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新郎控室

 学生の頃、とても親しくしていた先輩がいた。親しみやすくて飄々として、頼りがいのある大きな人だった。

 子供の頃から、よく知っている女の子がいた。落ち着いていて努力家で、不器用だけど優しい奴だった。

 そのふたりの、結婚式。


 控室のドアを開ける前から、中での会話が聞こえて来る。聞き覚えのある声ではない。大学の知り合いではないのだろう。

 少しだけ、待ってみる。渡してきてねと頼まれた花束は、やけに気合が入っている。明るいオレンジを基調として、幸せだの純愛だの、結婚式に相応しい花言葉のものばかり選んだそうだ。どうにも女性と言うものはこういうものにこだわるらしい。所謂ゲン担ぎのようなものなのだろうか。そう言ったら、少しむっとして「祝福とお祈り」と言い返された。一児の父となり、来年には二人に増える今となっても、そういう所はわからないままだ。

「しかしなぁ、意外と遅かったよな、菖蒲」

「ほんとほんと。私達の中だったら一番早婚だと思ってたもん」

「だよな。高校の時なんか、手ぇ早かったしチャラかったし。いやー、ありえねーわ。あーあ、勿体ねー」

「悪かったなオイ」

「はは、ほんとほんと。でもさ、まさか三十路越えちゃうなんてね」

「まだ前半だっつーの。そんならお前らも、すっかりおじさんおばさんじゃんかよ」

「俺はいいの。もうお父さんだから」

「私もー。あんたんとこのチビちゃん、今いくつだっけ?」

「来年小学生」

「へー、かわいい盛りねー。で、あんたは?」

「俺は暫く仕事するからいいんだよ」

 明るい笑い声と、屈託のない口調。やっぱり変わっていないんだなと、俺は少しだけ息をつく。

 あの人の周りは、常に笑顔で満ちていたように思う。話していると落ち着くし、自然と乗せられて一緒に気持ちが上がっているのだ。引くべき所ではきちんと引けるし、調停役だろうが貧乏くじだろうが、いつものノー天気な読めない態度でさらりとこなす。兄貴分と言う言葉がここまで似合う人も中々いないと言う感じの人だった。そんな彼は、今や大手のトップ営業マン。あれでトップにならない方がおかしい。

 はじめに出会った時には、あまりいい印象は受けなかった。プレイボーイだという噂も聞いていたし、やたらと元気でついていけないと思ったのだ。大体そういう社交的なタイプって、自分の勢いのままに相手も巻き込んでいくし、それが当然だと思っている節があるから。で、少しでもついていけなかったりすると、一気に場が気まずくなる。だから極力関わらないようにしていた。

 しかし在籍が長くなるうちに、そういうわけにもいかなくなった。この人の周りには常に誰かしら人がいるから、結局友人を介して繋がってしまうのだ。いざ話してみたら嫌な子供っぽさはなくて、案外落ち着いている人だった。

 所謂「人気者」タイプの奴だって、考えてることはちゃんと考えてるし、陰で気を遣って神経すり減らしてるって事くらい俺にもわかっている。だから彼らの元気さが鼻についた時は、そう思って自分を宥めることもあった。しかしそうやって自分を納得させる必要性は、あの人―菖蒲さんに関してはあまりなかったように思う。本当に不思議だ。

 いや、不思議なのではない。あの人がそうならないように、ずっと気遣っていたのだ。気遣っていると気付かれないくらい、身軽で親しみやすいキャラクターに包んで。

「じゃあね菖蒲」

「指輪落とすんじゃねーぞ」

「浮気すんなよー」

「するかバカ」

「だよねー。何年待ったんだっけ?」

「お前、案外ロマンチストだよな」

「うるせー。じゃ、式でな」

「おう」

 ぞろぞろと、着飾った男女が部屋から出て来る。菖蒲さんと同い年くらいだろうか。その中の女の人が俺に気づいて、あ、お待たせしましたと、一言告げて行った。軽く会釈をする。

 一呼吸あけて、ドアを開けた。




   新郎控室




 正直、来るか来ないかわからなかった。いつの間にか、そのような関係性と距離感になってしまった後輩だからだ。まさか、ここまで大きな花束を片手に、来るとは思っていなかったけれど。

「よう、相模。久しぶりだな」

「お久しぶりです、菖蒲さん」

 幾分緊張していた面持ちは、昔のこいつと何ら変わらない。ほっとした時に案外顔に出るのも一緒だ。

「すげー花束」

「潮が持ってけって。知り合いのフラワーデザイナーに頼んだみたいで」

「こんなでかいの初めて見たわ」

「おめでとうございます」

 賞状か何かを受け取る時の様に、相模は目線を下にしながら、俺に花束を差し出した。流石に片手では持てないので、ビニールやリボンごと抱きかかえるようにして受け取る。

「さんきゅ」

「いえ」

 目を伏せると、睫毛が長いせいで表情が読みにくい。そんなところも変わっていないが、こいつの在り方は学生時代から見れば大分変ったように思う。

 元々、良くも悪くも落ち着いた、どちらかと言えば人付き合いが苦手だったこいつは、今は嫁さんと子供と、海外で仕事をしている。まるで、恋人と一緒に日本を出たという感じだった。こいつにこんな情熱的な一面があるなんて、だれが予想しただろう。

