09. スイの筑前煮
秋葉と別れ、僕は服も着替えずソファに倒れ込んでいた。
喫茶店で百花のお歌を聞いて、神社の清掃をして、真菅さんと出会って。
思い返せば、今日一日で色々な出来事があった気がする。
「はあ。こんな時に、美少女が作り過ぎたおかずでもおすそ分けしてくれたら楽なんだけどな……」
帰り際にした妄想を思い出し、僕は小さく息を吐いた。
この際、三浦のおばあちゃんでも構わない。
誰かこの貧困大学生に美味いメシを恵んでくれ……。
そんな馬鹿なことを思いつつ、僕は鞄から小さな紙切れを取り出す。
『hina.masuga@namimail.jp』
そこには、真菅さんのメールアドレスが書かれていた。
……成り行きで受け取ったはいいものの、別に使うことは無さそうだな。
そんなことを思いつつも、とりあえず携帯を開いてアドレス帳にだけ登録しておいた。
『――メールアドレス。交換できてよかったね』
……そのアドレスを眺めていると、秋葉が僕に放った言葉が脳裏をよぎる。
別になんてことない、彼女なりのいつもの軽口なのだ。
けれど……その言葉が妙に頭を反芻して離れなかった。
それに、今になって彼女の最後の言葉が引っ掛かる。
隠し事をするならこっそりしたほうがいい。
この郷にはライブカメラがあるから。
論理的に筋は通っているように思えるが、どこか腑に落ちない。
真菅さんの言っていた、目的という言葉も引っ掛かる。
……ダメだ、こんなこと考えてても仕方ない。
きっと今は真菅さんの言葉や秋葉の冗談に、過剰に反応してしまっているだけなのだ。
そう自分に言い聞かせ、僕はソファから身体を起こした。
やる気も起きないし…カップラーメンかなんかで済ませるとするか。
――ピン――ポーン。
――不意に部屋へ鳴り響いた電子音に、思わず肩を震わせる。
部屋のインターホンがザザ……ザザザと無機質な音を立てた。
……こんな時間に誰だろうか。
見当のつかなかった僕は、なぜか必要以上に警戒しながら青白く光る液晶画面に目をやる。
映し出されていたのは、見覚えのある青髪の少女だった。
『遅い時間に申し訳ありません、杉谷先生。私です……スイです』
インターホン越しに聞こえるその穏やかな声に、僕は安堵の息を吐く。
どうやら訪ねてきたのは見知った顔の人物だったようだ。
返事をしてドアを開けてやると、そこには両手でタッパーを抱えたスイが。
半透明な蓋の向こうには、出汁で煮込まれて飴色になった人参や里芋が覗いていた。
お……おお…?
これはもしや、思いも寄らぬ僥倖かもしれない。
「夕食の筑前煮を少し作り過ぎてしまったので……お口に合うかは分かりませんが、よかったら召し上がってください」
「キターーー!! 美少女おすそ分けイベントおおぉ!!」
「――!? せ…先生………?」
スイの言葉に、僕は思わずガッツポーズを作る。
まさか妄想していたことが現実になるとは……この郷はやっぱり摩訶不思議だ。
……いけないいけない、つい舞い上がってしまった。
スイの顔が怯えて少し引き攣っているので、僕は息を整えた。
「こほん。筑前煮、ありがたく頂くよ。適当にカップ麺で済ませようと思ってたら、すげぇ助かる!」
「もう、きちんと食べないとだめですよ? バランスの良い食事を摂らないと、学校生活にも影響してしまいますよ」
「うぐっ……。すみません……」
スイは小さく手でバッテンマークを作り、僕にそう告げた。
……生徒に注意されるとは、教師を志すものとしていかがなものか…。
これは反省だな。
「どうぞ、先生。もしよろしければ、今後も作り過ぎたおかずを持って行きますね」
「えっ。いいのか?」
「勿論ですよ。この郷では助け合いが大事ですから」
小さく笑顔を作り、スイはタッパーを僕へと渡してくれた。
筑前煮を受け取ると…ふわっと甘辛い出汁と醤油の香りが鼻孔をくすぐる。
それが絶品であるということは、食べる前から分かるな。
「助け合いか……。今日帰り道に三浦さんと会ったんだけど、そん時も今度野菜をおすそ分けしてあげるって言われたし…そういうのって屋敷神のいい文化だよな」
「ええ、そうですね。きっと都会では感じられないような繋がりと暖かみがあります」
自分の故郷が褒められたことが嬉しかったのか、スイは再び笑顔を作る。
その表情は、普段より柔らかくて女子中学生らしい無邪気さがあるような気がした。
「それでは杉谷先生、あまり長居してしまっても悪いので失礼しますね」
「うん、助かったよスイ。ありがとうな」
夕食がカップラーメンからスイの筑前煮に昇格…とは、えらく贅沢になったものだな。
その感謝も込めて、スイに礼を伝える。
「寄り道とかしてたらあっという間に日が沈んじまうから、真っ暗になる前に帰れよ! また明日学校でな」
屋敷神郷では、日の落ちるスピードが早い。
周囲を山に囲まれていることに加えて、季節は既に秋の終盤に差し掛かっている。
この時期は瞬く間に暗くなってしまうだろう。
いくら平和な屋敷神郷といえども、女の子が夜一人で外を歩くのは少々心配だ。
「深夜に出歩く、なんてことしちゃ駄目だぞ。まあスイに限ってそんな心配はいらないだろうけど」
「ええ、勿論です。それが郷の掟ですから」
スイは、さも当たり前といった様子で小さくそう呟いた。
……郷の掟?
