片方やじるし
朝起きて、とてつもなく嫌な予感がした。
存在を主張し痛む喉。ぼーっとした思考回路。寒さのために凝ってしまった肩はガチガチで、腕は冷え切って痺れている。心なしか、鼻呼吸が苦しい気がする。
完全な寝冷え風邪。不覚だと舌打ちしながら、俺は朝飯を作るために、緩慢な動作で起きあがった。
風邪を引くとすぐ熱を出す俺は、その日結局体が持たず、授業を早引けして早々に家に帰ることになった。バイトがなかったことが唯一の救いだ。まぁ家に帰ると言っても、こちとら下宿大学生。何もせずに休める身分ではないんだけれども。こういう時は、実家が近くにあればと本当に思う。もしくは、兄弟従兄弟くらいの身内が、近くに住んでいるとか。
「あー……頭くらくらする。早く寝ないと……」
独り言でも言ってなければやっていられない。声を出していないと、体が動くことを放棄しそうだから。
家の前まで来て、鍵を回す。それだけの動作なのに、下を向くのが辛い。床がぐるりと回る。これは、某伝染病を疑った方がいいんじゃないだろうか。よく冬になると世間を騒がせる、毎年のように新型が出るアレを。
玄関を上がると、途端に安堵感が押し寄せてきて、俺は部屋の奥のベッドに直行。そのまま倒れこんで眠ってしまった。
片方やじるし
しゅんしゅんとお湯が沸く、小気味良い音が響いてくる。起き抜けに聞く料理の音と言えば、母親が朝ごはんを作る音と相場は決まっている。しかし実際の所、キッチンのそばに寝室のある部屋なんてそうそうない。俺の部屋も御多分に漏れず、台所の音が聞こえるような場所ではなかった。それでもメディアの影響力とは凄まじいもので、俺は何となくこの音に、ノスタルジーを感じていた。
暫くして気が付いた。俺は今多分起きている。と、いう事は、今聞いているのは夢の中の音ではない。そこまで考えて飛び起きた。立ちくらみのような眩暈のようなものに襲われて、暫く目を開けられなかったけれども。
「ダイナミック起床だなー、相模。幽霊でもいると思ったか?」
「はぁ……菖蒲さん?」
我ながら酷い顔をしていたと思う。ただでさえ風邪で妙なことになっているのに、心底驚いた顔をしていただろうから。キッチンに立つ人物はどこ吹く風、からからと気楽に笑っている。
「何で? 鍵は?」
「開いてた。不用心だぞお前。ドアまで半開きだった」
「マジですか」
「マジですよ。同じ下宿に住んでる身としては、気を付けてもらわんと困るねー。俺の部屋に泥棒入っちゃったらどーするつもりだったのよ」
「すいません…。えーっと、犯人捕まえます。頑張って」
「真に受けんなよ。てか、一般人が頑張るものじゃねーよそりゃ」
「はぁ……」
「てかさ、風邪引いてんのに暖房もつけず布団も着ず寝るってどういう了見なんだっつの。治んねーから。むしろ悪化しかしねーから」
「はい、すいません」
何も考えずベッドに倒れこんだ俺だったが、今はしっかり毛布と布団が掛けられていた。スイッチを入れた覚えのない暖房もついている。カーテンは、もう夜になっているのだろう。ぴっちりと閉められていた。そして、今お湯を沸かしている様子の先輩。あぁ、やっと頭が回ってきたぞ。これはひょっとしてもひょっとしなくても……。
「あのー」
「ん?」
「まずは、その、ありがとうございます」
一応礼は言っておく。
「おう」
そして、この後が本題だ。
「色々ツッコみたいことがあるんですけどいいですか?」
「おお! 流石我がサークルの良心! やっとツッコミと言う役目を思い出したな!」
「まずそのハイテンション勘弁してください。頭に響きます」
「いきなり言うねー」
言いながら、菖蒲さんはこっちを向こうとはしない。何やら鍋を火にかけている様子が伺えるが、鼻が詰まり気味なので匂いまではわからない。と、思って眺めていたら、何やら引出しを開けてごそごそしている。
菖蒲総一郎。俺の通っている大学の七年生であり、サークルの先輩。実に三年分も留年を繰り返している猛者。内一年は、中国へ留学に行っていたかららしいが、本人曰く浪人もしているらしいから、余程放任主義と言うか、豪放磊落な家庭に育ったのだろう。
