「――誠実なあなたにも出来る――『婚約破棄』超☆入門」
第二王子カイルは、自室の天蓋付きベッドにどさりと寝転んだ。
(今日もルシアは可愛かったなぁ……)
脳裏に浮かぶのは、可憐なピンクブロンドの髪と、眩いばかりの弾ける笑顔。
それにしても、とカイルは不満げに眉をひそめる。
婚約者であるクリスティーナ侯爵令嬢は、一体なぜあんなにもルシアをいじめるのだろう。
幼い頃は、もっと素直で優しい性格だったはずなのに。
(……あんな心の荒んだ女、王子妃の座に相応しいわけがない。やっぱり、婚約破棄が妥当だな)
「婚約を破棄しようと思っている」と告げたとき、ルシアが見せた、花がほころぶような歓喜の顔を思い出す。
カイルは至上の幸福感に包まれながら、うーんと大きく伸びをした。
そのとき、指先がトンと何かに当たった。
ベッド脇のナイトテーブル。そこに置かれていたのは、一冊の薄い本だった。
今日の昼間、大量の封書と一緒に執務室へ届けられていたものだ。差出人は不明だが、どこかから紛れ込んだらしい。
表紙に書かれた「――誠実なあなたにも出来る――『婚約破棄』超☆入門」という妙に引きのあるタイトルが気に入り、寝る前の読書用にここまで持ってきていたのだ。
「ふうん、どれどれ……」
カイルは軽い気持ちで表紙をめくった。
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〜〜〜 はじめに 〜〜〜
この本をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。
今、このページを開いているあなたは、まさに婚約破棄を目論んでいる真っ最中ですね?
しかし、どうか焦らないでください。
婚約破棄という行為は、あなたが想像している以上に莫大な労力を使い、重大な被害をもたらすものです。
古今東西、数々の歴史が証明している通り、一歩手順を間違えれば、あなたは瞬く間に名声や地位を失うことになるでしょう。
そんな危機に瀕したあなたに、素晴らしい朗報です!
この本に記された通りに準備を進めていけば、あら不思議。
あなたが思い描く、理想通りの婚約破棄へと完璧に導くことができます。
第一章から順に、一切の疑念を捨てて遂行していきましょう。
さあ、心の準備はよろしいですか? それでは、始めましょう!
〜〜〜 第一章 あなたの理想はどんな婚約破棄? 〜〜〜
ただ闇雲に「婚約破棄だ!」と息巻いてはいませんか?
それでは決して上手くはいきません。
なぜなら、あなたはゴールの方角すら知らぬまま、ただ突っ走っているだけだからです。
まずは、自分がどのような結末を目指しているのか、冷静に考えてみましょう。
誰も傷つかない、円満な婚約破棄ですか?
……随分と虫の良いお話ですね。婚約破棄されて傷つかない人間など、この世に存在しません。
それとも、婚約者を徹底的に貶める婚約破棄ですか?
ええ、それなら喜んでお手伝いいたしましょう。
第三章からその具体的な方法をじっくりと伝授しますので、一文字も読み漏らさぬよう深く理解し、確実に遂行なさってください。
〜〜〜 第二章 あなたは何のために婚約破棄をするの? 〜〜〜
失礼ですが、あなたは単なるトラブルメーカーですか?
もしそうであれば、今すぐこの本を破り捨て、どうぞご勝手に婚約破棄なさってください。
我々がお手伝いできることは何もありません。
さて、ここまで読み進めてくださったあなたは、決して無闇に他人を傷つけようとする方ではありませんね。
それにもかかわらず、あえて婚約破棄という大勝負に出る。
そこにはよほどの事情、深い理由があるのでしょう。
婚約者がとんでもない悪質極まりない人物である、と?
それは実にお気の毒です。
これまで並大抵ではない苦労を重ねてこられたのでしょう。
しかし、どうか少しだけ立ち止まってください。
その苦労とやらを、一度客観的に分析してみましょう。
面倒くさい? いえいえ、「急がば回れ」と言うではありませんか。
この分析こそが、何よりも大切なのですから。
さて、あなたは婚約者のどんな困った行動を、実際にその目で見ましたか?