 空港に送って行ったとき、何とも複雑な思いに駆られたのは、今なお記憶に新しい。あれは夏の終わり。やけに暑かった夏の終わり。少しだけ秋風が吹いたと思ったら残暑がやって来て、一度長袖になりかけていた女子達が、ノースリーブやら半袖やらに戻ったあの一時の間。

「潮ちゃんは来てんの? フランス?」

「藤野んとこに花束持って行きました」

「あいつんとこか。これと同じサイズ?」

「もう一回り大きいやつ」

「すげーなそれ」

 彼女らしいと思った。天真爛漫でいつも元気で。あこがれの後輩を絵に描いたような女の子だった。あの頃犬塚と言う名前だった彼女は、今は相模と言う名を名乗っている。

 あいつの控室に、あの子は何を思って行くのだろうか。子供で天然で居るようでいて、ものが見えている女の子だった。明るい笑顔の陰で、思い悩んで抱え込んでいるような子だった。その点で言えばあいつと潮は、存外似通った思考回路の持ち主なのかもしれない。

 あいつと潮は、ありていに言えば一時期恋敵だった。と言っても、潮もあいつも互いに好感を抱いていたし、事情もかなり複雑だったので、険悪になる事も、どちらかを邪険にすることも、結局なかったように思う。

 一人の人間を二人で取り合うと言えば、昼メロのような安っぽさとエネルギーに辟易するけれど、好きになってしまった人が同じという言い方をすれば、途端に甘酸っぱく聞こえるのは何なのだろう。

 実際の所その中身は、昼ドラのような対立でも、漫画のような葛藤でもなく、自分自身に対するやるせなさとか悔しさが、圧倒的であるようにも思う。今になって何を思うかとか、そんなものは、本人たちにしかわからないわけだが。

「明るい色にすればって言ったんですけど、真っ青の花束。白に青は映えるんだよって聞かなくて」

「あいつ青好きだから」

「あぁ、そうか。そういうことか……」

 いずれにせよ、人間の感情が、白か黒かで分けられない以上、可能性は星の数ほどあると言う事だ。それは、大変で面倒なものではあるけれど、悪いものではないのだろうと言う気が、やっとこさ最近するようになった。

「おめでとう」

「え?」

「二人目」

「あ、あぁ……ありがとうございます」

「今度は?」

「男の子みたいです」

「そっか」

「誰から聞いたんですか?」

「長谷川」

「あぁ、俺の二こ上の……」

「美人になってたぜ。バリバリの女流弁護士」

「へえ……」

「嬢ちゃん来てんの?」

「いや、流石にまだ二歳ですから……実家に預けて来ました」

「あら、残念」

「泣きだすのが目に見えてます。人見知りなんで」

「何で親父に似ちまったかだよねー」

「……余計なお世話ですよ」

 息を細く長く吐く。久しく思い出さなかった、煙草の匂いがすんと鼻先をかすめた気がした。

相模を空港で見送ったあの日には、あいつも空港に来ていて、結局渡せずじまいだった手作りのプレゼントが、バッグの片隅から覗いていた。家まで送ろうかと提案したけれど、やんわり断られた。自分の参っている所を見せられるほど、俺はまだあいつにとって近い存在ではなかったと言う事だ。その日を境に、俺は煙草をやめた。あいつが煙草嫌いだったから。まだ普通の先輩後輩の関係だったのに、女々しいような気もするが、少しだけ、あいつに近づいたようなそんな気がしたから。

 そんな俺の回想を、知ってか知らずか相模が呟く。

「菖蒲さん、煙草は?」

「やめた」

「一回で?」

「おう」

「凄いな。俺の友達なんか、何回も失敗してこの前遂に禁煙外来」

「まじか」

「かなりのヘビースモーカーでしたよね」

「潮時と思ってさ」

「へえ……」

 不思議なもので、ピーターパンの様に大人になり切れなかった俺は、あの時から妙な覚悟みたいなものが決まってしまって。それからやれ卒業だの就職だのと、抵抗なく「大人」になったような気がする。

