ママの存在
「え、本当なのママ。もう高い所に行っても大丈夫なの?」
栞音はふわふわパンケーキから、年上まで成長した地球に視線を向ける。
「えぇ。体の成長が安定してきたから、本体|(地球)から少し離れていても辛くないわ」
「少しってどれ位?かなり大丈夫なら、ママに高い所から夜景を見てほしいな」
「そうね…」
「あ、もし、大丈夫ならば飛行機、ヘリコプターで夜景が見られるサービスがあるから、頑張って手配する。テレビでやっているのを見た事があるけれども、凄いんだよ。窓の下が闇の中に咲く光の花畑みたいで……普通に夜景を見に行くのもいいなぁ。新幹線に乗ればすぐ着くし。関東にいるから千葉にある有名な……」
栞音は悲しげに見つめるママの視線に気づいた。それから会話の僅かな間に、自分の目が通り過ぎる人を無意識に追っていた事を再認識する。
ボディバッグを持った男性。
外見は違うけれども幼なじみと同じアイテムだった。
「栞音」
「大丈夫、何でもないよ」
「栞音」
ママの声は優しく澄んでいて、もやもやな栞音の心にノックする。
「可哀想に。あの子のことが忘れられないのね」
「……」
「隠そうとするればするほど、体と心は悲鳴をあげる。
部屋を出てから栞音の表情は悲しく沈んで。鏡を見てごらんさい。あなたの可愛い顔が、今にも泣き出しそうになっているわ」
「……」
「あなたが望むならば、岳春を呼び戻しましょう」
「え、ママは、男はいらないって言ったのに良いの?」
「えぇ。岳春は海の向こうにいた子たちと違う気がするの。
それに栞音が悲しいまま、終わりを迎えてほしくないわ」
「でも、たけちゃ…あいつは、ママの決定を反対するのよ。人間に生きる権利はあるって言うのよ」
「あら、困った子ね。
でも、大丈夫。岳春がどんなに反対しても、決定は変わらないから」
「………でも」
「時の終わりは明日までよ。悲しいままで良いの?」
「……………………」
栞音は視線を落としたまま、両手をキュッと握りしめる。
思考に意識を集中していたので、近づいてきた人物に声をかけられるまで気づけないでいた。
「お食事中、失礼します。
あなたが田蔵栞音さん、ですね」
見上げた先には見覚えのない黒いスーツ姿の女がいた。
「誰? 自分から名乗らない人に答える義務なんてない」
栞音の返答に女は『失礼』と口にしてから手帳を見せたが、ドラマとかでみる手帳とは違うものだった。
「緊急特務機関クミミズの船笹です。
あなた達には、人類滅亡の件を知る重要参考人として話が聞きたい。ご同行者、願えますか?」
船笹は少女の返答よりも先に何かが飛び出る音を耳にした。
『子供だと思って油断した』と言葉が生まれ、体はすぐに反撃に動く…はずだった。しかし体が動く前に体が消滅してしまった。
「ママの観光を邪魔する奴なんて許さない」
栞音はポケットから取り出した種銃をすぐにしまい、周囲の変わらない雑音を確認した。
大きな発砲音と倒れる人の姿があったならば、周囲は悲鳴をあげ騒動になっていただろう。しかし、僅かな音と一瞬の消滅に客も店員も気づくことなく、自分たちの時間を進めた。
ざわめき始めたのは、駆けつける複数のスーツ姿の男たちによってだった。
「……」
スーツ姿の中に川更の姿もあった。
近くの席で待機していた川更は上司の消滅目撃した。
目撃したが、頭は理解できないでいた。
「…ご同行者、願えますか」
混乱する頭を必死に制御して、目の前にある任務を遂行する。
栞音の僅かな動きを察知し、バッグから取り出そうとした手首をつかんでねじ曲げ、バッグごと離させる。
それができたのは訓練と実戦を経験してきたプロだからだろう。
「そのおかしな銃の入手先についても、説明してもらう」
苦痛できっと目をつり上げる事しか出来ない少女の横で、同行者…綺麗な、日本人でなさそうな青い目と人間とは思えない美しさを持つ少女が立ち上がった。
「外に出ましょう」
美少女の手が川更と栞音の手首をつかみ、簡単に離させる。
武器を持っている重要参考人が、危険と逃亡の恐れがないと確認できるまでプロである川更は離すことはなかった。なのに離してしまった。
「……」
得体の知れない美少女を川更は観察しようとしたが、それを阻止するかのように残虐な少女が割り込んできた。
「バッグ返してくれる? パンケーキ代、払いたいんだけど」
「立て替えておく。お前達を解放できる時に請求する」
残虐だが、人間っぽい少女には、冷静に対処できた。
2人を連行し、店の外に向かう。
車は店前に止めてあり、ドアを開ける同僚の姿を確認する。
こみ上げてくる、上司の消滅という混乱を抑えつつ、外に出た川更は『ぶぉん』という、一つの音を耳にした。
「?」
1匹の蜂が川更の耳元を通り過ぎただけ…だったのだが『ぶぉん』と再び音が通り過ぎていく。
『ぶぉん、ぶぉん』と音は止まない。
危険を感じ視界を上げてみたが、数匹の蜜蜂がいるだけだった。
「?」
異変とは思えない数の蜂だが、こっちに向かって飛んでくる。
『誰がハチミツをくっつけているのか?』と言おうと開いた口は、新たなる羽音で驚く声になってしまった。
「スズメバチ」
スズメバチだけではなかった。新たなる、もっと大きな羽音が威嚇するかのように近くを通り過ぎて行く。
「カラス…」
近くの電線に止まったカラスの横にスズメや鳩も止まっていたが、さらに別のカラスが舞い降りて一行に一鳴きする。
「ネズミが」
同僚の誰かが悲鳴を上げるように、足元の異変を口にした。
川更の靴上にもネズミが横切っていく。
耳には敵対を表すネコの声、鳥の声が届き、見上げた空に新たなる鳥たちの姿があった。
「…何だこれは」
あらゆる生物が一行を取り囲んでいた。
全ての生物が威嚇、怒りを向けてくる、川更達 に に。
「威嚇が攻撃に変わらないうちに、ママを解放することね」
残虐な少女は、笑いながら警告してきた。
「皆、ママが大好きだから、ママに何かしようとする人間は許せないんだよ」
同僚たちの悲鳴が上がった。見ると何匹ものカラスが飛びかかるところだった。
「だめよ、攻撃しては」
得体の知れない美少女はいつのまにか川更の近くにいた。
その声に反しカラス達は近くの電線に戻っていくが、一匹だけ旋回してこちらに向かってきた。
ママと呼ばれる少女が手を伸ばすと、そのカラスが止まる。
「良い子ね」
カラスはヒナ鳥のように『ぎゅええ』と甘えた声で一鳴きし、少女を見つめる。
「私は大丈夫よ。皆、安心して」
得体の知れない美少女は静かに優しく声をかけた。
だが、その一声で取り囲んでいた生物たちは一斉に飛び立ち、走り去ったのだ。
「…………」
呆然とする川更に、残虐な少女は何かを投げてよこした。
手にしたのは茶色の塊。
なのに触れた瞬間、それが上司だとわかった。
知った途端、抑えつけていた混乱が川更の精神に襲いかかり、体から力が抜けていく。
「私達の邪魔をしないでちょうだい」
川更と戦意消失した者たちは、ゆっくりと歩き去る少女たちの背中を見ていることしか出来ないでいた。