俺はほんのちょっとだけ、この人を苦手にしている。
「何家探ししてるんですか」
「人聞きの悪いこと言うな。食材探しだよ」
どうやら、料理をしてくれちゃっているらしい。菖蒲さんは独り暮らし経験が長いから、料理上手なのだとサークル仲間が言っていたのを聞いたことがある。あの声は、犬塚だった気がする。
「うつりますよ? インフルフラグ立ってるんですから」
「予防接種してっから大丈夫―」
「大丈夫じゃないですよ。さっさと家帰ってください」
「人が折角看病しに来てやったのに。何だそれ」
「看病って……彼女じゃあるまいし」
「酷―い! 相模君にとって私って、そんな存在だったのね!」
「止めい!!」
「と、まぁ冗談はさておき……人の好意は大人しく受け取っとくもんだぜ」
「だからって、勝手に入らないでくださいよ」
「鍵あけっぱだったお前が悪いんだろーが。鍵のありかがわかってりゃ、とっとと閉めて帰ったわ。仕方ねーからいろいろ世話を焼いてやろうと思ったんじゃないの。丁度課題もないし」
鍵ならカバンの中を探せばあっただろうに。最初からこうする気満々だったんだろう。わからない。何でこんなに、人の空間に立ち入ろうとするんだろう。何でここまでしてくれるんだろう。
「何だかなぁ……まるでアレじゃないですか。BL漫画の展開じゃないですか」
「バカかお前は。BLはファンタジーだってうちの腐女子連中が言ってただろうが。俺は断然、女子の方が好き」
「いや、わかってますけど。菖蒲さん浮いた噂多いし」
「あ、そ」
そんなに恋多くないんだけどなー、と、菖蒲さんは首を傾げ傾げ鍋をつついている。そしてやおら身を屈めると、冷蔵庫を容赦なく開けた。人の部屋に来ておきながら冷蔵庫を我が物顔で開けるのはどうかと思うのだが、目的が家主である俺の看病なので、正直どうにも判断が下せない。人に世話になっておいて、小姑みたいにうるさい奴だなんて思われたくないし。何より、結局のところ感謝しているので。
卵を取り出してさっと水で洗い、片手できれいに割る。料理上手って話は、どうやら本当だ。
「よし! できた!」
満足そうな声。俺に断りもなく勝手にテーブルを出してきて、鍋敷きを置く。もう気にするまい。素直に感謝しておこう。俺はのそりとベッドから起き出して、ゆっくり床に腰を下ろした。少し寝たからだろうか、眩暈は少しましになっていた。かと思いきや
「コラ相模。座布団くらい敷け!」
「ふごっ!?」
一瞬で真っ暗になる視界。投げられた座布団が、顔にクリーンヒットした。病人相手なんだから、もっと気を遣ってくれてもいいんじゃないだろうか。いや、それは高望みか。再びぐらぐらしだした頭を何とか落ち着かせて、俺は大人しく座布団の上に座る。確かに、こっちの方が体温は持っていかれない。何も敷かないときよりずっとましだ。
「ほい、菖蒲さん特製たまご粥~」
豪快に置かれた鍋の中には、程よく半熟に火が通った卵。柔らかな黄色が、湯気の隙間から顔を覗かせている。少しお粥に色がついているのは、出汁を使っているからだろうか。アクセントだろう三つ葉がきれいだが、こんなものは俺の部屋にあっただろうか……。数日前特売で何となく買って、冷蔵庫の奥底に封印していた気もしてきた。何はともあれ、日の目を見る機会があってよかった。
「うわ、すげ」
「ま、こんなもんよ。食べたくないなら俺が食うけど」
「いや、いただきます」
「熱いぞ」
まるで家族の会話だ。
この人はサークルの中でも、結構頼られる側に回る方が多いと思う。飲み会の場所を取り損なった時は、菖蒲さんに頼れば必ずいい店を紹介してくれる。留年しまくっているくせに……いや、しまくっているからこそ、だろうか。試験対策の方法にも明るくて、毎年一年から救世主扱いされている。人間関係のトラブルも、彼が間に入れば退会者なしで収束させることが出来る。漫画関係のサークルという事で、どうしても俗に言うコミュ障が多いのは否めないが、仮にそのような面子が揃っていなくとも、この人は兄貴分的な存在として、色々な人に頼られ慕われるだろう。