‐傲慢に振る舞う姿? 嫌ですねえ。ですが、その態度の真の意味は?
‐酩酊して暴れる姿? おやおや。ですがそれ、本当に本人が進んでお酒を口にしましたか?
‐悪意を持って他者をいたぶる姿? 実に酷い話です。
ですが、「悪意を持って」だなんて、どうしてあなたに分かるのです?
‐財産を貪るように散財する姿? 家族にとっては非常に大問題です。しかし、そこに至るまでに一体どんな背景があったのでしょう。
‐他者に暴力を振るう姿? なるほど、それは看過できません。本当に、本人がやったことであるならば。
いやはや、実に凄まじい悪行の数々です。
しかしそれ、本当にあなたご自身が目撃した真実ですか?
誰かの言葉を真に受けて、そう思い込んでいるだけではありませんか?
もし少しでも心当たりがあるなら、一旦すべてを忘れましょう。
そして、あなたの耳元でそれを囁いた「誰か」の存在だけを、しっかりと胸に留めておきましょう。
さて。もしもあなたの婚約破棄の理由が、ご自身の不貞にあるのだとしたら。
おや、不貞だなんてとんでもない、と? ほんの少し、他の誰かに心が揺らいだだけ、ですか。
いいえ、それは立派な裏切りです。覚悟を決めて、この先をお読みください。
そのお相手は、あなたが婚約を破棄することについてどう思っているか、一度冷静に考えてみましょう。
1)無関心
2)怒っている
3)困っている
4)喜んでいる
1)の場合。相手はあなたのことを何とも思っていません。たとえ婚約を破棄したところで、その人があなたの伴侶になってくれる未来は訪れません。あなたの決断は、ただの無駄骨です。
2)の場合。その相手は極めて身勝手な人物です。自らが原因でありながら、怒ってみせることで『自分には何の落ち度もない』と世間にアピールしたいだけなのです。歪んだ精神の持ち主でしょう。一刻も早く離れるべきです。
3)の場合。婚約が破棄されれば、あなたが本気で自分にすがりついてくると察し、先を恐れて困惑しているのです。あなたは都合の良い遊び相手に過ぎず、愛されてはいません。その人と重ねる時間は、人生の浪費そのものです。
4)の場合。相手はあなたに婚約者がいると知りながら、あえて距離を縮めてきたのです。極めて不誠実な人間と言わざるを得ません。もし今の婚約を白紙に戻し、その相手と結ばれたなら、悲劇が待っています。ある日、あなたが寝室の扉を開けると、そこには別の誰かと肌を重ねる配偶者の姿が――。そんな未来が目に見えています。何しろ、元から不実な人間なのですから。
さて、ここで先ほどの「誰か」を思い出してみましょう。
そう、あなたの婚約者の悪評を、わざわざ吹き込んできたあの人物です。
まさかとは思いますが……今挙げた「お相手」と、その「誰か」は同一人物、なんてことはありませんよね?
ああ、違いましたか。安心いたしました。
そうですよね、そんな訳がありません。
万が一、その人が婚約者の悪評を口にしていたとしても、聡明なあなたなら、そんな見え透いた嘘はすぐに見破れたはずですから。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
カイルは思わず口元を手で覆った。もう、これ以上ページをめくる気力は湧かなかった。
思い当たる。いや、それしかあり得ない。
そもそも、あのクリスティーナがルシアをいじめるなど、どう考えても不自然ではないか。
一度そう疑い始めると、カイルの胸に重苦しい塊が広がり、彼は深く大きな溜息をついた。
なぜだか急に、身体中が嫌な熱さで火照って仕方がない。それと同時に、どこか濁った水底を思わせる、不快な悪臭が鼻を突いた。
妙だと思って本から目を離し、自身の身体に視線を落とす。
すると驚いたことに、衣服の隙間から禍々しい紫色の煙のようなものが、ゆらゆらと立ち昇っているではないか。
(な、なんなんだ、これは……!?)
