88話 俺は涙が止まり、高まった気持ちが治まるまで、そのままでいることにした。
モニカのやることに気を取られていたので、ベルさんのことなんてすっかり忘れていた。
ベルさんはゆっくりと上半身を起き上がらせると、辺りをキョロキョロしている。
人格交代は無事に終わったのだろうか。
もうひとりの人格は、俺が設定の時に男が好きだとか答えてしまったばかりに生まれた人格らしい。
男の人は嫌いではないけれど、見知らぬ男性の人格とかステータスの低い俺にとって恐怖でしかない。
俺はベッドを静かに水平になるように操作すると鼻の上まで布団を被り、そっと観察をすることにした。
目覚めたベルさんは、まだ状況が分かっていないようで、ただ周りをキョロキョロしているばかり。
蛇退治の話は、このベルさんに伝わっているのか、そこも確かではない。
「男のベルさん、おかえり」
ゴブリンが的確がどうか微妙な挨拶でベルさんに挨拶する。
「ベル……お姉様? お帰りなさいませ」
モニカはよくわからないので、疑問符をつけてみたようだ。
「お帰りなさい。ベル様」
エディはごく普通に挨拶をする。
「俺?」
男人格のベルさんは自分を指差して、首をかしげると、逆に疑問を投げかけてきた。
3人は頷く。
「え? 俺が?」
その反応にショックを受けるベルさん。
何だか、自分がベルさんだと思っていないかのような反応だ。
「あ……髪がある。胸も……ある。お腹は出て……ない。俺はどうなってる?」
ベルさんは自分の身体を両手であっちこっち触りながら、自分を確認していく。
どうやら、申し送りがきちんとなされていないようだ。
申し送りをしていかないとか、医療従事者にあるまじき失態。
アクシデントレポートを書いて欲しい。
3人は顔を見合わせると、どうしたらいいか対応に戸惑っている。
俺はどういう人物かわからないので、まだ布団を被って見ていることにした。
「キミは、ベルさんじゃないの?」
ゴブリンがベルさんじゃないらしいベルさんに訊ねた。
「俺は……えっと、人間だよ」
何だかホワッとした答えだ。
けれど、何だかこれはおかしな答えだった。
「人間……。医療機器じゃなくて?」
ゴブリンは不思議そうなニュアンスで聞き返す。
「人間だよ。地球ってとこに住んでた……って言っても分からないよなあ」
ベルさんっぽい人は何だか困った表情でため息をついた。
モニカとエディは良く分からないという様子だ。
ゴブリンは何かに気付いたようで薄笑いを浮かべている。
「知ってるよ、同じような人いるから……」
ゴブリンがポツリと答えた。
「同じような人?」
ベルさんのような人は、その言葉に食いつく。
ゴブリンは俺の方へ視線を送る。
ベルさんっぽい人も俺の存在に気付いたようだ。
やばい、バレたか。
「は、初めまして、……よろしくお願いします」
俺は上半身を起こして、仕方がなく布団で鼻から下を隠しながら喋った。
「え? 同じ境遇の人……。よ、よろしくお願いします」
ベルさんみたいな人も恐る恐る俺に挨拶を返す。
「あの、お名前をお伺いしてもいいですか……」
俺はベルさんではない何者かに名前を尋ねた。
ベルさんでないなら、名前があるはずだ。
「俺は柳川と申します」
この人は柳川さんか。
「自分は小林と申します」
礼儀なので、自分も苗字を答える……布団で顔を隠しながら。
「お兄ちゃんはこの病院で、病気を治しているんだよ」
ゴブリンが柳川さんに説明する。
「へえ、ここは病院なんですね……。俺は……一体どうして、ここに来たのか」
柳川さんはもう一度ため息をつく。
「あ、何だ……これ? 何か、目の前に文字が出てきました。申し送り書……」
柳川さんの目の前に、何か文字が出てきたらしい。
「えっと、小林直樹さんの蛇退治を手伝ってください……。終わったら、人格交代を選択して横になってください……」
なるほど……何て雑な申し送りだろう。
これだけで、理解できる人はよっぽど天才だと思う。
「小林直樹? 小林直樹って、同姓同名の人を知っているのですけど……小林さんの下の名前って直樹って言うんですか?」
柳川さんは小林直樹という同姓同名の人を知っているようだ。
小林という苗字は多いから、不思議ではない気もする。
「ええ。そうですけど……」
俺は布団で顔を隠してるのがめんどくさくなって、顔を隠さずに柳川さんに対して答えた。
挨拶がきちんとできるし、礼儀正しく受け答えができる人に悪い人はいない気がする。
「え?」
柳川さんは変な声を上げると、俺の顔をジッと見つめて固まったまま動かなくなった。
「どうしたんですか? 柳川さん?」
俺は心配になって、声を掛ける。
異世界に来たせいで調子が悪くなったのかもしれない。
「俺だよ、俺、俺」
柳川さんは急にオレオレ詐欺になった。
「……知ってますよ。柳川さんでしょ?」
柳川さんの表情は途端に崩れて泣き出しそうだ。
「俺……、直ちゃんが事故に巻き込まれて死んじゃったから、悲しかったんだぞ。こんなところで会えるなんて……」
俺は柳川さんが誰なのか、理解した。
柳川さんの瞳からは大粒の涙が溢れている。
柳川さんはものすごい勢いで俺の身体に抱きつこうと、泣きながら突進してきた。
「うわああああああん!」
ベルさんのステータスが反映されているから、ものすごい衝撃だろう……。
咄嗟にエディとモニカが衝撃を緩和するバリアを展開して守ってくれた。
緑色の薄いシールドみたいなものが俺の前に次々と展開されていく。
それでも、突進の衝撃でバリアが粉々に砕けて行き、弱められた威力で俺の身体に当たってくる。
それでも、なかなかの痛みだ。
全身が痛みで動けなくなる。
そして、そんな俺を優しく柳川さんは抱きしめた。
前の世界では俺の方が身長が高かったのに、こっちの世界ではベルさんの身体だから、俺より身長が高い。
ベッドの上に座った俺の顔の高さはちょうど、柳川さんの胸の高さだ。
ベルさんの身体の柑橘系の香りと、柔らかな感触が俺を包み込む。
そして、涙と汗と鼻水がどこからともなく、俺を濡らす。
「直ちゃん……、会えてよかった。会えてよかった」
俺のことでこんなに泣いてくれるなんて、悪い気はしない。
「ごめん、トオルくん……」
俺は胸の中で呟くように謝る。
こっちの世界に来てしまったのは不可抗力だったにせよ、悲しませてしまったのは事実だ。
俺はトオルの涙が止まり、高まった気持ちが治まるまで、そのままでいることにした。
ゴブリンもモニカもエディも、そんな俺たちを只々見守ってくれている……。
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