第一章 第二節
第二節
一
「ゆめは恋をするとすぐわかるね。」
そう言われたのはいつの事だった?
言ったのは「さき」だ。それは覚えている。
「目をきらきらとさせて本当によくじっと見つめている…。」
「さき」に言われて初めてそれを自覚した。
本当だ、よく見ている。
その人の動作、表情、声をつぶさに見つめてしまう自分がいる。
でも、だからといってそれを止める事が出来なくて…。
気付くと視線が、心がその人を追ってしまう。
いつからこうなったんだろう?よくわからない。
でも、もう気づいたらこの気持ちになっていた。
なるような気が随分前にした気がする。
そう思った時からもう私の気持ちは変わってきてたのかもしれない。
「好きなんでしょ?「露歩き」の事。」
―――――うん、私「露歩き」の事が好き。
カタカタカカタカタカタカタ――――――!
積み木細工を崩すかのような音にゆめはふと我に返った。
正面の人物に心を戻す。
肩にわずかにかかる黒い髪、眼鏡の奥の鳶色の瞳。
相(外見年齢の事)は、「露歩き」と同じ位。
すらりとした長身を落ち着いた茶と黒の上下の和装が彩る。
あれは、いわゆる「亜装」だろうか?
着物の中に白い襟のある衣をまとい、首下でその襟をまとめるように細い布を巻きつけている。黒い袴の下から覗く紐を巻きつけた革で出来た長い履物も、ゆめの知らないものだった。
――――変な格好、不思議な人…。
だけどこの気持ち……。
その人を瞳に捉えると、ゆめは心の中に温かい気持が広がるのを感じた。
嬉しいような、くすぐったいような、心躍るそんな気持ち。
「露歩き」に抱く気持ちとよく似た幸せな気持ち……。
――――私この人に恋をするかもしれない。
ううん、そう思ったらもう駄目。
――――私この人たぶんもう好きだ。
「はじめまして。
私はこの「堕烏苑」の下男で、「鎖葉詩」と申します。
以後お見知り置きを…。」
そういうなり「鎖葉詩」というその下男は、ゆめの前でわずかに膝を折り優雅にお辞儀をしてみせた。
それはあまりに自然で流れるような所作、思わず惚れ惚れする程に……。
「さばし…さん。」
「どうぞ呼び捨てで…。」
「えっ……えっと…さ……さばし…。」
「はい。」
「鎖葉詩」はにこりと微笑んだ。その笑顔には華があった。
はっと息を呑む、心に響くそんな華…。
―――――っ…・・・・す……すてき……。
ゆめは真っ赤になって俯いた。
そんなゆめをやれやれと横目で見ながら「丸嬰」がずんずんと歩き出す。
「はいはいはいはい、いつまでも突っ立ってんのも何だしさ!
早く案内してよ、下男なんだから。
あ~それでこの子は「儚ノ中」っていうから。「ゆめ」って呼んでやって。
宜しくね。」
そういうやいなや、「丸嬰」は「鎖葉詩」の手を取るとずんずんゆめを置いて進んでいってしまった。
ゆめはそんな「丸嬰」の態度に一瞬あっけにとられたが、すぐ我に返り拳を握り震わせた。
―――――じっ……自分で自己紹介したかったのにィ~~ッ!
そんなゆめの殺意を察してか、「丸嬰」がちらりと振り返り―――――
にやりと笑った。
―――――きィ~~~~~~~~~~ッ!
ゆめは心の中で怒りの奇声を発し、二人の後を追い掛けた。
二
不思議な庭だった。
生きるものが、何もなかった。
見た事のない全ての草花が、鋭利な硝子で出来ていた。
空の白さを反射して庭全体が雪原のように綺羅綺羅と光り輝いている。
カタカタカカタカタカタカタ――――――!