俺も菖蒲さんも、毎日サークルに顔を出しているわけではないし、役職にもついていなければ、作品を載せた覚えもない。殆どイベントオンリーの部員だ。なのにどうして菖蒲さんはこう潤滑油的な役割を果たせるんだろうと、ずっと思っていたけれど、きっとこの人は人に好かれるのだ。愛嬌がある、と言うよりも、人の中に入り込むことに抵抗がないから。分け隔てなく全ての人に、自然に接することが出来るから。やり口は少々強引だが、人嫌いの部類に入るであろう俺だって、いきなり押しかけられて悪い気はしていないんだし。勿論、熱のせいもあるのだろうけど。
「どーよ」
「なかなかオツな味です」
「生意気だなお前」
「美味いです」
「そ、素直でよろしい」
どんな時も、自分に自信を持っていて、揺らぐところがない気がして。断言されたら思わず納得してしまうような、何かを持ってるって言うか。だからこそ、一緒にいて負担にはならないし、頼ろうと思えるようになるんだろう。
俺みたいな人間からすれば、若干眩しくはあったりするが。
あ、そうか。だから俺はこの人が苦手なのか。
「どうやって作ったんですか?」
「え? 出汁入れた鍋で飯煮込んで、煮あがる直前に卵を落として崩す。あとは三つ葉ちゃん」
「さらっと言いますね」
「多少時間はかかるけどな。ま、病人食だし」
何も切らないから楽だろと菖蒲さんは笑った。ちゃっかり二組皿とスプーンを出してきて、一緒に鍋をつついている。風邪患者と同じ釜の飯を食うのもどうかと思うし、人ん家の食材で勝手に夕飯……と言っても病人食だが。を、済ませてしまうのも理解しがたい。でも、何も言わずに放っておく。
この人の近くにいると、ほんの少しだけ焦るときがある。いや、ほんの少しどころではなくて、かなりだったりする。俺がいくら足掻いても、到達できないような高いところにいる気がして。落ち着いた態度や自信を持った物腰を見ると、居たたまれなくなるし少し苛々することもある。
それでも、俺はこの人が嫌いじゃない。嫌いじゃないどころか、人間的に好ましいなと思っているし、一緒にいて居心地がいいのも事実だ。五つも歳が離れているのに、よく考えれば変な気安さだ。
だからこそ、色々思う所は複雑で、距離を取りあぐねている、気がするんだ。
「菖蒲さん料理上手って、本当だったんですね」
「うん? そんな話になってんの? 全部手抜き料理だぜ?」
「この前、飲み会オールだったじゃないですか」
「ああ、あれな。お前先帰ったよな、藤野と一緒に」
「朝イチでバイトだったんで。でも、皆から聞きました」
「へー」
菖蒲さんの家は大学のすぐ近くにあって、一人暮らしの部屋の割には広いので、飲み会の二次会は、彼の家で宅飲みになることが割と多い。
「あん時は女子連中まで泊まるー言い出して困った」
「菖蒲さんでも困るんですか」
「他の野郎共も一緒だし、色々気を揉むじゃない」
「意外」
「仕方ないからささっと夜食作って、飲んで、三次会はカラオケ」
「菖蒲さんのこだわりカルボナーラとミネストローネでしょ」
「え?」
翌日サークルに顔を出したら、犬塚が目を輝かせながら言ってきた。菖蒲さんに料理習いに行きたいななんて、他の女子と一緒に。女子との間に壁がないんだなって思って、どうしようもなく取り残されたような気分になったのを覚えている。この人は、アイドルに近い存在だから。
「潮ちゃん辺りに聞いたわけ」
「まあ」
さらりと当てられる。犬塚潮。変わった名前と底抜けに明るい性格で、入部して一週間ほどで、幽霊以外の部員には名前が知れ渡っていた、一つ下の、理工学部の学生。皆に愛される、名前通り子犬系の魅力がある。理系の女子としては珍しいなんて、偏見に満ちた眼差しで見ていたこともあった。ほのぼのとした恋愛モノを良く描いていて、可愛らしい絵柄が特徴的だ。
「あいつもお喋りだからな。人懐っこくて天然で、時々見てて不安になるよな」
「そうですか? 子供なだけでしょ」
「そうか?」
