第一話 束の間の平和
イファロスタ北部アルファゴ地方、ラインベン飛行場。北緯五〇度線に近いこの飛行場は大陸戦争の折り、一日数十機の飛行機が離着陸する重要拠点であった。昼夜を問わずジェットエンジンの咆哮が止む事はなく、多くの整備要員が駆けずり回ったこの地は、戦争の終わった今は僅かな航空機と基地要員がいるだけの偏狭となってしまった。そして、和平合意における北緯五〇度線を中心にした南北五〇kmの非武装地帯に入ってしまったために、あと数ヶ月後に迫っている明け渡し予定日に向けて彼らも撤収の作業に入っていた。跡に残されるのは、使い物にならずに滑走路脇に打ち捨てられた飛行機の躯だけだ。
大陸戦争、北部都市国家による経済共同体ラトディア条約機構と南部の歴史と伝統の王権国家郡五国同盟との間に勃発した、ジェダイン公国と中部ブランデル地方の帰属を巡る、四年に及んだ大陸全土を巻き込んだ大戦のことだ。双方とも多大な犠牲を払いながらも両陣営ともに決定的な勝利を挙げることは出来ず、調停団の提案に従い和平が成立したのが半年前の話。世界は色濃く戦争の傷跡を残しながらも、確実に戦後を歩んでいた。復興、その二文字のために、両陣営参加の統合議会が発足し、和平監視機構として治安維持憲兵隊が設立された。そして、復興の文字にもっとも相応しくない兵器たちは疎まれるようにしてその姿を消していく。この飛行場も復興に不必要なものとみなされたようだ。
滑走路南側、基地施設とは対極に位置し、最も離れたスクランブル機用の格納庫で、セシル・ワイトマン伍長は油に塗れていた。両手には工具が握られ、狭い点検口から内部に両手を突っ込む。彼女はその可愛らしい顔に僅かに苦悶の色を滲ませていた。
しばらくして、彼女は大きくため息を吐くと点検口から腕を引き抜いた。ハッチを閉じ、工具を愛用の赤い工具箱にしまう。ビスなどを回収し忘れていないか確認してから、彼女は立ち上がると腰に手を当てた。大きく伸びをすると背骨が音を立てた。長い間無理な姿勢で作業を続けたためにすっかり強張ってしまっている。油の染みた作業着に軍手、同じ年頃の少女からは絶対に臭わない機械油の臭いはきっともう一生取れることはないと彼女は思っていた。
「お嫁に行き遅れたら軍に慰謝料請求してやるんだから!」
彼女は工具箱を脇の作業机に置くと、脱いだ軍手をその上に叩き付けた。そして、一息ついてキャップを被り直す。邪魔にならないようにまとめていた流れるような金髪が帽子から溢れ、彼女の背を覆った。
セシルは本来軍の人間ではなかった。ただ、機械いじりが好きな父親の下に生まれ、近所の自動車工場で小遣い稼ぎをしていたに過ぎない。それが、戦争による人材不足から何を間違えたか軍に徴用されてしまったのだ。それが三年前、十七歳の時の話だ。以来三年間飛行機整備だけをやってきた。十七歳の頃はまだ多少お洒落にも興味があったが、軍属になってからは作業着の他は礼服しか袖を通していない。それも官給品だ。基地間の異動が多かったため、必然的に私物は減っていった。今なら自分は引越しの達人だろう。
傍にあったひび割れた鏡に自分の姿を映し、むくれて見せる。その仕草の子供っぽさに、自分はまだまだ若いと言い聞かせる。それでも、もう少し女性らしさというものを身につけたいと切実に思った。じゃないと、いつまで経っても子供扱いだ。ただでさえ小柄で華奢な体格は子供っぽいとあの人に思われているのに。
彼女は背後を振り返ると、整備の終わった飛行機を見上げた。本来スクランブル機はいつでも離陸出来るように万全の態勢をとるものだ。それが何故整備を受けていたかというと、通常格納庫は今引越し荷物で手一杯だからである。戦後処理の忙しさと複雑さからか、飛行機の飛行は大幅に制限されていた。結果、スクランブル機用の格納庫がそのまま整備用に使われている次第である。
