第四戦 居場所
この物語は、十三歳(中学生)の橘スズちゃんが、パイロットとしての存在を自問しながら、平和維持組織のノヴァ日本支部の室長の青年や、パイロットたちと協力する話です。
その施設の一室に、低い洗濯機のような、ゴウンゴウンッ、というポンプの循環音と、ごぼぼっ、と、何かの液体の音が響いている。
この場所は、ノヴァ日本支部の最下層——地下三十階だ。
その施設内で、白衣姿の女性は落ち着いた声をかける。
林サクラだ。
「ユキ、今日はこれで終了だよ。お疲れさま」
しかし、今日の彼女は、上下着脱可能な紺色つなぎ服に桜色のジャンパーではなく、暗灰色のオペレーター服に、白衣を羽織っていた。彼女なりに、この重要な場所を汚さないように気を遣っているのだ。
ユキは、薄赤い色のCPOの中で、ゆっくりとまぶたを開ける。彼女は今、人が一人入れそうなガラスケースの中にCPOとともにたゆたっているのだ。
サクラは、酸素ガスを抜くために壁のボタンを押す。
「そういえば、久しぶりだよね。ここに来るのも」
サクラは、ガラスケースから出てきたユキに術衣を渡した。
ユキはうなずいてから、渡された淡い緑色の術衣に着替える。
(CPOは、命が消える音をしてる……)
CPO——正式名称、パイロット専用酸素ガスだが、酸素ガスにするために気化する前は、液体となって冷やされている。
透明な円柱のガラスケースが、中央にある。
その上からは大量のケーブルが中央のそれにつながっている構造で、壁にはボタンがひとつだけあった。それはいわば、ユキ専用のガラスケースと言ってもいいだろう。
ユキがうつむく。
彼女の長い白髪から、CPOが床にポタポタと滴り落ちる。彼女の頬にかかる、くるりと巻かれた白髪の毛先からも、それが滴り落ちた。
(私は私……でも、時々わからなくなる。リリム、あなたはもう一人の私)
彼女はほかにも、ずらりと並んだガラスケースを見る。
そのひとつの下には〝No.5〟と刻印されたラベルがガラスケースに貼ってあり、そのCPOの中でたゆたっている人型を、ユキはじっと見た。
だが、たゆたっている人型は、まぶたを閉じたままだった。しかし、その外見は、まぶたを閉じていると、まったくユキと同じと言っても、過言ではないのだ。
ユキは赤い瞳で、ガラスケースの中をたゆたう〝No.5〟を見つめた。
(命が消える……。私が? それとも、五番目の娘が?)
アオはその壁の向こうで小さくため息をついた。背は冷たい壁に付けたまま、何か考えにふけ込むように腕を組んでいる。
その顔は、眉をひそめた険しい表情だ。
(この場所は、ショウが司令だったときはなかったはすだ)
少年が脳裏に浮かべたのは、三十路で、たばこをふかす家内ショウ前司令だ。
彼は唇に、左手の曲げた指を当てる。
(……とすれば、やはり、この大掛かりな計画の立案者は、アカネか)
アオの脳裏にあるのは、人類再生計画だ。現在、彼が知っていることは、〝真白ユキ〟を使って、四人のうちのパイロットの誰かのウーゼを何かの儀式にかけること。
もちろん、アオもユキも儀式にかけられる場合もある。
だが、一番可能性が高いのは——。
アオはその考えに至ると、ため息をつき、唇を噛む。
(橘スズか)
シャワールームに移動した二人は、仕切りを境にして、しばらく何も言わなかった。
アオもその、シャワールームの近くにいる。しかし、サクラが気づかなくとも、ユキなら尾行している彼の存在を感じているはずだ。
なのに、なぜかユキは、何も言わなかった。
ただ、ユキがほんの一瞬、後ろを見た際、アオは急いで、廊下の曲がり角に自分の体を隠した。
だが、最初に、ベンチに座っているサクラが口火を切った。
「ねえ、ユキ?」
ユキの足元には、百円玉くらいの穴がいくつも空いた鉄板から、シャワーの水とともにCPOが流れ、排水口に、ごぼりっ、と吸い込まれていく。
サクラはカルテを書きながら、いくつか質問をする。
「体の調子はどう?」
ユキは、シャワーの蛇口をキュッと閉める。
サクラは質問を続ける。
「意識と行動のズレはない?」
ユキは仕切りを開けると、そこにかけられたタオルで頭を拭く。
「私、いなくなったほうがいいと、自分から分離をさせたときがあった。五番目は、どういう行動に出るのかわからないけど」
サクラのカルテを書く手が止まる。
「そんなこと考えるんだね。彼女も」
「わかってるでしょう? 彼女は私のためなら、死もいとわない〝器の体〟」
ユキは自分の頭を拭いていたタオルを肩にかけると、彼女の隣に座る。
「でも、サクラ。あなたも優しい」
ユキはベンチに置いてある、裾が長いズボンと長袖に手を伸ばした。
サクラは驚いて、手を口に当てる。
「え? そうかな?」
「そう」
「ユキ。私、優しくないよ?」
ユキは、なぜ? というように、無表情の顔を向ける。
「私が未熟だったから、橘司令もナギサ主任も……カエデさんも救えなかったの」
「違う。それは——」
サクラは、ズボンを履くユキの話を遮った。
「本当のことだよ。ごめんね」
苦笑したサクラは話を変えて、着替えるユキに問う。
「ところで、スズちゃんたちと関わってどう?」
薄手の長袖を着たユキは、少し考えてから、ぽつぽつと話し始める。
「一緒にいると心が暖かくなる。もっとみんなと一緒にいたい」
彼女は、胸の前に片手を置いた。
サクラは微笑んでその手をとる。
「それは本当にすてきだね。よかった」
ユキは赤い瞳で、その手を見つめた。忙しいときでも丁寧にハンドクリームを塗ってある、細い手だ。
「よかったといえば、今日は旅行。サクラ、私の代わりに楽しんできて」
サクラはニコッと口角を上げて、ユキとつないでいる手を振った。
「何言ってるの? ユキさんも行こうよ。中国!」
今日のスズたちは、エンジェルせん滅戦のために中国に向かうのだ。
ユキはちょっと驚いてから、首肯した。
「うん。私も楽しみ」
医務室に戻った二人は、互いに向き合って座る。
サクラは、透明な液体が入っている注射器を手に持ちながら言う。
「じゃあ、腕を出してください」
ユキはすでに、薄手の長袖と裾が長いズボンに着替え終えていた。
彼女は、サクラに右腕を差し出す。右腕はカエデより白く、また、太さが細い腕だ。
注射針が彼女の腕に刺さり、中の透明な液体がユキの腕に入っていく。
「はい、終了。ありがとう」
サクラは少し微笑むと、注射器をトレイに置いて、パーソナルコンピュータに検査結果を入力し始めた。
ユキは、その背中を、ぼんやりと見つめている。
打たれた薬剤の影響で少し頭がぼんやりとするユキの脳裏では、出会った頃が思い出されていた。
しかし、ユキの想起は途切れた。
「——サクラ」
サクラは、彼女に背を向けて、パーソナルコンピュータのキーボードを打ち込んでいた。
しかし、彼女はその手を止め、ブルーライトカットの丸眼鏡を外すと、白衣の胸ポケットにそれを入れた。
「ん? どうしたの?」
「夢って、何?」
普段、彼女からはそのような言葉は出てこない。
サクラは、ふーむ、と、顎に手を当てながら答える。
「そうだね、大体、五十三パーセントの人が夢を見ているけれど……」
彼女は、人差し指を一本立てた。
「たとえば、楽しい夢や悪夢、過去の思い出も夢に出てくることがあるんだよ。
でも、なんで、急に?」
「夢……何かわからないけど、心が暗くなるものを見たの」
「それ、聞いてもいいかな?」
ユキはうつむき、あまり思い出したくない夢の一部を思い出していた。
彼女は、左腕の肘の辺りを右手でつかむ。その顔をうつむかせ、唇を真一文字に引き締めていた。
だが彼女は、ふと、医務室の自動扉を見た。
「主任。彼と話をしたいです。すみませんが、二人きりにしてもらえませんか」
「彼? 室長のこと? でも、今日も指令室に詰めてるんじゃ……」
山田ハルトは、十六歳の青年だが、ノヴァ日本支部の指令室室長として、日々職務を全うしている。
今日も、彼は、職場である指令室にいるはずなのだ。
「一色パイロットです」
サクラは、ユキからその名を聞いてためらった。
ユキとアオが二人きりになるという状況は、何が起こるかわからないからだ。
「私、外で待っててもいいかな?」
サクラがこう問うと、ユキはうなずいた。彼女は、サクラに問い返す。
「サクラは心配してくれるの? それとも、恐れているの?」
ユキがそう彼女に問うと、白衣を着ている彼女は、唇を軽く噛み、顔を伏せていた。
「両方だよ、ユキ。ごめんね」
サクラが医務室から出ていくとき、ユキはつぶやいた。
「私には謝られる権利はない。それに、私が誰かに謝る権利も」
小さく驚いたような顔をしたサクラと入れ替わるように、アオが医務室に入ってきた。
アオは無遠慮に、サクラが座っていたキャスター付きの丸椅子に座った。
「なんで、主任に言わなかったの? 僕が着いてきてるって」
ユキはパイプ椅子に座っていた。
彼女は行儀がよいので、もろ手を裾の広いズボンの太もも辺りにそろえているが、今は、ズボンの生地を細い指先でつかんでいる。
「言わなくてもいいって思ったから。それで? 私に何か用?」
ユキが少しいらだったように問うと、アオは話を切り出した。
「あの地下は何?」
しかし、目の前の白髪を持つ少女は、口を閉ざしていた。
だが、彼女は、厚さの薄い唇を開いた。
「——言えない」
アオは一応、彼女のそんな答えを予想していたが、思わずため息が出る。ごめん、という気持ちをあらわにして、彼は目で訴えた。そして、今度の彼は、優しく問いかけた。
「どうしても言わないつもり?」
彼は彼女の顔を覗き込むように見るが、赤い瞳は床に落ちたままだった。
アオは一瞬だけ、彼女の瞳を美しいと思ったが、その思いは、瞬く間に彼の中を過ぎ去った。
次に、アオは、ユキが口を開くであろう相手の名を言った。その名を言えば、ユキが自分の質問に答えてくれると思ったからだ。
「スズが関わっているとしても?」
そこで、アオは、ハッと目を見開いた。
彼は、ユキに壁際に追いやられ、彼女に薄い黄色いパーカーの襟をもろ手でつかまれたからだ。
しかし、彼にとって意外だったことは、スズの名を出した途端、ユキが自分の襟首を両手でつかんだことだ。
ユキは自分に首をつかまれ、少し苦しそうなアオに、淡々と問いかける。
「あなた、どこまで知ってるの?」
アオはユキに対して、こんな激情を持っていたのか、と、心の中で驚いた。
普段の彼女は、おとなしくて物静かだが、何かが彼女の琴線に触れると、彼女は怒りをあらわにするのだ。
今は自分が計画を知ったこともそうだが、一番の要因は、スズの名を口にしたことだろう。
アオはそれを知ってか知らずか、手の力を緩めた彼女に答える。
「カエデの失踪事故にアカネが影響されて……その彼女が、君とパイロットの誰かを巻き込んだ、なんらかの儀式を行うとしか」
アオは、自分を見上げる赤い瞳に気圧されると、小さく唾を飲み込んだ。
今の彼女は、彼にとって恐ろしい存在だったのだ。
「あとは、〝僕たち〟がエンジェルにとっては裏切り者だということ。それはユキさんもわかってるよね」
今のユキを、おそろしいと感じたアオは知らないが、ユキは自分の価値を「無力な人間」と考えている。それは、彼女が、楽園から追放されたときに、彼女自身が感じたことだ。
「あなたは何も動かないで。人類再生計画は私が責任を負う」
彼女の冷静な声は、平常の彼女とは違う、一種の感情を剥き出しにした彼女だった。
彼女の赤い瞳は、アオの黄色いパーカーに落ちていた。
神話では、黄色が「裏切り者」の色として扱われている。
特に有名な作品はレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』だろう。イエス・キリストが処刑される前夜、十二人の弟子たちととった夕食のシーンを描いた巨大な作品だ。
先ほど、アオが言った裏切り者の中で、「僕たち」と彼が言ったのは、「裏切り者」の色のパーカーを着ているアオだけではなく、目の前の白髪の少女もそうだからだ。
ユキはまた、床に赤い瞳を落とした。
ユキ自身にはわからなかったが、目の前のアオには、彼女が厚さの薄い唇を歪めていた表情をしていたことがわかった。
「だから、邪魔をして計画が破綻すれば、それで全てが終わる」
しかし、残念ながらアオには、彼女が悲しいのか、悔しいのか、それとも怒りを抱えているのか、彼女の感情を推し量ることができなかった。
ユキは依然、アオの黄色いパーカーの襟をもろ手でつかんだままだったが、突然、その顔を彼の胸にうずめた。
「彼女の人生も、関わった友人も終わるの。これ以上深入りしないで、アオ。あなたは、何も知らないままでいて」
彼女の行動に驚いたアオは、その顔をおくびにも出さなかった。だが、彼は、心の中で否定した。
(無理だよ。ユキさん……)
「じゃあ、ユキさんは、また僕がいなくなってもいいの?」
その問いに、ユキは迷っているように口を閉じた。彼女は、厚さの薄い唇を軽く噛んでいる。
彼女の脳裏には、楽園の大樹が轟音をたてて倒れる様と、番人の冷たい突き放した言い方がありありと蘇っていた。
番人からもらった黒紫色の槍も——。それは、彼女が、〝原罪の力〟を行使するときに出現させる槍だ。
そして、彼女はそこまでを思い出すと、ふるふると力なく、首を横に振った。
「悪いのはあなたじゃない。蛇なの」
「彼はずる賢いやつだよ、ユキさん。そうだっただけだよ。なのに、君は、あの場所から追放された」
アオは、君は追放されなくてもいいのに、というように言った。
ユキはひとつ息を吐いてから、首を縦に振る。
「私の〝原罪の力〟は、その前に身につけたの。……でも、わからない。どうして、この力が私に備わったのか」
彼女はまぶたを閉じたが、その光景は、土ぼこりが舞う地面と、自分の手にに目を落とした風景に見えた。
ただ、現在の彼女と違っていたのは、その自分の柔らかく、細い手が赤く濡れていたことだ。
血だ。赤錆色のそれが手のひらについていることは、彼女自身わかっていた。
それは自分が、幾多の犠牲者を出した、という明示だ。
赤黒い血の濃厚な鉄の匂いは、嫌でも、彼女の鼻の奥についた。
アオの声は、そんな光景をまぶたの裏に浮かべていた彼女の心を解きほぐすようだった。
彼の声は優しい。そして、彼の声は、ユキを諭すように言う。
「でもさ、考えてみれば、僕たちのこの強大な力は護るためにあるんだよ。要は使い方しだいさ。
大切な誰かを護るために、僕たちはこの力を得た。そう考えればいいじゃないか、ユキさん」
アオは笑顔を作ると、薄手の長袖を着るユキの手首を優しくつかんだ。そして、その柔らかく細い手を、そのまま握った。
まるで彼は、眼前の彼女の不安を取り除こうとしているようだった。
ユキには、その不安を僕に教えてくれるかい? そしたら、僕が受け止めてあげるよ、と、彼が言っているような気がした。
ユキの片手はアオの襟をいまだつかんでいたが、彼女はそのまま、こくりと、うなずいた。
同時刻。
指令室にいるハルトは、いつもどおり背もたれ付きのワーキングチェアに座り、背伸びをしていた。
先ほどまで、大量のファイルに必要事項を書き込めるだけ書き込むと、パーソナルコンピュータにも、過去の書類データを打ち込んでいた。
自分の首を回したり、肩に手を当てたりしているところに、女性オペレーターが話しかけてくる。
「室長、お疲れ様です。このファイルは、私が運んでもよろしいでしょうか?」
「ん、ああ。林オペレーター。頼んでもいいか?」
彼女は、了解です、と首肯をする。すると、まとめられていない肩までの茶髪がふわりと揺れた。
彼女の両手に、手書きで書き込まれたファイルが収まった。
「室長。点検行ってきます!」
サクラが敬礼をすると、ハルトはうなずいた。
「ああ。よろしくな、サクラ」
サクラは名前で呼ばれると、ますます口角を上げた。
「はい!」
「あ、それから、ジェット機のチケット忘れるなよ? ミョング議員が手配したくれたんだからな。
なあ、そろそろ部屋に戻ったらどうだ? ここにいても疲れないのか?」
ハルトは横目で近くにいるカエデを見ると、学校から支給されたノート型パーソナルコンピュータで課題をしている。
しかも、カエデは、何冊ものファイルを机の端に置いていた。
その代わりに、机上にそれを置いている。
「いえ、別に。それに、部屋に戻るよりかはここのほうがいいもの」
カエデはパーソナルコンピュータの入力を一旦やめると、背もたれにかけてあった紺色の薄いジャンパーを着込む。
「ところで、涼しいというより寒気を感じるのは、あれのおかげかしら?」
ハルトは、下のデッキを眺める。
下のデッキには、支部の中心となっているフェイトの定期検診を、何人かの職員が行っていた。
「ディケーは異常なしです。次は、エウノミアの検診をしましょう。エイレネは——」
女性は周りにいたほかの職員に呼びかけられると、こちらを見上げる。
「室長? どうかされましたか?」
「いや、なんでもない。林主任。そっちの調子はどうだ?」
サクラは怒涛の勢いでウーゼの点検を終わらせ、落ち着いた声で答える。
「はい。本日も正常に稼働しています。異常はありません」
