第0話 俺の努力には、名前がなかった
はじめての投稿です。お手柔らかに。
26/07/23 修正
高城直人が死ぬ三時間前、彼の名前は、また報告書から消された。
「今回の生産効率改善については、工場長の適切な指導による成果で――」
朝礼台の上で、課長が得意げに話している。並んだ従業員たちは、眠そうな顔で拍手をしていた。直人も、周囲に合わせて手を叩いた。
三か月かけて機械の動きを調べ、作業工程を見直し、不良品が出る原因を一つずつ潰したのは直人だった。工場長は、完成した報告書に判を押しただけだ。それでも、表彰されるのは工場長で、直人の名前はどこにもない。
「高城さん、大丈夫ですか?」
隣に立っていた後輩の青年が、小声で尋ねてきた。
「何が?」
「いや……あの改善案、高城さんが作ったんですよね」
「会社の成果になったなら、それでいいよ」
直人は笑って答えた。本心ではなかった。だが、怒ったところで何かが変わるとも思えなかった。
直人は二十六歳だった。大学には行けず、高校を卒業してから、この小さな部品工場で働き続けている。最初は、言われた作業すら満足にできなかった。機械の操作を間違え、材料を無駄にし、先輩から何度も怒鳴られた。
不器用だった。要領も悪かった。一度説明を聞いただけで何でもできる、器用な人間ではなかった。
だから、繰り返した。
誰よりも早く出勤し、機械の取扱説明書を読んだ。休憩時間には廃材を使って練習した。失敗するたびに、小さなノートへ原因を書いた。
手の位置。力の加減。機械が発する音。温度による金属の変化。
一度で覚えられないなら、十回やる。十回で足りなければ、百回やる。そうやって直人は、少しずつ仕事を覚えた。気がつけば、新人を指導できる程度にはなっていた。
しかし、給料はほとんど上がらなかった。役職もつかなかった。
学歴がないから。資格が少ないから。上司に気に入られていないから。
理由はいくつも聞かされたが、結局は同じだった。
どれだけ働いても、直人の価値を決めるのは直人ではない。会社が決める。上司が決める。紙に書かれた経歴が決める。努力は目に見えない。だから、最初からなかったものとして扱われる。
「高城!」
朝礼が終わると、課長が直人を呼び止めた。
「三号機の調子が悪い。昼までに見ておけ」
「先週、部品交換の申請を出しました。あのまま動かすのは危険です」
「交換部品は高いんだよ。まだ動いてるだろ」
「ですが、圧力計の数値が――」
「言い訳する前に仕事をしろ」
課長はそれだけ言うと、さっさと事務所へ戻っていった。直人は小さく息を吐いた。何を言っても無駄だった。けれど、壊れると分かっている機械を放置することはできない。
三号機の前では、先ほどの後輩が作業をしていた。
「止めよう」
「でも、今日の分が終わらないと……」
「壊れてからじゃ遅い」
直人は機械の電源を落とし、内部を確認した。嫌な音がしていた。金属が擦れる、低く鈍い音。何百回も聞いた正常な駆動音とは明らかに違う。
直人はすぐに内線を手に取った。
「三号機を停止します。全員、周囲から離れてください」
『勝手なことをするな!』
受話器から課長の怒鳴り声が聞こえた。
その直後だった。
三号機の内部で、何かが弾けた。警告灯が赤く染まり、工場内に甲高い音が響く。圧力計の針が限界を振り切っていた。
「逃げろ!」
直人は後輩を突き飛ばした。金属製の部品が弾け飛び、壁に突き刺さった。作業員たちが悲鳴を上げながら出口へ殺到する。
だが、このままでは終わらない。三号機の隣には、可燃性の洗浄液が保管されている。圧力が抜ける前に火花が散れば、工場全体が巻き込まれる。
非常停止装置は機械の裏側。そこへ行くには、暴れる三号機の横を通らなければならなかった。
直人は走った。
正しい手順は知っている。何度も訓練した。
安全確認。主電源の遮断。補助電源。圧力弁の解放。
考えるより先に、身体が動いた。
一つ。
二つ。
三つ。
最後の弁へ手を伸ばす。
背後で、金属が裂ける音がした。
強い衝撃を受け、直人の身体が床へ投げ出された。息ができなかった。遠くで誰かが自分の名前を叫んでいる。
それでも、機械の音は少しずつ弱くなっていた。圧力は抜けた。爆発は起こらない。みんな、逃げられた。
直人は床に頬をつけたまま、ぼんやりと思った。
結局、最後まで損な役回りだった。
評価されず。
報われず。
誰かの失敗を片づけて終わる。
こんな人生は嫌だった。
努力すれば、必ず報われるなんて思わない。そんな都合のいい世界がないことくらい、知っている。
それでも。
努力したことまで、最初から存在しなかったように扱われるのは、あまりにも虚しかった。
次があるなら。もう一度、生きられるなら。
誰かが決めた価値に従うだけの人生は嫌だ。弱いと言われてもいい。才能がないと笑われてもいい。何度失敗しても、自分で選び、自分で進みたい。
自分が積み重ねたものだけは、誰にも奪わせたくない。
直人の意識が、暗闇へ沈んでいく。
音が消えた。
痛みも消えた。
身体の感覚も、なくなった。
……
――そのはずだった。
……
暗闇の中で、何かが脈打っている。
小さく。弱く。それでも確かに、生きようとしている。
どこかで、知らない女の声が聞こえた。
「お願い……生きて……」
温かい何かに包まれる。肺へ初めて空気が入り、身体中に痛みが走った。
直人は思わず声を上げた。
それは言葉ではない。
生まれたばかりの赤子の泣き声だった。
まだ誰も知らない。その小さな魂が、いつか世界に定められた限界を越えることを。
そして本人も、まだ知らなかった。
この世界では、努力にさえ階級がつけられるということを。
むずい。