スリースターズ社製亜音速戦闘機SS‐88FDファルシオン、片刃の剣の名を宿した名機だ。セシルはこの機体の基本スペックを空で暗誦できた。戦争直前の一七六五年にロールアウトしたこの機体は新開発のグスタフJE3型ジェットエンジンを一機胴体に収納し、最高速度607ノット、最高高度三六〇〇〇フィートをたたき出す。そして、まるでブーメランのような主翼は三五度の後退角を持ち、まさに剣のように空気を切り裂き鋭敏な旋回をして見せるのだ。SS‐88FDは複座型の機体で、前後にシートが並んだタンデム型だ。このタイプは前席にパイロット、後ろにレーダー要員が乗るようになっている。そのため、前線において指揮管制に用いられることが多く、主に隊長機として宛がわれた機体であった。
セシルはこの機体が好きだった。自分が整備をし、完璧な状態にしたこの機体に、愛着以上のものを持っていた。整備員は自分の整備した機体を自分の物のように話す。だから、パイロットが乗って行く事を、彼らはただ貸してやるだけだと言い張るのだ。だが、一方でパイロットは自分の乗機は自分の所有物であり整備士には手入れをさせているだけだと思っている。この両者の確執は相容れないものが存在した。何故なら、ひとたび命令が降りれば飛行機は整備士の手から取り上げられ、パイロットが持って行ってしまうのだから。整備士には、それを苦々しく見守るしかない。しかも、時にそれらは帰ってくることがない。
日に日に帰らぬ機体が増えていく中で、この一機だけは常に舞い戻ってきた。時には酷い手傷を負わされながらも、それでもこの機体だけはちゃんとセシルの手元に戻って来たのだ。そして、この機体のパイロットはいつも言う。お前の大事な飛行機はちゃんと持ち帰ったと。
彼女の視線が美しい曲線を描くキャノピーを抜け、翼を通りかかる。そこに引かれた一本の黒い線に、セシルは僅かに視線を止めた。いつ見ても慣れることの出来ない黒い線……それはこの飛行機が喪に服している証だった。
二年前まで、この機には二人のパイロットが乗っていた。五国同盟イファロスタ国防陸軍第七七三航空隊隊長クロウザー・ライド大尉とハリー・ブロンコ大尉だ。だが、二年前のあの日、帰って来たこの機は酷く破損し、基地に辿り着いたことは奇蹟に近かった。なんせ、主翼がもう少しで剥がれ落ちるところだったからだ。そして、貫通した弾丸が跳ね回った後部座席で、ブロンコは苦しげな表情のまま息絶えていた。
ブロンコの記憶は激動の二年間に飲み込まれ、ほとんど形を失いかけていた。それでも、セシルは覚えている。常に行動をともにし、信頼しきっていた二人の姿を。航空学校時代からの相棒であり親友なのだと言っていた二人を、その時のブロンコ大尉の人懐っこい笑顔とともに。彼はジョークの天才で、いつも人を和ませていた。彼の最後の言葉を、クロウザーは後で教えてくれた。
『なぁ、クロウザー……今日の任務もこれで終わりだな……さっさと帰って、セシルの奴に無事に持ち帰ったって自慢してやろうぜ……』
そんな優しいブロンコ中尉はすでに亡く、そしてその日以来この後部座席に人が乗ったことはない。クロウザーは二人乗りの戦闘機で一人で空に上がり、そして一人で帰って来る。きっと彼の後ろにはまだブロンコが乗っているのだ。
セシルはフッと小さくため息を吐くと、視線を逸らした。考えていても仕方のないことだ。
思いを追憶の向こうに追いやり、彼女は視線を格納庫の外に向けた。まばゆい日差しに照らされたエプロンの先に、一人の男性の姿を見つける。じっと空を見上げているその姿に、セシルは腰に手を当てて不満げに嘆息すると、その方に向けて歩き出した。