すると、彼女は、ハルトたちがいる二階の上層デッキに上がってきた。
彼女は、さっきまで着ていた白衣を脱ぐと、左腕にかけ、まとめた襟足の黒髪を整えた。
「整備点検、助かった。林主任」
彼女のぱっちりとした一重の目尻が下がる。
「いえ。室長に頼まれたので断れません」
再び、白衣を着た彼女は、愛想笑いをしながら謙遜をする。
「ですが、私ができるのはこういうことだけなので、あとは、ほかの方に任せているんです」
「助かったよ」
ハルトは、フェイトの検査結果の項目が羅列したチェック表を、サクラから受け取る。
本日、二十一日の日付が書かれたチェック表の片隅には〝チェック終了〟と、サクラの氏名とともに走り書きがされている。
ウーゼ開発研究主任のサクラは、ほかのオペレーターたちとともに、フェイトの整備点検を交代で行っている。
カエデは、ある設問で、パーソナルコンピュータのキーボードを入力していた手を止める。
「ハルト。どうしても、この熱膨張の問題が解けないの」
「ん? 天才は解けるんじゃないのか?」
カエデは、ハルトの質問に答える必要はないと判断したのか、ため息をついた。
その黒い瞳で、少し楽しそうなハルトを一瞥し、そのまま黙った。
ハルトは、ボールペンを左手で器用に回していたが、そのボールペンの頭をパーソナルコンピュータにさして、こともなげに言う。
「物体を温めれば温めるほど、熱により内部が膨張する。冷却すれば物体の内部は収縮する。これでいいか?」
ハルトは言葉尻に、少し挑戦的な微笑みを浮かべた。
「ええ。ありがとう」
ハルトは、避けられたファイルを指でさし、彼女に頼み事をする。
「なあ、そこのファイルを運んでくれないか?」
カエデは少しだけ、感嘆とも言えない驚きを小声で言った。
「珍しいのね」
ハルトはつけ加える。
「あの二人のこと、手伝ってくれないか? ほら、林主任だよ」
カエデは、内心ため息をついたが、それでも部下思いのハルトに従う。
「わかったわ。で? これは誰に運べばいいのかしら?」
カエデはファイルを手でさしながら、ハルトに問い返す。
「今、適任の人が来るよ」
ファイルを運び終えた、ウーゼ開発研究主任が、少し駆け足で戻ってきた。
「どうかしましたかー? 室長?」
彼女が紺色つなぎ服の上に羽織っている桜色のジャンパーが、風を受けてひるがえる。
「ほーら、林主任が来たぞ。カエデ。ああ、カエデが、ファイルを誰に運べばいいのかって言ってるんだ」
主任は、えへへっ、と笑って、直属の上司に問いかける。
そのとき、彼女の肩までの茶髪が揺れた。
「私が運びましょうか」
ハルトはうなずいて、サクラを灰色の瞳で見る。
「頼むな、サクラ。無理するなよ」
ハルトは、カエデのパーソナルコンピュータを引き取った。
「それに、これは俺がやっとく」
これとは、カエデが少し苦労していた課題のことだ。
林主任は、室長に応える。
「承知しました」
カエデは腕を組んで、ため息と、整った眉をしかめた視線をまたハルトに送る。
「これは、私が、自分で解かないと意味がないのよ」
そして、片手を上げ、わからないという仕草をした。
「あなたは、なぜそんなことを平気で言えるの?」
当の本人は、早速、カエデのパーソナルコンピュータを借りて課題をやりながら、のんきに問答を繰り返す。
「なんでそんなとこは、真面目なんだよ? あー、ここちょっと解くのに、時間かかりそうだなあ……」
ハルトが解いているのは、磁力の問題で、カエデは、またハルトを少し茶化す。
「そう、機械オタクね。あなた」
カエデは、ふっと少し微笑む。
「あれ、カエデさんが笑ってるー?」
主任のサクラが言うと、カエデはふいっと顔をそらす。
「かわいー。えへへっ」
なごんでいた彼女は、せき払いをする。
「あ、そうでした。室長。例の件に関してですが……」
ハルトは、カエデを横目で見る。
「そうか。例の件な、林主任。のちほど追って連絡する。一階に立ち寄るよ」
彼女は、もろ手を振った。
「いえ。室長はご多忙の中なのに、私たちのところに立ち寄るだなんて」
「いいだろ。ほら。終わったぞ。カエデ」
彼は続けて、課題の文章を打ち終わったパーソナルコンピュータを、カエデに見せながら説明し始める。
「この磁力の問題は、主題にある磁石の周囲の磁力を消してやればいいんだってさ。ほら、これだよ。これ」
パーソナルコンピュータのカーソルをクルクルと動かすハルトに、カエデが追及をする。
「では、その方法は何?」
ハルトは少し考えて唸り、今度はパーソナルコンピュータのカーソルを下に滑らせる。
「この主題の磁力より強力な磁力をぶつけるか、もしくは、磁力そのものを無効化する機械で周辺を固めればいいらしい」
俗に言うジョン・フレミングの左手の法則とともに、右手の法則もその回答に載せてあり、また、下にカーソルを動かすと、ハインリヒ・レンツの法則もある。
ほかにも、様々な歴史上の偉人が発見をした、電力や磁力についての解法が入力をされている。
カエデは感心するように口角を上げたようだったが、彼女は、またつけ加える。
「または、電流を流して磁力の向きを強制的に変える、とかかしら」
「確かに、それもあるな」
カエデは、ファイルに手を伸ばす。
「仕事を分担は彼女たちにとって効率的になる。そういうことでいいかしら? 室長さん?」
カエデは胸まで何冊かのファイルを持ち上げるが、それは予想以上に重く、少し顔を歪める。
「大丈夫ですか?」
すかさず、林主任が、カエデに触れない程度に手を伸ばして聞く。
「あ、ごめんね。カエデさん」
「いえ、平気よ」
カエデに言われた彼女は、少し気まずい表情になる。
カエデは、ぽつりとつぶやいた。
「あなたも、優しいのね」
だが、彼女は、何も言えなかった。
林オペレーターは話を変えて、カエデに話しかける。
「あの。そのファイル、私にくれないかな?」
カエデは珍しく、彼女をハテナマークが浮かんだ表情で見てから、机にファイルを置いた。
主任は、その重いファイルを支えながら、体勢をととのえる。
「よっと。これ、すごく重かったよね?」
彼女が羽織る桜色のジャンパーの裾も一緒に動き、サクラは、カエデにふわりと優しい笑顔を向ける。
「私たちをいつでも頼ってよ。カエデさん」
カエデは、口角を上げる彼女の笑顔、それに、行為を無下にはできないと思い、うなずいた。
カエデの携帯電話から呼び出し音が鳴る。
「? ちょっと持ってくれる?」
「あ、はい!」
彼女の目の前に、カエデの持っていたファイルが、ドササッ、と、さらに山積される。
だが、彼女は、少し高くなったファイルを見上げながら、上手くバランスを取る。
「おっと、ととと……。ふぅ……あっぶなー……」
両手が空いたカエデは、紫色の携帯電話を両手で包むように持つ。
すると、携帯電話の液晶画面に〈搭乗者回線〉と表示がされた黒と赤の画面を見る。
携帯電話の通話ボタンを、左手人差し指で軽く押す。
「はい。久遠です。今は室長に言われてファイルを運んでいました。そうです。それで、一体どうされましたか? ええ——」
サクラが心配そうに問いかける。
「カエデさん、大丈夫? 何か心配事?」
カエデは、携帯電話の通話ボタンをそのままにサクラの耳に当てる。
「あ、私に? はい。林です。司令! え、どうかされましたか? はい。
えっ!? わかりました! はい——はい。ご連絡ありがとうございます……はい。失礼します」
カエデは通話ボタンを押して切ると、彼女は、またファイルを持とうとした。
だが、その顔は、先ほどの穏やかな表情とは違い、ほんの少しだけ曇っていた。
林主任が、少し屈みながら問いかけた。
「ねえ、カエデさん、大変だよ。行ってみたら?」
その言葉をきっかけに、カエデは指令室の自動扉をふと見た。彼女は、去り際に机にファイルを置くと、どこかへ走り出した。
ハルトは、ウーゼ開発研究主任のファイルを二等分して、持ち運ぼうとする。
「室長。重くないんですか?」
「少し重いぐらいか? あ、もう一冊くれないか?」
「そんなわけには……」
「で? 例の件について聞いてもいいか?」
ハルトは、指令室一階への昇降機に向かう途中、彼女に尋ねた。
「0号機パイロットの件なんですが……彼女、〝五番目の娘〟と言ったんです。娘とはいっても、子どもの子ではなく、娘と書くほうです」
「それ、5号機パイロットを示唆しているんじゃないのか」
ハルトがそう重ねて尋ねても、彼女は首を振るだけだった。
「違います。彼女は、私のためなら死もいとわない、と、続けて言っていました。
とても、5号機パイロットを示すような発言には思えません」
彼女は、ハルトの顔をうかがう。
「まだ決めつけないほうがいい」
彼女は唇を噛む顔で、彼をまっすぐ見た。
「彼女が、〝器の体〟と言っていてもですか」
「なんだ? それ」
彼女は唇を噛んでいる。
「汐波司令に尋ねてください。あの人、隠し事が上手なので」
サクラは、汐波アカネが中学生の頃からノヴァ日本支部に所属している。なので、サクラは、昔から彼女のことを知っている。
穏やかな性格のサクラが、彼女のことを「あの人」と呼ぶほど、軋轢が深まったのかと、ハルトは司令に悔しさを覚えた。
最近、司令は、主任に何かを依頼しているようだった。
「そうか」
ハルトは唇を噛んだ。
「それと、一色パイロットがいろいろと聞き回っていますので、彼に尋ねてみるのも得策かと思われます。
それに、今度、室長に尋ねたいことがあるって言ってましたよ、彼」
「断りたいな……それ」
サクラ下唇を軽く噛んでいた。
「室長、大人っぽいと思ってましたけど、中身はお子ちゃまですか。ああ、そうですか」
「アオみたいなまねするなよ……ますます気が滅入る」
そして、ため息をついたハルトの懐の携帯電話が震える。
彼が折りたたみ式の携帯電話を開くと、うわさの張本人、アオからのメッセージが受信されていた。
「なんだ? あいつ……」
受信されたメッセージを彼が見ると、『計画』『真白ユキ』『橘スズ・可能性あり』という短いメッセージとともに『B30』『C5』『CPO』とのメッセージが一緒に添付されていた。
ハルトは『CPO』というメッセージがわかったが、それ以外の『B30』と『C5』という文字がわからなかった。
ハルトが、疑問のメッセージをアオに向けて送信すると、直ぐに帰ってきた。
『最初と真ん中のヒントはEだよ。室長だけじゃなくて、みんなも知ってる。普段はそれに気づかないだけで、ちゃんと存在する』
ハルトは心中複雑なままで、口には出さずに舌を打つ。
(ノヴァのコードか、それか、この日本支部のことか……いや、しかし、みんな知っているというキーワードが引っかかる……)
「どうしたんです? 室長? また、難しい難問押し付けられたんですか?」
「一色パイロットからだ」
「あっ……うわさをすればなんとやらですね、室長。彼がこれを?」
サクラは、逆八の字にした眉の顔を、彼の携帯電話を覗き込む。そして、彼女は、うーん、と唸る。
「『B30』はわかりそうですけど、『C5』がわかりませんね」
「『B30』わかるのか? 教えてくれ」
食い気味に尋ねるハルトに、サクラは、まあまあ落ち着いてくださいよ、とでも言うように、彼女は口角を上げる。
「室長。乗ったことありますよ。まあ、あれは乗り物みたいなものですね。行き先伝えなくても動きますし」
「ますますわからなくなった……だが、ヒントにはなった。ありがとうな、林主任」
ハルトは考え事をしながら、エレベーターに乗った。
(そういえば地下のことはBというな……B……B……B30——)
ハルトはハッと灰色の瞳を見開くと、エレベーターの昇降ボタンにかじりつくように見る。
彼は昇降ボタンに指をなぞる。
「B30……B30……」
このとき、幸い人がいなくてよかった。
このエレベーター内に誰か職員がいれば、この昇降ボタンを一心不乱に見る年若い室長は、白い目で見られただろうからだ。
彼は、目当ての『B30』になぞっていた指を添える。
「あった。ん? 『Cross《〝クロス〟》』?
クロス……コース……クロスなら交差する、コースなら——いや、待てよ、クロスにはほかに意味があったはずだ」
そこで、彼は、慌てて病院に行った〝天才〟少女に電話をかけることにした。何コール目かに、凛としたささやき声が聞こえてきた。
『もしもし』
彼女は病院にいるので、声を抑えているのだろう。
「今、時間大丈夫か? 聞きたいことがある。『B30』の『Cross』——シー、アール、オー、エス、エスだ。この意味って何かわかるか?」
「もしかしたら、『Cross』の意味は、『十字架』じゃないかしら?」
「交差するという意味もあるんじゃないのか」
ハルトが問うと、カエデはうなずく。
『ええ、それもあるわ。しかし、「十字架」は「イエス・キリスト」の復活、もしくは、〝神の子〟を差し出した「裏切り者のユダ」を示唆するわ』
「『裏切り者』は……」
ハルトは、そう言いかけてやめた。
まだ現時点では断定ができないし、なにより、彼自身、犯人探しはしたくなかったからだ。
『何言ってるの? 決まってるじゃない。アオとユキ……そして、私よ』
ハルトは灰色の瞳を見開いて、歯ぎしりしていた口を開くと、彼は、ほとんど叫ぶような声で怒鳴った。
「勝手なこと決めんな!」
カエデは凛とした声で、低く、そして少し早口で言う。
『ちょっと……ここ、病院よ』
彼は、ハッと気づくと、訥々と話す。あまりに突然のことに、彼自身も驚いたのだ。
「あ……悪い。じゃあ、ありがとな。また。ああ。ユキのこと頼む。じゃあ……」
ハルトは、やりきれない思いのまま、カエデからの電話を切った。そして、彼は、エレベーターの壁を握った拳で殴る。
「くそっ……」
歳若い室長は、先ほど、カエデに怒鳴るつもりはなかった。
しかし、「裏切り者」がカエデを示し、そして、彼女自身がそれを認めたのが、彼は嫌だったのだ。
彼は、カエデが「裏切り者」だと認めたくなかったのだ。
そうして、ハルトはエレベーターの壁にその背をつけたまま、ずるずると背を引きずるように座り込む。
彼は虚ろな目で、エレベーターの階数を凝視した。無我夢中だったので、何階を押したのか、彼自身覚えていなかったが、エレベーターが地上一階をさし示していたことにどこか納得と、相対する驚きを覚えていた。
青年が、地上一階の正面玄関から外に出ると、夏の暑い蒸気がアスファルト歩道から、むわむわと上がっていた。
まるで、彼は、蜃気楼を見ているようだった。それは彼の気持ちが、どこか夢心地だが現実感もある、また、彼がさまよい、落ち着きがない感じに思えた。
ハルトは街中の歩道の柵に背中を預けると、折りたたみ式の携帯電話を開いた。カコカコとボタンを押しながら、「メッセージの送り人」に連絡を返す。
『「B30」「C5」「CPO」。それぞれ、エレベーターの階ボタン、クロスを意味してる。でもって、「CPO」はそのままの意味をしてるんだろ?』
彼はメッセージの文章をここで区切ると、いったん彼に送信する。
『それと、カエデによると、クロスは「十字架」の意味があるらしい。クロスと関係ある情報かはわからないが、ここに載せておく』
彼はまた、携帯電話の決定ボタンを押す。
『地下三十階は、〝リリム〟の——』
メッセージはそこで止まった。
ハルトが、とある少年に声をかけられたからだ。
彼は走ってきたのか、息が切れていた。
「ああ、室長。もう探したよ」
「なんで、こんなところにいるんだよ? アオ?」
「それは、僕のせりふだよ……」
アオは、肩をがっくりと落とした。彼は黄色いTシャツを着ている。
「そのシャツ目立たないのか?」
「ああ、これ? 目立つよ」
「じゃあなんで、白とか黒とか紺色とか、目立たないシャツ着ないんだよ?」
「警告してるんだよ。毒を持つ動物と同じだね」
「そうか。『Cross』と『十字架』の意味には関係あるのか」
「僕は残念ながら、詳しくは知らないよ。ただ、〝彼女〟なら知っているかもね」
「——ユキか」
しかし、アオはニヤリと口角を上げる。
「ねえ、室長? あっちで何食べる? 小籠包? 麻婆豆腐? それとも、本場の餃子? 僕は、せっかくなら全部食べてみたいなあ」
ハルトは、アオの脇腹を軽くこずく。
「旅行かよ」
「まあね。そうだよ、室長」
「まあ、俺は、エンジェルとのゴタゴタを終えてから楽しむか」
そう言うと、ハルトは後頭部に組んだもろ手を当てる。
「何言ってるの? その前も楽しめばいいじゃん」
「だから、向こうに着いてもエンジェルが襲来してるかもしれないだろ?
もしくは、エンジェルが来てなくても、少し観光ぐらいはできるな。
けど、俺とサクラは中国支部の司令とパイロットに挨拶する仕事があるんだよ」
スズは、ダイニングテーブルで昼食を食べていた。
今日も、サクラは、ノヴァ日本支部の仕事で家におらず、ユキも、例の定期検査でそこにいるのだ。
学校には、サクラから休みの連絡が入っているはずだ。
だが、彼女は、部屋に突然響いた携帯電話の呼び出し音に驚く。
彼女は、味噌汁を飲んでいたが慌てて飲み込んでしまい、せき込んだ。
(電話?)