積み木細工を崩す音、唯一動きを見せるものにゆめの瞳は奪われていた。
それは、桜の様な古木だった。
館に続く石畳の両脇に、一定の間隔を置いて植わっている。
全ての木の頂に細い注連縄のような赤い紐が付いていた。
それがどこまでもどこまでも天に伸びていてその終わりは純白の闇に吸い込まれ定かではない。
古木の枝は、全てが早送りのように、黒い蕾をぼつぼつと膨らませる。
蕾はそのまま花開くことなくぐらぐらと大きくなり、まるで小さな烏が羽を休めているかのように見えてくる。
古木に群れなす烏の影は一種異様だ。
しかしそれはある程度膨らむとまるで猟師に射止められたかのように、突如烏のごとく翼をひらき、羽を散らしてぼとぼとと地面目指して落ち始めた。
そしてそれは地面に落ちるか落ちないかの所で消えていた。
それと同時に烏が休んでいた木はみるみる平面の枯れ木と化し、その場で衣を折りたたむかのように積み木細工の様な音を鳴らして崩れていく。
地面に完全に折りたたまれた時、わずかにはらはらと宙を舞う漆黒の羽が靄のように消えていく。
後には何も残らなかった。
しかししばらくすると崩れ落ちた木は、その先端に結び付けられた赤い紐にひっぱられ天へ向けて直立し、また蕾をつける。
その繰り返しを繰り返していた。
「不思議な木………。」
「はい。堕烏の木です。」
「だなんの木?」
「はい、烏が落ちるかのように見える木ですので…。
ちなみにこの苑の名前の由来はこの堕烏の木にあります。」
「へぇ…。」
ゆめは舞い散りひらひらと落ちてきた黒い羽に、そっと手を伸ばした。
それはゆめの指先に触れるか触れないかの所で、煙のように消えてしまった。
「……消えちゃった。」
「はい。それは、まやかしですから。」
ゆめの隣で「鎖葉詩」が静かに答える。
「この木だけではありません。この苑のものは全てまやかしですから…。」
「詰まらない所でしょう…。」
「そんな事ないよ!」
ゆめは思わず「鎖葉詩」に大声で叫んでいた。
まやかしと言う「鎖葉詩」が少し寂しそうに見えたから…
そんなゆめの態度に「鎖葉詩」が少し驚いた顔をする。
でもすぐに「鎖葉詩」はゆめの心根を知り、ゆめが気まずい表情を作る前に言葉を発していた。
「そう言っていただけると、私も嬉しいです。有難うございます、ゆめお嬢様。」
――――ゆめ…お嬢様…。わ、わたし…お嬢さま。
ゆめの心が沸点を超えた。
ゆめはしばらく無言で雲の上を歩くかのように歩を進めた。
そんなゆめを見てまた「丸嬰」が舌打ちする。
「お嬢様、ねぇ……。
何だい「鎖葉詩」、随分な贔屓じゃないかぁ?
あたしの事は一度もそんな風に呼んだ事ないくせにさぁ。」
「恐れながら、マルエイサマはとうにお嬢様という御年ではないと奥様より伺っておりますので…。」
「…………。」
「何か敬称をご希望という事でしたら……そうですね、奥様と同年代と伺っておりますのでやはり「丸嬰奥様」とお呼びいたしましょうか?」
「…絶対嫌だッ…。」
「……失礼いたしました。」
「…………。」
「……では、何とお呼びいたしましょう?」
「……っく……もういいよ!何でも!」
「かしこまりました。」
「………。」
「………。」
「ねぇ、「鎖葉詩」。」
「はい。」
「今、ちょっと面白いとか思っただろ?」
「いえ、そのような事は決して。」
「………いつかあんたの化けの皮、剝してやる。」
「…ははは、お戯れを。」
と、いささか剣呑な会話を和やかに「丸嬰」と「鎖葉詩」がやりとりしている内に、一行は館の正面玄関に着いていた。
濃紺に微細な白い斑点を散りばめた瑠璃、まるで星空のような石造りの亜装の建物。
物見櫓でもないのに窓の数を見る限り、その建物が三楼から成っている事が見てわかる。
建物全体を石で造る事、住処が二楼より高い事はとても物珍しくゆめの目には映った。
けれど一方で所々の出窓や屋根などは、瓦を使用したゆめの知る造りをしている事にも気づいた。
――――「鎖葉詩」もそうだけど、ここに住んでる夫人って人、和装と亜装の両方が好きなのね。
でも、亜装なんて珍しい。確か亜装って……。
ちゃぷん……
「あ…。」
水の音で我にかえる。見るとゆめの目の前には扉があった。
物思いにふけっている間にいつの間にやら正面扉に達していたらしい。
障子の格子のような木枠の間に分厚い硝子をはめ込んだ観音開きの扉。
両の扉に一匹ずつ黒と赤のひげの長い鯉が木枠を越えてそれぞれの扉の中をゆっくりと泳いでいる。
その尾ひれが生み出した水泡は、まるでおはじきの玉の如く様々な色を魅せながら、からからと木枠に当たり軽やかな音を響かせながら消えていく。
「きれい……。」
ゆめはぼそりと呟き、一つの扉の鯉の上をなでた。
その下で鯉が大きく体をくねらせる。するとまたちゃぷんと水音を響かせて沢山の鮮やかな水泡を散りばめた。
からからからと小気味よい音が響き渡る。
「わぁっ……。」
ゆめが喜びの声を上げる様を「鎖葉詩」が微笑ましげに見つめた。
その視線に気づくとゆめははっとし少し恥ずかしそうに俯いた。
――――やだな……きっと今すごく子供っぽいって思われた…。