滑走路脇の芝生に、彼は一人佇んでいた。クロウザー・ライド、イファロスタ国防陸軍第七七三航空隊所属の先任大尉、航空隊の実質的な隊長でもある。その割には見た目は若く、年齢も二二歳と実際若い。整った端正な顔立ちは女性を虜にするには十分な美形であり、癖の無い金色の髪と空を映したような綺麗な青い瞳が印象的な青年だった。しかし、空を見つめるその目にはわずかに濁りがあり、身に纏う雰囲気もどこか倦怠感に包まれている。精気が枯渇しかかっているようだ。彼は今、サンドイエローの飛行服の上から皮製のフライトジャケットを羽織っていた。その格好はイファロスタ国防陸軍のパイロットの標準的な装備だ。
クロウザーは両手を庇のように目の上に当てながらじっと空を見上げていた。雲の様子や空の色、肌に感じられる風速などから大気の状態を感じ取る。空は抜けるような快晴で、ところどころに僅かに薄い雲が広がっているだけだった。遥か彼方を見渡せば遠くヴァストーム山脈の峰々が鮮やかに浮かび上がっている。肌に当たる風は柔らかく、軽く野原の熱気を含んでいた。滑走路周辺は一面芝生が植えられている。おそらくそこから来たものだろう。風は……そう、南南西から四ノットといったところだろうか?
クロウザーの口元に僅かに笑みが浮かび、端正な顔立ちが僅かに綻んだ。今日の天気は……。
「今日の昼から明後日にかけて高気圧が大気を覆い、しばらくは安定した晴れの日が続くでしょう」
背後から掛けられた僅かに棘を含んだ声に、クロウザーは先を越された。不機嫌そうに振り返ると、腰に手を当てて軽く睨んでいるセシルと目が合う。
「さっき気象班からここ数時間の天気情報が届いたばかりじゃないですか」
「……自分の目で確かめたかったんだよ」
クロウザーの返事に、セシルはやれやれと肩を竦めただけだった。小馬鹿にしたような彼女の態度を無視して、クロウザーは空を見上げた。絶好の飛行日和だ。雲雀が声を上げて空を舞っている。そして、ちらりと背後を窺って、クロウザーは彼女に向け尋ねた。
「整備の方は終わったのか?」
「まぁ一通りは」
そう答えて、彼女が隣に立つ。その横顔を、クロウザーは横目で追い続けた。彼女の身長は自分の肩ほどしかないため、どうしても見下ろすような格好になっていた。彼女は彼の視線など気にも留めずに溌剌とした表情を浮かべている。流れるような艶やかな金髪が日の光を浴びて金色に輝き、戦時下で十分な食事が難しかったにも関わらず彼女の美しさは死んでいなかった。何より、戦争の影を引き摺っていないそのしっかりした鳶色の眼に自分の方が勇気付けられるようだ。それが何より彼女自身の魅力となっている。
ふいと自分の方を見上げたセシルと視線がぶつかる。一瞬内心を透かされたような驚きと焦りを平静の中に押し込め、クロウザーは変わらぬ表情で視線を空に向けた。
「何見てたんですか?」
やはり見透かされていたか? 僅かに口元にたくらむような笑みを浮かべるセシルに、クロウザーは困ったように僅かに視線を逸らし小さく嘆息した。
「別に、お前に見とれていたわけじゃないさ」
「それ、自白してるようなもんですよ」
「だろうな」
参りましたと肩を竦めるクロウザーに、セシルは太陽も眩しいと思うような満面の笑みを浮かべただけだった。
「で、何を見てたんです?」
再び視線を空に戻すセシルに、クロウザーも気を取り直して蒼穹を仰ぐ。そよ風が頬を撫ぜ、下草をざわつかせる。蝶が揺れた花に驚いて、パッと羽を広げて飛び上がった。宙を舞う真っ白な紋白蝶に、セシルがそっと手を差し伸べるが、蝶は彼女の指の間を軽やかに舞っただけでとまることなく飛翔して空の点をなっていった。
「あ〜あ、行っちゃった……」
セシルが残念そうにそう呟き、そして陽の下にかざした自分の手を見、洗っても取れない油汚れの染みた自分の手に複雑な表情を浮かべる。そこにあるのは諦めと後悔だと、クロウザーは知っていた。誰か知らないが以前ここに勤めていたであろう女性隊員が置いていったファッション雑誌を捲って、それをロビーのソファーに投げ出した時の彼女の表情にそっくりだ。平和な日常に生きる少女とは似ても似つかない、汚れた自分の手にコンプレックスを持っているのだろう。