不審そうなスズは、リビングの小さな机の上にある黒色の携帯電話を取る。すると、その液晶画面には〈搭乗者回線〉という文字が表示されていた。
電話に出たカエデの声から、スズは、何かあったと感じたが、嫌な予感は当たった。
「あ、もしもし、カエデ。何かあった? どうしたの? うん。うん——えっ?」
内容を聞いたスズは、玄関の扉を急いで開けて走り、マンションの階段を駆け下りて行く。
スズは、諏訪市でも有名な中央病院にたどり着いた。
彼女は、その病室の扉を勢いよく開けた。番号は、227だ。
だが、そこには誰もおらず、空のベッドしかなかった。
スズは肩で荒く息をする。
「ユ……ユキは?」
目の前は個室だったが、白く柔らかなカーテンが陽を通しており、ベッドは布団が途中までめくり返されている。
近くの壁には、真白ユキの名札がかけられていた。
「今は身体検査をしているわ」
スズは、カエデの声がする方向を一瞥する。
カエデは、革製の長椅子に、右足を上に組んで座っている。
「スズ」
スズの瞳には、カエデのうつむいた顔が上がり、こちらを見たのが映った。
「カエデ。検査って……」
スズの言葉を遮って、彼女たちの近くの扉がガラリと開く。
すると、薄緑色のチェックが入った術衣姿の女性が移動式ベッドに運ばれて来る。キュラキュラ、と、キャスターの音が鳴る。
ユキのそばに着いてきた看護師は、病室のベッドに彼女を横たわらせてから、丁寧に会釈をすると、女性医師とともに去っていった。
「ユキ。よかった、無事だったんだね。心配したよ」
ユキは何も答えずに彼女たちを見たが、その目は、どこか遠くを見ているようだった。
(あれ、どうしたんだろう? まるで、出会ったときみたいだ……)
ユキが何かを話した。
「……い……」
「何? ユキ? 今、何を言ったの?」
スズは、ユキのほうに顔を向けると、彼女は、何か夢を見てるようなのか、泣きながら謝っていた。
「ごめんなさい。私のせいなの……私が…………」
(何を言おうとしてるの?)
スズの心臓が、ドクンッ、と嫌に大きな音を鳴らすと、彼女は水色のTシャツの上から胸の辺りをつかんだ。
病室の扉は静かに閉まった。
カエデはそれを見て、ピクリと反応した。彼女は、少し震える左手を抑える。
スズは顔をそむけたカエデに、急に手を引っ張られる。
「ちょっと、お願い」
(な、なんで急に? どうしたのかな?)
カエデのひやりと冷たい手に引っ張られるスズは、前を進む彼女に遠慮がちに問う。
「カエデ?」
(……言いづらいことなのかな?)
「スズ、行きましょう」
「うん、わかった」
やがて、病院の玄関の自動扉が開いた。
蝉の鳴き声と、昼頃になり、また一段と照りつける太陽のじりじりとした暑さが彼女たちを襲う。
(あっつ……はぁ……)
彼女たちのように、ただ立ち止まっているだけで、別に何もしていなくとも、だらだらと汗が噴き出してくる。
(暑い……)
一瞬、カエデは遠くにある海を見たが、ふいっと、視線を別のところへと向ける。
カエデの胸まである黒髪は、陽に照らされて輝いている。
彼女の端正な顔立ちは、どこか大人らしくも見えた。無表情の彼女の横顔は、頬に横髪がかかる。
細い体にまとう紺色の制服は、どこかのモデル雑誌のようだ。
彼女の上着の裾は、海風になびかれ、スラックスを見え隠れさせている。
今、その風でなびく横髪から、ちらちらと見える二重の瞳は黒い。だが、槍で射抜かれたときのような威圧感がある。
——そのときの彼女は、なんだか寂しそうに見えた。
(……苦手、なのかな?)
スズは、カエデが目をそらした海を見た。
昔は海も青かったらしいが、今は海の色も白くなっている。
その白い色は、スズが昔見た少女を思い出させた。
彼女はハッと息を飲み、うつむくと、自分を落ち着ける言葉を繰り返す。
(落ち着け……大丈夫だよ、あれは違う。だから、大丈夫なんだ……大丈夫……大丈夫……大丈夫——)
カエデは吐き捨てるように、眉をひそめる。
「本当に愚かよ。愚か……」
スズは深呼吸をして、自分の嫌な思い出を整理しようとした。
(やっぱり、まだ慣れないな)
スズは、彼女を無意識に見た。
だが、スズは、すぐに目をそらす。
パッ、パーッ、と車のクラクションがした方向を彼女たちは見ると、銀色のハイブリッド車が止まっていた。
ワイシャツ姿の女性が、車窓を開けた。
女性は、右手を彼女たちに振る。
「皆さん、乗ってください」
彼女は、穏やかな声を二人にかける。
「えっ? サクラさん?」
彼女は運転席から降りた。
「そんなところにいたら、熱中症になっちゃいますよ」
彼女は、いつも着ている桜色のジャンパーではなく、今日は黒スーツだった。
だが、彼女の体が引き締まっているように見え、よく似合っている。
「私、皆さんを迎えに来ました」
サクラがそう言った直後、カエデは、無言で車に乗り込んだ。
「え、ちょっ……」
置いていかれそうになったスズも会釈をして、急いでカエデのあとを着いていく。
スズとカエデは、銀色のハイブリッド車の後部座席にそれぞれ座った。
カエデは、ぼんやりと車窓を見ている。
(涼しい……)
スズは、クーラーが効いた車内で、少しぼうっとしていたが、ここまで迎えに来てくれたサクラにお礼を言うことにした。
「あの、ありがとうございます」
「ああ、いえいえ。気にしなくていいですよ」
のんきに話すサクラはルームミラー越しに、スズにちらりと顔を向ける。
スズは、隣をちらりと見る。
後部座席では、いつ間にか、カエデが、すやすやと眠っていた。
ユキは、カエデの左肩に頭を預けていた。
カエデの顔はうつむかせていて見えづらかったが、スズやサクラが耳をすませば、かすかな寝息が漏れる。
赤信号になると、車は一時停止をし、左に曲がるウインカーがチカチカと点滅をする。
サクラは横目でスズを見る。と、少女は、顔をうつむかせていた。
(カエデのことは言いたくないな……私にだって、言えないことはあるのに……)
信号が青になると車は進み出し、しばらくすると、今度は、サクラのほうから彼女に問いかけた。
「……スズちゃん、ここにはもう慣れた?」
スズは少し戸惑いながらも、自信なく答える。
「あ、はい。まだ、なんとなくですけど……」
サクラは、横目で助手席の内気そうな少女を見つめてから、前に視線を戻す。
「そうだよね。私もまだまだ慣れないよ。特に、この夏の暑さとか」
スズは、運転をしているサクラを見る。
「これから、支部に戻るんですか?」
サクラは首肯する。
「うん。そうだよ」
「あの……ユキは、どうなるんですか?」
途端にサクラの顔色は曇り、真剣な声になる。
「0号機パイロットは、地下に隔離をします」
「え?」
スズは、ルームミラー越しなカエデをちらりと見てから、少し声を落とした。
「隔離って……」
スズは驚いて、運転をしているサクラを見た。
肩までの茶髪。ぱっちりとしている茶色の瞳。彼女のまつ毛は、少し上を向いている。
鼻は小ぶりで、横顔のラインはなだらかだ。
口紅の色は、薄い桃色。きっと、彼女は、自分の名前に似ている口紅の色を選んだのだろう。
白いワイシャツは、ぱりっと糊で乾いている。
左手首には、おしゃれで細い革ベルトの、ピンク色の腕時計が締められていた。ハンドルを持つ左手には、結婚指輪はされていなかった。
サクラは隣で、心配するスズを諭すように言う。
「心配するようなことはしません」
だが、彼女は苦笑しながら、口ごもる。
「あの、サクラさんが言っていたリリムって、確か、ユキのもうひとつの名前……でしたよね?」
「うん。こういうの苦手?」
「苦手というか……その、あまり好きじゃないです」
サクラの口から出た言葉は、少し悲しそうな声の謝罪だった。
「ごめんね」
(え? どうして謝るのかな。サクラさん……)
スズはうつむき、車窓を見るが、すぐに目をそらした。
「いえ……」
「でも、あまり思い出さないほうがいいよ。スズちゃんが苦しいだけだから」
「それって、父さんと母さんのこと、ですか」
「……謝っても取り繕えないよね」
スズは奥歯を噛む。
「……サクラさんも、知ってるんですね」
「ううん。カエデさんも、室長も、司令も……みんな知ってるよ。だって、あの日のことは、みんな忘れられないんだから。私たちは助けられなかったんだよ」
(助けられなかった。前に、ユキにも言われたな……でも、どうして?)
「汐波司令は、もっとつらいですよね……」
スズはサクラの横顔を見る。その彼女の瞳は、なんだか悲しそうだった。
「司令、ですか?」
サクラは、すぐに、少し唇を噛みしめる表情をする。
「うん。司令は、橘司令とナギサ主任のことを慕ってたって聞いたことあるんだ。お二人のことを話されるときは楽しそうだったよ」
スズは少し気になったが、ぽつりと言った。
「そうなんですね……」
そして、彼女は車窓を見た。
「あ、ハルト」
彼女は黄色いTシャツを着た少年の隣を歩く、黒スーツ姿の青年を見る。おそらく、黄色いTシャツを着ているのは、アオだろう。
ハルトはアオに銀色のハイブリッド車を指をさされると、彼と一緒に手を振った。
「スズちゃん。それにしてもチャイナだよ。チャイナ。ねえねえ、何食べる?」
サクラは一瞬、スズに嬉しそうな顔を向ける。
「サクラさん。旅行ですか?」
冷静につっこむスズに、サクラは唇を尖らせて、腕を組んだ。
「ええ……スズちゃんは楽しくないの?」
そう問われて、スズは首を横に振った。
「いえ。楽しみですよ。海外なんて行ったことないので」
「じゃあ、楽しもうよ」
サクラは、また口角を上げた。
ほどなくして、車は、支部に移動する自動通路に到着する。
サクラはそこに駐車させ、車の鍵を回すとエンジンを止めた。
警報のブザーが短く鳴り、合成音声アナウンスが移動を告げる。
この自動通路は各駅停車をせずに直通し、約十分で支部内に到着するため、支部一同がよく使う通路となっている。
その最中は、ガタタンッ、ガタタンッ、と、時々、車体が小さく揺れた。車が自動通路を上っているのだ。
「これって、支部につながる移動用の通路なんですか?」
「あれ? スズちゃん、見たことなかったっけ?」
スズは、うなずいた。
「はい。初めてです。すごいですね。上に上ってる……」
サクラは、スズの肩をポンッと軽く叩く。
スズは彼女を見ると、サクラはまた口角を上げていた。
「新しいことに挑戦するのは、いいことだよ? 私、いつもワクワクするんだ」
スズは言いながら、申し訳なさそうに両膝に置いている行き場のない手を揉む。
「よくわからないので、すみません」
彼女はもろ手を振る。
「全然気にしなくていいよ。それに、謝らなくてもいいんだよ」
サクラは話しながら、スズを横目で見るが、スズの視線はサクラの指の長い手に注がれている。
彼女の手は、太ももの上で重ねられている。
なので、スズは、生活が乱れていても、仕事ができるというイメージを印象づける女の人だな、と思った。
サクラは話をいったん切ると、少し黙ってからまた、静かに話を切り出す。
「嫌なことでも悲しいことでもつらいことでも、そのことを忘れることはできないんだよ。でも、自分の心の中にそれは残る」
スズは、自分の落ち着きのない、もろ手に視線を落とす。
(…………)
サクラは無言のスズをまた元気づけるように、彼女の背に優しく触れる。
そのとき、金属音がすると、また短電子音の鋭い警報が鳴らされ、支部に到着したことを合成音声アナウンスが告げる。
「さ、着いたよ」
車を止められる大きさほどのレールに、二本の人が通れるレールが横付けされている。
「サクラさん、ありがとうございます」
サクラは、首を振る。
「ううん」
それから、彼女は唇の端を上げた。
「気にしないでよ」
彼女たちの前方にあるのは、金属の厳重な自動扉だ。
サクラは、スズと、起きたカエデとともに支部に向かおうとしたが、職員が自分の元に向かってきたので、二人に自分たちより先に行くよう伝えた。
カンカンと、金属のレールの上を歩く二人の足音が遠ざかっていく。
サクラは、少しの間、二人の少女の背を見つめた。
「あの、林主任」
医療班を担当する一人の職員が、サクラに遠慮しながら話しかける。
彼は低い声で話す。
「0号機パイロットの件なのですが……」
「その件は、病院で引き続き経過観察となります」
彼は首肯する。
「承知しました」
「カエデさん——2号機パイロットの様子はいかがですか?」
彼は、バインダーに挟めてある資料を数枚めくる。
そこには、2号機パイロットに関する資料が挟まっていた。
「2号機パイロットですか。何も変わった様子はありませんでしたよ」
「そうですか。ご報告感謝いたします」
「いえ。ただ最近、少し気になることを尋ねているみたいで……」
「気になること? と言いますと?」
彼はまた、手に持っていた黒いバインダーをに挟まっている資料を確認する。
何枚かめくったところで、手を止めた。
「2号機パイロットは、最近、5号機パイロットの様子を聞いているみたいです。
5号機パイロットは精神的に不安を抱えているので、心配でもしたのでしょうか」
サクラは、ニコリと微笑む。
「いいじゃないですか。心配したって」
「ですが……」
彼は言葉を詰まらせ、顔をうなだらせた。
サクラは珍しく、冷静に問いかける。
「他人と違うことが排他的なこと、言葉は悪いですが、邪魔に扱うことにつながるんでしょうか」
問いかけられた彼は、首を必死に横に振る。
「いえ。決して、私たちはそのようなことを言っているのでは」
サクラは一瞬、口を閉じた。そして、また、冷静な声で彼に答える。
「……そうですか」
「林さん、いくらなんでも子どもたちに、肩入れし過ぎではないんでしょうか?」
サクラはそれには答えず、誰にも気づかれないように、そっと、息を細く吐いた。
「私は、パイロットたちを気遣っていることにすぎません」
サクラは、それに、と言葉を継いだ。
「ですが、私には、あのウーゼが何を思っているのかすらもわかりません」
彼を含めた医療班の職員たちは笑った。
そして、再び、彼が口を開く。
「当たり前じゃないですか、主任。あんなロボットに思考があったら、たまげたものですよ。
それに、私たち人間のように感情まであったら、それはもう、ただの巨大な人間ってことじゃないですか」
「〝ウーゼは巨大な人間ではなく、パイロットの思考を反映するロボット。思考を反映するのは、そんなの、ただの人まねにしか過ぎないの〟……」
「誰です? そんなことを言ったのは? さては、人嫌いの2号機パイロットか、もしくは、0号機パイロットですかね」
また一同は、笑い飛ばした。
だが、サクラだけは、真剣な表情で前だけをまっすぐ見つめていたので、医療班担当者たちは、笑うのをやめた。
サクラは、奥歯を噛んでいた。
「さあ、そんなこと忘れました」
だが、彼女は、本当は覚えている。言われたときの記憶は、彼女の脳裏に残っている。
ウーゼ開発研究主任の橘ナギサだ。
サクラが以前、ウーゼについて問うたとき、ナギサが教えてくれたのだ。
ウーゼはロボット。パイロットの思考は、ただの人まねだ、と。
それにしても、と、医療班の一人が感慨深そうに言う。
「主任は中国に出張ですか。いいですね」
サクラは、少しゆったりと首を横に振る。
「いえ。作戦を遂行次第、すぐ戻りますから」
スズは、カエデに先導され、次々と厳重な扉を何十回と通る。
そして今度は、合流したサクラの案内によって支部内の廊下へと向かった。
すると、天井のスピーカーから、凄まじい警報が鳴らされた。フェイトの無機質な合成音声が流される。
『現在、警告レベル・レッド、非常事態避難勧告を発令中。住民の方々は、お近くの指定シェルターまで避難をしてください。
繰り返しお伝えいたします。現在、警告レベル・レッド——』
それは、諏訪市の地上を中心に鳴らされる。
フェイトの合成音声に続けて、オペレーターの無機質な声が告げた。
『総員戦闘態勢。繰り返す。総員戦闘態勢』
スズは驚きで目を見開いた。
「!?」
(行かないと!)
カエデは走り出し、スズも急いでそのあとに続いた。
スズは、閉まりそうな更衣室の自動扉を半ば手で押しのけながら、肩で息をする。
急いで制服を脱ぎ、インサートスーツに着替えると、エアーボタンを押す。
空気が抜けてインサートスーツが、彼女の体に沿った。
二人は廊下を走り、ケージへと向かう。
ノヴァ日本支部の指令室では、オペレーターの報告が飛び交っている。
そして、メインディスプレイにつながっているスピーカーから、女性オペレーターが日本語で報告する。
『現在、北京・北区の避難はあと二分で完了、南区は全て避難完了しました。東区はあと、三分ほどかかります』
男性オペレーターの声が、スピーカーから報告される。
『了解。パイロットとウーゼの接続を完了』
女性オペレーターの報告も引き続き入る。
『二号機の適合率は、三十二パーセントを維持。誤差は、〇・〇七です』
『CPO注入開始』
『2号機、起動』
凛とするカエデの言葉とともに、鈍い起動音がケージ内に響く。
固定された2号機は、激しく火花を散らしながら射出をされる。
凄まじい速度で加速をし続け、地上へと向かって行った。
その地上の上空には空輸専用のVTOが八枚の翼を激しく回転させている。
女性オペレーターが、スピーカーから再び報告をする。
『同じく、5号機の適合率は、三十三・二パーセントを維持。誤差は、〇・〇四です』
『CPO注入開始』
スズは唇を引き締めてから、言葉を唱える。
『ウーゼ5号機、起動』
鈍い起動音がケージ内に響き、固定された5号機は、激しく火花を散らしながら射出をされる。
凄まじい速度で加速をし続けた。
5号機が地上に着くと、開かれたディスプレイから、先ほどの女性オペレーターの声が聞こえる。
『最終安全装置、解除!』
5号機の肩や腰を固定していた装置が、バシュッと短い音をたて解除される。
2号機と5号機の二機は、VTOLの固定台に、ガシュコンッ、と固定される。
〈レベル・レッド〉と、ディスプレイが表示された。
それから、しばらくして、ノヴァ日本支部の一同は北京に到着した。
しかし、その途端、続けざまに突然開かれた2号機のディスプレイから、カエデの叫び声が聞こえた。
『——近寄らないで!?』
(え? 何!?)
