1
ある日、夫の不貞を偶然知った和音。
「なぜ……」
和音は何度も深呼吸を繰り返し、手を繋いで歩く二人の後を追った。
「こんなに近くに住まわせていたなんて」
二人が消えたマンションは、タクシーを使えば十分もかからない場所にあった。
しかも二人を見かけたのは、この街にある総合病院の産婦人科待合室だ。
夫は若い女をマンションに住まわせ、妊娠までさせていたということになる。
「落ち着かなくちゃ」
和音は、震える体を自分で抱きしめながら自宅への道を歩いた。
何度か交差点を渡ったが、信号を確認した記憶がない。
ハンドバッグの中をゴソゴソとかき回す。
いつもならすぐ指先に触れるはずのキーホルダーがなかなかみつからなかった。
「いつからなの?」
流し台の前に立ち、和音は誰にともなく呟いた。
水を飲み、ソファーに座る。
玄関ドアの方をじっと睨みつけながら、今にも叫びだしそうになるのを耐えた。
裏切られていたという事実が和音の胸を重くする。
「……」
何分くらいそうしていただろうか。
自分が息をしているのかさえ分からない。
「考えるのよ、和音」
そう口に出し自分を励ます。
サイドボードの上に飾っている写真立てに目がいった。
新婚旅行で訪れた北海道で撮ったものだ。
頬を寄せ合った冬也と和音が幸せそうに笑っている。
「相変わらずのペテン師ね」
和音が社会人となって二年目に、予てから交際していた山本冬也からプロポーズを受けた。
仕事が楽しくなってきた矢先のことだ。
和音は冬也に言った。
「あと数年は働きたいの。今は結婚できないわ」
冬也は頷き、その日はそのまま別れた。
数日後、冬也の母と名乗る女性から職場に電話がかかってきた。
冬也が仕事をやめて旅に出ると言い出したらしい。
「あなたのことは冬也から聞いていたわ。もう一度だけ話を聞いてやってくれない?」
冬也が嫌いだったわけではない。
しかし、プロポーズを断ったことで、二人の関係が終わるのなら、それも仕方がないと思っていた。
「もう戻らないかもしれないって言っているのよ。お願いだから」
母親の涙声に絆されて、会社帰りに行くと言ってしまった。
泣きながら荷造りをする冬也を見た時、この男は私がいないとダメなのだと思ったのだ。
「あの時きっぱり別れるべきだったのかもしれない」
そう声に出してみたが、自分の中の誰かが今更だとあざ笑う。
二回目の結婚記念日だった。
山本家で開かれた会食の席で、その話になった時、冬也自身が言ったのだ。
「あれは和音を引き止めるための噓だよ。会社を辞めて旅なんてするわけがない」
あの時自分はなんと応えたのだったか。
もう思い出すこともできない。
家族全員で笑い合った記憶はあるのだが。
「バカみたいね……私」
冬也への怒りよりも先に、自己嫌悪を感じた。
「いいわ。徹底的に暴いてやる」
そう言った和音は、携帯電話を握りしめる。
その金属の冷たさが、一瞬で焦燥感を鎮めた。
「電話なんて意味ないわよ」
今夜冬也は帰ってこない。
両親が経営している企業の経営企画部長を任されている彼は、毎週金曜に出張が入っている。
いや、今となってはそれさえも噓だろう。
今日がその金曜日なのだから。
和音は冷蔵庫を開けて缶ビールを取りだした。
銀色の缶がやけに軽薄に見える。
どんどん冷静になっていくことに、和音は自分で驚いた。
ここで乗り込んで、すべてを白日の下に晒しても溜飲はさがらない。
写真立ての横に置いてあるデジタル時計がカチリと鳴った。
そして翌朝、和音はネット検索した調査会社を比較して、実績がありそうなところを選んだ。
アポを取りその会社へと向かう。
状況を説明すると、徐々に心が整ってきた。
そして数日。
何も知らない振りを続けている和音のもとに、面白い情報がもたらされた。
その女「安藤小夜子」には、夫以外にも男がいたのだ。
金曜と土曜だけ通う夫と、火曜日には必ず泊っていく男。
そしてその男にも家庭があるらしい。
「すごい女ね」
小夜子の腹の子がどちらの子かはわからないということなのだから。
その事実が、和音の心の中に得体の知れない何かを植え付けた。