「空を……見てたんだ」
不器用なクロウザーには彼女を慰める言葉もない。結果、彼が取れるのは何も気づかない振りをして先ほどの質問を蒸し返すだけだ。唐突にも思える彼の言葉に、セシルが一瞬唖然とした表情でクロウザーを見上げ、そして彼の視線を追って空を見上げる。
「空を?」
怪訝そうに聞き返す。彼女の質問に、クロウザーは答えなかった。仕方なく、彼の隣で同じように空を見上げる。
穏やかな日差し、流れる雲、心地よい風はむせ返るような新緑の香りを運んでくる。静かだった。遠くトラックの走る音を除けば、聞こえてくるのは葉のざわめきだけだ。この平和を絵に描いたような世界に、クロウザーは何を見ているのか?
「飛びたいんですか?」
セシルがおもむろに尋ねる。そんな彼女に、クロウザーは弾かれたように彼女を見た。そして、セシルにはそんな彼を見ることは出来ない。どこかに消えていきそうな彼の哀しみを湛えた青い瞳を見てしまったのだ。そして、彼が何を見ようとしているのかも。セシルの耳にも、確かに遠雷のようなジェットエンジンの咆哮が聞こえた、そんな気がしたのだ。
クロウザーはしばしどうしたものかと迷った挙句、ガリガリと頭を掻いた。栗色の髪が指の間で揺れる。
「冗談はよせよ……戦争は、終わったんだ」
クロウザーはそう言った後、もう一度心の中でその言葉を反芻した。そして、スッと目を閉じる。
「大尉!?」
セシルの慌てる声が聞こえる。だが、クロウザーは僅かに笑みを浮かべただけだった。一瞬の間も無く、背から草の上に倒れこむ。緩慢な衝撃が背を伝わり、絶妙な痛さを感じる。痛さを感じるということは、自分はまだ生きている証拠だ。そう、生きているんだ……。
目を開けると、そこに太陽があった。眩しい。あまりの眩しさに、手を上げて光を遮る。そして、指の隙間から覗く心配そうなセシルの顔に、クロウザーは微笑を浮かべた。
「そんな顔するなよ」
急に倒れたとでも思い込んでいたセシルが、その一言で大きくため息を吐いた。ホッとする彼女を他所に、クロウザーは思いの中へと背中から沈んでいく。
先程のセシルの声が耳に響く。大尉か、随分と偉くなったものだと自分でも思う。二年前はまだ少尉のままだった。航空学校卒業の年に戦争が勃発し、そのまま前線に配属。あの頃はまだ十八歳の学生気分の抜けきらないブービーだった。念願のファイターパイロットになった感慨も無く、その日から怒涛の戦いの中に放り込まれることとなった。以来四年間、泥沼の中で足掻く様に必死に飛び続けた。敵も味方も蝿のように舞い、炎に包まれ、黒煙を撒き散らしながら大地へ落ちていく中も飛び続けたのだ。戦争も半ばになれば生き残っているのは歴戦の勇士か補充の新米パイロットだけだった。気のいい仲間も、上官も、親友も空に消え、新米のひよっこだった自分が部隊を率いて飛ぶことになり、それに従って階級も必然と上がった。それだけだ。それだけのことのはずなのに、何故か無性に哀しく思うことがある。別に、偉くなんてなりたくなかった……。
ふと気配を感じて、クロウザーは思考の海から浮かび上がった。すぐ隣に、セシルが腰を下ろして座っている。彼女は何を言うでもなく、傍に生えた草の葉を玩んでいた。彼女だけだ。自分が部隊に配属されてから今日まで変わらなかった顔ぶれは。戦況の移り変わりにより部隊はたびたび改編され、欠員と補充兵が繰り返しだった。彼女だけはいつも変わらずそこにいたのだ。
「終わったんだよなぁ……」
ぽつりと漏らしたクロウザーの呟きに、セシルが振り返る。そんな彼女に、クロウザーは空を見上げたまま大の字に寝そべって続けた。
「せっかくあの戦争を生き延びたんだ。今更、命を賭けて飛びたいとは思わないよ」
「本当に?」
セシルに聞き返されて、クロウザーの瞳が揺れる。本当にそう思っているのだろうか? 自分は納得しているのだろうか?