「カエデ、大丈夫!?」
(何かあったのかな? 行かないと!)
地上を降ろされた5号機は、腰からナイフを装備すると、プロテクトをまとわせて、エンジェルの少女に突っ込む。
両手にナイフを持ち、差し込むような攻撃をするが、エンジェルのプロテクトで防がれた。
列車が急ブレーキをかけたような、高金属音が周囲に響く。
「このっ!!」
今度は、刃先を下に持ち替えたナイフを上に振り上げた攻撃を5号機がするが、ナイフの切っ先が、ギャリッと、プロテクト面で滑る。
なんとか切っ先を方向転換させて攻撃を繰り出すが、またもや、エンジェルのプロテクトで防がれ、高金属音が鳴り響く。
あとは、ナイフとプロテクトが拮抗するばかりだった。
(ダメだ! 防がれる! なら……)
急に開かれたディスプレイから、ハルトの声が聞こえた。
『追加分の武器は、五番コンテナに出した! それでいけるか!?』
(え、なんでわかったの!? でも、今はそんなことより——)
「了解!」
5号機が、左側の五番コンテナに出たライフルをガシッと手に取り、再び攻撃をする。
空の薬莢は容赦なく、自動車のフロントガラスを粉々に上から押し潰す。
エアーバッグがフロントガラスを白く包むが、意味はなかった。
2号機が細長い両刃斧を手に取ると、続けて、エンジェルに攻撃を仕掛ける。
風が逆巻いて、カエデはそれの攻撃を続けて、エンジェルに二撃目を喰らわそうとする。
その瞬間、甲高い声が聞こえた。
「危なっ! あー、びっくりした」
その声と同時に、赤いものが高速で移動していた。
2号機は続けざまに、両刃斧でエンジェルに攻撃をする。
巨大なそれは風を直上に巻きながら、コンクリート製のマンションや自動車をむなしくふたつにぶつ切りにした。
破片が周辺にさらなる破壊をもたらし、住宅はそれに巻き込まれ、屋根から潰れた。
電線はちぎれて、バチバチと火花を散らす。
都市部の火災被害の報告が、次々に、中国支部の指令室のメインディスプレイから通告されている。
それを聞いていた中国支部の司令は、悔しげに舌打ちを送った。
日本の若者たちが、早々と面倒を起こしているからだ。
彼は、男女二人のイン(銀)とジンジュ(真珠)パイロットを呼び出すと、早々に出撃命令を仰いだ。
しかし、黒髪の襟足が短く、いかにも中国と思える、ボタンが並ぶ様相の服を着ているインが動かないため、司令は怒りに駆られた。
二十歳のインは面白そうに、ノヴァ日本支部の客人たち(主にアオとハルト)を見て、それから、中国支部のディスプレイを見ている。
彼は二人に興味があるらしく、いそいそと近づいていっては何か話しかけていた。
ハルトは英語で話しかけると、
「言葉わかります」
と、インは日本語で、右手の親指と人差し指を狭めた。
「室長たちとは仲良くしとけって、俺は言ってるのに、議員と司令が許さないからね」
インがちらりと司令を見ると、いまいましげにこちらを見ていた。
「わあ……こわっ」
インは、大げさに両腕を抱いた。
それに対して、ジンジュは多少の懸念があったものの、インに従っている。ちなみに、彼女はインと同い歳だ。
ジンジュは薄紫色のTシャツにホットパンツという出で立ちだ。後ろでもろ手を組み、インを心配そうに見守っている。
インは、大丈夫だ、というように彼女に笑顔を見せる。
その光景を見て、中国支部の司令は帽子で蒸れた頭をかいた。
それきり、ジンジュは、ふらりとどこかに行ってしまった。
「どこ行くんだよ? ジンジュ?」
「0号機パイロットは?」
インは様子をうかがうように、ハルトを見る。
「現在、療養中です」
「じゃあ、日本に行く」
ハルトはぐっと言葉を飲み込むように、唇を一度噛んだ。それから、ふぅ、と、息を整える。
「ッ……申し訳ありませんが、それはおやめください」
「わかりました。では……」
ジンジュは司令から銃を強引に奪うと、アオに向ける。
「〝アダム〟をこちらに引き渡してください。議員は、日本支部にエンジェルのせん滅を望んでおられます。
私は中国支部のパイロット——ジンジュ・ミンですので」
そして、乾いた銃声が鳴る。
「一色アオ……人類の祖先気取りね」
床に倒れたアオは、背中に冷たいものを感じていた。
彼はごほっとせき込む。
ハルトはアオの肩を揺する。
「大丈夫か? おい? アオ!」
アオは口角を緩めた。
「ちょっと休ませてくれない? 室長……ていうか——」
アオはハルトに支えられ、よろめきながら立ち上がると唇から垂れた血を拭う。
「君も言ったじゃん。〝人類の祖先気取り〟だって。ああ、やめてよね? これ以上血で汚したくないし」
アオはジンジュに、降参とでもいうように手のひらを向けてから、うわ、と、自分の血にまみれた白いワイシャツを見る。
ジンジュは、ツカツカとかかとの低い革靴を鳴らして、アオに近づく。
「あなたの名前、漢字にすると、青——つまり、この白い海の色を本来の色に戻す改革者。そうなのですか?」
アオはくすりと笑った。
「ミン・パイロットは勘がいいね。ほら、僕を撃っても——」
そのとき、ゴトンッと、軽いが鈍い音が聞こえた。
あっ、と声を上げたのは、ジンジュだけではなかった。しかし、特に、ジンジュは驚き、茶色の瞳を見開いていた。
「嘘……でしょ」
アオがつかんだ銃の先が、バラバラに分解され、中国支部の床に落ちたのだ。
少年は少し口を開いていたが、眉を八の字にさせた。
「ごめん」
だが、ジンジュは、年下の彼の言葉を遮る。
「謝らないで。あなたたちは人間じゃない。気味が悪い」
「〝たち〟ってひどいなあ。ね? 室長?」
アオがハルトを見ても、灰色の瞳はジンジュを見つめていただけだった。
アオはため息をついた。
(それは、君たちも同じじゃないの? ミン・パイロット、それに、スウン(はやぶさ)・パイロット)
土ぼこりが天気のいい日に洗濯物を広げたように、ぶわっと舞い上がる。
エンジェルに避けられたカエデは、悔しげに舌打ちをする。
再び、エンジェルを、2号機ディスプレイのズームで捕捉し始めた。
本日のエンジェルは、赤いチャイナドレスを着ていた。
それを見たカエデは、なんとのんきなのだろうと、彼女を心の中で罵る。
エンジェルの服装に規則性はない。
また、なぜ彼女たちが人型なのかも、いまだにわかっていない。
たとえば、ワンピースを着ていたり、前回のように制服を着ていたり、はたまた、今回のようにチャイナドレスを着ていたりしている。
だが、彼女たちは遊んでいるわけではない。
人間——つまり、人類をせん滅するために襲っているのだ。
スズもライフルでエンジェルに攻撃をし続けるが、またエンジェルのプロテクトに阻まれる。
スズは肩で息をし、エンジェルに困惑しながらつぶやいた。
「き、効かない……」
その途端、鋭い刃物のような音が聞こえると、ライフルの銃先が簡単に切れた。
「うわっ!?」
スズが操縦桿を握っている手を手前に引く。すると、5号機はそれに応え、両手に持ったライフルを急いで手放す。
アサルトライフル銃が整然と並ぶ兵装ビルに、ウーゼのライフル銃の先が落ち、ビルごと斜めに崩れ落ちた。
5号機は、時々、地面に片手をつけるが、どんどん後ろの兵装ビルへと逃げていく。
ディスプレイ越しのハルトの声が、両機に聞こえる。
『カエデ! 援護頼む!』
2号機は持っていた両刃斧を棄てる。
ナイフを装備したとき、つながっているディスプレイから、またハルトの声が聞こえる。
『跳べるか?』
2号機はもう一方の手に腰から外したナイフを装備すると、立て続けに振り下ろす。
カエデの声も、2号機の外部スピーカーから聞こえる。
『ライフルも効かなかったのよ? ハルト。ほかの武器を手に入れたほうがいいのでは?』
『カエデなら、プロテクトを協力して破れる。そうだろ? 頼んだ』
またディスプレイから、ハルトの指示が聞こえる。
『スズ、三番コンテナの武器だ!』
「え? う、うん」
スズは急に言われて戸惑ったが、言葉尻に強くうなずいた。
「わかった!」
5号機が、右手側の三番コンテナから武器を取り出すとき、ポーン♪ と、高い機械音をたてた。新たなウィンドウが、シャコンッ、と開く。
それは武器の説明内容で、〈プログ・ソード燃焼終了——残り五十八秒——〉と表示される。
「え? 何? 燃焼終了?」
(何これ? この武器は初めて見るよね?)
ハルトの声が、ディスプレイから叫ばれる。
『ルート207《ニイマルナナ》から307《サンマルナナ》だ! 跳べ、カエデ!』
ガフォンッと、次々に棒状のロックが外れると、ヒュウウウウッと、ビル状のジャンプ台がせりあがってくる。
2号機は左足をそれに踏み出すと、大きく三段ジャンプを繰り出し、ナイフを真上から思いっきり振り下ろす。
だが、赤いチャイナ服のエンジェルは、両手を前に伸ばし、手のひらをナイフに向ける。
赤いチャイナ服のエンジェルプロテクト面と、2号機が装備しているナイフが接触しているようで、甲高い不快な金属音をたてた。
そして、黒い壁に阻まれる。
カエデは、2号機ディスプレイから叫んだ。
『何?』
ハルトの声も、中国支部のディスプレイから聞き取れる。
『司令! 何をされるんですか? 我々の作戦行動に支障が出ています』
とうやら、ハルトは、中国支部の司令に抗議しているようだ。しかし、彼は、一蹴した。
『〝教官殺し〟は黙っていろ』
スズは唇を噛む。それはきっと、ハルトをけなした言葉だったからだ。
5号機は立ち上がり、プログ・ソードを片手に装備する。
コックピット前方のディスプレイから、ハルトの声がスズに指示を仰ぐ。
『スズ、プロテクト展開して、そのままコアを貫けるか!?』
「え、プロテクトは展開してるけど、それはやったことないよ!?」
と、スズは思わず反論したが、
『刀身の長いナイフを両手に持ったまま、走るイメージを思い浮かべればいけるはずだ』
と、ディスプレイ越しの彼に言われた。
スズは、とりあえず、ハルトに従うしかなかった。
「わ、わかった!」
(全速力で、前に走る!)
5号機はエンジェルへ一目散に走り出し、プログ・ソードを両手に握りしめる。
「ふっ……!」
エンジェルのプロテクトに防がれたものの、プログ・ソードの刀身が赤く発光すると、蒸気がもうもうと沸き上がる。
(何これ? 熱を発してるの? これが?)
それがエンジェルのプロテクトと強制侵食をすると、コアにはヒビが入った。
(よし!!)
いける、と、自信を持ったスズが確信をする。
『避けて!』
巨大な黒い影のすぐあと、2号機がスズの頭上を覆う。
「え!?」
そのまま2号機も、エンジェルのコアをナイフで破壊を試みる。
『でも、威力が足りないわ』
「大丈夫、いけるよ!」
そのとき、若い男性の声が聞こえる。それは、日本語だった。
『イッツ、ショータイム』
続けて、若い女性の声も聞こえる。
『オーケー。イン』
その瞬間、轟音が空をつんざくと、スズはその方向を振り返って、黒い両の瞳を見開いた。
「あれも……ウーゼ?」
彼女が驚いたのは、ミシミシと金属音をたてて、唸る四つ足の獣だ。その様相は、まるで狼のようだった。
『さて、俺たちとダンスしようぜ。エンジェル!』
インが唸るように言ったそのときーー赤いチャイナ服のエンジェルも言葉を発した。
「愚かだよね……人間は」
エンジェルは右手で蒸気がもうもうとなっている、5号機のプログ・ソードをつかむ。そして、 まだ自由に使える左手を、二機のウーゼの中央付近に伸ばす。
スズは目を見開いた。
(ハッ! 何を——)
そして、赤いチャイナ服のエンジェルは、ニコリと笑うと、獣型のウーゼを軽くいなす。
『ハッ。俺らの国のってか?』
インは犬歯を見せて笑う。その面は悪役のように醜悪だった。
それに対し、ジンジュは淡々と報告する。
『ターゲット捕捉。攻撃を開始します』
エンジェルは、片手の手のひらを押し出すような戦闘態勢の構えをする。
「でぇえいっ!?」
次の瞬間、三機はビー厶で貫かれたような衝撃波を腹部に負った。
四人は驚いたが、声も出せないような痛みが瞬間的に襲ってくる。
指令室は、鋭い警告音が耳をつんざいて鳴り響く。
女性オペレーターが、スピーカー越しに報告をする。
『2号機および5号機、それに、7号機は、ともに腹部の損傷、六十七パーセントです!』
ハルトが指示を飛ばす。
「すぐにおとりでかく乱させろ! 全員には連絡取れるか?」
サクラが反応する。
「いえ、連絡不能。拒絶されています」
ハルトは、すぐに決断を下す。
「かく乱を開始しろ!」
「了解」
次々に地上に現れた武器格納庫から弾頭が見えると、同時に、エンジェルに向かって発射される。
三弾かける二列のミサイル格納庫から、凄まじい速度でミサイルが発射される。
ほぼ同時に、武器格納庫ビル群から、別な小型ミサイルが発射された。
だが、瞬く間に、日本支部・指令室のスピーカーから警報が鳴らされ、女性オペレーターが反応する。
『2号機内に、巨大な熱エネルギー反応です!』
ハルトはすぐに、ウーゼ2号機を停止させようとした。
「2号機に、緊急停止システムを発動!」
だが、デジタルでは、全ての反応が阻害されてしまっていた。
男性オペレーターが報告をする。
『現在、ウーゼ2号機は、ソナーおよびシステムに反応なし』
2号機ディスプレイは、カエデどころか何も映されなかった。
混乱しているように女性オペレーターが火急の報告を続ける。
『パイロットの姿が不鮮明。何もわかりません!』
若い女性オペレーターも続く。
『何かに阻害されていて、こちらからは一切認識できません!』
ハルトは、中国支部の巨大なディスプレイに向かって叫んだ。
「全部か!?」
スピーカー越しに先ほどのオペレーターが応える。
『はい。指令室からの発信信号、および受信の応答はありません!』
男性オペレーターの報告も続けられる。
『パイロット、ウーゼ側に引き込まれていきます』
別な男性オペレーターも報告する。
『現在、2号機のコックピット深度は、第二層』
スピーカーに女性オペレーターの声も入った。
『約六十秒後には、第三層まで突入します!』
サクラも、報告に応える。
「室長。このままでは、生命維持モードも発動できません。2号機パイロットの生命維持に支障が出ます」
メインディスプレイからハルトは顔をそむけ、ため息をついて拳を握る。
「2号機パイロットが装着しているチョーカーを、自動認識パスワードに切り替える」
一同は、凍りついたように反応がなかった。
メインディスプレイから、十五秒経過した逆算式時計の機械音が聞こえなかった。
いつも冷静さを欠かないサクラさえも、今のハルトの指示には進言をした。
「室長、指令室側から生命維持モードは発動可能ではないのでしょうか」
ハルトは首を振った。
「いや……」
「なぜですか? アナログ回線なら……」
ハルトは、一同がなぜ自分のほうを困惑した目で見ているのか、すぐさま行動しないのかわからなかった。
二十秒経過した逆算式時計の機械音が聞こえる。
だが、彼は、拳を少し強く握った。
(時間がないってのに……もたもたしてるとあいつ死ぬじゃねえかよ!? くそっ……)
室長は一層険しい顔で、一同を睨んだ。
その間にも、三十秒、四十秒と、時刻が刻まれていく。
「時間がないんだ」
ついに、逆算式の時刻は、五十秒を切った。
