最後の勤務
3月31日になった。藍子の最終勤務日だ。
朝、藍子が出勤した時から既に、春子は目が少し赤いような気がする。
「藍子さんが辞めると聞いた時にはどうなることかと思ったけど、若い主婦の蘭さんが入ってくれるし、英語ができるすみれちゃんも来てくれるし、ITに強い初響ちゃんがSNSで宣伝してくれそうだし、何とか後任が定まって良かったわ」
「優秀な方たちばかり、すごいです。さすが春子さんの求心力ですね」
「私は募集しただけなんだけどね。藍子さんと華ちゃんの合作の引継書もコピーしたし、ここからは新人教育がんばるわ」
「はい。応援してます」
「改装の件も家主さんに相談したらおおむねOKだったの。家賃はありがたいことに据え置きで、改装費用はこちら持ちね。元スタッフルームの壁と床を綺麗にして、椅子とテーブル買うだけだから、大した出費ではなさそうよ」
「それは良かったですね。今のスタッフルームのテーブルと椅子は2階に運ぶんですか」
「そうそう。そちらは特に改装はせずに、ハウスクリーニングだけ頼もうかなと」
「スタッフだけですものね」
「図面と書類を用意して、消防署と保健所に手続きに行って、実際に内装工事をして、あとはワッフルランチの材料や仕入れ先を考えたり、メニューを作り直したり。意外と細かいところに時間はかかりそうだけど、9月初旬までに完成させて、シルバーウィークまでにはワッフルランチ販売開始っていうのが今のところの目標なの」
具体的に新生小春庵の計画が着々と進む様子に、藍子は胸を膨らませ、でも自分はいないんだなと思うとちょっぴり寂しい。
「まいどー」
「あら、源さん。今日は発注してないわよ」
「うん、納品じゃないけどさ、アイちゃんが最後だっていうからこれを渡しに来た」
源田は小さな紙袋を藍子に渡す。
「オレこういうのわからないから嫁さんに見繕ってもらったんだ。プレミアム蜂蜜と、フランスのチョコレートだって。両方めちゃくちゃ美味しいらしいから、退職して時間ができたらおやつにでも使ってよ」
「ありがとうございます。おしゃれなセレクション。奥様のセンス素敵ですね」
「何だか知らないけどさ、うちが扱ってる物の中で最高級のプレゼント選んでって言ったんだよ」
「まあ。ありがとうございます。これからは基本自宅で作業するので、おやつタイムにいただきますね」
「元気でがんばってな」
「あ、ちょっと待ってください!」
藍子が奥に引っ込み、
「お世話になりました」
と書かれたクッキーを1つ持ってきた。
「これ、召し上がってください」
「ありがとう。これはもったいなくて食べられなさそうだな」
「栄牧場さんでオーダーしたクッキーなんですよ。美味しいから召し上がってくださいね」
「そうか、栄さんのか、ありがとう。じゃ、遠慮なくいただくよ。アイちゃん、元気でがんばってな」
源田が去る。
「きっと今日は皆さん次々に現れるわよ」
春子の予想通り、次に若旦那が現れた。
「藍子さん、最終日ですね。お疲れさまでした。これうちの商品なんですけど、良かったらどうぞ」
それは白沢茶太田園のティーバッグのセットだった。
「煎茶、玄米茶、ほうじ茶、生姜茶、黒豆茶に、柚子入り、ラベンダー入りなど、20種類のお茶のセットなんです。退職されたら看板制作の合間に飲んで、疲れを癒やしてくださいね」
「こんな豪華なセット!ありがとうございます。いただきます」
藍子はまたクッキーをお礼に手渡し、若旦那は
「じゃあ、藍子さんこれからもがんばってください」
と言って帰っていった。
次にサカちゃんの登場だ。
「藍子さん!もう最終日なのね。寂しくなるわ」
サカちゃんはしばらく藍子をハグし、
「これ栄牧場からよ」
と生キャラメルの箱と、栄牧場オリジナルの「サカちゃん」という小さい牛のぬいぐるみをプレゼントした。
「取材で遠征の時、寂しかったらスーツケースに入れていってね」
「嬉しいです。連れていきます」
藍子はぬいぐるみを抱き締める。
「これ、栄牧場さんで買ったクッキーなのにお渡しするのも変な感じですけど、お礼のクッキーです。召し上がってください」
「ありがとう。まさかの自社のクッキー、いただくわ。じゃあ元気でね」
次にドアが開くと常連の佐藤氏で、妻も一緒だ。
「こんにちは」
「あら!佐藤さんに麗花さんも!」
奥から春子が出てくる。
「いらっしゃいませ、佐藤様の奥様ですね」
「佐藤麗花です。主人がいつもお世話になっています」
麗花はお辞儀をする。
「話には聞いてましたけど、藍子さんによく似ていらっしゃいますね」
「わあ、嬉しいです!ありがとうございます」