この四年間変わることの無かった日常を思い起こす。張り詰めた緊張感の中で休めることの出来ない翼。命令があれば文句を言う事も無くヘルメットを抱えてコクピットに飛び込むのだ。駆け巡る整備員達の無駄の無い動き、圧縮空気を送り込むコンプレッサーの騒音とエンジンの排気……ヘルメットを被り酸素マスクのゴムホースを機に接続する。その間に整備員が体を半分潜り込ませるようにしてハーネスを固定するのだ。準備を終えて、整備士が顔を上げる。間近に見えるセシルは真剣な表情の中に僅かに自信をみなぎらせた瞳を輝かせるのだ。
「GOOD LACK!」
「ああ、サンキュ! ちょっと借りてくぜ!」
「必ず返してくださいね!」
彼女の笑顔を胸に、キャノピーを閉める。それは出撃前でありながら心踊る瞬間だった。この約束があるから、自分は生きて帰ってこれたのだと今でも思う。忙しく、気が休まらない日常。見知った顔が飛び立ち、そして次の瞬間には消えていく日常……日常だ、これが日常なのだ。
飛ぶことを禁止され、暇を持て余し、こうして空を見上げる非日常……慣れない日々はすっかり精神的に堪えてくる。彼女にそんな内心の動揺を見透かされたような気がして、クロウザーはどこか気恥ずかしいものを感じていた。
クロウザーは勘弁してくれという風に力なく手足をバタつかせた。
「正直言うとつまらなくなってきたところだ……うん、飛びたいね」
「やっぱりだ」
笑みを浮かべるセシルに、クロウザーは脱力しきってばたりと寝転がった。そんな彼を慰めるように、セシルが困り顔で言う。
「でもダメですよ、特別な許可を受けた輸送機以外は飛行禁止なんだから」
「わかってるよ……だから空ばかり見てるんだ」
「そしてにわか仕込みの天気予報?」
「プロフェッショナルの天気予報だ!」
クロウザーの拗ねたような言い方に、セシルが声を立てて笑う。その屈託の無い笑い声に、クロウザーは少しムキになった。体を起こし、セシルの顔を覗きこむ。
「じゃ、こんなのはどうだ? 今日の夕陽は六時五分から十七分の間に最高の景色が見れるでしょう」
「嘘でしょ?」
「嘘じゃないさ! 今日の気圧配置と雲の配置からいって間違いない! それに、日の沈む時間は昨日確認済みだ!」
「つまり、昨日も暇だったんですね?」
「その通り」
真面目くさった顔で胸を張ったクロウザーの台詞に、背後から盛大な効果音が入る。何かが盛大に撒き散らされる耳を劈くような金属音に、クロウザーもセシルも思わず肩を竦め、そして後ろを振り返った。
滑走路の対岸に位置する格納庫で荷物の整理をしている整備兵の一人が積み上げた荷物を崩したのだ。コンクリートの床にぶちまけられた工具や部品を拾おうと、若い隊員が慌てふためいているのが遠目にも良くわかる。
「ありゃパロマだな……またやりやがった」
クロウザーが目を細め、事の張本人を検分する。天気が良い時は二〇マイル先の敵機を識別するパイロットの瞳だ。空中戦では敵より先に相手を見つけることが勝敗を分ける。
荷物を撒き散らしたパロマは二ヶ月前に配属されてきた新米だった。もともと気弱な性格に加えてドジで間抜けな彼は二日に一回は必ずミスを犯すことで名が知れ渡っている。しかし、そんな彼にも幸運なことがある。それは、軍属になった途端に戦争が終結したことだった。だが、本人はそんなことなど気にも留めずに、これから訪れるであろうささやかな不幸に内心潰れそうな心臓を抱えていることだろう。案の定、騒ぎを聞きつけて一人の強面の中年男性が奥から現れ、頭ごなしに叱り始める。