勿論、夜に外を出歩くことは褒められたものではないのだろうが……。
「スイ。……掟って何のことだっけ。もしこの郷の常識なら…すまん」
「――! 杉谷先生、ご存じありませんか? 郷律の一つですが……まだここに来てから日が浅いですし、仕方ないですよね」
…郷律か。
そういえば、その名前はどこかで見た覚えがあった。
たしか……屋敷神へ来て間もない頃に回ってきた回覧板だったか。
『郷律遵守へのご理解とご協力をお願いします』
そんな文面が書かれていた気がする。
郷律に関してはあまり目を通せていなかったが……それがいわゆる郷の掟か。
「日が沈んだら外に出てはいけない、的な掟なのか?」
「ええ。正確には二十二時以降ですが。この郷では絶対的な掟ですので、また確認しておいてくださいね。他にもいくつか郷律がありますので」
「あ、ああ……。そうするよ」
スイの言葉は、二上口家の立場としての響きを含んでいるような気がした。
笑みを浮かべてはいるが、郷律は絶対に破ってはいけないものだという強い意志が伝わってくる。
「しかし、夜にちょっと出歩いたところで何があるんだって思っちまうけどな……。そんな心配ないくらい平和だしさ。ま、何かこわーいものが出るってんなら話は別だろうけどな~」
僕はいつもの調子で、冗談交じりに軽口を叩いた。
スイなら、その冗談を軽く笑って受け流してくれる。
…そう思っていた。
スイは――僕の言葉に、驚いたような……困惑するような表情を浮かべていた。
いつもの軽い冗談のつもりだった。
なのに……スイ…何だよ、その表情。
「なあスイ、どうしたんだよ……?」
「――! ああ、いえ。すみません……もう遅いので、私はこれで失礼しますね」
「…待ってくれよ」
「……杉谷先生?」
自分の反応を誤魔化すようにドアを開けようとしたスイを、僕は呼び止める。
僕の声音は、少し苛立ちを含んでいたのかもしれない。
スイは再び目を丸くしてこちらを見ている。
何に対しての苛立ちなのか、自分自身でも分からなかった。
けれど……僕の胸の中で、真菅さんが言った『この郷が抱える何か』という言葉が大きく膨らんでいた。
「今日さ、僕と秋葉が波笛神社の掃除当番だったんだよ」
「ええ。把握しています。当番表は二上口家の管轄ですから」
「そこでさ。青喜原村、地域整備課の人に会ったんだ」
僕はそう告げ、スイの反応を伺う。
秋葉は、この言葉に少しの反応を見せていたが……。
「そうだったんですね。新道路計画の視察ですよね」
「ああ。そう言ってたよ」
しかし、スイは顔色を変えることなく言葉を紡いだ。
特に気に留めている様子はないようだ。
「…そこでさ、色々話し込んだんだよ。郷のライブカメラのこととか……」
この郷が、何かを抱えていることも聞いた。
そう続けようとしたが…なぜか言葉が喉に詰まってしまった。
知ってしまうことで、この平穏な日々に小さなヒビが入ってしまったら……。
そんなことを思ってしまい、僕は続きの言葉を別の方向へ切り返した。
「屋敷神郷のライブカメラ。あれは……郷興しのためにあるんだよな?」
「ええ。屋敷神郷のホームページや、配信サイトから閲覧できるようになっていますよ。まあ、視聴率はからっきしでしょうが……」
「……不気味なんだよ。……本当に、目的はそれだけなんだよな? 神社の、神木に設置されている意味や目的は――」
「えっ……?」
僕は思ったよりも険しい表情を浮かべていたのかもしれない。
スイはその勢いに、少し怯えているように見えた。
「す、すまん……。変なこと言って」
「いえ。気にしないでください。……それに、心配ないですよ。ライブカメラなら、波笛神社以外にも実はありますから」
スイの口から飛び出した言葉は、予想外のものだった。
てっきり僕はあの場所だけが特別なものだと思っていたけど…そういうことでもないのか?
知らないだけで、他の場所にもライブカメラが設置されているということなのか。
「少しずつ増設されているんです。郷興しの一環以外にも、積雪状況を確認したり防犯だったり。他に目的があるとしたら、その程度のものですから。安心して大丈夫ですよ」
僕を諭すかのように、スイはそう言って微笑んだ。
……そうだ、僕は一体何を邪推していたんだろう。
他の場所にも設置されているなら、神木のカメラだけを特別視して不気味がる理由は無くなる。
積雪状況や防犯、そういった郷を守るという理由を兼ねてる…それだけのこと。
きっと真菅さんも、新道路計画が思うように進まないことで神経質になっていたのかもしれない。
それに乗せられて、僕はいつの間にか真菅さんの考えに引っ張られていた。
秋葉が見せた反応だって、きっと自分の思い込みだ。
それに――
「杉谷先生。もしまた何か不安ごとがあれば、遠慮せず私に相談してください。先生と生徒である前に、もう同じ郷の仲間なんですから」
「――! スイ……」
「また明日、筑前煮の感想を聞かせてくださいね。おやすみなさい、先生」
スイは柔らかく微笑むと、小さく頭を下げて玄関を後にする。
ガラリ、と引き戸が閉まる音がした。
僕はしばらくその場に立ち尽くしたまま、手に持った筑前煮を見つめていた。
……そうだ。もう僕は、この郷の仲間なのだ。
だったら疑うなんて馬鹿なことはもう止めよう。
――きっと何も無い。この郷は平和だから。
自分にそう言い聞かせ、僕は再びリビングへと戻る。




