足 ~インターミッション~
弱味は強味!
疎開先ではお寺にお世話になった。
男子と女子は別れて眠った。
鬼のような先生がいて、なんでもないことで殴られた。
今思うと、あの男の人は先生だったのかどうかはっきりしない。
引率者だったのか、それとも疎開先に住んでいた誰かだったのか
、覚えていない。
愉快だったのは、誰もがその人をコンチクショウと思っていたようで、
大人になってからの同窓会では皆が皆その人と話さなかった。
その人はさすがにしょんぼりしていて、その姿を見たら、この人も大変だったのだなと思った。
俺は体が大きかったから、疎開先では人の二倍働かされた。
と、思う。
鍬も、稲藁も、薪も、お前は大きいのだからと多く持つはめになった。
確かに俺は体が大きくて色白で力もあったから、浅草から一緒に疎開した裕ちゃんなどは、俺のことを「白くま」と呼んだ。
だからといって人の二倍を持てるかというと、そんなことはないのではないか。
おなかは、いつでも空いていた。
食事は頂いていたし、土地の人からの好意で野菜などをもらい受けることもあった。
だけど11才だった俺はいつでもおなかが空いていた。
空を見ると雲が流れて、オムレツやラーメンやハヤシライスや……
雲をごちそうに見立てて友達と遊んだ。
俺たちは子供だったから、おなかが空いても悲壮感はない。
笑いながら皆で雲を見て、腹へったなあ、食べたいなあ、と言い合った。
お寺の近くに赤紫蘇が植わっていて、俺はその葉をいくつか採った。
腹の足しになるか?
干して、手で揉んで粉にする。
それをご飯にかけた。
何となく、満足したような気がする。
そう思うことにした。
今頃、家は、どんなだろう。
電車の線路に硬貨を乗せて、薄くペラペラにしたな。
怒られたな。
貸本屋の本は無事だろうか。
サンソ屋のおにいさんは無事に帰ってくるだろうか。
舗装道路、懐かしい。
店の反物は、また売ることができるだろうか。
そんなことを時々思い出しながら、日々を過ごしていた。
三月。
中学校に入学する年の子供は一旦、家に帰ることになった。
その時、俺はなぜだか、母親の足を思い出していた。
ひとつ上の学年の諸兄たちが帰る先には、俺の母がいる。父も。
母の足の親指は、小指側に向けてくの字に曲がっている。
あの足で、はやく走れるのだろうか。
教会の中は人でいっぱいだ。
逃げて。
コンクリートだけど危ないんだ。
川もだめだ。
逃げて。
逃げて!
おかしな夢を見た日から数日経って、俺たちの住んでいた町は空からの爆撃で焼かれた。
壊滅的だと聞く。
これまでにも何度も、何度も、空からの攻撃があった。
だから俺たち子供は疎開した。
母は、父は、無事だろうか。
貸本屋は、電車は、皆は。
あれからもう、ずいぶん経った。
母は無事で、父も逃げきった。
上野の入谷辺りは焼けなかった。
浅草は焼けた。
いろいろ、あった。
今では俺も年を取り、父よりも長生きだ。
母ほどは生きないだろう。
白い天井がぼんやりと目に入った。
母の足を思い出す。
曲がった足の指。
今ではそれを外反母趾と呼ぶと知っているが、子供のときは勿論知らない。
明治に生まれて、下駄草履で歩いてきたはずなのに、なぜ指が曲がるのか俺にはまるでわからない。
俺の娘達も外反母趾だから、これは遺伝かもしれないと思っている。
足の指を曲げる。
母の、娘達のようすを見ていると、まるで目的があって曲げているように思えた時があった。
何故曲げる?
ここから動かないために。
東京から離れたくないために。
なるべく離れられないように。
ばかな、とは思う。
だが、不思議と、その仮説は自分を納得させるものだった。
ああ、もう、そろそろか。
傍に父母がいる。
晴れやかに笑っていて、ありがたい。
サンソ屋のおにいさんもいる。
裕ちゃん。
妻も、微笑んで立っている。
白い天井は円く光り、俺の目の前に寄ってきた。
俺は帰るのだ。
……ああ、俺だ。
疎開先の俺がいるじゃないか。
円い光の中に11才の俺がいて、手を伸ばしている。
ずいぶん笑っている。
“来なよ。そら、あそこの山はきれいだよ。
なんにも楽しいことしなかったろう?
一緒にいこうよ。”
そうだな。
そうすることにしよう。
娘達、もういいからね。
遠くに、どこまでもおゆき。
俺は少し遊ぶから。
そう言い終わると、天井の円い光は俺を包み込んで浮いた。
ゆこう。
どこまでだってゆこう。
ずっとずっと先に、会いたい人がいるんだ。
円い光の中から声がして、遠ざかる景色、娘達、俺。
旅もいいもんだな、そんなことをふと思いながら、
円い光の中を俺は歩き出した。
さあ、ゆこう!