「あ〜あ、ファゴット軍曹に捕まっちゃった」
セシルが、心底ご愁傷様と言った様子で眉を下げる。しばらくの間二人は黙って格納庫の様子を観察していた。怒りに顔を赤くした軍曹が他の隊員にまで檄を飛ばしているのがここからでもわかる。巻添えを食った他の隊員たちが急いで作業に戻るのを眺めながら、二人とも同じ事を考えていた。その内心の思いが何の脚色も無く二人の口から漏れる。
「サボってて正解……」
その時、不意にファゴットが自分たちの方を見た気がして、二人は慌てて芝生の上に伏せた。二人してしばらく息を殺す。大地に伏せ獲物を狙う野獣の眼差しで、二人はじっと鬼軍曹の一挙手一投足を抜け目無く見守った。
ファゴットが格納庫の日陰の中に消えていく。彼の姿が完全に見えなくなってから、二人はようやく危機が去ったことを確認してホッと息を吐いた。そして、そのままごろりと草原の上に仰向けに寝転がる。
「パルマの奴にも困りもんだな、いつまで経ってもドジなままだ」
「それでも、来た頃よりはマシになりましたよ」
セシルの言葉に、信じられないとクロウザーが顔をしかめる。そんな彼の反応に苦笑を返し、セシルが続ける。
「配属されてきたばかりの頃なんて、整備よりも壊す方が得意なくらいだったんですから。手つきは不器用だし日に一回は何かに躓いて転ぶし……」
「それに比べたら今はマシ……か」
なるほどと心得顔で、クロウザーが頷く。セシルは頷き返すと、身を乗り出した。
「そりゃもう! 軍曹の怒鳴り声が聞こえない日なんてありませんでしたから! 今じゃもうすっかり当たり前ですけど、近くで聞く身としては結構堪えるんですよ?」
「知ってるよ、ファゴットの恐さは……でも、あれで結構面倒見いいんだ」
「知ってます」
二人して視線を交わし、クスリと笑みを浮かべる。ギラギラとした瞳にごつい顔立ちをした中年軍曹の雷は心の底から恐怖を覚えるが、彼は一度として不条理なことで怒ったことは無かった。いつも言っている内容に間違いは一切無く、問題点を的確に示している。ただ問題なのはその口の悪さと顔の恐さだけだ。部隊の隊員たちの心情を一番把握しているのも彼だった。
そこでふと思い出し、クロウザーが呟く。
「でも、今日はやけに短かったな?」
「そういえば……」
「やっぱ……もう戦わなくていいからかな……後は何の心配も無く、故郷に帰ればいいだけだもんな……ファゴットの奴、一〇歳になる娘がいるらしいぜ?」
「母親似かな?」
「俺はそうあって欲しいと思うね」
クロウザーの言葉に、セシルが声を立てて笑う。それにつられて、クロウザーもまた笑った。しばしの間、のどかな青空の下二人分の軽快な笑い声が辺りに響く。それもやがて止む。青空に、クロウザーの声が漏れた。
「故郷……か」
目を細めて言葉の余韻に浸るクロウザーに、セシルがどこか落ち着かない様子でそわそわする。彼女はしばしの葛藤の後、意を決して尋ねた。
「大尉は、どうするんですか?」
「俺? さぁなぁ」
歯切れの悪いクロウザーの返事に、セシルが身を乗り出す。
「大尉だって、故郷に親がいるって前に言ってたじゃないですか」