玉子粥をとっくに食べ終わり、いつの間に淹れてきたのか、ほうじ茶を啜りながら菖蒲さんは何ともなしに呟く。なんとなくその様子をじっと見てみる。
「? 何だ?」
「いや、やっぱり慣れてるなと」
「何に?」
「女子に」
「……やっぱお前も、俺をプレイボーイ扱いするのか……」
「いや、そうじゃなくて。よくわかってるんだなって」
「ガキか。わかんねーよ」
ばしりと額にデコピンをかまされる。結構本気のヤツだ。男相手には割と容赦ないんだから。
「わかんねーから何も言えねーんだろ」
「意外。菖蒲さんモテそうなのに」
「モテるとは別問題だろ」
「片思いの人とかいるんですか?」
「いるよそりゃあ。アプローチしてても、気づいてくれない奴とかさ」
「現在進行形で?」
少々意地の悪い質問だったと口にしてから気付いたが、菖蒲さんならさらりと流すだろうと思って撤回せずにいた。でも菖蒲さんは存外真剣に考え込んで、中空を見つめたまま答えた。
「いや。今は、そういうのはいないな」
一瞬流れた重い空気に戸惑うと、菖蒲さんは何事もなかったかのようにそうそう、と立ち上がり、玄関口に置いてあったカバンから袋を取り出す。
「これ、柚子茶」
「え?」
「俺からじゃなくて、藤野から」
可愛らしい袋に入れられた柚子茶。いつの間にこんなものを用意したんだろうと思いつつぼーっとしていると、菖蒲さんに無理やり押し付けられた。
「朝から様子が変だったから、気になってたんだとさ」
「そうですか」
復帰したら礼を言っておかなければいけない。
藤野は文学部の同期で、ゼミこそ違うが専門は同じ。サークル外でも顔を合わせることが多い相手だ。生真面目で安心感があって仕事が出来て、ひそかに後輩から人気が高かったりする。時々こう、母親みたいな世話を焼いてくる奴だ。
「で、潮ちゃんからも。早退して部会出れないって言ったら、押し付けられた」
今度はコンビニの袋がガサガサ音を立てて出てくる。受け取って中身を確かめると、かりんののど飴が袋ごと入っていた。菖蒲さんから話を聞いて、生協辺りで買ってきてくれたのだろう。犬塚らしい発想だ。
袋を開けて、舌先で転がす。少しだけ喉が楽になった。
「柚子茶も淹れてきてやろうか?」
「いや、いいですよ。喉乾いてないし、寒くもないですから」
「じゃー俺飲もー」
「湯呑はそこの引き出しですよ」
「はいよ」
菖蒲さんは再び、薬缶をコンロにかける。僅かにガスの匂いがした。
のど飴を口の中で弄びながら、俺も空になった茶碗を置いた。鍋の中身は綺麗にすっからかん。飴が無くなったのを見計らい、風邪薬を引っ張り出して、良くないとは思いつつほうじ茶で流し込む。ものを食べて体温が上がったのか、目が潤んだようになって、視界が若干おかしくなる。
「……鍵どこ? 相模」
おもむろに、菖蒲さんが声をかけてきた。さっきと同じで、振り向きはしていない。
「カバンの中です」
「じゃー寝てな。閉めて出てってやっから」
「……俺のカギ…」
「郵便受けに入れといてやるよ」
本当は防犯上よろしくないのだが、まぁ大丈夫だろう。俺はお言葉に甘えて、ごそごそと布団にもぐる。菖蒲さんがこう言うからには、例え俺が変に意地を張ったところで、強引に布団を被せられてしまうんだろうし。
天井を見上げる。今何時くらいなんだろうか。カーテンの隙間から漏れ出てくる街灯の明かりが、壁に放射状に模様を作っていた。それを何ともなしに凝視してみる。
「相模さぁ」
「……何ですか?」
いざ横になると菖蒲さんの方に向き直るのも億劫になってしまって、俺は薄く目を開けて仰向けのまま答えた。
「潮ちゃんの飴、詰まらすなよ。窒息するぞ」
「もう無いですよ」
「ま、ある意味幸せではあるよな」
「どういう意味ですか」
「そういう意味」
何を言わんとしているのかわかってはいたけれど、この人が茶化すにしては、ブラックジョークな気もする。いや、普段からこれくらい毒舌だったかもな。
「お前、潮ちゃん好きだろ」
しゅっしゅっと薬缶が蒸気を吐き出す音が聞こえる。それが何故か耳に心地よくて、意識の方もぼんやりしてきた。徐々に目を閉じる。