「カエデが——パイロットが死んでもいいのか」
ハルトの冷静な怒鳴り声によって静まり返った指令室は、メインディスプレイから機械音が鳴るだけだった。
ハルトは、頼む、と言葉を継いだ。
「2号機パイロットを二度も失いたくない。だから、2号機パイロットの身体情報をこちらのディスプレイに表示してくれ」
カエデの身体情報がメインディスプレイの液晶画面に映し出されると、チョーカーの自動認識パスワードに画面が切り替わった。
サクラは急いで、とあるコードをパーソナルコンピュータのキーボードで打ち込む。
だが、そのとき、獣型のウーゼの猛攻に続いて、2号機から発せられた一筋の影が伸びたような攻撃が、エンジェルのコアへ最期の打撃を喰らわせる。
エンジェルはコアが破壊されると、白い十字架となって沈黙した。
ハルトは少しの間口を閉ざしていたが、ぽつりとつぶやいた。
「今の……攻撃だよな? 確認しろ」
サクラは、ハルトに悩みながらも応える。
「はい。恐らく、プロテクトの攻撃ですよね」
「誰か、ウーゼ両機の回収を頼む」
「はい」
応答したサクラは、一同に呼びかけるため、日本支部のメインディスプレイにある、電源スイッチをオンにした。
「2号機と5号機の両機を回収!」
しかし、サクラは、あっ、と、茶色い瞳を見開いた。中国支部のディスプレイの電子文字に『指令室・生命維持モード〈発動〉』と、大書きされていたからだ。
ハルトは、彼女にサクラに普通礼をする。
「感謝する。林主任」
だが、彼に感謝されたサクラは、腰を45度に曲げて謝罪をする。
「申し訳ありません。室長。私が……一歩間違えてしまえば、私が2号機パイロットを…………」
ハルトはサクラに目配せする。彼は、謝罪をするサクラの肩に手を添えた。
「一緒に来てくれないか? 林主任。頼む。そう謝らなくていい。部屋を借ります。意義はありませんよね? 司令」
室長の青年は、泣きそうなほどに深く謝罪をするサクラをともなって、ある一室に入った。
自動扉が横開きに開くと、ハルトは室内の片隅にある、二人分のパイプ椅子を持ち、彼女たちの目の前と自分の前にそれを広げた。
ハルトはパイプ椅子に座ると、努めて優しく、サクラの名を呼んだ。
「サクラ」
すると、パイプ椅子に力なく座り込んだ彼女は、顔をうなだらせたまま、室長に返事をした。
「はい」
サクラはハルトに名を呼び捨てにされても、腹は立たなかった。
それは、ハルトが室長代理に就任したとき、サクラ自身が、彼に名前で呼んでくれと約束したからである。
「俺だけだとダメなんだ。大人がいないと、今回のように間違えた判断をすることになる」
「いえ。違うんです、室長」
「じゃあ、なんであのとき提案したんだ?」
顔をうつむかせる彼女は、静かに口を開いた。
「室長。聞いてくれますか? ……泣いてる女の子がいたら、室長はどうしますか?」
「俺か?」
彼は、顎に左手の曲げた指の節を当てると、考えながら言う。
「俺なら、その子の気持ちをわかってあげたいな」
しかし、サクラは茶色の瞳を揺らしていた。
サクラは、自分が言おうとしていることがわかっていた。
この明るく、ウーゼが好きな女性は、思い出したくない、恐ろしい体験を、年若い室長に知ってもらおうと思っているらしい。
サクラは、被災したことを言おうとしているのだ。
「……私、暗闇が怖いんです。あのときのことを思い出すので」
十九歳のサクラは、両手で頭を抱え、体育座りをしていた。
「ひっ……」
また、大きな縦揺れが起きた。時間にして、一、二分だろうか。彼女の父と母は、サクラがいる避難所とはまた別な避難所にいるらしいから、まだこちらには来ていない。
サクラは唇を引き締め、短く息を吸って吐いていた。
彼女の中にある、漠然とした不安を全て吐き出すように、彼女はただ、肩を震わせる呼吸をしていた。
彼女の周りにはおそらく、老夫婦や幼子を連れた家族連れなどもいるが、皆、不安そうな表情で、それぞれが肩を寄せ合ったり、夫婦は子どもを護ろうとしたりしているらしいことが声でわかった。
「大丈夫」
心配する声かけとともに、友人の背にそっと優しく手が置かれる。
サクラには隣を見なくても、その友人が声でわかった。
周りは、地震の影響で停電が起き、ほぼ暗闇の状態だった。
膝と頭を抱えるサクラと、その彼女を慰めている友人のそばにあるランタンの光が、地震の揺れで、チカチカと揺れる。
しかし、サクラの心臓の鼓動は、不安とともに早まるばかりだった。
彼女は泣かないように自分を律していたが、ついに、一筋の涙があふれだすと、次々にぽろぽろと雨粒のようにあふれ出す。
ハルトは、もろ手で顔を覆っているサクラの肩に手を置く。
「……つらかったよな。誰にも言わないで、ずっと自分の心の中に閉じ込めて」
しかし、ハルトがサクラに話した、ずっと自分の中につらい思いを閉じ込めることは、青年自身にも言えることであった。
彼は職業軍人としてアメリカ支部に勤務していたとき、中東地域との間で勃発した戦争により、慕っていた教官や親友などの仲間を含めた約千人が犠牲となったからだ。
「今日はもう帰っていい。司令には俺から言っておくから」
サクラは唇を噛んだままの顔だったが、彼女はうなずいて座礼をした。
「……はい。ありがとうございます、室長」
そのまま一人、サクラはノヴァ日本支部に帰還する。
そして、彼女は、二十階の女子更衣室のロッカーで、ノヴァ日本支部の指定制服から私服に着替えていた。
だが、サクラは、ロッカーの内鏡に映る泣き腫らした目の自分の顔を、虚ろな、茶色い瞳で見返していた。
「私、大人だよね? なんでさ、高校生の室長が諭してくれてるのかな?」
彼女のロッカーの扉が、パタン、と閉まる。
彼女はかかとの高いヒールを履くと、そのチャックを閉めた。
そして、カバンから携帯電話を取り出すと、電話をかけたが、何コール目かで不在着信になった。
「もしもし。ごめん。今日は早退するから、スズちゃんとユキちゃん二人に迷惑かけるかも。私、ちょっと疲れちゃった。じゃあ」
スズたちは中国支部から、日本支部に帰投した。
そして、金属音が日本支部のケージ内に、ガシャアンッと鳴り響く。
すると、2号機と5号機が、肩、両手、腰の部分をケージに固定されていった。
第六ケージに回収された二機は、すでに、専用の拘束具で肩や腰、両手などを固定され、CPOに噴射されている。
(今の、なんなんだろう……)
スズは考えながら、プログ射出用の操縦桿をつかんで引く。
同じく、2号機内のカエデも、プログを射出してハッチを開くと、先にケージの渡り廊下を歩き始める。
スズはプログから出ようとして、ハッチから自分の右足を出すが、異国の地での出来事がリフレインした。
鮮やかに蘇るのは、凛としたカエデの叫び声だ。
『——近寄らないで!?』
スズは、はあ、とため息をつく。
(カエデって、やっぱりエンジェルが——)
だが、ぼんやりと考え事をしていたスズの左足が、プログの段差に引っかかり、体のバランスを崩す。
「うわあっ!?」
スズは、ケージの渡り廊下に四つん這いになるような格好になった。
「ったた……」
そのとき、彼女の目の前に細い手が差し伸べられる。
(——え?)
スズがふと顔を上げると、カエデがそこにいた。
「スズ、あなた平気?」
「あ……うん。大丈夫」
スズはうなずきながら、カエデに差し出された手を、少し遠慮しつつも取る。
「ありがとう。カエデ」
スズがお礼を言いつつも、困ったような顔をすると、カエデは少し気を取られた。
彼女はスズに伸ばした手をすぐに離す。
「あ……。あ、そうだ。あの獣型のウーゼかっこよかったね」
スズが少し笑うと、カエデはうなずく。
「ええ。そうね、スズ」
「それにさ、あのカエデの影の能力もすごかったよね?」
スズがまた困ったような顔をしながら言うが、カエデはため息をついて、左肘を右手でつかんだ。
彼女はぎゅっと、厚さの薄い唇を引き締めた。
「私のせいなの。いまいましい呪われた力……」
そのあとのカエデは、少し早口で答える。
「ごめんなさい。忘れて」
カエデはその瞬間、体が動かせなくなり、骨の髄から、全身が震えるのを必死に抑え込んでいた。
風の寒さにかじかむかのように、震える左手を抑えるが、右手も震えだし、息を手に吐く。
スズは、今のカエデを見て、不思議そうな表情をした。
(ケージって、そんなに寒いのかな? でもなんか、様子が変? カエデ、どうしたのかな?)
「ねえ、カエデ?」
スズはカエデに話しかけたが、カエデは顔をスズに向けるだけだった。
(あ、これ、話しかけちゃいけなかったのかな……?)
「カエデ。具合悪そうだけど、大丈夫?」
彼女がもう一度カエデに話しかけると、彼女はうなずいた。
だが、彼女は先ほどと変わらず、返事はなく、顔は青ざめたままだった。
彼女は、また温かい息を両手にかける。
「医務室に行こう。そこだったら、サクラさんがいるはずだから」
しかし、カエデは首を横に振る。
「早退したそうよ、林主任」
「え? そうなの? 困ったな……」
頬をかいたスズは、ふとカエデに振り返る。
「体は大丈夫?」
カエデは一瞬だけ驚くと、青白い顔でうなずいた。
「ええ。ちょっと疲れてるだけだから」
スズは少し唇を噛んで、カエデを見る。
「ねえ、カエデ——」
スズは、カエデを医務室に連れて行こうとしていた。だが、スズから顔をそらしているカエデが、彼女に聞こえるように言う。
「うるさい。頭の中でもうるさいのね。いい加減にしなさい。〝カオル〟」
スズは、カエデの横顔を見る。
彼女はつらそうに頭を片手で支え、再び、厚さの薄い唇を噛んでいる。
——だが、その顔は、彼女が見たことがないように険しく、同時に、どことなく悲しい表情だった。
「カエ——」
スズがカエデに問いかける前に、カエデは口を開いた。
「あのとき、あなたは、私を殺そうとしたくせにっ!!」
スズは何も言えなかったが、カエデを落ち着かせようと仲立ちをする。
だが、カエデは、いつもの冷静な性格より、怒りと諦めをあらわにしていた。
「もう嫌なのよっ」
カエデは、うつむかせた顔のまま、胸を強く押さえた。
ギチッ、と、彼女の黒いインサートスーツの手のひらから衣擦れの音がする。
「私が、死に損ないだから!?」
「落ち着いて! そんなことない! 違うよ、ちが——」
歯を食いしばっている表情のカエデは、そのまま、スズに顔を向け、何かを言おうとした。
だが、スズはカエデに見られ、驚いたあと、きゅっと唇を引き締めた。
ふと、スズが口を開く。
「カエデ。その目……」
カエデは、ハッと気づく。
彼女は、自分ではわからなかったが、瞳の色が、いつの間にか変化していたようだ。
紫色に。
カエデは顔をそむけて歩き出したが、数歩歩いたとき、少し体がふらつき、スズは、その体を支える。
しかし、カエデは、左手でグイッとスズの右肩の辺りを押し、私に近づかないでと無言で示す。
スズは、またカエデに手を伸ばそうとした。
だが、カエデは体をふらつかせながら、また先を行こうとするが、その場に足をもつらせてへたり込む。
スズは、渡り廊下を小走りでカンカンと鳴るのも構わず、先ほど断られたのに、またカエデに駆け寄る。
「ダメよ、スズ。私に近づかないで」
スズは無言で首を横に振ると、彼女はカエデと肩を組んだ。
更衣室に、スズの深緑色のインサートスーツの排気音だけが響いた。
先ほど、インサートスーツのままでカエデを更衣室に送り届けたあと、彼女は、いろいろ考え込みながら、インサートスーツから制服に着替えている。
カエデはサクラが帰宅したことを知っていたので、医務室には行かなかった。
代わりに別の目的地を告げたエレベーターから降りて、あてもないまま、スズとともに歩き出した。
更衣室の看板が見えたので、彼女は通り過ぎようとしたが、シュコンッ、と、自動扉が開き、スズに目配せされる。
そして、スズは、ふいっと、彼女から顔をそらした。床に暗い影が映り込む。
カエデは、顔をうつむかせているスズに呼びかけた。
「スズ……」
スズは、うつむいた顔をカエデに向けた。
サクラから不在着信があったからで、しかもその声が、いつものサクラより落ち込んでいたからだ。
「カエデ。ねえ、大丈夫?」
着替え終わったカエデは首を横に振った。彼女は女子更衣室のベンチに座っていたが、その顔は疲れ切っていた。
ベンチ前にしゃがみ込んだスズはまたカエデの左腕をそっとつかむと、そのまま、自分の肩に回す。
「カエデはむちゃし過ぎだよ。こっちが心配になるくらい」
「……人に頼るのは苦手なの」
「カエデ」
スズは彼女の名を呼んだ。
「お願い。医務室行こう。ね? こういう風に言えばいいんだよ」
スズは、ニコッと、少し口角を上げて笑った。
「あなた……やっぱり、ご両親に、よく似てるわね。橘司令も、前にそう言ってたわ」
スズは、唇を真一文字に結んだ。
二人がエレベーターに乗ると、エレベーターの稼働音が、内部からでも聞こえる。
スズは、肩を組んでいるカエデを見てから、エレベーターの階数を見る。
今は、ちょうど正面玄関がある一階に向かっていた。
スズは意を決して、カエデに問う。
「ねえ、カエデ。私は生きなきゃダメなのかな?」
彼女は表情ひとつ変えずに、スズに聞き返す。
「なぜ?」
「……ユキもカエデも、みんな私のことを護ろうとするよね? だったら、もう護られないように——」
カエデは遮って答える。
「いいえ、スズ。私は、あなたに生きていてほしいの。私は橘司令と主任に助けられた。あなたにも助けられたわ。だから、そのお返しなのよ」
スズは、カエデと肩を組んでいる手首を少し強く握ってしまう。
「ありがとう。スズ」
スズはハッとして、彼女の横顔を見る。彼女の顔は、目鼻立ちがすっきりとしている。二重の瞳は、いまだ紫色だった。
ずっと、カエデとの無言も嫌なので、スズは切り出した。
「ねえ、カエデ?」
彼女は、こちらを見ずに聞き返す。
「どうかしたの?」
スズは、目線を斜めに下げ、左手で右腕の肘の辺りをつかむ。自分でも言葉がうまく出てこなくて、声が震えるのがわかった。
「どうして、カエデは、私にいろいろしてくれるの? 私は、言われなきゃわからないよ」
カエデは背中を、エレベーターの内壁につけた。彼女は腕組みをせずに、顔をこちらに向ける。
「〝彼女〟に居場所はないからよ」
スズは、彼女の黒い瞳を見たが、その瞳には不安そうに彼女を見つめる自分が映っている。
彼女は、ハッとした。
カエデには、自分以外何も映っていないんだと、感じた。それと同時に、彼女には、一体何を映しているのだろう、と、捉えがたい疑問も感じる。
スズは、ふっと、顔をうつむかせた。
「居場所?」
「そうよ、スズ。あの子の居場所。それはどこにもないのよ。本当は、〝カエデ〟が見つけなきゃいけないのかもしれないけれど」
エレベーターが、地上へと向かう機械音が響いた。
スズは、紺色のスカートの裾を握っている。
「そんなことないよ、カエデ。居場所はあるよ」
「いいえ。ないのよ。アナタは、幸せを失ったの?」
スズは、少しきょとんとしたが、すぐに応えた。
「わからない。けど、そうだと思う」
「だから、自分と他人を比較して、幸せではないと思うの?」
(なんでそういうこと言うの? カエデ?)
