36(了)
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「よし、二城野くん、水無月くん、ゆみくん、いっせーの、の合図でいくぞ」
「あいよ」
「かしこまりました」
「いつでもいいよー」
太陽が皮膚に伝える暑さで梅雨明けの近さを感じます。
涼やかな風が通り抜け、巨大な敷布がはためくと、その隅を押さえていたわたくしの手に思わず力がこもりました。
放課後の渡り廊下。通り過ぎる生徒たちが、さりげなくこちらを気にする素振りを見せます。何事かと立ち止まる人もおりました。渡り廊下の一部を白くて巨大な敷布が覆っているのですから、気にもなるのも無理はありません。加えて今日を境に、業者さんや工事機材が忽然と姿を消したことも、みなさんに違和を感じさせるには十分でした。
「いっせーの!」
屋根の上の室長が声をあげて、押さえていた敷布の手を離しました。
呼応するように、下にいたわたくしたちが巨大な敷布を引っ張り下ろします。
現れたのは檜輝く直りたての渡り廊下。
こぢんまりと集まった観衆からぱちぱちと拍手が上がりました。
――それでは次に、校長によるテープカットをお願いします。
内緒で用意したテープカットの演出に驚く校長。
みんなの冷やかしを受けつつも、満更でもなさそうに、校長は渡り廊下に張られた紅白ロープにじりじりと近づいていきます。
「……少女、なんで来ないんだろ」
微笑ましい茶番が繰り広げられる中、寂しそうに呟いたのはゆみちんでした。
「あんなに楽しみにしておりましたのにね……」
渡り廊下の改修工事が施行完了を迎えた昨日。せっかくだから開通式じみたものを行おう、ということになりました。この渡り廊下に特に思い入れのある人間だけで行うささやかなものです。
提案した校長を除けば、開通式を一番楽しみにしていたのは少女のように見えました。
「絶対やりたい――」
渡り廊下開通式のどんな魅力が、少女にそこまで主張させるのだろうと、不思議にさえ思いました。ともあれ、そんな少女を慮って、他校の生徒である少女が学校を終えてからでも間に合うようにと、今日の開通式の時間を設定したのです。
しかし少女がやってこない今、昨日の喜々とした少女の表情が、わたくしたちの頭に疑問としてむなしく残るだけでした。
――では校長、どうぞ!
カツラ先生の合図と同時に、校長のはさみがテープをちょん切りました。
拍手が起こりくす玉が割れるのと、それは同時でした。
体育館の方から迫り来る人影――くす玉を合図と決めていたのかもしれません――直ったばかりの渡り廊下を、猛然と駆けぬける姿がありました。目の前を過ぎゆくにもかかわらず、わたくしどもにはそれを止める術がありません。
「捕まえますか?」
突然の狼藉にみんなが唖然とする中、校長に訊ねたのは渡り廊下対策室長でした。
「よいよい」と、校長は微笑んで――
「渡り廊下を走ってもらえるというのは、存外幸せなものだね」
駆けぬける少女を眺めて、目を細める校長がおりました。
渡り廊下を荒らされることに、激しい怒りを表していた以前の校長は、もうどこかに消えていました。
「一人で渡り廊下を楽しむより、みんなで楽しむほうが良いと思わないかね」
校長は自問するように言うと、かんらかんらと愉快げに笑います。
校長と少女は、実は似た者同士なのだと思いました。
形は違えど、二人の本質にあるのは、渡り廊下への半ば盲目的な愛です。
校長が渡り廊下を愛でる理由は知っております。わたくしの頭にふと浮かびがった疑問は、なぜ少女は渡り廊下を走るのだろう、ということでした。
過去には、父に辛くあたる校長への報復や、父への反抗といった目的が少女にはありました。ですが今、駆けぬけている少女に、そのような目的があるようには思えません。
少女が駆けた方向に当てもなく歩くと、校舎の陰で一仕事終えたとばかりに休む少女がおりました。わたくしに気がついても、もう逃げる様子も見せません。わたくしは少女の隣に腰を掛けました。
「開通式を楽しみにしていたのは、直った渡り廊下を一番最初に駆けぬけたかったからなのですね」
少女はいたずらっぽく笑って、頷きました。
「少女は何が目的で渡り廊下を駆けるのです?」
んんー、と鼻を鳴らして考える間がややありました。
「自分でも良くわかんない」と、少女は苦笑して「渡り廊下を走るのが好きだから、っていう目的じゃ駄目?」
「それは目的になっておりませんよ」
「だって、好きなことをするのに目的なんてないでしょう?」
目的を見失った人間が一人、いるように思われました。
渡り廊下を目的もなく、ただ好きだから駆けるのだという主張は「物好き」とか、「酔狂」とか、形容する以外にないように思えます。渡り廊下が大好きな女子高生。どうにも珍妙な響きです。
「少女は変わっています」
わたくしがくすくすと笑むと、少女は少しむっとしたようでした。
「でも私に言わせてもらえばさ」と、少女は前置きして――
「一人で一生懸命渡り廊下のごみを拾ったり、壁を直したりしてる水無月さんの方がよっぽど不思議だった」
今度は少女がくすくすと笑いました。
わたくしが鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたからかもしれません。
人が何かを好きになるのに、目的などきっと存在しないのです。
誰かを好きになること。
ハムスタアやカピバラを好きになること。
落とし穴を好きになること。
そして渡り廊下を好きになること――。
むしろ、愛する目的などを訊ねたわたくしの方がおかしいのだとさえ、今は思えるのでした。
「さて、もう一本行こうかな」
少女は立ち上がると、陸上の時計でも出すかのように言いました。
少女は渡り廊下を、再び目一杯に駆けぬけて行きます。
あんなに一生懸命走っているのに、走った先に何があるわけでもありません。
そんな少女の姿が、どこにもたどり着かない回し車を嬉しそうに駆けていた一匹のハムスタアと重なったとき、わたくしが彼女をたいへん好もしく思ったのもご理解いただけるのではないでしょうか。
「おーい、水無月くんも少女も乾杯にしよう! 鉄地川原先生のコオラが届いたよ」
顔を上げると、渡り廊下の真ん中で呼ぶ室長がおりました。
打ち上げ会には、すでにみなさん顔を揃えています。
校長、カツラ先生、渡廊連、加賀津さんたち、美沙さんと高橋さん、そして渡り廊下対策室のみんな――。
そこにあるのは、渡り廊下の修繕を通じてできた絆でした。
その絆を巡る歯車は、噛みあいながら、いま確実に回り続けています。
そしてその歯車の中心では、ころころころころと回し車を回す要領で、今も一匹の鼠が――ハムハムが活躍しているのです。
そんなねずみのお話を思い描くと、わたくしの心はなんとなしに暖まってくるのでした。
「美月ー、オマエが来ねえと乾杯できねえだろ!」
副室長に急かされてしまいました。
夢のような情景に浸っていたくもありますが、もう行かなければなりません。
「いま行きますよう!」
わたくしは足下の感触を確かめるようにして、渡り廊下を駆け出すのでした。
(了)




