「うちに娘は二人も要らないわ」と嗤う義妹は、人形邸で粛清される。
「では、一万ゴールドから」
「二万ゴールド!」
「五万!」
「十万!」
「三十だ!」
「四十、いや、五十万ゴールド!」
「⋯⋯百万!」
怒号のような競り合いが、その一言でぴたりと止んだ。
場内は、針一本落ちただけでも響きそうなほどの静寂に包まれる。
声の主は、でっぷりと太った中年男だった。脂ぎった顔をいやらしく歪め、今まさに競り落とそうとしている私の全身を、舐め回すように眺めている。
その男の手中に落ち、玩具のように弄ばれる未来を想像した瞬間、全身を凄まじい悪寒が走った。耐えかねて、私はその場に崩れ落ちる。床に打ち付けられた黒々とした重い手枷が、ゴンと鈍い音を立てた。それはまるで、身の破滅を告げる葬送曲の、無慈悲な第一音のようだった。
「では、」
静けさをを破るかのように、競売人が言う。
その手の木槌が高々と振り上げられた。
「――一千万」
その時、会場の空気を鋭く切り裂く、氷のような声が響き渡った。
その一言が、場内を完全に凍りつかせた。誰もが息を呑み、身動き一つできない。
先ほどの中年男に対する嫌悪とは違う、本能的な恐怖が私の全身の血を凍らせていく。
私はただ俯いたまま、震えることしかできなかった。
「い、一千万……ゴールド、でよろしいでしょうか……?」
法外な額を扱い慣れているはずの競売人が、声を震わせている。
振り上げた腕を止めたまま、喉から絞り出すように問いかけた。
謎の声の主が、小さく頷いた気配がした。
競売人はようやく我に返ったように、まだ震える声を精一杯張り上げ、腕を振り下ろす。
「一千万ゴールド……お買い上げです!」
コン、と。木槌が無慈悲な決定を告げる小気味良い音を立てた。
◇◇◇
伯爵家の長女である私、セシリア・グラベルの運命の歯車が狂い始めたのはあの日だったと、今ならはっきりと断言できる。
それは、遠縁にあたるという一人の少女が、我が家に連れて来られた日のことだった。
平民として育ったという十二歳のその少女は、曽祖父の弟が外に作らせた子供の、さらにその孫なのだという。
名はメル・ロンジン。彼女は母親の手ひとつで育てられていたが、その母親が男と駆け落ちし、天涯孤独の身になったらしい。孤児院へ送られる寸前、メルは「実は……」と我が家との繋がりを明かし、証拠として伯爵家の家紋が刻まれた短剣を差し出したのだという。
孤児院の院長も始めは鼻で笑って信じなかったようだが、メルの妙に大人びた口振りに気圧され、念のためにと我が家へ連絡を入れてきたのが事の始まりだった。
冷静に考えれば、曽祖父の代で庶子として突き放された時点で、我が家との縁などとうに切れているはずだった。しかし、いくら遠縁とはいえ、一族の血を引く子を見捨てるのは忍びない――そう考えた慈悲深い両親は、彼女を「侍女見習い」として邸に迎えることに決めたのだった。
メルは、初日から異様なほど物怖じせず、誰に対しても愛想よく振る舞った。
母付きの古参の侍女に付いて仕事を学ぶことになったのだが、使用人たちも、彼女が「貴族の遠縁」という微妙な立場であることを汲み取り、自然と腫れ物に触るような、丁寧な態度で接するようになっていった。
そんなある日のことだ。セシリアは廊下で、たまたま執事が彼女に向かって「メル様」と呼びかけているのを耳にした。
身分制度を重んじる高位貴族として、私はその歪みを見過ごすわけにはいかなかった。すぐさま執事の前に進み出ると、厳かに問いかける。
「遠縁とはいえ、彼女は我が家に雇われたただの侍女見習いです。執事たるあなたが『様』を付けて呼ぶなど、明確な序列の間違いではありませんか?」
執事はハッとしたように顔を強張らせ、慌てて私に深く頭を下げた。
「申し訳ございません、お嬢様。本当に……恐ろしいことに、無意識のうちにそう呼んでしまっておりました。以後、決してこのような不手際がないよう、肝に銘じます」
その謝罪を聞きながら、私は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
執事の平伏する姿を、メルが冷淡極まりない眼差しで見下ろしていたからだ。そして彼女は、私が目の前にいることすら忘れたかのように、小さく「ちっ」と舌打ちをした。
平民の少女が見せた、あまりにも不遜で横柄な態度。
私はすぐさま彼女を短く叱責したが、胸の奥に生じた奇妙な違和感と、得体の知れない薄気味悪さは、いつまでも消えずに残り続けた。
その夜のことだった。
晩餐を終え、自室へと下がろうとする私を、父が神妙な面持ちで引き留めた。
「セシリア、少し話がある。書斎へ来てくれ」
重苦しい空気が満ちる書斎で、父は躊躇いがちに、しかし確かにこう切り出した。
「セシリア、つかぬことを聞くが……お前がメルを虐めているというのは、本当か?」
私は一瞬、自分の耳を疑った。あまりの衝撃に言葉を失い、ようやく声を絞り出す。
「お父様……私が、そのような卑劣な真似をするとお思いなのですか?」
父は痛ましげに、静かに首を振った。
「まさか。お前がそんな娘ではないことは、私が一番よく知っている。……何があったのか、話してごらん」
私は安堵し、昼間に廊下で起きた執事とメルの一件をありのままに話した。
父は黙って頷き、深く息を吐き出すと、ぽつりと呟いた。
「あの子をこの家に迎え入れたのは、間違いだったかもしれん」
私はその言葉に、強く同意した。あの子の周囲には、生理的な嫌悪感や、得体の知れない不安感が常にどろりと付きまとっている。そう感じずにはいられなかったのだ。