 ほんの少しだけ、寂しい。でも、後悔があると言うわけでもない。戻れない懐かしい昔を、ふと微笑みながら見返す。そんな感じ。

 ふと相模が視線をずらした。遠くを見るように、力を抜く。真剣に話をするとき、こいつはいつもそうする。自分の内面を打ち明ける時は、他人の目は見ない。

「潮が、言ってましたよ」

「何を?」

「ちょっとだけ悔しいんだなあって」

 眉を寄せて困ったように笑う。

「何言ってんだかって感じですよね。普通言います? 旦那と子供の前で」

 と、相模は笑った。こいつも、こんな風に笑えるようになったのかと、俺は柄にもなく思う。いや、案外「柄」どおりなのかもしれない。

「潮は、菖蒲さんの事が好きでしたから」

 彼女の「好き」は、好きと言うよりも、憧れに近いものがあったんじゃないかと、今でも俺は思っている。でも、彼女の思いに応えなかったことは事実だし、所詮その印象だって、俺の勝手な思い込みに過ぎない。だから、やはりこういう事になるのだろう。

「見事なまでの四角関係」

「ですよね」

「因果だな」

「ですから、俺にとっても複雑なんですよ」

「互いに恋敵だったわけだ」

「はい」

 すっと目を閉じた。

「惚れた腫れたに、勝負なんてもんはねーと思うし、そういうの嫌いなんだけどよ」

 道化っぽい、兄貴分。俺は自分を称するのに、これ以上の言葉はいらないと思っている。でも、そういう風に在るためには、嘘をつき慣れなくちゃならなかった。いつもどこかしら、浮世離れしていなければならなかったから。

 嘘をつく事が大人になると言う事なら、俺は随分と早くから、大人になってしまっていたのかもしれない。

「俺は、お前に並ぶのに六年かかった」

 相模は黙って聞いていた。

 力が抜ける。自然に口元が緩む。

「何でだろうねぇ、こんな言葉でしか、言えねえんだよ」

「俺は、いまだに菖蒲さんには敵わないと思います」

 戻ってきたのは、あいも変わらずにまっすぐな一言で、

「……そっか」

 俺には何だか、清々しいくらいだった。

「馬鹿だねお前も」

「そう思います」

 ふと思った。こんな風にこいつと会うのは、最初で最後だな、と。ひょっとしたらもう会えないかもしれないし、会ったとしてもきっと、違う距離感で話をするんだろう。

 今だって、学生だったあの頃と、同じ距離感で話をしているかと言われれば、少しだけ違う。まるで間違い探しの二つの絵のように、ほんの少しだけ、変わった。

 そして、きっとこれからもそうして変わっていくのだ。間違い探しの絵は連なって、いつしか端と端は全くと言っていいほど、違う絵になるのだろう。

 でも、描かれているモチーフは同じかもしれない。

「そろそろいいかなぁ」

「え?」

「そろそろ俺も、幸せになってみてもいいかなぁ」

 少しだけ驚いたような顔をした相模は、何言ってるんですかと笑った後、すぐに笑みをひっこめた。どこまでが冗談でどこからが本気か、本当にわかりやすい。

「そうじゃないと困ります」

「そう」

「菖蒲さんは、俺と潮の憧れの人なんだから。幸せでいてくれないと困ります」

「かー、勝手な事言うねえ全く」

「……俺が言えたことじゃないけど、菖蒲さんが幸せじゃなかったら、藤野まで幸せじゃないような気がして」

「勝手な事言うね、全く」

 一度は泣かしたくせによと、俺は笑って相模の額を小突いた。

「相模、俺さぁ」

「何ですか?」

「お前の事、嫌いじゃないよ」

 笑いかけると、相模は何かを眩しがるような、戸惑った顔で首を傾げた。全く変わっていない。学生の時のまんまの動作に俺は笑い出す。

 子供の頃、大人なんて言うものは自分と違う生き物に見えた。学生の頃、社会人なんていうものは、自分と住む世界が違うと思った。今は、夫婦になるって事に対して、それに近い想いを抱いている。

 でも同時にこうも思う。ずっと自分達が持っていたものの、形が変わっていくだけなのだ、と。そう考えれば、案外失ってしまうものなんて、そうそう無いような気がしてきた。


 ぽん、と勢いをつけて椅子から立ち上がる。タキシードが皺になっていないか確かめて、胸元のハンカチを直した。

「亜紀にはもう会ったのか?」

「まだです。先に菖蒲さんかなって」

「そろそろだな。ほら、行くぞ」

「行くって……あの、どこに」

「ウエディングドレス姿。見たくねーの?」

「ええと……いいんですか?」

「何で許可がいるんだよ。どーせ式で見るのに」

「それも、そうですね」

「あ、これだけは言っておこう」

「え?」

「俺が先に部屋入るから。お前後からな」

「……はいはい、わかってますよ」



 数々の門出と言う名の節目に、様々に想いはあるけれど、過去や今が無くなってしまうと言うわけではないから。きっと、未来でもやっていけるさ、と。 そう、思った。


                 

おしまい


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