「ああ……うん、確かに言ったような気がする」
「ご両親は……?」
「ああ、この間手紙が来た。戦争なんて無縁な山奥の田舎だからな、平和なもんさ。俺のことを出稼ぎ程度にしか思ってないみたいで『戦争も終わったんだし、一度帰ってきたらどう?』だと」
肩を竦めてげんなりした表情を浮かべるクロウザーに、セシルがやれやれという風に肩を竦める。
「とんだひねくれ小僧ですね」
「何か言ったか?」
「いいえ別に。それより、ちゃんと約束は守ってもらいますから」
「約束?」
すまし顔で言うセシルに、クロウザーが眉を顰める。そんな彼に、セシルがムッと頬を膨らませた。
「戦争が終わったら、大尉の故郷を見せてくれるって約束! 覚えてません?」
「あ……えっと……その……お、覚えてないな」
気まずそうに視線を逸らすクロウザーに、セシルがジト目で食い下がる。
「その顔……とぼけようとしてる。確か、あの時はこうも言いましたよね? 『その時は俺が一日何でも言うこと聞いてやる』って」
「そ、そこまでは言ってないだろ!?」
「やっぱりとぼけてた!」
慌てて反論するクロウザーに、セシルが声を上げる。そんな彼女の言葉にやられたと思いつつ、クロウザーがフッと顔を背ける。
「……わかったよ。いつか連れて行ってやるさ」
「またそうやってあやふやにしようとする」
頬を膨らませて拗ねるセシルに、クロウザーはため息を吐いて首を横に振った。
「そうじゃない。まだ当分帰る気は無いってだけさ」
クロウザーの返事に、セシルが気を取り直して不思議そうに彼の横顔を見た。
「何でですか?」
「まだしばらくは操縦桿を握っていたいから、軍に残るつもりなんだ。首都に新設される防空隊の話知ってるだろ? 俺の方にも誘いが来てるんだよ」
クロウザーの独白にも似た呟きに、セシルが沈黙を持って先を促す。クロウザーは僅かに彼女の顔を一瞥し、続けた。
「一度は、故郷に帰って親父の後を継いで百姓になろうかとも考えたさ。だけど、違うんだな……殺し合いはもう御免だが、それでも空は飛んでいたいんだ。……わかってくれるかな」
どこかすがるようなクロウザーの視線に、セシルは穏やかな笑みを浮かべたまま、小さく嘆息した。そして、体を起こして空を見上げる。
「いいえ、全然」
その穏やかな顔つきとは裏腹に帰って来た否定の言葉に、クロウザーの目が僅かに見開かれる。だがそんな彼にセシルは満面の笑みを浮かべて言った。
「でも、そうなると私はずっと整備士のままですか?」
心地良いまでに爽やかな彼女の返事に、クロウザーもようやく意味を理解し笑みで答えた。
「そうなるな」
彼の答えに、再び嘆息で返す。セシルは空を見上げたままポツリと呟いた。
「慰謝料の請求先は軍じゃなくて大尉宛ね」
彼女の呟きは小さく、風に乗ってすぐに霧散してしまった。その行方を見送って、セシルがクロウザーを見下ろす。
「じゃ、差し当たりお手伝い願えます? 機体の調子確かめておきたいんで」
「はいはい、お前の大切な飛行機ちゃんね」
草を払いながら嫌味に答えたつもりだったが、セシルはそんなこと気にせずに相好を崩して胸を張った。
「ええ、私の大切な彼氏です」
彼女の返事に、クロウザーは一瞬面白く無さそうな表情を浮かべ、内心で飛行機に嫉妬してどうするんだとそうした自分に苦笑した。セシルはというとそんな彼の内心の葛藤を見透かしたようにただ面白そうに顔を覗きこんでいる。