慌ててベッドから飛び起き、ドレッサーの鏡に駆け寄る。鏡に映った自分の姿は、頭部から特に凄まじい量の紫煙を噴き出していた。
「うっ……!」
次の瞬間、胃の底からせり上がる猛烈な吐き気に襲われた。カイルは必死に口を押さえ、室内の洗面所へと転がり込む。
とても堪えきれず、洗面台の陶器の器に一気に吐き出した。
……それは、ルシアの手作りの甘いクッキーの成れの果てだった。しかし奇妙なことに、吐瀉物からは妖しく揺らめく紫色の炎がパチパチと噴き出している。
(な、なんだこれは……!)
カイルは涙目になりながら、胃の中のものをすべて絞り出すように吐き散らした。
すぐに窓を大きく放ち、部屋にこもった異様な空気を一気に入れ替える。夜の冷たい外気を深く吸い込むと、霧が晴れるように視界がみるみるハッキリとしていくのが分かった。
身体からの煙がようやく収まると、彼は水を浴びるように飲み、私室の蒸し風呂へ飛び込んだ。
そこで嫌というほど汗をかき、仕上げに冷水を頭から被る。
――頭が、驚くほど冴え渡っていた。
いや、違う。今までがおかしかったのだ。自分の正気ではない執着も、歪んだ思考も。
そして、その狂わせた原因にも、今ならはっきりと確信が持てる。
カイルは着替えると、制服のポケットにまだ残っていたクッキーの包みを取り出した。それをすぐに従者へと手渡し、大至急、王宮の研究所へ持ち込んで成分を分析させるよう密命を下した。
すでに気分は悪くなかった。身体の芯から、重苦しい毒素がすべて抜け落ちたような爽快感がある。
そう、あれはまさに――「毒」だったのだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ちょうど同じ頃。カイルの友人である侯爵令息マックスもまた、自宅の私室で、送り主不明の例の書物を読み進めていた。
彼は、ページのある一文からどうしても目が離せなくなった。
『酩酊して暴れる姿? おやおや。ですがそれ、本当に本人が進んでお酒を口にしましたか?』
マックスが婚約者であるメアリー侯爵令嬢に愛想を尽かしたのは、数ヶ月前に催された学園の創立記念パーティーでのことだ。
彼女は泥酔して正気を失い、あろうことか大テーブルに激突。並べられていた豪勢な料理をすべてひっくり返し、台無しにしてしまった。
――だが、本当にそうだろうか。
卒業生のために用意された強い酒類に、普段は炭酸水すら慎重に選ぶメアリーが、自ら近づくはずがない。
それに、あのとき。背後から現れたルシアに、こう声をかけられたのを思い出す。
「いつも婚約者の方を放っておいては駄目ですよ。ほら、これを持っていって差し上げてくださいな」
そう言って手渡されたのは、可憐な薄桜色の液体が満ちたグラスだった。
てっきり果汁のジュースだとばかり思い込んでいたが……。
近頃あまり構ってやれなかった寂しさからか、メアリーは嬉しそうにそのグラスを受け取り、そっと口を付けた。
あのとき彼女は、一瞬だけ、不思議そうな顔をしなかっただろうか。
なぜ、こんな単純なことに今まで思い至らなかったのだ。
足元から這い上がるような恐ろしい疑惑に、マックスは深く沈み込んでいった。
やがて、部屋にそっと入ってきた従者が、主の身体からゆらゆらと立ち昇る禍々しい紫色の煙にぎょっと息を呑む。そして、慌てて窓を開け放ち、「大丈夫ですか!?」と声をかけるまで、彼は金縛りにあったように動けずにいた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
さらに時を同じくして。もう一人の友人である伯爵令息ブライアンも、自室で同じ本を開いていた。
彼が婚約者のケイト伯爵令嬢におぞましさを覚えたのは、彼女がルシアを階段から突き落とすという、あまりにも暴力的で狂気じみた凶行に及んだと知ったからだ。
しかし……待て。その現場を『目撃した者』は、本当にいたのだろうか。
これまでは、涙を浮かべて被害を訴えるルシアの言葉を、ただの疑いもなく信じ込んでいた。
本来の自分なら、真っ先に不審を抱いて裏を取るはずなのに。
ブライアンは、脳裏にルシアの顔を思い浮かべた。
なぜだろう。
あれほど毎日「愛らしい」と熱を上げ、自分のものにしたいと渇望し、婚約破棄の段取りさえ考え始めていたというのに。
急に、どうにも我慢がならないほどの不快感が込み上げてきた。
何だか妙に生臭い。そう思って顔を上げると、驚いたことに視界の先、部屋中が不気味な紫色に霞んでいる。
煙……!? 火事か!