「……好きですよ」
だからきっと、何の抵抗もなく菖蒲さんの指摘を受け入れられたのかもしれない。いや、そもそもこの場では、隠す気なんてなかったのかもしれない。素直に認めるとは思わなかったのか、菖蒲さんは少しだけ驚いたようだった。
「藤野はさ、きっと好きだぞ。お前の事」
「……何となく、知ってます」
「お前らの仲裁なんて、俺はごめんだからな」
ひょっとしたら菖蒲さんは、この忠告がしたくて今日ここに来たのかもしれない。そんな変な方向に進んだ思考は、きっと熱のせい。でも、このまま熱が暫く下がらないといいと思った。何も自分で考えずに済むし、何も自分で壊さずに済む気がしたから。
ずっと心地よい距離感で居たいなんて子供じみた事は、流石に考えてるわけじゃない。それでも、藤野の傷つく顔を見たくはなかったし、犬塚に思いを伝えるのもまだ早計な気がしていて、ずるずるとここまで来てしまった。想いの種類は違えど、どっちも大切だからと言ってしまえば聞こえはいいが、ようはただ逃げているだけだ。
「わかって、ます」
耳に痛い言葉も苦しい決断も、半分意識が飛んでいるせいで、普通に受け入れる事が出来ているようだ。
不意に、コンロの火が消える音がした。お湯が沸いたのだろうか。菖蒲さんが動く気配がする。
「ちょっと一服してくるわ」
少し目を開けると、菖蒲さんがコートを背中に、玄関から出ていく所だった。外の冷たい夜風が、足元から忍び寄るように布団の上を滑って頬に当たる。一人になったんだとぼんやり感じながら、俺は眠りについた。
いくらヘビースモーカーと言っても、この寒い時期に外で吸える煙草の量などたかが知れている。身体が冷え切る前に、俺は相模の部屋へ戻る。薬缶の湯はまだ温かいままだった。思いの外短時間で戻って来たらしい。
湯呑を出そうとして、止める。何故こう、変な意地を張っているのだろう。
蓋を開けておけば、相模はとっとと飲むだろうとでも思っているのだろうか。恐らくは、飲み切れずに忘れられて、半分くらいが冷蔵庫の中で、カビてしまうのがオチだろうに。それとも本当は、そうなることを望んでいるのだろうか。
らしくなくドロついた事を考えて、俺は小さくかぶりを振る。
「相模、やっぱ柚子茶いいわ。湯はポットに入れときゃいいよな」
返事はない。
寝たのだろうと思ったが、一応様子を見に行く。案の定。まだ若干顔色は悪いが、来た時よりはましだろう。来週までには全快する気がする。
それなら来週、俺の周りで変化は起きるのだろうか。
相模壮真と言う奴は、変なところで堅くて真面目だから、きっと今日の、病床のやり取りも真に受けて、考え抜いて動いてくるだろう。きっと犬塚は戸惑うだろうし、藤野は―表情にも出さずに悲しむだろう。想像して、半分強は辛い。残りはほっとしたり嬉しかったり。嫌な男だ。
アプローチに気づいてもらえないなんて相手は、確かに今、自分にはいない。まだその段階にすら、進めていないからだ。多分叶わないだろう想いを引きずって、一生懸命に嫉妬やもどかしさを抑えている藤野を見ると、先輩としてのアドバイスくらいしか、口に出せなくなる。今ですらいっぱいいっぱいのあいつに、これ以上外から力を加えたくないし、加えるべきじゃないと、懸命に思っている。
「呑気な顔で寝やがって。お前のせいなんだからな」
何となく八つ当たる。でも結局こいつも可愛い後輩で、恨むに恨み切れないのもまた事実だ。布団を肩口まで上げてやってから、電気を消した。時計は九字を回っている。
ドアを開けた。冷たい空気が吹き込んだ。部屋の中は暗くて、もう何も見えない。郵便受けに落とした鍵の音が、やけに大きく響いた。
好きだよと、さらりと言ってしまえたらどんなに楽だろう。相手の都合や気持ちなど考えずに直球で。そうするには、いささか自分は歳と恋愛経験を、重ねすぎてしまったのかもしれない。
もうすぐ春を迎えようというはずの夜空は、それでもまだ暗くて寒い。
早く帰ろう。
胸の中の何かまで、凍えてしまわない内に。
Fin.