スズは、また顔をうつむかせる。
「お父さんとお母さんは、もういないんだよ」
ため息をついたスズは、カエデと同じように、開き戸に向かうようにして、内壁に背をつける。
カエデは、ゆっくりと、彼女を諭すように首を横に振る。その声は、凛とする声だった。
「いいえ。幸せは、アナタ自身が決めることよ。スズ。他人に決められることではないわ」
カエデは、ふぅ、と、ため息をついて、それから、腕を組んだ。
「彼女もね」
スズは、ギュッと、セーラー服の紺色スカートの太ももの辺りをつかんだ。
「ねえ、カエデ? 誰なの?」
「スズ……アナタ——」
カエデの言葉はそこで遮られたが、彼女は、落ち込んでいるスズを見る。
そして、カエデは、スズの両頬に冷たい手を添えた。その厚さの薄い唇は、三日月の形になる。
「〝カエデ〟から聞いていたけれど……ワタシ、アナタに会ってみたくて」
その瞬間、スズの喉にはまるで鉛が詰まったように、ひゅうっと不快な笛を鳴らした。
「誰? 君……」
「アナタの敵よ。スズ」
スズは手を伸ばした彼女のもろ手を払いのけると、エレベーターの床に尻もちをついた。
「まさか、カエデが言ってた〝カオル〟さんなの? 違うよね? ねえ、カエデ?」
「混乱してるのね、アナタ。面白いわ。カエデが気に入るわけね」
スズは、その紫色の瞳のカエデによく似た、若い女性を放心して見つめた。
そして、その紫の瞳は、スズの黒い瞳を見つめ返しており、厚さの薄い唇は開かれた。
「あなたは、今もたくさんのヒトに助けられているわ。それは、あなた自身に惹かれているからよ」
スズは目を見開いたが、すぐに唇を噛み、顔を落ち込ませた。エレベーターの浮遊感が下から襲ってくる。
(そんなことない。ユキだって、ハルトも……)
また、エレベーターが、上への目的地を告げて到着をする。
カオルが降りると、スズも彼女に続く。スズはエレベーターの浮遊感をいまだ少し感じていた。歩くたびに足元が少し浮くような感覚に襲われていた。
カオルはスズを振り返る。すると、彼女の着ているワンピースのスカートが、ふわりとひるがえる。
「アナタに付き合ってほしいところがあるの。支部からは少し遠いわ。それでもいいの?」
彼女は、紫の瞳を内廊下の床に落とす。
「今日、なのでしょう。アナタを育ててくれた人間が〝実験〟で消えたという日は」
スズの顔は途端に曇った。
(今日……)
「……うん」
カオルは紫の瞳で、うなずいたスズの顔を見る。
(……)
彼女は、暗い顔をするスズを見つめた。
(なぜ、人間は親しい者がいなくなるだけで寂しがるのかしら)
その途端、彼女の頭の中に凛とした声が聞こえる。
冬の時季のセーラー服をまとうカエデだ。
(突然いなくなったら、それは悲しいわ。カオル)
彼女が顔をうつむかせると、黒髪がさらさらと流れる。
(それは、私もそうよ)
彼女は学校の椅子に座り、セーラー服のスカートを両手でつかんでいた。
(スズにご執心なのね。ワタシの主は)
二人は廊下を歩き、正面玄関から出ようとする。
スズは、十分ほどの身体検査を受けると外出許可を出された。だが、カオルは、職員がトランシーバーで彼女に関する何かを報告していた。
「許可はできません」
「なぜ? ワタシは久遠カエデよ?」
スズを先導していたカオルは、不満そうに腕を組む。一方、スズはその光景を心配そうに見ていた。
職員はタブレット端末を見ながら、カオルに告げる。
「確かに、DNA情報は久遠パイロットと一致しています。しかし、身体的特徴を示すDNA配列の一部が一致していません。
申し訳ありませんが、もう一度、ご確認をお願いします」
「わかったわ」
カオルは左手首を差し出すと、職員はバーコードリーダーのようなものをカオルの左手首に当てた。ピピッ、と、機械音が鳴ると、職員は不快そうに顔を歪めて、ため息をついた。
すかさず、カオルは追及する。
「何?」
「どうしても外出されたいのですか? カオルさん」
「そうよ。私用で」
「その……今日は、深くは問いませんが……」
男性職員は、カオルと彼を見ているスズを見る。
スズはハッと気づくと、すぐに顔をそらした。
「少々お待ちください」
彼は少し彼女たちから離れると、受付の女性と話し込んでいる。受付の女性はカオルを気にするように、時々こちらを見ていた。
「司令と話がつきました。〝問題を起こさなければ自由に移動していい〟と。
しかし、〝もし万が一、問題が起これば、速やかに対処行動に移行する〟ともおっしゃられていました」
「アカネに言っておいて。〝心配性ね。そんなにカエデのことが心配なの? 橘スズには関わらないで〟と」
「承知しました」
男性職員は会釈すると、日本支部の内廊下に歩を進めた。
スズとカオルの二人は、たくさんの墓標が並んでいる墓地に来た。
目には見えない遠くのほうまで、墓標がズラリと並んでいる。
(ここに来るの、いつぶりだろう……)
スズの目の前に、カオルの手が差し伸べられる。
スズは彼女の手を取るか躊躇したが、カオルは、彼女の手を握ってそのまま歩き続ける。
「カエデ?」
何を話せばいいのかわからない彼女は、少しうわずった声でカオルに問いかける。
「アナタも、あのときと同じで温かいのね……」
「それって」
カオルは厚さの薄い唇を引き締めた。
「——ごめんなさい」
「なんで謝るの……?」
「カエデが、アナタに謝りたかったからそうよ」
「……ううん」
空の雲は少しずつ曇り始める。
二人がある墓標の前に着くと、スズは、その墓標に手を合わせる。
カオルもスズのあとに続いて、まぶたを閉じて手を合わせた。
それから、彼女は墓標から顔を上げ、スズを見る。
「……じゃあ、私はもう行くわ」
「待ってよ。カエデ——じゃなくて、カオルさん」
カオルは立ち止まり、振り返る。
その紫の瞳は、スズを射抜いていた。
「アナタを育ててくれた人間なのでしょう? 彼らは。ワタシがここにいても困るのでは?」
カオルは、語尾に唇を噛んでため息をついた。
スズはハッとしたあと、首を振り、自分の中に湧き上がってきた思いを言う。
「ううん。そんなことないよ。お父さんもお母さんも、きっと来てくれて嬉しいと思うんだ」
スズは言ってから、苦笑した。
(ちょっと複雑だけどね……)
カオルはうつむいたが、その顔は、なんだか少し嬉しそうに見えた。
「……そう。ねえ、スズ……よかった?」
カオルは、つぶやくように言う。
「え?」
カオルは墓標から目を離さずに、再び問いかける。
「スズ。あなたはここに来て、よかった?」
「……うん。そうだね」
スズはカオルの横顔を見たあと、墓標に刻まれた両親の名前を見る。
「ありがとう。カオルさん」
カオルは首を小さく横に振る。
「いえ、礼は必要ないわ」
彼女は、左手の手のひらを途中まで持ち上げたが、空を見上げてから、手を下ろした。
「雨が降り始めそうね」
少し後ろにいたカオルは、遠くの人物を見つめていた。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないわ」
カオルは少し歩き始めたが、何を思ったのか、こちらに体をくるりと向けた。
「スズ、行きましょう」
スズはうなずいた。
「うん……」
彼女はふっと後ろを振り返ったが、すぐに前を向く。
(遠くてわからないけど……誰なんだろう?)
二人は再び、支部へと歩き始めた。
カオルは唇を噛む。
(アカネ……誰のおかげで世界が滅びかけているというの?
アナタ、カエデに甘いわ。まるで、プディングみたいに甘いわよ。アナタは)
紺色の傘をさしたアカネは、三人を複雑な気持ちの表情で見つめていた。
彼女は、先の墓標に向かって歩き出す。
雨粒が、パラパラと傘に当たっている。
ほこりに似ている匂いが鼻の奥に残る。
「——お久しぶりです。ソウマ司令、ナギサ主任」
試作模擬実験施設の指示室から、けたたましい警報が次々に鳴らされる。
ハルトがウーゼに向かおうとしたので、アカネはそれを止めた。
ハルトは、唇を強く噛みしめて彼女に反発したが、やがて、彼は、ウーゼに行くのをやめた。
あのあとから、アカネは何か物思いにふけるようになり、司令室に閉じこもっていた。
だが、久しぶりに彼女がそこから出たときは、誰かをとても憎悪するような、同時に、何かを諦めたように唇を噛んだ険しい表情だった。
再び、情景を今の墓標に戻したアカネは、その前に立ちつくし、つぶやいた。
「申し訳ございません……」
アカネはそう言ったきり、くるりと背を向けて、支部へと戻って行った。
脳裏には、過去にカエデに言った自分の声が蘇る。中学生時代の自分の声だ。
「いえ。ただこれが、ナギサ主任が造りあげたウーゼなんだと思って……」
アカネは、雨音が上から聞こえる中、支部の正面玄関に向かった。
「私はあのとき、そう言った……」
アカネは、ぐっと唇を噛みしめた。
(ナギサ主任が造ったウーゼは、ただのロボットではない静謐さがどこかにあった。だから、初めて手を触れたとき、ひやりとした)
アカネは右手を見てから、すうっと息を吐く。
「私が救いたいのは、誰なのでしょうか」
雨音はいまだ続いてる。
そして、日本支部の正面玄関が見えた。
「たった一人の友人なのでしょうか」
アカネは正面玄関に着くと、受付担当の女性二名にそろって会釈をされる。アカネから向かって左側にいる彼女が、最初に司令に話しかける。
「お疲れさまです」
続いて、右側にいる女性は、司令をねぎらう。
「司令。お疲れさまです。雨は大丈夫でしたか」
「ええ。あなたたちもお疲れさま」
右側にいる女性は、アカネにタオルを差し出す。地下のランドリーで洗っている、柔らかく白いタオルだ。
「ああ、先ほど、2号機パイロットと5号機パイロットを外出先で見かけたのだけど?」
左側の女性は首肯する。
「あ、はい。先ほど——とは言っても約十分前ですが、2号機パイロットと5号機パイロットが私用で、こちらから外出しました」
彼女は正面玄関に、顔を向けて見る。
「そう」
(そういえば、カエデは、表面上は気にしなくても、ちゃんと気にしているのよね。今日は、橘元司令と主任の命日だから……)
またアカネは、中学生時代に、カエデが本の返し忘れを気にして、司書さんに謝っていたことを思い出す。
「ふっ。ふふふ……」
左側にいる受付の女性は、笑う司令を不思議そうな目で見ていた。
「あの……?」
アカネは顔色を変えずに、んんっ、と、せき払いをする。
「なんでもないわ。それと、今日は早く上がっていいわ。ほかの職員たちにもそう伝えておいて」
「本当ですか? あ……」
受付担当の女性は、思わず片手で口を押さえる。
「申し訳ございません」
彼女は、隣の席の女性にたしなめられる。
「マイさん。喜び過ぎじゃありませんか?」
マイは、あはは、と、愛想笑いをした。
「すみません……。ですが、ありがとうございます。司令」
受付担当の女性を含めた彼女たちは、そろって普通礼をした。
アカネが去ったあと、女性の一人が耳打ちをした。
先ほど、司令から直々に早退を許してもらって、思わず喜んだマイだ。
「ねえ、司令って取っつきにくい人だって思ってたけど……かわいいねー」
彼女は口角を上げて、ニコニコと微笑んでいたが、自分の左側の席に座る、もう一人の受付担当の女性が、首をかしげる。
「そうかな?」
「そうかなって……ミドリは、実際問題どう思うのさ?」
ミドリと同僚に呼ばれた彼女は、淡々と言う。
「まあ、確かにね」
口火を切ったマイは笑って、話を続ける。
「それより、かわいいって言えば……あ。てかさー、最近のスズちゃん、なんか元気ないよね?」
ミドリは、やはり淡々と言う。
「今日の作戦もきつそうだったよね。林主任も早退したし。それにしても、なんか、主任やらかしちゃったらしいよ?」
ややオーバーリアクションのマイが、彼女に問う。
「嘘? ミドリ? ホントに?」
ミドリはうなずく。
「室長に連れていかれるの見たって言ってた。それに主任、泣いてたらしいよ」
マイは頭を抱えたあと、頬杖をつく。
「うっわ。ウーゼ開発研究部じゃなくてよかったわー。作戦立案指令部でも嫌だけど」
ミドリは問いかける。先ほどのように淡々とではなく、少し安心したようにだ。
「よかったって言えば、カエデさんだけじゃなくて、最近、みんな、表情豊かにならなかった?」
頬杖をついたマイが、今度は顎に左手を当てる。彼女は右利きだ。
「ああ、ホントだ。室長も笑うようになったしね。いやー、室長が年下じゃなかったら、即対象なんだけどな」
ミドリは、顎に手を当てたマイの肩を優しく叩く。
「室長も好きな人いるんじゃないの?」
ミドリがそう言うと、マイは唇を尖らせる。
「じゃあ、一色君は?」
「一色君ね。でも彼、今なんか、いろいろ調べてるらしいからあやしいよ。だからダメかも」
「でもさ、なんで、彼女つくらないんだろうね? 室長。高校生であの指揮系統に高いIQ……モテるんじゃない?」
頬杖をついたマイは首を捻った。
「まあ、確かにモテているらしいけど」
「そうじゃん! ね? でしょでしょ?」
マイに肩をつかまれたミドリは、感情がこもらないような声で話した。
「室長、戦争経験者だからね。まだ、十六歳なのに。じゃ、お先に」
ミドリが手を振り、去ろうとすると、マイも急いで帰り支度をした。
「ああ、待ってよ? ミドリ?」
白いショルダーバッグに荷物を詰め込んだマイは、彼女のあとを追う。
「はいはい。待ってるってば。今日は……イタリアンの気分かな」
「え? 行きたい行きたい!」
「じゃあ、行こっか。ねえ、かわいいって言えば、って、マイが言ったとき、どうして、スズさんの名前が出たの?」
「だって、スズちゃんかわいくない?」
ミドリは、同僚の問いにうなずく。
「まあ、確かに」
「ミドリは誰派?」
マイは首をかしげる。
ミドリは不思議そうに、マイに問い返す。
「派閥とかあるの?」
マイは昼どきの、雨空を見上げた。
「んー……みんなはどうか知らないけど、私はあるよ」
彼女の桃色の折りたたみ傘から見えるのは、灰色の曇り空だった。
ミドリは、術衣に似ている淡い緑色の傘を差していた。
「へえ……じゃあ、私はカエデさんかな。意外と私、苦労人好きなんだよね。あ、でも、彼女に好意を持つ人たちが周りにいるからダメかも」
マイは、黒い瞳を輝かせた。
「へえ。たとえば、誰、誰?」
「さあ? 人の秘密を探るのはやめようよ」
マイは口を尖らせる。
「ええ……ミドリが先に言ったんじゃん」
「ところで、お店に着いたら何食べる?」
「ああ、話題変えた! ずるいよ。ミドリ」
「ずるくて結構。私たちには優しい嘘も必要なのよ。特に、こんな戦争ばかりする人間の間に生きてればね」
数日後、教室の引き戸が開くと、柊アヤが出席簿を持って入ってくる。
「皆さん。おはようございます」
彼女が呼びかけたあと、生徒たちがパラパラと朝の挨拶をする。
(ユキ、大丈夫なのかな? もう二週間だよね?)
スズは、ぼんやりと机に頬杖をつき、窓側のユキの席を眺めていた。
ユキは、今日も学校を休んでいる。昏睡状態のため、地下の部屋に隔離されているのだ。
授業のチャイムが鳴り、彼女が黒板に設問を書き終える。
「——では、ここの一次関数わかる人はいますか? じゃあ今日は……できた人から黒板に書いてもらいましょうか?」
スズはノートに考えながら数式を書き込む。
(えっと、ここはー……これを代入して……っと、できた)
彼女の後ろの席のクラスメイトが、彼女のノートのある設問を指でさす。
「橘さん? ここの問題わかった?」
「あ、うん。これは……」
スズはそのノートを見る。
そこにズラリと並んだ数式は、読みやすくまとめられていて要点がわかりやすかった。
「えっと、ここは、連立方程式で解いて、この式を②に代入、ここに入れると、これでXが求められるよ。このあとは、もう一度代入をしないといけないんだけど……」
「こうすればいいってことか?」
クラスメイトは、ノートにシャープペンシルで、新たに数式を書き込む。
スズがうなずく。
「うん。そうそう」
クラスメイトは感心をした。
「ありがとう」
スズは目を伏せ、髪の後ろをかいてうなずく。
「うん」
黒板のチョークの音がしなくなると、こちらに歩く足音が聞こえてくる。
彼女は席に座るなり、ノートに例題の数式を書く。
スズも、ノートにそのひとつ前の問題を書き始める。
「スズさん。この問題の、問い3を教えて」
「え?」
スズは、その丸眼鏡の女子生徒である村石シノを見る。
「うん。いいよ」
彼女はスズのノートを見てしまい、人差し指で間違えた数式をさす。
「ここ、不正解になってる」
スズはうなずく。
「うん。どうしても合わなくて……」
「これなら、こっちの数式じゃなくて……この解き方のほうがいい」
彼女は、スズのノートに数式を書く。
シノの手に持たされた青色のシャープペンシルが、美しい文字を書くのをやめる。
スズは、かすかに笑みを浮かべた。
「ありがとう。シノ」
スズは、彼女にじっと見られる。
スズは不思議そうな表情をするが、シノは何も答えなかった。
(え? 何?)
「ん? どうしたの?」
「ううん。別に」
シノはスズを見つめながら、不思議そうな表情をする。
(えっと……なんで、見てくるの?)
「……シノ?」
スズは、シノの目の前で、手のひらをひらひらと振る。
すると、シノは、物思いから覚めたように、瞬きをした。
「え? 何?」
「あ、いや……、そんなに見られると困るかも……」
「あっ、ごめんなさい、スズさん」
スズは慌てて、胸の前で両手を振る。
「ううん。ただ聞きたかっただけだから、気にしないで」
「スズさんって——純粋に褒めてくれるよね」
もう一度、丸眼鏡を押し上げたシノは、その視線を自分のノートに向ける。
だが、彼女の左手人差し指が、スズのノートに伸びる。
「ここ違う」
「ホント? どこ?」
シノは、教科書を繰る。
「(3》の問題の解答。ここは、教科書どおりじゃなくても解ける」
「へえ……」
「えっと……教科書では、③を②に代入してるけど……ノートを借りていい?」
「いいよ」
スズは彼女にノートを差し出すと、彼女はそのノートに、消せる青色のボールペンで数式をよどみなく書く。
「へえ、これでも解けるんだ」
「うん。ところで、(6》の1ってわかる? 教えてほしいんだけど」
スズも、彼女に尋ねる。
「それなら、わかるかも。ところで、私も、ここがちょっとわからないんだけどいい? (4》の2なんだけど……」
「(4》の2? わかった」
シノは、再び、彼女のノートを借りて問題を解くが、黒色のシャープペンシルが書く手を止める。
「ねえ、スズさん、この問題なんだけど……」
スズは、彼女に借りたノートから顔を上げる。
「え? シノ、どうしたの?」
「この人の字のとおり、これの応用をすればいいかも」
スズは、メモ書きされている字を見る。それは、わかりやすくまとめられた字だ。
「あ、これ、ハルトの字だ。へえ……」
シノは、丸眼鏡を少し上へ押しやる。
「あなたの知り合いなの?」
スズはうなずく。
「うん。ハルトは、高校生なんだ」
「そうなの? その人、どこの高校?」
彼女は、人差し指の曲げた節を唇に当てる。
「確か、『滝海高等学校』だったかな」
目の前のシノを含めたクラスメイトたちが、一斉に立ち上がり、スズに詰め寄る。
「え? 何? みんな授業中だけど、どうしたの?」
だが、図ったように授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
「あれ? 終わった……」
アヤが、クラスメイトに一声かける。
「では、皆さん。これで授業は終わりですが、あまり橘さんを質問攻めにしないように」
クラスメイトたちは、彼女にパラパラと反応をする。
シノが人差し指を立てながら、興奮したように話す。
「『滝海高等学校』って、有名な進学校よね? どうして、知り合いなの?」
「え、どうしてって、知り合いだから?」
シノの近くから、少し低い声が会話に割り込む。
「でも、うちの学校と滝海は確かに近いけど、違う学区だよな」
鋭い指摘をしたのは、シュンだ。
「滝海?」
シュンは、ズボンのポケットから片手を出す。
「『滝海高等学校』の略称。そっちのほうが、みんなわかりやすいんだ」
「へえ」
「滝と海の波の絵。校章のとおりだよ」
「確かに、カエデの校章見たかも」
スズは目線を上げると、別なクラスメイトも反応する。
「カエデ? その人も滝海?」
スズはうなずく。
「うん。カエデもシュンが言ってた校章をしてたよ」
「カエデって、その……」
シュンは、顎に手を当てたまま言う。
「久遠さんのことか?」
スズは驚く。
「え? なんでわかったの? シュン」
またクラスメイトたちは驚いた。
「だから、何?」
スズはきょとんとしていたが、クラスメイトが追い討ちをかける。
「知らねーのか? 久遠カエデ。滝海で一番の美人転校生!」
「それは、今、初めて知ったけど……。でも、カエデって頭いいよね。それに美人だし」
スズは、目線をノートに落とした。
「これ、カエデの字だ」
スズはふっと口角を上げる。
クラスメイトたちはそんな嬉しそうなスズを見てから、シュンとシノの二人を見た。
シノは少し戸惑いながら、丸眼鏡を押し上げる。
「えっと、私たちに解説しろと?」
クラスメイトたちはうなずく。
シノはため息をついた。だが、代わりにシュンが、こほん、と、せき払いをする。
「スズが言った久遠さんは、『滝海高等学校』に在学」
彼は、シノのパーソナルコンピュータに人差し指をなぞる。
「彼女は、転校してすぐの定期テストで一位を取っただけではなく、さらに、追加点をもらい、クラスメイトたちを大きく突き放してリードしてるらしい。って、エミリアが——じゃなくて、いとこが自信満々に言ってた」
「追加点って、何?」
彼は、片手でスズを制した。
「ちょっと待って。追加点っていうのは——」
シノは、スズの机上にノート型パーソナルコンピュータを取り出して置き、続けて、『滝海高等学校』のサイトを開く。
小見出しには、『滝海高等学校の特別追加点について』と記載されている。
「滝海では、授業態度のほかにノートの取り方などで、時々、追加点をあげる先生もいるらしい。一番重要なのは、ここかもしれないな」
シュンは、サイトの青いURLをダブルクリックした。
「定期テストでは、必ず一問だけ難しい問題が出題されるらしいんだが……」
彼は、うーん、と悩む。
「俺の叔父さんの場合は、難問をひとつ出して、それを解いた生徒の定期テストに追加点が普段の成績に加算する。が……シノ、またちょっと借りていいか?」
「いいよ」
シュンはシノのノート型パーソナルコンピュータを操作すると、あるものを出した。
そこには、定期テスト上位者の名前こそ記載はされていなかったものの、二名の成績優秀者が載っていた。
「今年は、男女一人ずつらしいな」
「へえ……誰なんだろう? 一人は、カエデ、かな?」
別な女子生徒が尋ねる。
「さっきのハルトって人は、どんな人なの?」
「え? ハルト? カエデと同じく、頭いいけど……あ、アオくんも」
「じゃあ、その二人が、カエデさんって人と同じ成績優秀者じゃない?」
「そうかな?」
「そうだと思うよ。というか、アオくんって誰? あ、もしかして、あのカエデさんに連れてかれた人?」
「そうそう。そうだよ、シノ。かっこよかったよね。彼」
「ううん。別に」
シノが事もなげに首を横に振ると、女子生徒たちは『ええ』と、不満を口にした。
そこに、シュンが口を挟む。
「ひとついいか? ノヴァ日本支部所属ってのは、本当か?」
「な、何言ってるの?」
(いきなり、どうしたんだろ? ていうか、知ってるの?)