危険を察知し、急いで廊下へ出ようとするが、脚に力が入らずにもつれてしまう。それでも必死の思いで、床を這うようにして何とか廊下へと脱出した。
しかし、一歩外に出た廊下には、煙など少しも漂っていなかった。
偶然通りかかった老執事に慌てて助け起こされながら、ブライアンは遠のいていく意識の寸前で、記憶の中にあるルシアの歪んだ笑顔を、この上なくおぞましい怪物のように思い出していた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
翌日。
学園のSクラスの教室で、カイル、マックス、ブライアンの三人は顔を突き合わせ、昨夜自分たちの身に起きた異常事態について話し合っていた。
「……やはり、そうだったか」
カイルは重々しく深く頷いた。
三人全員に、あの送り主不明の奇妙な書物が届いていたこと。それを読み進めるうちに、ルシアに対する抑えきれない不信感や嫌悪感が湧き上がってきたこと。さらに、身体から禍々しい紫色の煙が吹き出し、それがすべて抜け出た後は霧が晴れたように頭が冴え渡り、今までの自分の思考がいかにおかしかったかに気づいたこと。――すべてが完全に一致していた。
ここでカイルは、二人がまだ口にしていなかった決定的な事実を付け加えた。
昨夜、ルシアがくれたクッキーを大至急王宮の研究所で分析させたところ、案の定、人間の精神を狂わせ、操るための特殊な薬物が検出されたのだ、と。
マックスとブライアンは驚愕に目を見張った。しかし同時に、やはりそんなことだろうと、すでに心のどこかで推測はついていたと苦々しく語った。
カイルが声を潜めて二人に告げる。
「大急ぎで、ルシアがその禁忌の薬物を入手した経路を調査させている。彼女の実家である男爵家が関わっているのか、あるいは背後に第三者が潜んでいるのか……。彼女にこちらの動きを悟られないよう、非常に酷だが、二人とも我慢して今まで通りに惚れ込んでいる振りを続けてくれ」
二人が神妙な面持ちで頷いた、まさにそのときだった。
「カイルぅ〜、マックスぅ〜、ブライアン〜!」
学園で最も成績の低いFクラスの生徒でありながら、この最上級のSクラスの教室へ、遠慮も戸惑いもなく騒がしくズカズカと踏み込んできたルシア。
その無礼極まりない態度に、室内にいた他の優秀な生徒たちは、一斉に迷惑そうな冷ややかな視線をちらりと向けた。
かつての三人は、周囲のそんな当然の拒絶反応にすら、まったく気づいていなかったのだ。
それどころか、自分たちの婚約者がルシアの無作法を注意してくれた際にも、『ルシアに対する醜くどす黒い嫉妬だ』とばかり思い込み、耳を貸さなかった。今なら、あの令嬢たちの忠告こそが正しかったのだと、痛いほどによく分かる。
「や、やあ。ルシア」
三人は引きつりそうな顔に、どうにかぎこちない笑みを浮かべて応じた。
「あれえ? みんな、なんだか元気がないね〜。ハイッ! これでも食べて元気出してねっ!!!」
ルシアが自信満々に差し出してきたのは、例の手作りと思われるクッキーの包みだった。
「さあさあ、どうぞ! 食べて食べて!!!」
嬉々として、毒入りのクッキーをグイグイと押し付けてくる。
「ああ、これは美味しそうだね。……あ、ありがたく、あとでゆっくりいただくよ」
カイルは必死に声を整えて受け取った。
精神を操られていたとはいえ、なぜ自分たちはこれほどまでに傲慢で、おぞましく、醜悪な女を『愛らしい』などと妄信していたのだろうか。三人は激しい嫌悪感に襲われ、出来ることなら今すぐにでもこの女を取り押さえ、冷たい地下牢の奥底へ放り込んでやりたいという衝動を、必死に理性で抑え込んでいた。
「そんなこと言わずに、今すぐ一枚だけでも、ねっ♡」
ルシアは首を傾げ、あざとくウインクしながら、カイルの口元へさらに強引にクッキーを突き出そうとする。
そのときだった。
横からルシアの身体へ、誰かがドンと鋭くぶつかった。
カイルの婚約者、クリスティーナ侯爵令嬢だ。その衝撃でルシアの手からクッキーの包みがすり抜け、床へと無残に落ちて散らばった。
(助かった! いや、彼女が助けてくれたんだ……!)
