78話 急に冷たくなった彼女の態度は、俺の心へ何だかわからない喪失感を残していった。
俺が目を開けると、透析室はすっかり明るくなっていた。
建物の壁や天井が発する光が、部屋全体を穏やかに照らしている。
未だにゴブリンらしき手が俺の手をしっかり握っている感覚がある。
顔は布団に潜っているから分からないけど、ゴブリン以外には考えられない。
左手で枕元にある魔法バッグの中をまさぐり、時計を出してみた。
今は朝の5時50分。
この果てしなく弱い身体にも感覚が慣れたみたいで、だるさは消えている。
モルフェウスの開発した効果的な睡眠プログラムのお陰なのか、眠気もない。
もう、俺には起きる以外の選択肢はないはずだ。
布団を左手で静かにめくって、起き上がろうとする。
「うっ……く」
起き上がれない。
右手を地獄つなぎされているまま起き上がろうとすると、腹筋がつりそう。
足を持ち上げて反動で起き上がろうとしても、布団が持ち上がるばかり。
右手の肘から先が固定されているままだと、肘をついて横を向くのが精一杯だ。
ゴブリンを起こすしかないな。
まずは、自由になる左手で布団を引っ張って、床にずり落とした。
布団が無くなったために、外気のやや冷たい感覚が全身に触れる。
露わになる人影。
彼女の左手が俺の右手を固く握っているのが確認できる。
だけど、目線を手から辿っていくと……違和感がする。
思ったより……大きい?
服装だって、パジャマではなくスケスケ素材で出来ていて……。
目の前に広がる女性的な肢体は俺の目を釘付けにする。
スケスケ素材の下につけている下着は際どくて、何か見えてしまいそう。
この人の向こう側に見えるベッドには、ゴブリンがヨダレを垂らして気持ち良さそうに眠っている。
……この人は誰?
肘を立てた体勢から、寝顔を見下ろして観察作業を行うことにした。
顔は……ゴブリンみたいにヨダレも鼻水も何も出ているものはなく、綺麗そのもの。
小さな吐息が定期的に出される、薄紅色に囲まれたクレバスは不思議な魅力を放っている。
彼女の身体から空気中への熱の移動は、やや湿潤で甘く柑橘系の香りを運んできた。
静かに寝息を立てている彼女を見ていると、吐息の噴出口の起伏が気になってくる。
あの柔らかそうなピンクの小山は、触れてみたらどんな感触だろう。
俺は感触への探求をしてみようと、唇を吐息の噴出口へ近づけていこうと思った……。
その時、ゾクゾクとした感触が背中に走る。
何かしたら手を握りつぶされそうな……圧倒的なステータスの差が俺に伝わってきた。
少しだけ右手に力が込められた気もする……。
胸が苦しくなるような恐怖心……。
俺は内から沸きあがってくる探究心をしまい込むと、静かに起こすことにする。
ゴブリンはよく寝ているようだけど、今の状況を見られては、やばい気がしないでもない。
右の肘関節を一生懸命に曲げて、耳元まで口を近づけていく。
魅力的な寝息に柑橘系の良い香り……、空気を伝わる身体の温もり。
何か不思議な背徳心を感じる。
「ねえ……、起きて。朝だよ」
ボソボソと小さな声で囁いた。
「うん~~」
俺の中の何かを刺激しそうな甘味を帯びた反応。
髪を見ると銀色の髪の毛で、どこかで見たような気もしないでもない。
「……ベルさん?」
耳元で普通の声で、喋ってしまう。
しばらく見てないから、存在を忘れていた。
パチリと瞼が開く。
俺の方に顔を向けると、ニコッとした笑顔で微笑みかける。
「おはようございます、小林さん。いつまで経っても上へ来ないから、寝てる間に潜り込んじゃった」
「おはよう……ございます……。上?」
上って、以前使ってた生活スペースか。
「約束したのに来ないなんて。そういうことはプライベートでやれって言ってたじゃないですか」
約束? 一緒に寝ようなんて約束を草食男子たる自分がするわけ無い。
「……そっか。それはごめん。でも、急には驚いちゃうから、俺から声掛けた時だけにしてね」
圧倒的なステータス差はちょっとしたことで、俺の命を奪いかねない。
何とか、機嫌を損ねずにやめさせなくては。
俺の意図が伝わったのだろうか。
ベルさんの表情は悲しそうな表情に変わっていく。
「……こういうのは男の人って、好きじゃないんですね……」
「え……?」
こういうのってどう言うのだろう。
ベルさんは息をふうーっと吐くと、繋いでいた手もするりと離れていく。
「ちょっと、私も着替えたりしてきます……」
ベルさんはベッドから抜け出すと、透析室から出て行った。
残ったのは微かな温もりと、柑橘系の香り……。
急に冷たくなった彼女の態度は、俺の心へ何だかわからない喪失感を残していった。
読んだらブックマークと評価お願いします