「支部のこと知ってるの?」
「知ってる。エミリアが俺のいとこだからな」
スズは、妙な相づちしか打てなかった。落ち着いた性格のシュンと、勝ち気な性格のエミリアが親戚とは思えなかったからだ。
「あのエミリアと親戚って……大変じゃない?」
「まあ、大変だけど楽しいよ。でも、突然連絡なしにやってくるし、シュンの顔も見れて嬉しいけど、本当は久遠さんに会いたいって、だだはこねるわ……」
シュンは頬をかいてから、ため息をつく。
「ホントにドイツ支部の優秀なパイロットなのか? って思うときあるよ。まあ、そう言えば、確実に、一、二発引っぱたかされそうだけど」
シュンは苦笑した。
だが、スズは、クラスメイトから矢継ぎ早に質問をされる。
それをさりげなく制したシノも、丸眼鏡を押してから、クラスメイトたちに便乗する。
「人類の平和を維持する組織は、私たちの命も、顔も知らない誰かの命も、その人たちは護ってる」
シノは窓辺の席を見て、少し頬を緩めた。その場所は、ユキの席だ。
「身近だけど、私たちはその恩恵に預かっているのよ」
「それって、すっごいよね?」
シノに同意して喜んでいた女子生徒が、スズに不思議そうに尋ねる。
「ねえ、スズ。ずっと聞きたかったんだけど……なんで、セーラー服着てるの?」
「え、これ?」
スズは、自分の制服を見た。紺色のセーラー服に同色のスカートだ。
「これ、前の学校の制服だったんだ」
「へえ。てことは、進学校?」
スズはもろ手を振った。
「いやいや。そんなわけないから。諏訪市より小さい、普通の学校だよ」
だが、彼女は、片手をうなじに触れる。
「けど……その……」
苦笑した彼女は、後ろ髪に手を当てている。スズは内心、苦笑をしていた。
「つまり——」
スズは、女子生徒の言葉に耳を傾けるが、緊張を隠すために手のひらの汗を、紺色のセーラー服のスカートで拭う。
「前の制服がかわいいから、それを選んだってこと?」
「え。ああ、うん。そうそう。そうだよ」
スズはうなずいたが、彼女の目線は泳いでいた。
「スズってさ……嘘つくの下手?」
スズは片手を振る。
「いやいや、違うって。あの……」
彼女は苦笑をした。
「この制服は、私が頼んだんだ。そう、これ、ハルトに無理言ってお願いしてさ。前の学校とおんなじデザインにしてって。でないと、家に引きこもってやる——」
彼女は、青い三角タイの先を左手で少しつまむ。
「なんて……」
彼女は上目遣いに恐る恐るクラスメイトたちを見る。
シノはいつものように丸眼鏡を押し上げているが、どことなく頬が赤く染まっていた。
シュンは、スズから顔をそらしていた。
「え、どうしたの? 二人とも?」
シノは、スズの耳に口を寄せた。
「スズさん。今のは、ちょっと私でもドキドキしちゃったよ」
スズは、シノの口から顔を離した。
ガタタッ、と、彼女がさっきまで座っていた椅子が、大きく音を鳴らす。
「へっ? あ、あの……そんなことは……」
スズは、両手を胸の前で振り、必死に平常を装おうとする。
だが、口から出る言葉はしどろもどろになり、彼女は窓側に後ずさりをしたため、窓際の手すりが背中に当たる感覚がした。
シノの「ドキドキ」という言葉に変に反応し過ぎだろうと思ったスズは、情けない自分を切り替えるために、せき払いをする。
彼女は、首の後ろに手を当てた。
そのとき、教室の引き戸から、声がかかる。
「橘さん、いる?」
スズが引き戸のほうを見ると、別のクラスの女子生徒が自分を呼んでいた。
「何かあった?」
スズが彼女に駆け寄ると、三つ編みをしている彼女は、手を合わせてお願いしてきた。
「あのね、真白さんって子が、柊先生に頭髪証明書を提出しないといけないんだけど、橘さん、真白さんと仲いいでしょ? だから、一緒に行ってくれない?」
彼女は、きちんと制服を着用しており、知的そうな雰囲気は、どこかシノに似ている。
「いいけど……その頭髪証明書って、ユキの白髪のこと?」
彼女は、うん、と首肯した。三つ編みがふわっと揺れる。
「二人とも、転校してきたから知らないよね?」
彼女は話を続ける。
「朝とか登校しているときに先生方が生徒玄関に立ってるときがあるんだけど……真白さん、あの髪でしょ?
だから、頭髪証明書を提出していないんじゃないか、って」
彼女は横目で、教室の壁にかかっている時計を見てから、またスズに顔を向ける。
「今、昼休みだし、ちょうど時間あるから、担任の先生にその紙を提出してきてほしいんだって」
「でも、ユキ、今日も休みだよ?」
彼女は両手を握って、スズに歩み寄ると、三つ編みが揺れた。
「え? そうなの? 真白さん、大丈夫?」
スズはその彼女の真剣さに、胸の前にもろ手を出して落ち着かせる。
「ああ……ちょっと、学校休んでるだけだから大丈夫だよ」
彼女はほっとしたように、胸の前に両手を重ねた。
「そっか……あの、もしよかったら、真白さんにお大事にって、伝えてくれないかな?」
スズはちょっとうなずく。
「いいよ」
「あ、ごめんなさい、橘さん。すっかり、名前言うの忘れてた。
私、海街ヒメ。
あ、でも、頭髪証明書は橘さんでも提出できると思うよ。保護者の署名が必要だけどね」
スズは苦笑しながら、頬をぽりぽりとかく。
「あ……しまった。サクラさんの名前、書いてたかな?」
「保護者の人?」
「うん。そうだよ。海街さん。教えてくれてありがとう」
彼女は首を横に振ると、小さく手を振った。
「ううん。大丈夫。私、橘さんとは一度話してみたかったし。じゃあね」
スズも彼女に手を振り返したが、彼女に尋ねることを忘れていたので聞き返した。
スズは彼女に、またお礼を言い、早速、職員室に向かった。
彼女は、職員室の引き戸をノックし、失礼します、と一声かけて中に入った。
「柊先生に用事があって来ました」
奥の机から、女性の声がかかる。
「橘さん。どうかしましたか?」
スズはその女性に駆け寄った。担任の柊アヤだ。
「あの、柊先生……頭髪証明書のことなんですけど」
「あ、はい。今、確認しますね……あ、ここの保護者氏名が空欄ですね。なので、この氏名欄に保護者の方の署名が必要になりますね」
「あ、はい。わかりました」
アヤは、スズに尋ねる。
「林さんは、確か、橘さんと真白さんの保護者の方でしたよね?」
スズが首肯した。
「はい。そうです」
サクラは、中学生二人の保護者となっている。
だが、スズとユキだけではなく、ハルトやカエデ、それにアオもまだ教育を受ける権利にあるため、通学をしている。
しかし、五人は、支部での業務や人命救済のために、日々、奔走しているため、残念ながら、体育祭や文化祭などには基本的には参加できない。
また、中学生のイベントでもある宿泊研修や、高校生のイベントでもある修学旅行にも、基本的に全員が参加できない。
まず、いつエンジェルが襲来してくるかわからない日々を支部関係者は過ごしているので、体育祭も文化祭も宿泊研修も、五人は、あまり参加したことがないのだ。
クラスメイトたちからは残念な声を上げられるが、当初ハルトから、学校の行事には参加できない、と、知ったスズの反応は、淡白なものだった。
「そういえば、後期中間考査が迫ってますが、大丈夫ですか?」
アヤに尋ねられると、スズは困ったような顔をする。
「では……」
アヤは引き出しから、プリントを取り出すと、スズに渡した。
「なんですか? これ?」
「お二人が休んでいた授業の分です。すみませんが、お休みしている真白さんにも渡してもらえますか?」
スズが、両手にプリントを抱えたままで会釈をする。
「わかりました。ありがとうございます、柊先生」
アヤは、首を横に振る。
「いえ。考査の勉強、頑張ってくださいね」
彼女が柔らかい笑顔で答えると、それに、スズは、苦笑しながら答える。
「あ、はい……」
「ユキさんの様子、いかがですか?」
「あ……まだ、学校には来られないみたいです」
「そうですか……」
アヤは、顎に左手の曲げた人差し指の節を当てる。
「お大事になさってくださいと、お伝えできますか」
スズは苦笑したあと、柔和な顔で彼女に答える。
「はい。真白さんも喜ぶと思います」
アヤは、スズに笑顔を向ける。
「橘さん。その証明書は、今週中に提出してくださるとありがたいです」
「はい。明後日、提出します。ユキ、学校来られるといいんですけど……ありがとうございます、柊先生。では、失礼します」
スズは挨拶をして、会釈とともに職員室を出る。
アヤは生徒の対応を終えたあと、別な教師に尋ねられる。
「今の子は……」
「ええ。橘さんです」
「しかし、柊先生も大変ですよね。あそこの生徒を二名も預かるなんて」
「いえ。そんなことは……ただ、欠席が増えてしまうのが難しいですね」
「そうそう、そうなんですよ。いやあ、困りますよね。こっちは義務教育なのに欠席って……」
「そういえば、私の友人も授業を休んでいましたね」
「ああ、柊先生は、日本支部の友人がいるんですか?」
「ええ。二人ともいい人ですよ」
そう言うと、アヤはパーソナルコンピュータのキーボードを打つ。彼女は、授業の資料を作っているのだ。
しかし、彼女は唇を引き締めた。
パーソナルコンピュータで調べた、ノヴァ日本支部・司令の汐波アカネのネットニュース記事があふれていたからだ。
日本支部もまた、ネット上の批判がひどく荒れていた。
スズはため息をつく。
自分で持っている両手のプリントが、山積みになっているからだ。
「これやるの大変そう……図書室行くか……」
スズが図書室に入ると、初老の女性司書が、声をかけてくれた。
「あらあら、そんなにたくさんプリントを抱えて。これから勉強でもするの?」
スズは、白髪の彼女に穏やかに答える。
「こんにちは。まあ、そうですね」
「頑張って」
スズはまた穏やかに、お礼を言った。
「ありがとうございます」
それから、スズは、陽が当たる窓側の机を見つけて座ると、プリントを解く。
スズは、プリントの問い5を見ながら、シャープペンシルをくるくると回していた。彼女は、この問題がわからないのだ。
(む、難しい……ハルトかカエデにでも聞こうかな。あ、アオくんはどうだろう? わかるかな?)