カイルは直感的にそう確信し、クリスティーナへと視線を走らせた。クリスティーナは、意思の宿る強い瞳でカイルをじっと見つめ返している。
「あーっ! またあなたですねっ! カイルぅ〜、この人ったらまたアタシに意地悪を仕掛けてきたのーっ!」
ルシアは甲高い声を上げ、助けを求めるようにカイルの胸へと跳びついてきた。カイルは今すぐ彼女を突き飛ばしたい衝動を必死にこらえながら、目でクリスティーナに「すまない」と謝罪を送った。
クリスティーナは、カイルの正気な反応にほっとしたように微かな笑みを漏らし、優雅に頭を下げた。
「まあ、申し訳ありませんわ。わたくしったら本当にそそっかしくて」
「嘘よっ! アタシがカイルと仲良しだから嫉妬したに決まってるわ!」
ルシアが激しい剣幕で、唾を飛ばしながらクリスティーナに詰め寄る。
そのとき、一触即発の二人の間にさっと割り込んだのは、マックスの婚約者であるメアリーだった。
「ルシアさん、この散らばってしまったクッキー、本当に美味しそうですわね。一体どちらでお買い求めになられたの?」
先ほどまでの刺々しい態度から一転、急に絶賛されたことで、ルシアはクリスティーナへの怒りをすっかり忘れてしまったらしい。これ見よがしに背をのけぞらせ、誇らしげに堂々と言い放った。
「これはね、お店で買い求めたものでも、誰かに作らせたものでもないわ。アタシが材料からすべて自分で厳選して買い出しに行って、心を込めて作ったものよ!」
(よし! 完璧な言質を取ったぞ! これで後から言い逃れは絶対にできない!)
カイルたち三人は、心の中で一斉に快哉を叫んだ。
ルシアが自慢話に陶酔している隙を見計らい、ブライアンの婚約者であるケイトが、床にこぼれ散ったクッキーをさっと手際よく拾い集めて持参の袋へと収めた。そして、それを背後のブライアンへと目立たぬよう手渡す。
カイルが目顔で小さく頷くと、ブライアンは窓辺に寄り、その袋をそっと外へと落とした。
下であらかじめ待機していたカイルの手の者がそれを見事に受け取り、さらなる決定的な証拠サンプルとして、大至急研究所へと持ち込んでいった。
教室内で、ルシアが一瞬ハッとした顔をしたため、カイルたちは「気づかれたか」と一瞬胸をドキリとさせた。しかし、当の本人は何も察しておらず、再びカイルに擦り寄って甘い声を出す。
「ねえ、カイルぅ〜。明日はせっかくの休日でしょ? アタシぃ〜、お買い物に連れていってほしいんだけどぉ〜……」
カイルがそれとなく身を引いて距離を置くと、メアリーがすかさず二人の間へと滑り込み、優しい笑みで聞いた。
「そんなことよりルシアさん、先ほどのクッキーのレシピを詳しく教えてくださらない?」
楽しみにしていたデートの約束を邪魔され、ルシアは瞬時に逆上した。
「なによあなたっ! アタシとカイルの邪魔をするなんてっ! それは王子に対する不敬っていうものよっ!!!」
こめかみに青筋を浮き上がらせ、肩を大きく上下させて怒鳴り散らす。顔を真っ赤に染めたその表情は、見るも恐ろしい形相だった。
不敬という言葉を使うのであれば、男爵令嬢という身分でありながら、王子の名を呼び捨てにし、格上の侯爵令嬢であるクリスティーナやメアリーを大声で罵倒している彼女自身の態度にこそ相応しい。さらに言えば、自分が持ち込んだクッキーが床に散らばっているというのに、それを片付けようともせず、他人に任せきりにしている。その場にいた誰もが、彼女の身勝手さ内心で呆れ果てていた。
「まあまあ、二人ともそこまでにしておきなさい」と、カイルがわざとらしく仲裁に入る。
「明日の休日は、マックスとブライアンを連れて、私の従兄が通うアカデミーへ見学に行く予定が入っているんだ。あそこなら休日など関係なく開いているからね」