父は「今後の身の処し方を考えてみよう」と言ってくれた。私はその言葉にすっかり安堵し、その夜はそれ以上、メルのことで煩わされることはなかった。
しかし、悪夢はここから始まった。
メルの異常な行動は、日を追うごとにエスカレートしていった。
私は日中、学院に通うため邸を留守にしているし、メルは母の部屋に籠もっていることが多かったため、本来なら接点などほとんどないはずだった。
それなのに、邸内で視線が合うたび、彼女は私を底辺の虫ケラでも見るような目で見下してくるのだ。すれ違いざまに「ふん」と鼻で笑うことも一度や二度ではなかった。
その不遜な態度を注意すれば、彼女は待っていましたとばかりに「私、そんなことしていません!」と大袈裟に泣き崩れる。
その狂言の涙に騙され、いつしか使用人たちの間には「お嬢様がメルを虐めている」という悪質な噂が真しやかに広まっていった。
そして、メルが我が家に来てからひと月が経った頃。
私は両親から、唐突に背筋の凍るような決定を告げられた。
「メルを、我が家の養女として迎え入れようと思う」
頭を鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。
父はあの日、彼女を家に入れたことを後悔していたはずだ。それなのに、この豹変は一体何なのだろう。
「お父様、お母様! 私は反対です!」
当然の抗議だった。しかし、両親は顔を見合わせると、「おや」「まあ」と、まるで子供の戯言をあやすように薄気味悪く笑った。
「まるで私たちが取られてしまうと思って、駄々をこねている子供のようだね」
冗談ではない。私は必死に、メルに漂う空気が異常であること、使用人たちの様子もおかしいことを、言葉を尽くして訴えた。
両親は私の話を聞いていた。……いや、聞いていたはずだった。
異変に気付いたとき、二人は見たこともないような狂気に満ちた、恐ろしい形相で私を睨みつけていた。
「あれほど哀れで、愛らしい子供が他にいるものか!」
父の怒号に続き、母が蔑むような冷たい声を重ねる。
「そうよ。それに比べて、あなたの心の醜さは一体何事ですか」
私は呆気に取られ、ただ立ち尽くすしかなかった。何が起きているのか、目の前にいるのが本当に自分の両親なのかすら分からなかった。
ただ一つ理解できたのは、二人が完全にあの子に心酔し、毒されているという絶望的な事実だけだった。
胸を掻きむしられるような息苦しさに耐えかねて、私は逃げるように自室へと戻った。
ベッドに突っ伏し、涙を流していると、侍女のケイティが、温かいホットミルクを運んできてくれた。
「お嬢様、これを飲んで、少し落ち着いてくださいね」
彼女の変わらぬ優しさに救われる思いで、私はそれを一気に飲み干した。張り詰めていた緊張が解け、私はそのまま深い眠りへと落ちていった。
翌朝、食堂のドアを開けた私は、その光景に息を呑んだ。
朝食の卓にはすでにメルがついており、いつも私が座る定位置に、我が物顔で収まっていたのだ。
両親はその事態に眉一つ動かさず、むしろ実の娘であるかのように親しげにメルと談笑しながら、食事を進めている。その光景の異様さに、とても同じ卓を囲む気にはなれず、私は朝食を抜いたまま逃げるように学院へと向かった。
「セシリア、どうかしたの? 顔色がひどく悪いわ」
酷く沈んだ私の様子を察して、親友のキャサリンが心配そうに声をかけてくれた。
「実は……」
私は縋るような思いで、メルが来てからの出来事や、両親の不可解な豹変について打ち明けた。貴族として「家庭内の醜聞を他人に話してはならない」と厳しく躾けられてきたが、もう私の精神は限界を迎えていた。
私の告白を聞いたキャサリンは、驚愕に目を見張り、深刻な面持ちで言った。
「それはあまりにも異常よ。この件は、一刻も早く信頼できる大人に相談すべきだわ。誰か、心当たりはある?」
私は絶望的な気持ちで首を横に振った。邸の使用人すら信じられない今、頼れる大人など一人も思いつかない。
「じゃあ、生徒相談室はどうかしら?」というキャサリンの熱心な勧めに背中を押され、私たちはその足で相談室を訪ねた。
私の話を終始神妙な面持ちで聞いていた相談員のソフィア先生は、深く「ううむ」と唸り、険しい表情を浮かべた。
「それは……確かに、到底まともとは思えない状況ね」
先生はそう言ったきり、しばらく重苦しい沈黙の中で考え込んでいた。
やがて、決意を秘めた目でふと顔を上げると、私を真っ直ぐに見つめた。
「生徒から打ち明けられた秘密は、私の胸三寸に収めるのが原則です。けれど……この件に限っては、例外とさせてほしい。私の伝手で、別の信頼できる専門の方にも相談を広げて構わないかしら? その際、あなたにはもう一度、同じ話をしてもらうことになるけれど」
「はい……構いません。お願いします」
私は縋るような思いで頷いた。しかし、その機会が訪れることは、なかった。
その日の夜、晩餐の席でもやはり、メルは当たり前のように私の席を占拠していた。
私は胃の痛みに耐えながら、仕方なく彼女の向かい側の席へと着いた。
目の前では、両親とメルが賑やかに、楽しげに言葉を交わしながら食事を進めている。そこには温かな家族の団欒があるように見えて、その実、私という存在だけが完全に忘れ去られていた。まるで、最初からそこに誰も座っていないかのように、徹底的に無視されるのだ。
その時、メルがナイフを置き、脈絡もなく、酷く冷たい声で言い放った。