佐藤は麗花に、
「厚かましいんじゃないか?」
と言い、麗花は
「もう!」
とほおを膨らませる。
佐藤は藍子に
「今日で最後ですね」
と声をかける。
「そうなんです。でも佐藤さんご夫妻にはこれからも保護猫関係でお会いできそうですね」
「そうですね。お忙しいでしょうけど、たまには保護猫活動の集まりにも来てくださいね」
「はい。まずは看板制作に集中して、リズムができて慣れてきたら、保護猫の方もできるだけ参加したいなと思っています」
麗花も
「絶対来てくださいね」
と甘えるように藍子の手を取って揺らした。
佐藤は、
「藍子さん、これ、うちの団体が作って保護猫カフェで使ってる、いちばん人気の猫じゃらしと猫用ブラシです。退職の時のプレゼントにふさわしくないかもしれないですけど、きっと役に立つと思いますので、受け取ってください」
「ありがとうございます!嬉しい!」
藍子は大喜びで猫じゃらしを振った。
佐藤が持ち帰るワッフルを選んで藍子に注文している間、春子は麗花に声をかける。
「麗花さんは保護猫ボランティアをなさってるんですね」
「はい。週に2回ぐらい行ってます。緊急時に呼び出されることもあるんですけど」
「それは大変ね」
「ネコちゃんが可愛いからどんな時でも飛び出して行ってます。でも普通にパートのお仕事してみたいなとも思ってるんですけど」
「もしご希望だったらうちは歓迎なので、その時にはおっしゃってくださいね」
「ありがとうございます!」
藍子は包んだワッフルを入れた紙袋と、お礼のクッキーも佐藤と麗花にそれぞれ手渡す。
「ありがとうございました」
「では、また集まりの時に」
佐藤夫妻は手を振って帰っていった。
午後になり、華が少し早めに出勤してきた。
「藍子さん、今日が最後ですね。ほんの少しでも長くと思ってちょっと早く来ちゃいました」
「ありがとう華ちゃん。もう結構配っちゃったんだけど、このクッキー食べてね」
「ありがとうございます。でも食べると本当にお別れになっちゃいそうで悲しいな」
華ももう目が赤い。
そして、ドアが開いた。
「こんにちは」
入ってきたのは大山親子だ。
「藍子さん今日で最後だそうですね。特別に家内から許可が出て、『みつば』に並んで豆餅を買ってきました。こちらはお店の皆さんで召し上がって、こちらの包みは藍子さんが持って帰ってください」
「まあ、わざわざ息子さんも一緒に、ありがとうございます。たくさん並んだんですか?」
「30分並びました」
伸一が答える。
「でもそれだけの価値があるくらい美味しいので、召し上がってください」
「ありがとうございます」
藍子はクッキーを2人にそれぞれ渡した。
大山は、
「それと、ワッフル持ち帰りしたいんだけど、いいですか?」
藍子に言い、
「もう藍子さんにレジ打ってもらうの最後だね」
としんみりしながら注文する。
藍子がレジを打って、ワッフルを包んで紙袋に入れ、手渡す。
「ありがとうございました」
「こちらこそありがとう。これからもがんばってね」
「はい!」
「上園さん、藍子さんがいなくなってもがんばってね」
伸一が華の方を向いて言い、華は
「ありがとう。がんばります」
と微笑んだ。
その後も顔見知りのお客様、初めてご来店の方、日本人、外国人、いろんな方が来られたが、藍子は普段のお客様へのお礼に加えて、4年間の感謝の思いを込めて丁寧にワッフルを包んだ。
そしてとうとう藍子の退勤時間になる。春子と華が見守る中、藍子が最後の退勤ボタンを押し、春子と華はパチパチと拍手をした。
藍子はエプロンを外す。
「これ、私たち2人からよ」
春子が花束を渡した。
「藍子さんのイメージで、ブルーのお花を集めて、藍色のリボンをかけてもらったの」
「嬉しい…ありがとうございます」
藍子の大きな目から涙がこぼれる。
「今までありがとうございました。明日からの新生小春庵、応援しています。がんばってください」
「お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
「元気でね」
「絶対また来てくださいね」
2人は口々に叫び、藍子は何度も振り返って手を振りながら去っていく。
華も大きく手を振る。お別れの悲しみだけでなく、2年目への大きな希望を抱きながら。
(終)
この物語はフィクションです。作中に登場する人名や地名、校名、お茶やフルーツの銘柄などはすべて架空のものです。一部実在の名称と同じものも混在しますが、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。