「じゃ、ぱっぱと終わらせよう」
「はい!」
二人がアラートハンガーに向けて歩きだす。歩きながら、クロウザーは一つ気付いた。空を取り上げられ、平穏と共に過ごすことを強要された非日常の中で、セシルの笑顔だけが唯一自分の傍に残った日常だと。
彼らの頭上には、まだ穏やかな青空が一面に広がっていた。
彼はそこにいた。
彼の前には狭いスペースに所狭しと並べられたアナログメータ、自分の両脇にはスイッチがずらりと並び、ランプが点滅している。右手で握る操縦桿、左手で握るスロットルレバー、バスタブ程度の広さのコクピットに体を縮めるようにして収まっている。
全身を覆うパイロットスーツはごわごわと固く、体を動かすたびにゴムの摩れる様な音を立てる。数年前に開発されたエナメル繊維製だ。ヘルメットには酸素マスクは無い。その代わり頭全体をすっぽりと覆い、襟元でパイロットスーツと接続する与圧服タイプだ。これは飛行機がその性能を急激に向上させ、上昇高度が人の呼吸出来る高さを遥かに超えたことを意味していた。
太腿に取り付けたメモ用紙、そこには作戦の詳細が記されていた。右の太腿には周辺地域の地図がある。赤いインクで記された各種ポイントの地形とキャノピーの向こうに広がる光景を見比べる。地形航法を続けつつ、彼は機を僅かに左手に流した。
交信時間、無線機のスイッチを入れる。しばしのノイズを我慢しつつ周波数を合わせ、沈黙を続ける世界に静かに電波の声を流す。
「カッコウは巣へ翼を向けた」
僅かな間の静寂の時間。熱気のこもるパイロットスーツのせいか、背に汗が流れる。喉の渇きを覚えた。しばらくして、無線機が黄泉の世界からの声を響かせる。
『そしてカッコウは卵を産み、卵は親を知らずに育つであろう』
無線が捉えた言葉は、悪魔の囁きだ。作戦前に決められていた暗号、返答は作戦の決行を意味していた。
唾を飲み込む。喉が大きく音を立てた。先程まで汗ばむほどまで暑さを感じていたはずなのに、今は震えが来るほどの寒気が襲う。彼は心から怯えていた。しかし、なさねばならない。蹂躙された祖国を救うため、国のためだ。そのためならば、同じ志しを持って戦った同胞を撃つ事も躊躇うわけにはいかない。
カッコウはモズやホオジロの巣に托卵し、これらの鳥を仮の親として哺育させるという。なら、自分はカッコウなのだろう。自分たちの憎悪を仲間の巣に産みつけて、彼らに育てさせようというのだから。
雲の隙間から容赦なく照りつける太陽に照らされて、ラトディア条約機構のマーキングが入った戦闘機が、鋭い光を反射してみせる。
カッコウは新たな戦いの火種となる弾薬をその翼に抱え、飛び続けた。
ファルシオンのモデルはF-86Fセイバーという朝鮮戦争時のジェット戦闘機です。ただし、レーダーを搭載したり、HUDを搭載したり、複座型になっていたりとかなり違ってはいます。
時代は第二次世界大戦後のヨーロッパ風、装備は朝鮮戦争にテクノロジーは更に僅かに進歩といった感じでしょうか?
まぁそのようなイメージです。
別に考えていた物語のサイドストーリーとして考えていたのですが、あまりにも長くなったのと本編がお蔵入りしてしまったために多少世界観に関する記述が不足していて申し訳ありません。