「この家に娘は二人も要らないわ」
張り詰めていた私の堪忍袋の緒が、音を立てて切れた。
「そう思うなら、あなたがさっさとこの家から出ていきなさい!」
怒りに任せて叫んだ、その瞬間だった。
今まで私を視界にすら入れていなかった両親の首が、まるで操り人形のように、ぎちぎちと不自然な動きで私へと向き直った。その目は、生気のないガラス玉のように濁りきっている。
「お前が出て行け!」
「あなたの家は、もうここにはないのよ」
怒号と冷徹な宣告が、同時に私へ突き刺さる。
私はいたたまれなさと恐怖で総毛立ち、椅子を蹴立てて立ち上がると、泣きながら自室へと駆け戻った。
部屋のベッドで震えていると、昨日と同じように、侍女のケイティが温かいホットミルクを盆に載せて現れた。
朝から何も口にしていなかった私は、酷い空腹と疲労も手伝い、差し出されたそれを貪るように一気に飲み干してしまった。
――ケイティが、妙に強張った顔で、こちらの様子をチラチラと何度も伺っていることにも、その時の私は、全く気づきもしなかったのだ。
◇◇◇
どのくらい時間が経ったのだろう。割れるようなひどい頭痛で意識を取り戻した私は、自分が冷たく固い床の上に横たわっていることに気づき、愕然として跳ね起きた。
辺りは濃密な闇に包まれており、目を凝らしても何も見えない。ただ、ここが私の暖かな自室でないことだけは、肌を刺す空気の冷たさで痛いほど理解できた。
不安に駆られ、手探りで這うようにして前へ進んだ時、私の指先が生温かい「何か」に触れた。
それが人間の肉体だと気づくのと同時に、闇の向こうから「きゃっ」という短い悲鳴が上がる。自分以外の誰かが、この部屋にいるのだ。
「ご、ごめんなさい! 私はセシリア。驚かせるつもりはなかったの。……ここは、一体どこなのかしら?」
怯えを隠せない私の声に、声の主は小さく息を吐き出し、震える声で応じた。
「だ、大丈夫。急に触られたから、びっくりしただけだから。私はサラ。私も、ここがどこなのかは知らないの。あなたがこの部屋に運び込まれるのは見ていたけれど、恐ろしくて、何にもできなくて⋯⋯ごめんなさい」
闇の中で膝を突き合わせながら、サラはぽつりぽつりと自身の身の上を語り始めた。
彼女の実家は、下町で小さな料理屋を営んでいるのだという。
「美味い、安い、楽しい」を地で行くその店は、いつも常連たちの笑い声で溢れていた。父が厨房で腕を振るい、母が気風よく接客をこなし、兄が会計と掃除を受け持つ。十一歳のサラも厨房の手伝いをして、家族総出で店を切り盛りする、そんな暖かで騒がしい日常だった。
それなのに――。
繁盛した一日の営業を終え、皆で店を片付けていた、あの夜のこと。
サラが厨房のゴミをまとめて裏口から外へ出しに行った、ほんの一瞬の隙だった。
背後から近づいた何者かによって、頭から目の粗い袋を乱暴に被せられた。必死に暴れようとしたものの、容赦なく腹部を殴りつけられ、サラの意識はそこで途絶えたのだという。
「気がついたら、この部屋に放り込まれていたの」
サラが言うには、外から窓を厳重に塞がれているものの、隙間から僅かに差し込む光のおかげで、部屋の全貌は辛うじて把握できたらしい。部屋にあるのはは簡素な机と椅子、奥に備え付けられた手洗いのみ。まるで誰かを監禁するためだけに作られたような部屋。外から厳重に施錠された頑丈な扉には小さな覗き窓があり、そこから家畜の餌のように質素な食事が差し入れられるのだという。
「私がここに連れてこられてから、今日で、もう三日目。家族が、どんなに心配しているか……」
サラはそこまで言うと、堪えきれずに激しく泣きじゃくった。
私は彼女の震える背中を優しく擦りながら、必死に言葉をかける。本当は私だって、大声で泣き叫びたい。けれど、この部屋に三日間も監禁され、一人で耐え続けてきたサラの心細さと恐怖は、私の比ではないはずだ。私は実の姉のように振る舞おうと、己の恐怖をぐっと心の奥底に押し込めた。
張り詰めた空気を紛らわすように、今度は私が自分の境遇を語り始めた。
突然邸にやってきた遠縁を名乗る少女のこと。その少女が撒き散らす不気味な違和感。そして、彼女が現れてからというもの、実の両親も使用人たちも、まるで別人のように狂っていったこと――。
「……ねえ、もしかして。その子の名前って、メル・ロンジンじゃない?」
サラが闇の向こうで呟いたその瞬間、私の心臓はどくっと大きな音を立てて跳ね上がった。
「どうして……どうしてその名を知っているの!?」
「やっぱり。やっぱりあの子だ。あの子は、人間の形をした、恐ろしい怪物よ!」
サラが語る真実は、私の背筋を完全に凍りつかせた。
メルが母親と共にサラの店に現れたのは、今から二年ほど前のこと。
料理と共に当然のようにエールを二人分注文したため、サラの母親が「うちの店じゃ、そんな小さな子供に酒は出せないよ」と注意したのだという。
すると二人は顔を見合わせて下品に笑い、「この子はもう、十五だよ」と言って、教会が発行した身分証明の木札を突き出してきた。
「その札には、確かにメルが十五歳だって記されていたって。いつも十歳そこそこの子供に間違われるって、二人は気味悪く笑っていたというの」
――二年前に十五歳。ならば、現在は十七歳。
とっくに成人を迎えている年齢だ。他家に侍女見習いとして縋り付く必要など、どこにもない歳なのである。
「それだけじゃないの。二人は散々飲み食いして、では会計という時に、お兄ちゃんの様子がおかしくなったの」