「……残念です。」
「え……?」
「鎖葉詩」の寂しそうな呟きにゆめが顔を上げる。
「鎖葉詩」が困ったような笑みを浮かべてゆめの顔を見つめていた。
「もう少し貴女のその素敵な笑顔を見ていたかった。
やはり乙女の笑顔はどんな華や色より美しいものですから…。」
「………ッッ!」
「乙女の笑顔~~~!」
「丸嬰」がゆめと「鎖葉詩」の間に割り込み、にっかりと前歯の欠けた歯を見せて笑いながら顔を突き出した。
無。
「ではご案内いたします、ゆめお嬢さま。
少し段差がございますので足元にお気を付け下さい。」
「……あ、有難う、「鎖葉詩」。」
「鎖葉詩」は優雅にゆめの手を取ると扉を開けてゆめを館の中へと誘った。
音もなく閉じる観音扉、黒い鯉が尾ひれを鳴らし、水泡がからからと小気味よく音を立てた。
「……二人とも無視かよ。」
とびきりの笑顔を顔に張り付けたまま「丸嬰」は一人静かに怒りに燃えた。
三
館に入るとそこは三楼全てを吹き抜けにした巨大な広間が広がっていた。
「うわぁ……高い…。」
ゆめは空を見上げて思わず呟いていた。
そこはいわゆる他の部屋へ向う為の空間だった。
広間の両隅を堅牢な亜麻色の木製階段が囲み、二楼、三楼の所で両の階段を繋ぐように通路が渡されている。
深い色合いの水泡をはらんだ琥珀の壁面には、その階段を辿る様に沢山の様々な文字を記した掛け軸が掛けられていた。
ゆめの知らない文字である。
それがそれぞれの掛け軸の中で様々な文字を生き物のように躍らせ、そして消えていく。
それを何度も何度も繰り返している。けれど次に躍る文字は消えた文字と必ずしも同じものではなかった。
「鎖葉詩」は階段へは向かわずその空間の対面に位置する観音扉を目指して真っすぐに進んでいく。その広間の中央の手前でゆめは少し躊躇し足を止めた。
「ゆめお嬢様?」
「あれ……大丈夫?」
ゆめがおそるおそる天を指さす。
空のように広い天井には巨大な朱塗りの燭台が吊るされていた。
それは上に向かうにつれて小さくなる正方形を山の様に重ねた燭台で、その上を沢山の蝋燭の灯が揺れている。
天を覆うように浮かぶその巨大さにしては、それを吊る注連縄の様な紐はあまりに頼りなく見えた。
ゆめの不安に気付いた「鎖葉詩」がふっと優しくゆめに向けて微笑んだ。
軽く膝をつきその視線をゆめに合わせる。
「大丈夫ですよ、ゆめお嬢様。
あれが落ちてくる事はございません。それに―――」
「もしも落ちてきましても必ず私がお守りいたします。」
まっすぐな鳶色の瞳が眼鏡の奥で微笑んだ。
「………あ、ありがとう……。」
ゆめはそれだけ言うのが精一杯だった。
「鎖葉詩」がそっと立ち上がりその手を引いて先を進む。
ゆめはその背中をぼんやりと見つめ、その手を引く細く長い優しい指先に心を揺らした。
黄と緑の蛙の戯れる対面の観音扉を開くとそこは外だった。天を白い夜空と散りばめた朱点が覆っている。
四方は星空の壁とそこから乱暴に突き出した樹華に囲まれて、地面は深く底の知れない水で完全に満たされていた。その中には樹華に砕かれた壁の黒石が小島のように所々に突き出し、その間を蛍のような淡い光が漂っている。
館の前に広がる庭と違い、そこは夜より深い闇にしっとりと満たされていた。
「足元にお気をつけください。」
「鎖葉詩」は前方にまっすぐと伸びる湾曲した朱塗りの橋をゆっくりと歩んでいった。
その先には小さな庵がぼんやりと見える。
淡い光に照らし出されたそれはそこにあるのがまるで幻のようであった。
――――何だか……真夜中の夢みたいな所……。
怖くないけど、心がひんやりする……。
何処からのものか、生暖かい幽かな風がそよぎ水面を揺らした。
その風に吹かれ散り落ちた樹華の小さな白い華弁が、また水面に細く孤を描く。
そこではただ在るものだけでなく動きを見せるものさへ静かだった。
――――………まるで眠るように死んでるみたいな所だわ……。
思わず息をひそめながら橋を進むゆめはそう思った。
「あ………!」
懐かしいものを見てゆめは思わず声を上げた。
東屋の中には沢山の鉄で出来た丸い虫籠が下げられていた。
それは丸である事を除けば、大きさや装飾などどれを取っても一つとして同じ形のものはなかった。
その中を金色の光を振りまく七色の光が漂っている。
「極楽蝶……。」
それはゆめの生まれた西の指の御殿を舞う蝶と全く同じものであった。
一番近くの籠に手を伸ばしその中を舞う蝶をそっと覗き見る。
幸福に彩られた燐分がゆめの鼻を甘くくすぐりその心を幸せで満たしていた。
「「鎖葉詩」、これ本物でしょ?」
ゆめが振り返り後ろに控える「鎖葉詩」に問いかけると、前方から優しく透き通るような声が歌のように囁かれた。
「そうです、それは本当の極楽蝶ですよ。」
ゆめは「鎖葉詩」の答えを待たずに前方に目を戻していた。
ひっそりとした闇の中に目を凝らす。
幸福を魅せる虫籠の奥に動く影をゆめは見た。
長椅子の端に両の手を載せ寄りかかるように座る女性。
「はじめまして、そしてようこそ私の苑へ。」
そこには「堕烏苑」の夫人が穏やかに微笑んでゆめを迎えていた。