スズは数学を諦めると、歴史の設問に挑む。スズは実は、数学よりはましだ、と思っている。実際、スズは歴史の設問は、数学の設問を解く時間より早いのだ。
しかし、スズの設問を解く手が止まった。それは、『紀元前に発生し、人類の大多数を巻き込んだ大災害を答えよ』という歴史の設問だった。
「これ、私なんかより、ユキのほうが詳しいんじゃない?」
スズも唇を少し尖らせて、顔をうつむいた。
「これは、確か……『原初の大災害』だったはず」
彼女は長い襟足をかく。
「えーと……あとは……」
スズはまた、シャープペンシルをくるくると指先で回す。だが、上手く回せずに親指と人差し指の間をシャープペンシルは回っているだけだ。
初老の女性司書が近づいてきたので、スズは慌てて会釈する。
「あ……すみません。うるさかったですか?」
彼女は、ゆっくりと首を横に振る。
「いえいえ。謝らなくてもいいのよ。ちょうどあなた以外は、誰もいないしね。それに、ここ、あんまり人来ないのよ。だから、あなたが来てくれて嬉しいわ」
初老の女性は、うふふ、と微笑む。
「それに、若人は、めいいっぱい楽しまなくちゃね」
「なるほど……」
携帯電話が鳴る。
「あ、すみません」
「あら、お友だち?」
「あ……はい。友だちです」
スズは少し嬉しそうな顔で、携帯電話を見る。ハルトからの電話だった。
「すみません。ちょっと出てきます」
「はいはい。行ってらっしゃい」
「はい」
うなずいたスズは、図書館の引き戸を閉める。
携帯電話のボタンを押した、耳に当てた。
「もしもし。ハルト?」
『スズか?』
ハルトの声に問われて、彼女はうなずく。
「うん。そうだよ。どうしたの?」
『実は、今日の午後から、パイロットテストがあるんだ。放課後、用事あるか?』
スズは右斜め上に視線を上げて、放課後の予定を思い出そうとし、それから、持ってきた薄紫色の予定帳を確認する。
だが、用事は特に何もなかったので、彼女は首を横に振る。
「ううん、ないよ。大丈夫」
『そうか……たまには、友だちと遊んできてもいいんだぞ? 時間はずらせるからな。言っておくが、サクラもちょっと心配してる』
「サクラも」と言うことは、「ハルトも」心配してるのだろうか。
「ううん。約束してる人いないし、大丈夫。ありがとう、ハルト。ねえ、あのさ、サクラさんにも心配ないって、言ってくれない?」
『わかった。じゃあ、十八時——午後六時からでいいか?』
「いいよ。あ、そうだ。数学の問題でわからないところあって……アオくんはわかるかな?」
『多分な。聞いてみるといいよ』
「うん。そうする。ありがとう」
ハルトの声は嬉しそうに笑っていた。
『いや。じゃあな』
「うん。またね」
スズは青年との電話を切った。
スズが図書室で勉強をしたそのあと、屋上への扉を開けると、涼しい風が彼の髪を撫でる。
(涼しい……あ、誰かいる》
手すりに腕を預けている一人の生徒がいた。
(ちょっとだけ涼んだら、教室に戻ろうかな。あの人の邪魔したら困るし……)
スズは手すりまで歩を進めると、背伸びをして息を吐いた。
肺にある空気を空にするように、思い切り吐き捨てた。
その女子生徒は、空を眺めていた。
昼頃までの曇天とは違い、晴れ渡った空には、白い雲が流れ、太陽がじりじりと照りつける。
突然、彼女は、誰かに呼びかけられる。
「あ……シノ?」
彼女が、冷たい飲み物を両手に持っている。
「はい。これ、あげる」
「あ、うん。ありがとう」
スズは、彼女からそれを受け取る。
「いつも、ここに来るの?」
「うん」
スズはうなずいたあと、遠くに見える白い海を眺める。
「ここ、いいよね」
「ところで聞きたいんだけど、いつも何してるの?」
「えっと……空を眺めたりするんだ」
スズは、ペットボトルのキャップを開けてひと口飲む。
冷たい緑茶の苦みが、口に広がっておいしい。
シノは片腕を手すりに預けながら、どこか遠くを見る。
「自然は時に人の心を癒し、孤独を紛らわせる、かもしれない」
「孤独?」
彼女は、神妙な表情でうなずく。
「寂しいという疎外感……それは、つらいから」
彼女は、先ほどとは違って真顔になると、いつものように、丸眼鏡をカチャリと押し上げる。
「なぜ、あなたは、空を眺めるの?」
「え? えっと……」
彼女は困ったような顔をして、上を見上げる。
(そういえば、考えたことなんて無かったな……)
そして、彼女は、顔をうつむかせた。
スズは、ぽつりとつぶやく。
「嫌なことから、逃げるためかも……」
シノは、きょとんとする。
「嫌なこと?」
スズはシノから目線を外した。
「うん……」
スズの脳裏には、「両親を亡くしたかわいそうな子」と言われる嫌な記憶が蘇る。
彼女の表情は少し硬く、顔をうつむかせていた。
シノは白い海を眺めて、相づちを打つ。
「そっか……」
「シノ、さっきの話って……ほら、高校のこと、教えてくれない?」
「滝海のこと?」
「そうそう。それ。私、知らなかったよ」
「滝海って、『第二東京高等学校』を新しく改名してできた高校なの。あの大災害が起こって、ここに来たときに、名前を変えたんだって」
シノの肩までの黒髪が、風になびいた。
「私のお父さんも、シュンのお母さんも、あの大災害でいなくなっちゃった。みんな、スズさんと似てるとこあるんだよ」
言葉に詰まったスズは、携帯電話から通話ボタンを押し、電話に出る。
「あ、ごめん。シノ——はい。もしもし。わかりました」
再び、彼女は、通話ボタンを押し、電話を切る。
「どうしたの?」
「ちょっと、用事の電話」
「さっきの滝海の人?」
「ううん。でも、知り合いだよ」
シノは、青く澄み渡る空を眺めた。
スズはひと呼吸つくと、腕時計をチラ見した。
「あ、もうすぐ授業始まるな。そろそろ戻らないと」
スズが言うとシノは答えて、手すりから背を向けた。
「次の授業って、確か……」
「二人とも、授業始まるぞ」
シュンも合流すると、三人で階段を駆け下りた。
アカネは、ノヴァ日本支部所有のヘリコプターから降りる。
彼女は、北海道にある国連軍会議室に足を運んだ。
彼女が歩くたびに、緩くまとめられたポニーテールがふわりとなる。今日は、装飾がほどこされている黒いヒールを履いていた。左足に縦のスリットが入れられた黒いズボンは、アカネの左足をもろに出していた。
アカネは、重い扉を両手で開け、迷わず奥の椅子に座る。
彼女が席に座るなり、軍服の女性に質問をされる。
「先の件のことについて、いくつかお聞きしたいことがあります。日代大尉」
彼女は、右足を組みながら尋ねた。
「先の件とは?」
「〝真白ユキ〟の〝原罪の力〟の件です」
アカネに言われた彼女は、重厚そうな長机に報告書を置く。
「それでしたら、何も問題はありません。これは、例の報告書です」
その題は『ウーゼ5号機による長野県諏訪市被害報告』と書かれている。
若い青年の声が、右手側の席から響く。その声は、今日も不満そうだ。
「あの5号機の件もだが、今回もまた派手に街を壊してくれましたよね。あの街の修理費は、一体、いくらかかりますか?」
彼は興奮しながら、アカネに毒を吐いている。
しかし、アカネは涼しい顔で答える。
「ひとつと半分の国が傾く程度ですね。蒼龍中佐」
そして、アカネは『0号機パイロットについて』と、書かれた題の資料を艶のある茶色の瞳で見る。
彼は苦虫を噛み潰したような顔をし、鼻を鳴らす。
「またかよ……」
軍服の女性も深くうなずき、話題を変える。
「そうですか……。彼女は?」
「5号機パイロットは、やはり、あの件で精神的不安を抱えたままのようです。明日は山田室長が、パイロット三名にテストを行う予定です」
軍服の女性はアカネに、再び質問を返す。
「〝あれ〟は必要なのでしょうか?」
「まだ少し先になります。データは、もう少し収集してからですが」
「備えは必要、というわけですね」
「予備は必要です。0号機パイロットの身体検査も、予定どおりに行われています」
コーヒーをあおった青年が、また、挑発気味にアカネに口を挟む。
「ところで、黒髪で賢そうなパイロットはどうしていますか?」
「〝二番目の少女〟は彼女に接触しています。処理は、当分見送ってください」
不満そうな青年は、目を細める。
「見送り? 彼女、使えますかね?」
アカネは小さくうなずく。
「ええ。彼女も計画に必要です」
「人類を再生させる計画」
軍服の女性は感心する。
「そのために必要ですか。使えるものは、なんでも使う。そうですね?」
「ええ」
アカネは、二名の軍人たちを横目で見た。
「たとえ、人でなくとも……」
軍服の女性が、両腕を長机の上に置く。
「そういえば……なぜそんなに、計画にこだわっているんですか? 汐波司令」
アカネは、ふっ、と少し嘲笑した。
「それは、あなた方でもお教えできません」
「おま……」
しかし、青年は息を吐いた。
「無礼をお許しください。司令」
軍服の女性は、アカネに対する質問はやめた。
「わかりました。予算は一考します」
「ええ。ご配慮を頂き、ありがとうございます」
アカネが立ち上がり、近くを通るときに、眉根をひそめた青年は、ため息をついた。
やがて、扉は閉まった。
先ほど、ため息をついた軍服を着ている青年が口を開く。
「あんなのが、司令でいいんですか?」
彼はコーヒーを入れに、コーヒーメーカーへと近づきながらお湯を注ぐ。
軍服の女性は会釈をして、彼にティーカップを渡した。
軍服の女性が、軍服を着ている青年を諭すように答える。
「仕方がありませんよ。しかし、彼女に任せたほうが、穏便に運ぶでしょう」
ティーカップに紅茶を入れている、軍服を着ている青年は嘲る。
「あの室長は? 何も知らないんですか? ま、この間は計画についても聞きましたが、知らないと答えていましたもんね」
軍服の女性は、彼を諭す。
「知っていることと知らないことが、山田室長にもあるのでしょう。あまり、焦らせないでください。あ、ありがとうございます」
軍服の女性はティーカップをまた会釈して、軍服を着ている青年から受け取った。
「ほら、熱いうちに飲んでください」
「ええ」
彼女は、ひと口飲んでから補足をする。
「彼があまり知りすぎるのも得策ではありません。敵は、少なければ少ないほどいいですね。彼らは、モルモットではありませんから」
軍服の女性は、白いティーカップを同色のソーサーに置いてから、また質問をする。
「〝真白ユキ〟さんは?」
軍服を着ている青年は、大げさに肩をすくめた。
「現在も、地下のガラス部屋に軟禁中だそうです」
軍服の女性は、また紅茶をひと口飲んだ。
いつもどおり、資料をおざなりにした軍服を着ている青年が、ため息混じりで答える。
「あれも、一体いくらかかるんだろうな。全く関わっても、ろくな事にはならないのに、なぜ、協力をしなきゃいけないんですかね?」
軍服の女性は、諭す態度で彼を見た。
「彼女にも組織というものが必要です。私たちはそれに、ほんの少しばかり手助けをしているだけですから。ただ、彼女も、いずれ……」
だが、軍服の女性は、ここで言うべきではないと判断をし、議題に入った。
「いえ。今回の議題は『ウーゼ2号機パイロットの覚醒』の件です。彼女は一時的に力を解放したようで、それが、先の2号機から発せられた攻撃ですね」
「日代大尉。俺のほかに、もう一人募集しませんか。ほしいんですよ、人員」
「朝霧さんはどうでしょう?」
軍服を着ている青年は、肩を萎ませた。
「冗談です。すみません……」
国連軍所属で、補佐官を勤める朝霧・ユウ・クラークは、日代に優秀な能力を買われているが、優秀すぎるため、蒼龍は苦手なのだ。ちなみに、蒼龍には、苦手な人物が多いらしい。
アカネは諏訪市に戻ると、気晴らしに古本屋に寄った。その場所は、カエデのアパートメントに近い所にある。
『諏訪中学校』の教師・柊アヤの父が営んでいるこの店は、アカネが中学生の頃からあると、彼女自身、記憶している。
若い男の店員がレジスターの前で会計をしている。アカネはその男の前に立つと、選んだ文庫本を置いた。彼は、アカネが置いた文庫本をしげしげと眺めた。
なぜなら、アカネが選んだ文庫本の冊数は、約二十冊だったからで、この店で二十冊ほどの文庫本を買う人間は限られてくる。今、来店したアカネと、以前来た女子高校生だ。
女子高校生は、もちろんカエデだ。たまにエンジェルの〝カオル〟が、カエデに成り代わっているときもあるらしいが。
若い店員はレジスターで山のように積まれた文庫本の会計をしていたが、その視線は美女に向けられていた。
彼女は緩くまとめられたポニーテールを焦げ茶色の長髪をまとめている。
黒いジャケットを羽織り、同色のスリットが入っているズボンが、彼女の左足をあらわにさせていた。そして、装飾がほどこされている黒いヒールを、彼女は履いていた。
「あの、名前教えてくれませんか」
「名前? 私のですか?」
「ええ……まあ……。あ、すみません。初対面で、気持ち悪いですよね?」
「いえ」
アカネはジャケットの内ポケットから、名刺入れを取り出すと彼に渡した。
「あの、ありがとうございます」
彼は、古本屋を出ていくアカネに一礼するが、名刺を見て驚いた。
「え!? あ、あの……」
その頃には、アカネは店を出ていった。
午後の支部内では、簡易シミュレーション施設でパイロットテストの結果が出力される。
そのパーソナルコンピュータから、小さな電子音が鳴った。
サクラが、コックピットの三人にディスプレイで声をかける。
『テスト終了です。もう上がっていいよ。みんな、お疲れさま♪』
最初に、スズが声を上げた。
「はい」
ユキとカエデはハッチを開けて外に出たあとは、そのまま、更衣室に直行している。
スズもいつものことながら、少し疲れた足取りで更衣室へと向かう。
サクラはパーソナルコンピュータでテストの結果を見ているが、浮かない表情だった。
「このテストも、予備のため……」
サクラが眉を下げた顔になる。
「スケープゴート」
黒い瞳は、ふっと床に落ちる。
「備えは常に必要、だよね」
(たとえ、みんなに望まれていなくとも、私が、嫌な役回りをすればいいだけなんだから)
「あっ……」
この近くから地響きが鳴ったと、同時に、指示室に固定電話から連絡が来る。
サクラが受話器をとり、答える。
「はい。林です。——了解です、今から向かいます。はい、ありがとうございます。はい。失礼します」
サクラは、相手が固定電話の受話器を置いたのを確認してから自分も切る。
白衣を脇に抱えて、ある場所へ向かった。
エレベーターが、地下の三十階に到着したことを告げると、ポーン♪ と、機械音を鳴らした。続けて、横開きに扉が開くと、白髪の少女がエレベーターの眼前にいた。
彼女はサクラを一瞥するが、しかし、さほど驚く風でもなく、顔色ひとつ変えずにエレベーターに乗り込む。
サクラは、彼女に会釈をする。
「お疲れさま。ユキ」
「迎え?」
扉が閉まり、上昇する浮遊感がわずかに感じられたとき、サクラは首肯する。
「うん。そのはずだったんだけど、予定より早く終わったんだね」
「別に。十分早く終わっただけ」
「ユキは大人だね」
「何が? サクラが、スズと同じように優しすぎるから」
ユキは自嘲するようだった。
「わざわざ、私の心配もするなんて」
「むだな行為だって言いたいの?」
ユキは、間髪入れずに否定する。
「違う。あなたが余計な心配をする必要はない、って言いたいの」
ユキは、少し身長の高いサクラを見上げる。
「血、付いてる? 拭ったはずなのだけれど」
赤い瞳が、こちらを見つめていた。彼女は先ほどまで、0号機に乗っていたのだ。
ウーゼ0号機で、自分自身を殺害するために。
「ううん、付いていないよ。失礼なこと聞いちゃうけど、シャワーは浴びた?」
「うん。浴びた。けど、錆びた鉄のような匂いが取れないの」
ユキは、白いインサートスーツを身にまとった片手の手首を鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。
「これが、命。私が存在を消したのね」
ユキはサクラの顎に手をつかむように添えると、彼女を壁際に追い詰める。
「くっ……うう……」
サクラは、顔をうなだらせた。
赤い瞳で彼女を見るユキの手の甲に、透明な雨がとめどなく落ちる。
「なぜ泣くの? あなたは」
サクラはまぶたを拭う。
「ごめんね……。ユキが殺し合うなんてことしなければいいのに、って思って」
「違う。私はリリム。あなたたちの敵なのよ。情にほだされないで、サクラ」
濡れる黒い瞳は、揺れ動いていた。
「あなたは私に寄り添うのではなく、恐れなさい」
「そんなことしないよ。私にとって、あなたはまだ子どもなの。だから、まだ護られていてよ!」
「子ども……? あなたより、永久の時を生きている私が?」
「あっ……」
サクラは奥歯を噛み、泣き腫らした瞳でユキを見る。
その赤い瞳は、揺らがなかった。
「私は様々な人間を見てきた。
ほとんどがヒトと呼べるかどうかもわからないほど、傲慢で愚かだった。気味が悪いほどに。
けれど——優しい人間もいると知った」
エレベーターが到着の階を機械音で知らせるが、まだ目的の階ではなかった。
眼前の扉が開き、暗灰色の上着を着用している職員や白衣を着用する研究員が世間話をしていたが、彼らは、ユキを見て話をやめた。
サクラは彼らに、声をかけた。
「乗りますか?」
「い、いえ。ありがたいのですが、私たちは次のエレベーターに乗りますので……」
ユキは人波を縫って、その階に降りた。
「あっ……ねえ、ユキ? どこ行くの?」
白いワンピースがなびく。彼女は、もろ手を後ろで緩く組んでいる。
「大丈夫、サクラ。あなたはそのヒトたちと一緒に乗って」
「けど……私は、ユキとも一緒に乗りたいの」
「いや、彼女もそう言ってることですし……行きましょう」
サクラは、エレベーターの開ボタンを押すと、謝罪しながら、ユキとともにその階に降りた。
再び、機械音がすると、エレベーターの扉は閉じた。
ユキは壁際に寄って、少し背の高いサクラを見上げる。
「いいの? 一緒に行かなくて」
「あの人たちは、ユキの人柄を知らないから、だから、いいんだよ」
「つまり、一緒にいなくていい人なの? サクラは、あの人たちのことが嫌い?」
サクラは首を振った。
「ううん。いい人たちだよ。でも、ああいう無神経さが、私、嫌だから」
ユキは一心に、白髪を撫でていた。0号機に乗ったときに、髪が乱れたらしい。
「カエデは?」
「カエデさんなら帰宅したみたいだよ。そうだ、ユキ。スズちゃんが給付金のことですごく驚いてたって、カエデさんが言ってたよ」
「ああ……スズはあんな大金もらったことないから。でも、妥当かもしれない」
ユキは両手を組んで、腹部につけた。
「……サクラは、私の口座からお金下ろせる?」
「下ろせるけど……その前に、使う額と使用方法を教えてくれないかな? ちょっと心配だから」
「スズにあげるの。私、お金は必要ないから。本当は私が下ろしたいんだけど、未成年だから」
サクラは唇を引き締めて、少し眉をひそめる。
「スズちゃんにはスズちゃんの給付金があるし、それと同様に、ユキにはユキの給付金があるの。それに、貯金をしても損はないからね。貯めといたほうが、あとあと楽だよ?」
ユキは、顔をうつむかせていた。そして、訥々と話し始める。
「サクラは、私が『第二次大災害』を起こしたって知っているでしょう。なのに、打って変わって、なぜ人間を助ける私に給付金をくれるの?」
「それは……ユキが、ウーゼ0号機パイロットだからだよ。そして、その命懸けの職務を全うしているから」
ユキは、そう、と、首肯する。
「そういえば、ちょっと聞いてみたいんだけど……ユキはどうして、スズちゃんを護りたいの?」
「知りたい?」
サクラは、少し恥ずかしそうに頬をかいた。
「そうだね、まあ……。でも、ユキが話したくないなら、話さなくていいんだよ」
ユキは少し口を開けて、サクラを凝視した。
「さっき……」
サクラはユキを見る。
「ん?」
「つかんだところ、痛かった? ごめんなさい……強くつかんで」
彼女は、胸の前でもろ手を振る。
「それは大丈夫だよ。気にしないで」
それから、また彼女は、恥ずかしそうに頬をかく。
「あれは……私が泣いちゃったから。というか、最近、涙腺が緩くなってきて……ダメだよね。私、泣いてるとこ、見られてばっかりで……」
彼女は、えへへっ、と、愛想笑いをする。
「サクラは、ソウマとナギサについて、どれくらい覚えているの?」
「あっ……ああ……そうだね。仕事を教えてもらったり、一緒に飲み物を飲んだことは覚えてるよ。ユキは?」
「私には新鮮な出来事が多すぎて……」
ユキは右手を顎に当てた。
「でも昔、私は、ナギサに、何かを言われたの。それは覚えてる。多分、スズのことだと思う」
「そういえば自慢してたもんなあ、スズちゃんのこと。あのお二人……」
サクラは、ふふっ、と、笑った。
「ソウマは、かわいいって言ってた。世界一かわいいって」
ユキは、元司令の声まねを交えて答える。
「俺の子は、きっとすごく美人になるぞ、いや、きっとじゃないな。間違いない、って、そう言ってた」
それを隣で聞いていた彼女は、ふふふっ、と、さらに笑った。
「どうして笑うの?」
「声まねうまいなって思って。ごめんごめん。ユキのこと、ばかにしたわけじゃないんだよ? でも、私も、そのとおりだと思うな」
ユキは首肯した。
「うん」
彼女は、少し顔をうつむかせる。
サクラが見た彼女の顔は、なんだか嬉しそうだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
スズちゃんは、みんなのことを知りたいと思いながら、ほかのみんなは、他人にあまり話せない秘密を持っていたりするので、新米のスズちゃんに話すべきなのどうなのか、そこの調整が難しいんです……。
一方、スズちゃんも、他人には話せない過去がありますので、本人も悩んでおります。
一見、優秀な登場人物でも、実はとても悩んでいたり……など、人間関係の難しさを表せられたらいいな、と思っております。