兄が伝票を持ってテーブルへ向かうと、メルはその濁った瞳で真っ直ぐに兄を見つめ、「お金が無いから、払えないわ」と、鈴を転がすような声で告げたという。
すると兄は、まるで魂を抜かれたように「そうか、お金がないなら仕方がないな」と、支払いを請求することもせず、二人をそのまま笑顔で見送ってしまったのだ。
息子のあまりに異常な様子を察知したサラの母親が、すぐさま駆け寄り、彼の背中を両手でバシバシと力任せに叩き据えた。その衝撃で、兄はようやく憑き物が落ちたように正気を取り戻した。
「お兄ちゃん、正気に戻ったあと、ガタガタ震えながら言っていたわ……。『あの子の目を見て、あの声を聞いていると、脳みそを直接弄られているみたいに……ああ、そうか、仕方がないんだって、心の底から強制的に思わされてしまうんだ』って」
サラの一家が覚えた憤りは、当然のものだった。
世の中には、その日の食べ物にも困る哀れな人々はいくらでもいる。そうした者たちは店の裏口へとひっそりやって来て、余り物や客の残飯を、何度も何度も頭を下げながら、申し訳なさそうに、けれど本当にありがたそうに貰っていくのだ。
しかし、あの親子はどうだ。さも立派な客であるかのように堂々と正面から乗り込んできて、散々贅沢に飲み食いした挙げ句、実直な兄の精神を狂わせてまで無賃飲食を働いたのだ。
許しがたい暴挙に、一家は近隣の店舗に同じような被害がないか血眼になって聞き回った。
「そうしたら、あったのよ。私たちの店だけじゃなかった。見つかっただけで、周辺の店が四件も同じ目に遭わされていたわ」
事態を重く見た一家は、すぐさま商業ギルドへ事の顛末を報告した。
ギルド側も色めき立ち、加盟するすべての店舗に向けて「あの不審な親子を見かけたら、直ちに報告せよ」との通達を出した。
それから、ほんの数日後のことだ。ある料理店から「例の親子が現れた」との緊急報告がなされた。
商業ギルドの要請を受け、すぐさま騎士団が動き、二人の騎士が現場へと急行した。騎士たちは手際よく、一人を母親に、もう一人をメルに取り押さえさせ、そのまま治安維持所へと連行していった。
誰もが、これで悪辣な詐欺師の親子の件はすべて解決したのだと信じて疑わなかった。
しかし、メルは網の目を潜り抜けるようにして、鮮やかに逃亡したのだ。
彼女は、自分を拘束していた騎士をその濁った瞳で見つめ、鈴を転がすような声でこう囁いたという。
『私をここから逃がしたほうがいいわ』
その瞬間、騎士の脳裏にはボンヤリとした霧がかかり、混濁した意識の中で強く思い込んでしまった。
(そうだ……この哀れな子供は、私が今すぐ逃がしてやらなければいけないんだ)
騎士は自らの手でメルの拘束を解くと、大通りで辻馬車を呼び止め、自分の懐から御者へ運賃を支払い、彼女を乗せて見送った。
後に正気を取り戻した騎士は、「なぜ自分が、あんな狂った真似をしたのか分からない」と激しく錯乱しながらも、容疑者を逃亡させた重い責任を取り、そのまま騎士団を不名誉除隊となった。
「メルの行方を追うために、騎士団が本格的に余罪を調べ始めたら、出るわ出るわ、恐ろしい事実がたくさん浮き彫りになったのですって。
被害者の中には、あの子に『お前の家の宝物を持ってくるように』と言われ、自分の意思では抗えずに、家宝をそのまま差し出してしまった人たちもいたみたいで」
サラの言葉が、暗闇の中で私の脳裏に雷鳴のごとく轟いた。
(……待って。もしそうなら、あの子が持ってきた、我が家の家紋入りの短剣も――)
パズルの最後のピースが、恐ろしい音を立てて嵌まっていく。すべてが、完璧に腑に落ちてしまった。
一族の血を引くという御大層な身の上話も、短剣も、すべてはどこかの家から奪い取った「騙しの道具」に過ぎないのだ。
あの子が纏う、生理的な嫌悪感を催す異様な気配。
優しかった両親や、誠実だった執事たちの、あの操り人形のようなおぞましい豹変。
それらはすべて、メルの発する「声」と「視線」に脳を直接書き換えられた結果だったのだ。
逃れようのないそら恐ろしさが津波のように押し寄せ、私は激しい鳥肌の立つ自分の両腕を、きつく抱きしめることしかできなかった。
絶望に沈む部屋の塞がれた窓の隙間から、夜明けを告げる青白い冷え冷えとした光がゆっくりと差し込み始めていた。
◇◇◇
学院の教室で、キャサリンはぽつんと空いたセシリアの席を見つめていた。
誰もいないその冷たい空間を見つめていると、足元からじわじわと這い上がってくるような怖気に、全身がぶるぶると震えた。
(今日で、もう三日目だわ。絶対に、何か恐ろしいことが起きている)
全身を包むような不安感が、一刻ごとに彼女の心を苛んでいく。
昨日も、一昨日も、たまらずセシリアの邸を訪ねたのだ。しかし、邸内へ入れてもらうことすら叶わなかった。
いつも優しく親切に出迎えてくれたはずの執事が、まるで魂を抜かれた別人のような顔で、焦点の合わない目でこちらを見つめ、こう呟いたのだ。
『セシリア……お嬢様、ですか……? はて、こちらにそのような方は……どなたのことでしたかね』
――ガラリ、と前方のドアが開き、担任の教師が教室へと入ってきた。
「一同、席に着け。おはよう。連絡事項だが、セシリア・グラベルが、急遽、隣国へ留学することになった。すでに現地へ向けて出発したとのことだ」
教師の淡々とした報告に、教室内がにわかにざわめき立つ。
しかし、その声はキャサリンの耳には一切届かなかった。
(絶対に違う。留学なんて嘘よ。セシリアの身に、何かが起こっているんだわ!)