「じゃあ、アタシも一緒に行くわっ!」
「あー、それは気の毒だけど、無理なんだ。そのアカデミーは厳格な男子校でね。女性は立ち入れない規則なんだよ」
カイルはさも心苦しそうに、残念な表情を作ってみせる。
ルシアは悔しそうに歯噛みした。
「じゃあ、来週の予定は?」
「そうだね。それよりも来週の月曜日は、私の誕生日なんだ。君が作った手作りのケーキが食べたいな」
カイルは今にも引きつりそうになる顔を必死に抑え、完璧な笑みを作って囁いた。
「いいわよ〜っ! カイルったら、本当にアタシの作ったものが大好きなんだからぁ〜!」
ルシアはすっかり気を良くし、勝ち誇ったような嫌味な笑みを浮かべながら、婚約者であるクリスティーナをこれ見よがしに睨みつける。
一方のクリスティーナは、カイルの本当の誕生日を当然知っているため、彼の意図を察し、話を合わせるためにわざと悲しそうな表情を作ってみせるのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
翌日。
カイルはクリスティーナの侯爵邸を訪れ、これまでの自身の不調法と無礼の数々を、彼女の前で深く詫びた。
緑豊かな美しい庭園に設えられたティーテーブルで、クリスティーナはその真摯な謝罪を受け、静かに首を横に振った。
「いいえ、殿下。もっと早くにお救いできれば良かったのですが、わたくしの力不足で……」
「やはり、あの『入門書』を届けてくれたのは君だったのだね?」
「はい。信頼できる魔導具師と相談を重ね、作り上げたものです。殿下のご様子があまりにも尋常ではなかったため、何らかの呪いをかけられたか、あるいは毒を盛られているに違いないと確信しておりましたので」
クリスティーナは、事の真相を穏やかに語り始めた。
魔導具師の助言により、カイルが思わず興味を惹かれるような実用書の体裁をとった、解呪と解毒の作用を持つ特殊な本型の魔導具を制作したこと。
そして、その中に綴られた鋭い問いかけの文章は、同じく婚約者の異変に心を痛めていたメアリーやケイトと知恵を出し合い、三人で考案したものだということ。
すべてを知ったカイルは、彼女の前でそっと片膝を突き、その手を取った。
「本当に申し訳なかった。いくら薬物による精神干渉のせいとはいえ、あのような狂女に心を移し、君を傷つけるなど……己の不甲斐なさに腹が立つ。君の深い愛と機転のおかげで、私は救われた。心からの感謝と謝罪を。私は、君を心から大切に思っている、クリスティーナ」
クリスティーナは愛おしそうに微笑むと、カイルの手を引いて立ち上がらせた。
「ふふ、ですが、わたくしまだ少しだけ怒っておりますのよ?」
悪戯っぽく告げると、彼女はカイルの額を、自身の額で小さくゴチンと小突いた。
カイルは堪えきれずに大笑いし、その胸のつかえが取れたような爽快感とともに、どこまでも高く抜けるような青空を振り仰いだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その日の夜、カイルの私室に控えていた従者が静かに告げた。
「殿下、すべての分析と調査が完了したとの報告が入りました」
提出された報告書により、以下の事実が完全に裏付けられた。
一、昨日、教室の床に散らばったクッキーからは、カイルが以前ポケットから回収した個体と、まったく同一の精神干渉薬物が検出されたこと。
二、ルシアの動向を見張らせていた密偵の報告によると、彼女は本日の昼間、粗末な外套で顔を隠して変装し、薄暗い路地の奥にひっそりと佇む怪しい地下店舗へと足を踏み入れ、何らかの品を購入したこと。彼女が店を去った直後、密偵たちがその店主を拘束して厳しく問い詰めたところ、ルシアが買い求めたのは、以前のものよりさらに強力な精神支配の薬物、および強烈な媚薬であることが判明したこと。
