。