確信が恐怖へと変わった瞬間、キャサリンは全身の力がストンと抜けていくような感覚に襲われた。激しい眩暈に襲われ、かろうじて「気分が悪い」とだけ告げて、ふらつく足取りで医務室へと向かうため席を立った。
込み上げる吐き気と猛烈な目まいに耐えかねて、誰もいない静まり返った廊下でしゃがみ込む。
しばらく荒い呼吸を整えながら、彼女は必死に己を奮い立たせた。
(こうして、うずくまっている場合じゃない。セシリアが、本当に危ない!)
脂汗を拭い、壁に手を突きながらどうにか立ち上がる。彼女の足は、向かうはずだった医務室の前を、迷いなく通り過ぎていく。
「キャサリンさん!? あなた、一体どうしたのっ!?」
授業時間中の急な来訪に、一瞬だけ非難の眼差しを向けかけた生徒相談室のソフィアだったが、キャサリンの死人のように真っ白な顔色を見るや否や、すぐさまデスクから飛び出して駆け寄った。
「先生っ、先生、大変なんです! セシリアが、セシリアの身に、何かがっ!」
歯の根も合わないほどがたがたと震えるキャサリンを、ソフィアは慌ててソファーへと座らせた。冷たい水を飲ませ、彼女の華奢な背中を何度も大きく擦ってやる。
呼吸が少しだけ落ち着いてくると、キャサリンは涙を流しながら、この数日間に起きた邸の異常、執事の豹変、そして今朝のあまりにも不自然な「留学」の報告について、一生懸命に言葉を紡いだ。
すべてを語り終えたキャサリンの手を、ソフィアは両手で強く、温かく包み込んだ。
「よく話してくれたわ、キャサリンさん。ここからは私に任せて。絶対に大丈夫だから、あなたはお医者様に診てもらいなさい」
強い眼差しでキャサリンを落ち着かせると、彼女を医務室へと送り届けた。
そしてソフィアは、自身の引き出しから一つの重厚な紋章を取り出すと、コートを引っ掴んで跳びだすように部屋を後にした。学院の裏手に待たせてあった馬車へと飛び乗り、御者に行き先を告げる。
「大至急、あちらへ向かって頂戴!」
蹄の音を激しく響かせながら、馬車は走り去っていった。
◇◇◇
私たちは、暗闇の中でただ息を潜め、監禁され続けていたわけではない。
きっとそのうち逃げ出せると互いを励まし合い。逃げる体力をつけておこうと体を動かして過ごした。
そして、私たちの身に、ついに決定的な異変が起きた。私がこの場所に囚われてから、七日目のことだ。
ずっと固く閉ざされていた扉が、ガチャリと重々しい音を立てて開け放たれた。
逆光の中に現れたのは、小汚い身なりの老婆だった。
「さあ、のろのろするんじゃないよ。出ておいで!」
老婆の耳障りなしゃがれ声に促され、私とサラは恐怖に身をすくめながらもお互いを見つめ合い、重い身体を引きずるようにして立ち上がった。
連れて行かれた先は、湯気の立ち込める無機質な浴場だった。老婆は私たちを突き放すように見据えると、「隅々まできっちり磨き立てるんだよ」と冷たく言い放つ。
相手がこの老婆一人であれば、隙を突いて逃げ出せるかもしれない――一瞬、そんな希望が頭をよぎったが、浴場の外から粗野な男たちの低い話し声が聞こえ、その淡い期待は一瞬で打ち砕かれた。
諦めて二人で湯に浸かる。何日ぶりかの一時の安息であるはずなのに、心地よさなど微塵も感じられなかった。ただ、この先に待ち受ける底知れない運命への不安だけが、澱のように胸の奥底に積もっていく。
湯から上がると、最悪の現実が待っていた。
今まで着ていた私の貴族としてのドレスも、サラの服も、跡形もなく持ち去られていた。代わりに置かれていたのは、あまりにも薄く、白く、短い衣だった。
拒むことも許されず、仕方がなくその身に纏ってみる。案の定、それは膝が完全に露出するほど短く、うら若き乙女の肉体を余すところなく人目に晒す、極めて下劣な衣装だった。
恥辱と羞恥に顔を歪ませたが、すぐに唇を噛んで思い直す。ここで泣き寝入りしている場合ではない。どんな生き恥を晒そうとも、生きて、何としてでもここから逃げ出さなくては。
抵抗も虚しく、老婆の手で強引に髪を梳かされ、酷く扇情的な化粧を施されていく。その飾り立てが終わると同時に、私たちは外で待っていた真っ黒で不気味な馬車へと押し込められ、どこかへと運ばれていった。
◇◇◇
ソフィアはある美しい邸宅の前にいた。門衛に自身の持つ重厚な紋章を示すと、すぐさま邸の主への目通りを願い出る。現国王陛下の末弟にあたるクラレンス殿下は、彼女の来訪を知るや否や、すぐさま部屋に姿を現した。
ソフィアが以前、セシリアから相談された「グラベル伯爵家の異常」を真っ先に持ち込んだ相手こそ、この青年王族であった。
クラレンス殿下は、単なる王族というだけではない。公にはできない国家の闇を処理する『国王特使』という極秘の肩書を持っている。正規の衛兵や騎士団には持ち込めない、あるいは持ち込んでも握りつぶされかねない案件や、出所不明の奇妙な事件、怪死事件などは、度々彼の元へと持ち込まれていた。
「グラベル家が、セシリアを『隣国へ留学させた』と学院に連絡を入れてきました」
ソフィアの切迫した報告を聞き、クラレンスは美貌の顔を険しく歪めた。
「……やはりな。すでに邸からは連れ出された後だったか」
ソフィアから最初の相談を受けた直後、クラレンスは即座に自身の息がかかった優秀な密偵をグラベル伯爵邸へと潜入させ、監視を強めていた。