報告を読み終えたカイルは、ふっと冷ややかな息をついた。なんと浅ましく、愚かな女なのだろう。
その薄汚い魂胆が透けて見えるようだった。
あのおぞましい顔を明日も直視しなければならないのかと思うと、暗澹たる溜息がこぼれそうになる。しかしカイルはそれをぐっとこらえ、決戦の朝に備えて静かに眠りについた。
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翌日。
学園のSクラスの教室に到着したカイルは、マックスとブライアンを近くに呼び寄せ、昨夜もたらされたクッキーの分析結果と、ルシアが裏で新たに購入した禁忌の薬物について小声で共有していた。
「うわぁ……。そんな恐ろしいものを、危うく食べさせられるところだったのですね」
「手作りのケーキで完全に正気を奪い、既成事実を作ってでも殿下との婚約をもぎ取ろう、というあたりが彼女の目論見でしょうね」
二人はルシアの底知れない執念とおぞましさに顔を歪ませたが、その表情自体はどこか晴れ晴れとしていた。聞けば、彼らも昨日のうちにそれぞれの婚約者の元へ足を運び、誠心誠意の謝罪をして、無事に許しを得ることができたのだという。
「そうか、それは本当に良かった!」
カイルが我がことのように安堵した、まさにその瞬間だった。
「何がそんなに、よかったのぉ〜?」
背後から突然、あの聞き覚えのある甘ったるい声が響いた。いつの間にか、ルシアがすぐ間近に立っていたのだ。
三人は一瞬ぎくりと身体を硬くしたが、すぐに表情を取り繕い、顔に無理やりな微笑みを浮かべた。
「カイルぅ〜、お誕生日おめでとぉ!!!」
ルシアは満面の笑みを浮かべ、綺麗にラッピングされた大きな包みをカイルの前に差し出してきた。
「ケーキ、頑張って作ってきたんだぉ。もちろん、材料の購入を含めて、全部アタシの手作りなの♡」
そう言って、これ見よがしに潤んだ瞳でカイルを上目遣いに見つめてくる。
カイルは差し出された包みをしっかりと受け取ると、小さく頷いた。
そして、その優しげな微笑みを一瞬にして消し去り、教室の隅々にまで響き渡る声で、鋭く命じた。
「――確保!」
カイルの鋭い号令が教室に響き渡った、まさにその瞬間だった。
周囲の気配が揺らぎ、教室の入り口に潜んでいた大柄な騎士二名が、音もなくスッと姿を現した。二人は一切の容赦なく、ルシアの両腕を左右からがっちりと掴む。
「えっ……?」
あまりに目まぐるしい展開に、ルシアは目を丸くしてキョトンとしていた。腕を拘束されたまま、引きつった笑みを浮かべてカイルを見つめる。
「な、なんの冗談? カイル、これって一体どういう余興なのかしらぁ……?」
カイルは凍てつくような冷ややかな視線でルシアを見下ろした。
「ルシア男爵令嬢。王族、および国家の重鎮たる高位貴族に対して、禁忌の精神干渉薬物を投与し、国家転覆をも揺るがしかねない重罪を犯した疑いにより、ここに拘束する。言い逃れのできない証拠はすでに揃っている。速やかにすべての罪を白状することだな」
その言葉を聞いた瞬間、ルシアの可愛らしい仮面は完全に剥ぎ取られた。
「何を言ってるのよぉぉぉぉーーーっ!!!」
先ほどまでの甘ったるい声は消え失せ、耳をつんざく金切り声が響き渡る。狂ったように身体を激しく揺らし、髪を振り乱しながら吠え立てるその姿は、見るもおぞましい悪魔の形相そのものだった。
「離しなさいよっ! アタシは王子妃になる女よ! カイルはアタシに首ったけなのよっ! おい、その手を離せぇぇーーっ!!」
