戦争とは
戦争が始まる前にこういうことも必要かと書きました。
それではどうぞ。
長々と戦となる地域へアリア皇国の騎士団は前へ進む。戦場となるところは開拓がされておらず、更地に近い状態だ。何もない。近くに山や谷、森などがある。これらが正面衝突の攻防戦を避ける切り札でもある。これを用いて作戦を考えるのが軍師としての役目だろう。多分、敵軍は2人の将軍に任せて、片方が右側の森を使って本陣に攻め込むだろう。これは悠々予想できる範囲内だ。だが、その後だ。正面から現れた部隊を神将2人の軍が攻めるとして、その間にアルクスの騎士団がザリア帝国軍の補給場所として使われていた警備の少ない城を落とす。そして、灰炎騎士団は後ろから正面攻撃を実行するザリア帝国部隊を2人の神将と挟み撃ち。そして、最後は森から攻めてきたザリア帝国の部隊を森の中で殺す。これが今回やる可能性が高い戦略だ。だが、もしもの時のための手段も手配してある。
戦争とは戦乱の世では必ず起きてしまうものだ。平和な時代と言われるものは本当にあるのだろうか。どんな時代にも小競り合いはあるし、反乱や革命とかで人は何十人も死ぬ。国境近くでは国同士の睨み合いが続き、戦争が好きな人間だって必ず生まれる。人を殺すことに快楽を感じる人間がいるのだ。財政難を理由としたり、領土拡大などを目的としたりもする。戦争が起きるのは仕方がないことなのかもしれない。だが、減らすことは出来るだろう。できるだけ友好関係を築くとか、停戦条約を結ぶとか、工夫は幾らでも出来る。それでも減らすことが出来ないのは人間が戦争という1つの争いの場所を求めているからではないのか。戦いというものを求めているからではないのか。勿論、理由は明白ではない。本人ですら、分からないのだ。他人が分かるわけがない。その中で平和という言葉がまともに合う時期または時代は無いのかもしれない。てか、平和とは何なのだろうか。戦争が無いことが平和なのだろうか。それとも、人々が安心した生活が出来るのが平和なのか。平和という言葉は実に曖昧で不確定な言葉だ。
時代というのも、家柄の地位や英雄が生まれる家系や時期も、それぞれが波のようにバラバラで、その家の全盛期が終われば衰退し、また発展する。時代も、平和があれば、戦乱の世もある。英雄だって、居るときもあれば、居ないときもある。そんなバラバラな波のある複雑極まりない世界がこの世界なのだ。
世界は人が考えられないような行動を起こす。戦争はその一つとも捉えられるかもしれない。勝ち負けに拘る人間には1種のゲームに近いところがあるのかもしれない。死というものは恐れるが、それはやりたい。単なる我が儘だ。傲慢な考えだ。だが、それが人間である。感情という一番厄介なものを持っている為、人は善意を持つ者にもなれるし、悪意を持った者にもなれる。人間という者の魅力はそこなのかもしれない。それに人間には知恵がある。これも厄介なものである。これも人間の魅力の一つかもしれないが。
感情と知恵の両方を持つ人間は犯罪者を多く作ってしまう。感情と知恵、これがあれば良い方向にも向かうかもしれない。だが、それを悪意に使うときは危険なものに変わってしまう。ある意味凶器なのかもしれない。言葉を時に凶器と言うが、感情や知恵もそうかもしれない。
人々が言う平和な世界を作りたいとか、大陸統一とか、世界制覇とか、そんなことを言うが、それは叶えるかもしれない。だが、長く続くことはあり得ない。平和も何時かは戦乱の世になるし、大陸統一や世界制覇も何処かで崩れる。必ず分裂する。一生持つことはない。それは時代が文献が証明している。どんな巨大国家でも、大陸統一をした国でも、世界を手にした国でも分裂したり、反乱が起こったりなどありとあらゆることがあるのだ。誰もが戦争が一時的に無くなると安心してしまう。それが100年以上続くと、国境や辺境地域で反乱が起きてもどうにも出来ないのだ。だから、止められない。新しい国が出来る。それも人間なのだ。
これまで話してきたことで結論を言えば、戦争は必ず起こるし、どんな大国でも何時かは滅ぶし、分裂する。だからこそ、アリア皇国という国が1000年以上続いているのは凄いことだ。この国はそれを誇れる。特に1000年前の今や神話のお伽噺となった出来事はアリア皇国の中でも絶頂級の全盛期だと思う。
では、最後に作者が思う最強の騎士を言おう。それは軍師騎士と呼ばれたアルクスだ。彼に勝てる人間は多分今後も生まれることはないと思う。
アリア皇国神話解釈より
如何でしたでしょうか?
それでは、また。