しかし、その日の深夜、密偵が目撃したのは、グラベル邸の裏門からこっそりと戻ってきた、中には誰も乗っていない空の馬車だけだった。すでに、セシリアの身柄は闇へと流された後だったのだ。
クラレンスは冷静に状況を分析し、引き続きグラベル家を厳重に監視させると同時に、配下の者たちへ命じて王都の市中に幾重もの網を張らせた。
どんなに些細な異変、どんなに小さな闇の動きであっても、決して見逃さぬように。
そして二日後。潜伏していた彼の密偵から、怪しい報がもたらされた。
貴族街の地下で、極秘に『非公式のオークション』が開催されるという。
公式のギルドを通さず、秘密裏に行われる競売。それは、出所の言えない盗品の売買か、あるいは――人身売買。
「見つけたぞ」
クラレンスの冴えきった瞳が、獲物を捉えた猛禽のように、闇の中で鋭く光を放った。
◇◇◇
地下のオークション会場では、未だに狂乱の競り合いが続いていた。
しかし、一千万ゴールドという破格の値で競り落とされた私は、まるで出荷される商品の包装紙のように無骨な毛布でくるまれ、会場の裏口から紋章の付いていない馬車へと急ぎ運び込まれた。
ガタゴトと車輪が激しく夜道を駆ける。その揺れの中で、私の自由を奪っていた重苦しい黒の手枷が、私を競り落とした「声の主」の手によって、パチンと軽い音を立てて解き放たれた。
「もう大丈夫だ、安心しなさい」
暗がりの向こうから、低く、しかし驚くほど温かみのある声が響いた。
「君は救い出された。あの忌まわしい会場は、今頃私の騎士団によって完全に包囲されている。……君の家であるグラベル伯爵邸も同様だ」
男は毛布越しに私を安心させるように見つめ、静かに言葉を続けた。
「私はクラレンス。国王特使として、君の身柄を臨時に保護する」
(……やはり、そうだったのだ)
馬車に押し込まれる一瞬、ランプの光に照らされた男の横顔に、私は微かな見覚えがあった。学院の式典で遠目に拝謁したことのある、王族の御姿。
私は窮屈な馬車の座席の上で、令嬢としてできる限りの最敬礼を取ろうと身を屈めた。
「いや、堅苦しい礼は不要だ。楽にして座ってくれ」
クラレンス殿下の慈悲深い声に張り詰めていた心がようやく解け、私は席に座り直した。
「事の顛末は大体把握しているつもりだが、やはり被害者である君の口からも真実を聞きたい。一体何があったのか、話せる範囲で教えてもらえるだろうか」
私は、あの平民育ちの少女メルが邸に連れて来られたあの日から、両親の不可解な豹変、そして監禁部屋の中でサラから打ち明けられた彼女の恐るべき過去に至るまで、記憶のすべてを必死に、詳しく殿下に伝えた。
一通り話し終えた後、私はずっと胸に引っかかっていた問いを口にした。
「あの……殿下、サラは……一緒に囚われていたサラは、無事なのですか?」
「ああ、大丈夫だ。彼女も我が配下が責任を持って救出した。今頃は下町の温かい我が家へ送り届けられ、家族と再会を果たしている頃だろう」
殿下の言葉に、私は心の底から安堵の胸をなで下ろした。あの暗黒の七日間、孤独と恐怖で狂ってしまわずに済んだのは、間違いなく彼女が隣にいてくれたからだった。
その時、激しく揺れていた馬車が静かに速度を落とし、完全に停止した。どうやら目的地に到着したようだ。
「私の邸だ。今夜はここで、心ゆくまでゆっくりと休むといい」
殿下の私邸へと迎え入れられた私は、お付きのメイドたちによって、張り詰めていた苦難の日々の記憶を洗い落とすかのように、温かい湯で丁寧に全身を清めてもらった。
汚れを落とした肌には、これまで囚われていた粗末な白衣とは比べ物にならない、極上の柔らかな生地で作られたナイトドレスが与えられた。
疲れ切った胃に優しく染み渡るミルク粥をようやく平らげ、一息ついたその時だった。
コンコンコン、と部屋の扉が静かにノックされ、クラレンス殿下が姿を現した。
「セシリア、少し話をしても構わないだろうか?」
向かい合わせに置かれた革張りのソファに腰掛け、正面に座る私をじっと見つめながら、クラレンス殿下は重々しい口調で問いかけてきた。
「セシリア、君は『マニピュレーター』という存在を知っているだろうか?」
「……いいえ、存じ上げません」
私は小さく首を横に振った。文字通りに解釈するならば、マニピュレート――つまり、他者を意のままに『操る者』という意味だろうか。
「普通の人間の世界にも、マニピュレーターと呼ばれる気質の持ち主は存在する。言葉巧みに他者を誘導し、自分の思い通りに動かそうとする人間だ。しかし、今回私たちが直面しているマニピュレーターは、それとは根本的に違う。もはや『別の生き物』と呼んだ方が正しい。王宮の禁書庫に眠る古い書物には、歴史上、何十年かに一度、そのような怪物が人の皮を被って現れると記録されている」
「別の、生き物……」
「そう、悪魔の申し子、とでも言い換えるべきかね。君の家に入り込んだメルという娘も、間違いなくその類いだ」
「あの子は、人間ではないのですか?」
私の問いに、殿下は厳格な眼差しを崩さない。
「肉体的には人間の親から生まれる。だが、生まれつき他者の精神を貪る悪魔の気質を宿しているのだ。ただし、その呪縛は万能ではない。すべての人間に効くわけではないんだ。おそらく、君にも効いていなかったのだろう? メルに何かを命じられ、自分の意思に反してその通りに動かされてしまった経験は?」