学園中に彼女の醜い絶叫が木霊する中、鍛え上げられた騎士たちは一切動じることなく、ルシアの身体と、毒の詰まった手作りケーキの包みを、瞬く間に校舎の外へと連れ去っていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その後、事態は迅速に動いた。
ルシアは王宮最深部の地下牢へと厳重に収監され、国家反逆罪に準ずる罪として、間もなく処刑されることが正式に決定した。
彼女の実家である男爵家は、徹底的な記憶喚問の結果、娘の悪行を何も知らなかったという事実が証明された。しかし、王室を揺るがした大罪人を輩出した責任は重く、爵位と全領地を国家へ強制的に返上させられ、没落の憂き目を見ることとなった。
また、ルシアが怪しい薬物を買い求めていた裏通りの店は、騎士の手によって取り押さえられ、悪徳店主も捕縛された。現在、その店に危険な薬物を卸していた密売ルートや、過去に店で薬物を購入した不穏分子たちの洗い出しが、急ピッチで進められている。
数日後。
五月晴れの爽やかな風が吹き抜ける王宮の庭園に、カイルはクリスティーナ、そして窮地をともに乗り越えたマックスとブライアン、それぞれの婚約者であるメアリーとケイトを招いていた。
テーブルには色鮮やかな美しい菓子と紅茶が並び、若き六人は穏やかなお茶会を楽しんでいる。
誰もが、あの悪魔のような薬物に惑わされ、大切な人を傷つけ、傷つけられた暗い日々を思い返しては、背筋の凍るような恐ろしさを感じていた。だが同時に、その闇を振り払い、こうして再び手を取り合えたことへの深い安堵と喜びを、全身で噛み締めていた。
「それにしても、今考えても不思議でなりません。我々のように、幼少期から危機管理の教育を受けてきた者が、学園内とはいえ、素性のよく分からない男爵令嬢の接近をあれほど容易く許し、あまつさえ、差し出されたものを疑いもせず口にしてしまうなど……」
マックスが紅茶のカップを置きながら、怪訝そうに呟いた。
カイルは、集まった一同の顔を静かに見回してから応じた。
「騎士団の報告で、合点がいったよ。あの女が裏で買い付けていた品々の中に、他者の理性を麻痺させ、自身を無条件で好ましく思い込ませる、特殊な『魅了の香水』が含まれていたんだ」
その事実を聞き、令嬢たちは思わずハッとして顔を見合わせた。
「なんと恐ろしいものを……。人の心を踏みにじる、あまりに卑劣な手段ですわ」
ケイトが不快そうに眉をひそめる。
クリスティーナも、カイルの隣で静かに視線を向けた。
「しかし殿下、そのような一般には流通していない禁忌の品を扱う店を、一介の男爵令嬢に過ぎない彼女が、どうやって見つけ出したのでしょうか?」
「それは、現在も騎士団が全力で調査を進めているところだ。……すべての全容が解明され次第、あの女の処刑が執行される」
カイルが厳かに告げると、メアリーがふっと、皮肉混じりの優雅な笑みを漏らした。
「それではルシアさんは今、少しでも命を長らえさせようと、地下牢で必死に知っている情報を小出しにして、調査を引き延ばそうと躍起になっている最中でしょうね」
「ふん、哀れな足掻きだな」
ブライアンが呆れたように肩をすくめる。
「しかし、罰から逃れられぬと分かっていながら、冷たい檻の中で死の恐怖に怯え、震えて暮らす時間が長引くだけだ。彼女にとっては、すぐ処刑されるよりも遥かに残酷で、苦しい生き地獄だろうにね」
ざわっ、と心地よい初夏の風が吹いて、庭園の青々とした樹木を優しく揺らした。
辛い試練を乗り越え、より一層固い絆で結ばれた三対の恋人たち。彼らはこの経験を決して風化させることなく、この国の光り輝く未来のために、これからも互いに力を合わせて歩んでいくことを、抜けるような青空の下で静かに誓い合うのだった。