「いいえ……一度もありません」
私は明確に首を振った。
「最後に晩餐の席で、あの子から『この家に娘は二人も要らない』と言われました。ですが、私は激しい怒りを覚え、あなたこそさっさと出ていきなさい、と言い返しました」
殿下は「やはりな」と深く深く頷いた。
「君にはマニピュレーターの精神干渉が効かない。奴の持つ呪いへの、完全な耐性がある証拠だ」
己の特異性に驚きつつも、私は胸の奥を焦がし続けていた一番の懸念を口にした。
「……殿下。私の家は、一体どうなってしまうのでしょう?」
クラレンス殿下は端正な顔に苦渋の影をにじませ、声を落とした。
「現在、我が直属の騎士たちが伯爵邸を包囲している。しかし、迂闊に踏み込めば、今度は訓練された騎士たちがあいつの操り人形にされかねない。そうなれば騎士たちだけでなく、邸内にいる君のご家族の命すら危ういのだ。奴の術を封じるための、決定的な妙案が見つからず苦慮している」
「もし……あの子を捕らえることができれば、あの子はどう処罰されるのですか?」
「いいや。捕らえはしない」
殿下の瞳が、氷のように冷たく冴え渡る。
「その場で即刻、処刑だ」
私がどのような表情を浮かべていたのだろう。絶句する私を気遣うように、殿下は強い声音で言葉を継いだ。
「勘違いしてはいけないよ、セシリア。奴は哀れむべき子供などではない。人間ですらないんだ。無辜の民の心を壊し、人生を狂わせる、人の形をした悪魔そのものなのだから」
そして殿下は調べ上げた、メルが起こした数々の事件の一つを語った。
「仲の良い二人の少年がいた。彼らは将来、一緒に店を持とうと約束していた。ところが、メルが現れた。奴は少年たちに『石を持って殴り合い、どちらが強いか勝負しろ』と言った。周りの大人たちが気がついたときには二人とも半死半生で、やがて一人は死んでしまった。それを知ったもう一人も首を括った」
殿下の言葉が、私の胸の奥に眠っていた伯爵令嬢としての矜持を激しく揺り動かした。
――両親を、我が家を、あの邪悪な怪物に蹂躙されたままで終わらせるわけにはいかない。
私は深く息を吸い込み、固い決意を瞳に宿して殿下を見つめた。
「……私に、やらせてください」
殿下は驚愕に目を見張り、すぐさま猛反対した。か弱い令嬢を悪魔の元へ送るなど王族として、男として看過できるはずがなかった。
しかし、私は一歩も引かなかった。自分の意志を頑なに変えず、真っ直ぐに殿下を見据えたまま、脳裏に組み立てた『作戦』を淀みなく話し聞かせた。あの子の呪いが効かない私だからこそ、成し遂げられる唯一の計画を。
窓の外の夜空が、薄紫からゆっくりと白み始める頃。
クラレンス殿下は、私の固い決意に根負けしたように、渋々とその案を承諾した。
ただし――と、殿下は譲れない一線を引くように、私の目を強く見つめ返した。
「私が必ず同行する。それが条件だ。君を一人で、あの悪魔の前に立たせるわけにはいかないからね」
私たちは質素な平民の衣服に身を包み、用意された馬車へと飛び乗ると、一路グラベル伯爵邸へと向かった。
邸の近くで馬車を降り、息を潜めて待機していた騎士たちと合流する。私自らが前線に立って戦うと知った彼らは驚愕に目を見張ったが、令嬢の身でありながら我が家を取り戻そうとする私の覚悟に打たれ、「必ずや作戦を成功させましょう」と力強く頷いてくれた。
通用門へと続く物陰で息を殺して待ち伏せていると、定刻通り、見慣れた野菜売りの荷馬車が通りかかった。
騎士たちが音もなく馬車を制動し、商人に事情を簡潔に説明する。私たちはその荷台へと速やかに乗り込んだ。ガタガタと酷く揺れる荷物の隙間で、私は恐怖を打ち消すように、きつく拳を握りしめていた。
やがて馬車が止まり、通用門の向こうから「おはよう! いつもご苦労さまだね」と門番の明るい声が聞こえてきた。
脳を弄られていない、いつもの彼の健やかな声。精神干渉はまだ通用門までは及んでいないと確信し、私は荷台から姿を現した。突然の私の出現と、ざっと明かされた信じがたい事態に門番は絶句したものの、「お嬢様のために、精一杯協力いたします」と涙を浮かべて約束してくれた。
商人が厨房の裏口をノックし、声を張り上げる。
「野菜のお届けに上がりました!」
隙間から「ふぁい……」と、気の抜けた返答があった。生気のないその声は、やはり操られている証拠だ。
扉が開いた刹那、先頭の騎士が電光石火のあて身で相手を気絶させ、内部で立ち働いていた他の二人も、悲鳴を上げる暇さえ与えずに無力化した。
「行くぞ」
私たちは気配を完全に消し、一気に、しかし静謐に三階へと駆け上がった。この早朝の時間、起き出しているのは厨房のキッチンメイドだけなのだ。
私はかつてメルに与えられていた部屋を指差した。皆が黙って頷き、静かに扉を開け放つ――しかし、中はもぬけの殻だった。
一体どこにいる。私は瞬時に思考を巡らせ、そして一つの恐ろしい可能性に思い至った。⋯⋯私の、自室だ。メルは私のすべてを奪い、私に取って代わろうとしていた。ならば、主のいなくなった私の部屋を真っ先に占拠していても、何ら不思議はない。
懐かしい自室の扉を音もなく開け、足を踏み入れる。
果たして、メルはそこにいた。私のふかふかとした寝台に腰掛け、ニヤニヤとした下劣な笑みを浮かべながら、私を待っていたのだ。
「遅かったのね」
狂気を孕んだその一言を聞いた瞬間、私は背後で素早く扉を閉め、硬質な音を立てて鍵をかけた。この子――いや、この怪物の不吉な「視線」と「声」を、これ以上、誰にも向けさせてはならない。
メルがフフフと低く嘲笑う。私は意を決して、腰に帯びていた鋭利な剣をすらりと引き抜いた。
刹那、メルが邪悪な声音で叫んだ。
「お父様、お母様。不審者よ、早くその女を斬り殺してちょうだい!」
コト、と部屋の片隅で重苦しい音が響いた。
クローゼットの扉が開き、中から虚ろな目をした実の両親が、操り人形のようにのそのそと歩み出てきたのだ。
「キヒヒヒヒッ!」
メルが甲高い、獣のような声を上げて激しく笑う。既に精神を乗っ取っている両親には、声だけで命令できるということか。
「早く、早く! ぐずぐずしないで斬っちゃってよ!」
私はジリジリと後ずさった。全身の血の気が引き、剣を持つ手が激しく震える。駄目だ、いくら正気を失っているとはいえ、実の親をこの手で傷つけることなど私にはできない。対して、精神を完全に乗っ取られ、私を「愛娘」と認識していない両親にとって、私を殺害することなど赤子の手をひねるより容易いだろう。
ついに、私の踵が冷たい壁に突き当たった。逃げ場はない。両親はギラリと光る短剣を手に、容赦なく私へと迫ってくる。
――もう、これまでか。
絶望に目を閉じかけたその瞬間、バリン! と凄まじい轟音を立ててガラス窓が粉砕された。
屋上からロープで突入してきたクラレンス殿下と騎士たちが、またたく間に両親へと組み付き、その身を組み伏せる。
「セシリア、粛清を!」殿下の切迫した怒号が響く。メルの邪悪な目を見ぬよう、対峙は避けているのだ。
そうだ、時間をかければ、取り押さえている殿下たちまで怪物の視線と声に脳を書き換えられてしまう。私は恐怖を振り払い、剣を持ち直すと、寝台の上のメルへと猛然と駆け寄った。
メルは悲鳴を上げて逃げようとしたが、私はそのナイトドレスの長い裾を力任せに踏みつける。体勢を崩したメルの背中へ向けて、私は渾身の力で剣を突き立て、その身体を容赦なく串刺しにした。
「ぎゃああああああああーーっ!!」
人間のものとは思えない、地獄の底から響くような怪物じみた絶叫が、伯爵邸の隅々にまで吹き荒れた。メルは激しく身悶え、やがて動かなくなった。
「メルっ!」
拘束されていた両親が、悲痛な叫びを上げた。
怪物の死体を見つめた後、二人はゆっくりと私へと顔を向け――実の娘である私を、底知れぬ憎しみと恨みがこもった悍ましい眼差しで、じっと睨みつけたのだった。
静まり返った邸内から、呪縛に囚われた人々が騎士たちの手によって次々と運び出されていく。両親も、使用人たちも、一様に精神の治療所へと搬送された。
そして、床に転がるあの悍ましい怪物の死体を見つめながら、クラレンス殿下が静かに告げた。
「あれは王宮の直属研究所へと移送する。我が国の研究者たちが、あの悪魔の検体を放っておくわけがないからな」
その後、邸の人々は専門医の手によって、少しずつ、本当に少しずつ正気を取り戻していった。
どうやらあの怪物と過ごした時間が長ければ長いほど、精神への干渉は脳の奥深くまで根を張り、呪いの治癒には莫大な時間がかかるようだった。
幸いにも、比較的正気に戻るのが早かった父は、涙を流して私に謝罪した。そして「私にはもう、人の親を、そして一門を率いる伯爵を名乗る資格などない」と、私にすべての爵位を譲り渡す手続きをとった。
父は、今もなお、うつろな目で「メル……メルはどこにいるの?」と存在しない幻影を追い求めて呟き続ける母の傍らに寄り添い、贖罪の日々を送るように静かに看病を続けている。
クラレンス殿下は我が家の家紋入りの短剣のことも調べだしてくれた。それは、曽祖父が従軍の際に、命を救ってくれた部下にお礼に渡したものだった。その部下の実家はパン屋で、店の奥の壁に家宝として飾られていた。
あの怪物に「宝を持ってこい」と言われたパン屋の息子が持ち出したのだった。
あのオークションの人々も、サラを誘拐した男も、私たちを監禁した連中も捕まり、それぞれ刑罰を与えられるまで留置されているという。
やがて私は、学院へと復学を果たした。
再会した瞬間、親友のキャサリンとソフィア先生は、私をきつく抱きしめ、ボロボロと大粒の涙を流して無事を喜んでくれた。
事情を何も知らない担任の教師やクラスメイトたちは、「留学なんて言っておいて、たった二週間で帰ってくるなんて、拍子抜けだな」と呑気に笑い合っていたけれど、その平穏な日常の尊さが、今の私には何よりも愛おしかった。
使用人たちが療養のためにいなくなってしまった広い伯爵邸に、一人で暮らすことはできない。そう困り果てていた私に、クラレンス殿下は手を差し伸べるように微笑んで言ってくれた。
「ならば、我が邸に居候しなさい。君の安全を確保するためにも、それが一番いい」
そうして始まった殿下との共同生活を経て、私は一つの未来を選んだ。
学院を卒業すると同時に、私はある特殊な任務に就くことが内定している。
その役職の名は――『国王特使補佐』。
悪魔の呪縛を撥ね退けた特異な耐性と、我が家を取り戻すために剣を執ったあの覚悟を買われての抜擢だった。
運命の歯車に弄ばれた伯爵令嬢は、思いがけず、この国の闇に潜む超難解事件へと立ち向かう特使――「探偵」の助手として、新たな人生の幕を開けるのである。




